1-2
風が止んでいる。
レンは窓の外に見えた木の動かない様子を見てそう判断した。
静寂は嫌いだ。一人だけみたいな気がして寂しくなるから。かすかでも音を聞かせてほしい、生きていると教えてほしい。そんな無駄なことを考えてしまうからレンはどうしても静かな空間というものを好きになれなかった。
「レン持ってきたよ!」
やがて華やぐような笑顔でアンが姿を見せると、テーブルの上に手に持っていたどんぐりと串を雑に置いた。
レンはテーブルの上を転がって床に落ちそうになった串とどんぐりを慌てて集める。
「準備ありがとう。でも串とか勝手に使っていいの?」
「いいよいいよ。レンだったら何してもお母さんは怒らないし」
「そういう問題じゃない気がする…」
アンはレンが座っていた隣の椅子を引いて近づけて座る。そこがアンとレンの定位置であった。
「作り方はわかるよね」
「うんまあね何回か作ったことあるし」
作るといっても、蒸していたどんぐりに串をさすだけでいい。
レンとアンは適当などんぐりをとって串をさす。
「ただいまー」
こまを数個作ったところでドアが乱暴に開く音がした。
聞きなじみのある声に2人は顔を向けた。
「あ、お母さん」
「アンいたのか、お帰り。相変わらず美人だなレン君。ゆっくりしていくといい」
顔を見せたアンの母、ネオさんは優しい笑顔でそう言った。
しかし、その頬は血だらけで、アンは小さく悲鳴を上げた。
「怪我をしたんですか!?」
「まあかすり傷だ。唾をつけとけば治る」
「いやいや、その血の量はかすり傷じゃないでしょう」
頼もしい笑顔だが、レンは心配になってネオに近づく。
「椅子に座ってください」
「その前にレン君にお茶を用意する」
「ダメです。治療が先です」
「むう」
レンはネオの手を強く引く。いくら奔放な性格と言えど、男の手を振り払うほど非常識ではない。大人しくネオは椅子に座った。
「軽々しく男が女に触れるものじゃないぞ」
「だったら心配になるような怪我をしないでください」
「ああ言えばこう言う」
「それはネオさんです」
レンは呆れながらネオの頬に触れる。
かすり傷なんかじゃない。致命傷ともいえる深い傷だった。
「何があったのですか。普通の動物程度で怪我なんてする人じゃないでしょう」
ネオは狩人だ。無駄のない筋肉質な体つきで、常に腰には剣を帯びている。背負った弓と矢筒を用いた射撃は獲物を外したことがない村一番の名手という噂だ。
そのネオが怪我をして帰ってくるなんて、レンはもちろんアンも初めてのことで動揺していた。
「…魔物が、な」
「魔物ですか…、大丈夫なのですか?」
「おそらくな」
ネオは目を合わせずに答える。
レンは不思議に思いながらも、治療することにする。
とはいえ、薬や包帯を使用するわけではない。
「―――――――――」
レンは目を閉じて息を整える。
集中。身体の細部を探るように、意識を研ぎ澄ませる。
解れた紐をつなぎ合わせるように、止まった血液を押し流すように。
本来体内から出るべきではない、形のないなにか。レンはただ、その流れが停止しない為の通り道を創造する。
呼吸のようなものだ。理由もなく体は知っている。手段は知らずとも、レンはそのすべてを理解していた。
あとはただ、それを目に見える形に表現するだけ。
「癒せ」
風が吹く。外からではない。レンを中心としてその風は起きた。
突風ではなく、柔らかな微風。頬を撫でるような、癒しの波であった。
レンは触れていたネオの頬から手を離す。
「―――治りましたよ」
そこには傷一つない綺麗な肌があった。
「相変わらずすごいなレン君は」
ネオは自分の頬に触れて、痛みがないことを確認する。
完全再生。奇跡ともいえるその事象を彼女は実感していた。
「凄くなんてありません。こんな力を使わないこと、そして怪我をしないことが一番です」
