1-3
窓を叩く音がした。トン、トン、トンと規則く正しく3回。
アンは顔を上げて窓を見た。そこには誰もいなかったが、それは紛れもなく呼んでいる合図だ。レンと2人で考えた秘密の合図。
アンは寝台から立ち上がり、窓を開き、音をたてないように外へ出る。強い風が吹き髪が乱れたが、そんなことを気にせずに家の裏手にかけられた梯子を登った。
星の綺麗な夜空の下で、美しい白が煌めいていた。
「…………」
彼はもうアンの存在に気が付いているどうが、振り返る気配はなかった。
ただじっと、美しい丸い月を見上げている。
息を吞むような光景。アンはその感情をどう口にすれば良いのか分からない。何しろまだ10才にも届いていないのだ。言葉だってまだ知らないことの方が多い。
アンは少しだけ視線を彷徨わせた後、「何を見ていたの?」と尋ねた。彼女はゆっくりと屋根の上を歩いて、レンの隣に腰を下した。いつもの定位置。自分だけの特別な居場所。
レンはアンの方は見ないまま口を開く。
「全部」
「全部?」
「この場所から見える、全てを見てた」
アンはレンの横顔を見る。なぜだろう、痛々しいくらい、悲しい笑みを浮かべていた。
「何かあったの?」
アンはそっとレンの手に触れる。そこにいつもの温もりは感じなかった。
「えっと、そうだね」
レンは答えずらそうに言葉を選んだ後、視線をアンに向けることもせずに答えた。
「僕、聖人にならなくちゃいけなくなった」
「聖人?」
アンは聞きなじみのない言葉に聞き返す。
どこかで聞いたことがある気がしたが、誰にも教えられたことはないはずだ。
「聖人っていうのは、世界中を旅してみんなの傷を癒す人たちのことだよ」
「なるほどなー」
レンは、えっと、と考える。この返事をするアンが何もわかっていないことは長年の付き合いで理解していた。
一言で状況をアンが理解できる言葉を選ぶ必要があった。回りくどくない、簡潔な言葉を。しかしそれは、レン自身が目をそらしたい事実だった。もう引き返すことができないと、そう自身に言い聞かせるような残酷な現実だ。
だが、言わなければならない。言って、彼女を説得して、理解してもらわなければならない。せめて彼女とは笑ってお別れができるように。
レンは目を閉じて、ゆっくりと息を整える。感情を殺し、心を落ち着かせる。
言葉は考えていた。この場所にくるまで、ずっと。泣き言にならないようなその一言を。
レンは目を開き、アンの瞳を見つめた。
「アンとは明日でお別れしなくちゃいけなくなった」
「え?」
アンは世界が凍り付いた気がした。呼吸は一瞬止まった。
頭で内容を理解するまで、どれくらいの時間を費やしたかもわからない。
ただ、お別れという言葉に心臓に杭を刺されたような痛みがした。
「お別れってなに?なんで?なんでそんなこと言うの?」
声が震えて、自分が何を言っているのかもわからない。
今にも泣きだしそうな顔で、強い口調でレンに尋ねる。
「明日から僕は教会の本部へ行かなくちゃいけなくなった。それから聖人についてお勉強したりするんだって。
きっとすごく遠いところにあるから、アンとは会えなくなると思う」
「境界ならこの村にもあるよ?そこじゃダメなの?」
「きっとダメだよ」
「ダメじゃない!」
「ダメなんだよ、アン」
レンの突き放すような言葉に、アンの目じりにジワリと涙が浮かぶ。
ここで泣いたらきっともう何も言えなくなると思った。ワンワンと泣けば、レンが困ったように頭を撫でて慰めてくれるけど、それをしたら本当にお別れしなくちゃいけなくなる予感がした。
だから必死に涙をこらえて、必死に感情を言葉にした。
「聖人なんて知らない。レンは聖人なんかじゃない」
「聖人は、髪が白くて、回復魔法が使える人が選ばれるんだって。
僕は全て条件を満たしているから、きっと聖人なんだよ」
「誰がそんなこと決めたの?」
「わからないけど、女王様とか神様とか、そういう昔の偉い人じゃないかな」
「そんなのレンには関係ない」
「関係あるよ。この世に生きる人たち全てに関係があることだ」
「なんでそんなこと言うの?わたしとさよならして、聖人になってレンは何をするの」
レンは「それは――」と言いかけて言葉を止める。
聖人の務めとは、世界中で生を受けた全ての人間への奉仕である。