「わかってるわかってるよ」
ネオは困ったように笑いながらレンの頭を乱雑になでた。
「ありがとよ」
「男の頭は不躾に触るものではないですよ」
手は振り払わずに、レンは視線と一緒にそう非難する。
「自分の子供は別だ」
「いつから僕はネオさんの子供になったんですか」
「アンと結婚するんだからそうなる。早いか遅いかの違いだ」
「もう、お母さん!」
今まで大人しくしていたアンが顔を赤くしてネオを怒鳴った。
これはレンにとっては答えづらい言葉だった。将来はアンと結婚すると当然考えているし、したいとも思っているが、ここで『はい』と返事ができる状況でもない。
レンはネオとアンを見る。微笑ましいといえる親子の姿だ。この2人と家族になれたらそれはかけがえのないくらい幸福なことなのだろうと思った。
「うるせぇな、おら!」
ネオは両腕手で2人を抱き上げ、力強く抱きしめる。
少し血の匂いがしたけれど、ネオの匂いだと思うと、不思議と嫌な匂いではなかった。
「私たちは家族だ。いつでもどこでも、それは変わらない」
―――ずっとな。そんな悲しげな言葉を、ネオから初めて聞いた気がした。
そこにはどんな思いが込められていたのか、その時のレンには知る由もなかった。
「お母さん血生臭い!」
耐えきれなくなったアンがネオの腕から抜け出す。
ネオは不貞腐れているアンをみて笑った後、レンを下した。
「こんな娘だがこれからもよろしくなレン君」
「はい、こちらこそお願いします」
「あはは。ほんとアンにはもったいねぇくらい良い男の子だねー」
ポンポンと二人の頭を叩いて台所へと向かうネオに、アンは不満そうに舌を出して答えた。
いつかアンもネオのような女性になることを考えると、レンは少しおかしくなって笑みを浮かべる。
「レン、どうかした?」
「いや、やっぱりアンといるのは楽しいなってさ」
「わたしもレンいると楽しい!一緒だね!」
満面の笑みでそう言って、彼女はレンの手を引いた。
レンは黙ってそれを受け入れる。それが、いつも通りの光景。
アンとレンのあるべき姿なのだった。
☆★☆★
風は依然として止んでいる。
空は雲一つなく、世界は死んだように動かない。
レンは帰路の途中に立ち止まり、じっと空を見つめていた。
レンは待っていた。再び風が吹き始めることを。このまま家に帰ると、何かをなくしてしまいそうな、否、二度と生き帰ることができないようなそんな予感がしたから。
しかし、いくら待とうと風は吹かずに静寂を保ち続けた。
直ぐ近くに家があるから断ってしまったけれど、やはりアンに送ってもらうべきだっただろうか。そんなことを考えてしまった。
やがて日が山に沈み空が赤く焼けてきた頃、レンはようやく諦めたように足を動かした。
あまり遅くなって親を心配させるといけない。
足を動かせば、砂の擦れる音がする。どこからか魚の焼けるような匂いもただよってきた。
早く帰ろう。きっと、優しい笑顔をしたお母さんが、自分を待っているはずだから。
★☆★☆
レンという男の子は、村中においてお姫様のような評価を与えられている。
男の子なのだから当然、蝶よ花よと愛でられて、村人は必ず彼を見かけたら挨拶をするし、ことあるごとに手見上げを渡される。それぞれの家で育てられた作物だったり、手作りの衣服であったり、街へ出かけた際の煌びやかなお土産だったり。惜しむことなく愛情を注がれ続けていた。
隣の村にする人たちでさえ、暇さえあれば彼に会いに来る。それを彼は拒んだりせず、笑顔で対応するものだから村人たちの好感度はますます上がっていった。
その容姿は美しく、器量もよく、性格だって優しい。完璧な男。いつか王女様が迎えにくるのだとか、冗談半分で口にする人もいる。
確かに、物語の王子様のようだと思ったことはあるけれど、それでは私が困るので口にするのはやめてほしかった。そんなこと、想像したくもなかったのだ。
レンとは物心ついたころから一緒にいた。彼について私は知らないことはなくて、彼も私について知らないことはなかっただろう。
だから、当然のように私は彼と結婚するのだと思っていた。それくらい隣にいることが当たり前だったのだ。二人でようやく一人になるみたいな、そんな錯覚する思うほどに。
兄のように落ち着いてて、弟のように頼りない。そんな彼を守ることが自分の務めなのだと、当時の私は本気で思っていた。
これからずっと、この手が離れることなどなく、二人で歩いていくのだと。
それくらい私は間抜けな少女だった。
間抜けで楽観的で、危機感のない口だけの女だった。
つまるところ、いくら彼と一緒にいたところで私は王女様などではなく、ただの村娘なのだ。
そう、私の大切な王子様は、当然のように王女様から迎えがきたのだった。
★☆★☆
レンは窓の外に目をやった。強い風が吹き、木が折れそうなくらい軋んでいる。どこからか子供の悲鳴が聞こえてくるようだった。
しかし、騒々しさを感じることもない程、屋内は静まり返っていた。
レンは嘆くように溜息を吐いて、視線を元に戻す。
レンの目の前には3人の女性がいる。
シスターの衣服を着た女性が2人、旅人のようか格好の少女が1人。
内2人は昼に森の中で見かけた女性である。
「…」
全員顔は見えない。床へ膝をつき、深く深く頭を下げているからだ。
レンは困ったように隣に座る母を見た。その視線に気付き、母は悲しい表情で答える。
「私は貴方に一度として聖人になることを願ったことはありません。
貴方がただ村の一員として生き、幸せになることを願っていました」
レンは返事もせずに項垂れた。今にも泣きだしそうな母の顔をこれ以上見ていられなかったからだ。
「聖人としての責任など背負わせたくなかった。遅かれ早かれきっと貴方は気づくことになったでしょう。しかし、私はそれを決して受け入れたくなかった。
たとえ世界中の人間が不幸になったとしても、貴方にだけは幸せになってほしかった」
レンはただ強く膝の上に置いた拳を握った。
この世界には、数万人に一人、回復魔法を扱える人間が存在する。
誰にも教えられずとも、当然のように彼らは回復魔法を使用するようになる。髪は等しく真っ白で、常人よりも美しく育つ。人々が魅了され、崇め、敬うような容姿になると言われている。
それはまごうことなき、神に選ばれた証明であった。人々の為に生きる存在の証。教会が保護し、世界中の人間へ奉仕するもの『聖人』の証だった。
そして、聖人に男が選ばれることは数百年に一度と言われている。
正に奇跡。その存在こそがレンなのであった。
「貴方が生まれ、私とメリーはその事実を隠蔽しました。貴方が聖人としての道を選ばないように。選ばれることがないように。村の方々の協力によりその事実が貴方の耳に入ることもなく、ここまで大きく育ってくれました。ありがたいことです」
母は優しくレンの拳の上に手を置いた。
「それでも、こうして貴方は見つかってしまった。いくら神へ祈っても、この思いが聞き届けられることはなかった。これも天命なのでしょう。
私如きでは貴方を守ることができないと。恨むのならいくらでも恨んでください」
「そんなことしません。僕はお母さんがいたからここまで幸せに生きていられたのですから」
嘆くようなことはやめてほしい。母はいつも心をすり減らして、僕の為に人生を捧げてくれた。
感謝こそすれ、恨むことができるはずがない。
「レン、辛いのであればここで命を落とすと良いでしょう。
悲しむ必要はありません。一人になどさせませんから。
私も一緒にこの命を散らす覚悟はあります」
彼が苦しむ未来を歩むくらいであれば、ここで終わらせた方がきっといい。
最愛の我が子。いったいどうして、苦しむ道を歩めなどといえるだろうか。
「母さんそんな悲しいことは言わないでください」