人々の身体を、心を、環境を、自身を犠牲にしてその全てを癒し、世界を安寧へと導く。それは魔法であったり、言葉であったり、身体であったり。レンという存在の全てを人々へ差し出すのだ。「男であり、聖人として素質をもつ人間は、現在レン様しか確認できておりません。それはとても奇跡的なことであり、神が人の為に遣わした希望と私は考えております。貴方様しか出来ぬことがあります。貴方様でしか癒せぬ人々がいます。そして貴方様が聖人にならなければ、より多くの人々が悲惨な事態となるでしょう。私たちはそんな悲劇を生みたくはないのです。レン様、何卒どうか私たちにその力をお貸しください」そんなシスターベルの言葉を思い出す。床に頭をつけてまで願ったその姿は、今も目に焼き付いている。
レンは手を伸ばして前髪に触れる。今まで気にしたことのなかったこの髪の色が、特別なものだなんて考えたこともなかった。これが、沢山の人たちを救う、神様に選ばれた存在の証だなんて。
今も傷ついている人がいる。それを見て見ぬふりなんてできるのか。自分には関係がないからと、村に引きこもったままでいられるのか。
優し過ぎる少年は、それを選ぶことなどできなかった。
「わたしと一緒にいて。この村じゃなくてもいい。
ずっとずっと遠い場所。だれもいない、王女様も神様もいない場所に一緒にいこうよ」
「きっと教会の人が逃がしてくれないよ」
「大丈夫だよ。今だったら逃げ出しても見つからない。見つかったってわたしがやつける。絶対にレンを助けるから」
アンはそう言ってくれたが、そんなことができるはずもないとレンは思っていた。自分たちはまだ子供で大人から逃げることなんてできない。逃げ出したところで、満足に狩りもできはしないし、仮にできたところで、男という荷物を背負っていてはアンは足を引っ張られいつか必ず破綻して死んでしまうだろう。そんなわかりきった未来を彼女に歩ませることなど、レンにできるはずもなかった。
「アン、その気持ちはすごくうれしいけど、きっと無理だよ」
「無理なんかじゃない。わたしはレンがいればそれでいい。なんだってできるんだから」
「ありがとう」
その真っ直ぐな瞳に、レンは幾度となく救われてきた。
健気で、純粋で、一途な女の子。レンにとって、一番大切な人。そんな人が泣きそうな顔で訴えている。本気で、無茶なことをしようとしている。
胸が痛い。こっちまで泣いてしまいそうになる。彼女を追いつめているのは、他でもない自分自身だというのに。
「だけどね、聖人は僕じゃないとなれない。
僕が聖人にならないと傷つく人たちがいる。その人たちを見捨てることなんて僕にはできないよ」
「知らない知らない!聖人なんて知らない!レンはレン!
優しくて、頼りなくて、危なっかしくて、綺麗で、大人ぶってて、それで、それで、わたしが大好きな、ただの男の子なの!」
決して泣かないように、涙をいっぱいに浮かべて、レンを怒ったように見つめる。
レンはただ両拳を握ることしかできなかった。そうしないと、感情を抑えきれないと思ったから。今にも全てを投げ捨てて、彼女を抱きしめたくなったから。
「これが、世界の決まりなんだ。村の決まりも、破っちゃだめだってお母さんに教わっただろ。それと一緒だよ」
できる限り冷静に、レンは話す。
「そんなの知らないよ」
「僕がみんなを助けないといけないんだ。アンとは離れ離れになっちゃうけど、死ぬわけじゃない。同じ空の下にいて、同じ月を見上げるんだ。繋がりはなくならない」
「もう会えなくなるんでしょ?」
「うーんどうだろうな。僕が自分から会いには行けないかもしれないけど、アンが会いに来てくれたらいいんじゃないかな。僕は世界中を旅し、それにアンがついてきてくれたらずっと一緒にいられると思う」
「レンは、もうこの村には戻ってこれなくなるの?」
「そうだね。もう戻ってくるのは難しいかもしれない。でも、絶対に戻ってくるよ。
立派な聖人になって、世界中のみんなを幸せにして、胸を張って帰ってくる」
「レンわたしいやだよ」
ポロポロと、こらえてられなくなった涙がこぼれる。
アンは必死に涙を止めようとほほを拭うけれど、いくら拭っても涙は止まらなかった。
「ごめん、アン」
そう、言うことしかできず、レンはアンを優しく抱きしめて、頭をなでる。
いつも姉ぶって、レンをいつも引っ張ってくれた、強くて優しい女の子。レンより少しだけ年が上でも、彼女はまだ小さい子供で、こんなにも弱々しいのだ。そんなこと、ずっと知っていたはずなのに。今更になって思い知るのだった。
わんわんと泣き出してしまった彼女を、レンはただ強く抱きしめる。
「本当にごめんね」
返事はなくアンは泣き続けた。
雲一つない月夜の下で、小さな2人の夢はこうして終わった。
いつの日か、この睦まじい逢瀬すら塵のように消え去るだろう。
手にした温もりも、痛みすらないまま、ただ一つの未練を残して。