レンは母の手をそっと包んだ。温かくやさしい手。
何度この手に甘えたことだろう。何度幸福を与えられてきたことだろう。
その手をこれ以上、傷つけることなどレンにできるはずもなかった。
「僕は大丈夫ですから」
「レン――――」
母の零れる涙をレンは拭う。
温かいな、と素直にそんなことを思った。
「みなさん、顔をあげてください。事情は承知しました。
僕の立場についても理解しました。これから僕はどうなるかを教えてくれませんか?」
レンの言葉に、シスターベルが顔を上げて答えた。
「これから教会の本部へ赴き、聖人としての教育を受けていただきます」
「教育、ですが」
「はい。教養や道徳、力の使い方をまず学んでいただきたく」
「家族とは離れ離れになるのでしょうか」
「…そうですね。教会本部は限られた人間しか出入りすることはできません。
お辛いかもしれませんが、家族やご友人とは離れることになります」
「二度と会えなくなるのでしょうか」
「そう、ですね。聖人としての活動中に会えることはあるかもしれませんが、自由な時間はなくなりますので。今生の別れと思ったほうが良いかもしれません」
聖人とは、分け隔てなく人々を癒す存在だ。
そこに人間としての垣根はなく、王様や奴隷も同列に扱う。それは家族であっても変わらない。当然、婚約者であったとしても。
あくまで建前ではあろだろうけど。ベルの口からそれを言うことはできないだろう。
「僕に務まるのでしょうか」
「心配はいりません。必ず、私が支えます」
今まで黙っていた金髪の少女が力強く宣言した。
「先ほど紹介しましたが、彼女は教会の聖騎士、エルザです。
貴方様の側仕えとして奉仕してもらう予定です。
レン様が全人類の為に生きる存在であるとしたら、彼女は貴方の為だけに生きる存在ですね。
女性であることについては申し訳ございません。聖騎士に男性はおらず、準備することはできませんでした」
「いえいえ、気にしないでください。男性に剣を持たせることなどできないでしょう。
お気遣いありがとうございます。」
レンは改めてエルザを見る。堂々とした立ち振る舞いと洗練された動作。顔立ちは凛々しくも美しい美少女である。なるほど騎士というのもは初めて見るが、本で想像していた通りの騎士様であった。
「レン様。私は一人の聖者へ従属する者。
これからさぞ厳しい現実に向き合うことになると思います。不幸と呼べる出来事とも数々遭遇するでしょう。
しかし、こうして貴方様を聖人としての道に引きずり込んでしまいますが、決して幸福を願わないわけではないのです。
貴方様の為に何ができるのか、今の私には分かりませんが、その歩みの最後まで必ず味方であり続けることを誓います」
エルザは頭を下げ、清々しくそう言った。
「ありがとうございます。少し、気が楽になりました」
レンはなんとか作った笑顔でそう言って、窓を見つめた。
(アン…)
無性に彼女に会いたくなった。会って、泣きわめいてこの感情を全てぶつけたい。
いつも手を引いて色んな景色を見せてくれた愛しい少女、アン。自分がこの村を出ると知ったら、彼女はどうするんだろうな。
「少しだけ、外にでてもよいでしょうか。必ず、戻ってきますので」
聖職者たちは顔を見合わせて、やがてベルが答えた。
「はい、我らはここでお待ちしております」
「ありがとうございます。お母さん晩御飯がまだだったから、用意をお願いしていいかな。
みなさんの分も作って上げて」
「いえ、私たちは」
「気にしないでいいよ。ね、母さん」
顔を向けると、精一杯の笑顔で母は答えた。
「はい。貴方の好きな料理を作ってまっていますからね」
「うん、よろしくお願いします」
レイはテーブルに手をついて立ち上がった。
泣くな、泣くなと自分に言い聞かせる。どれほどの思いで母は笑ってくれたのだろう。
悲しみも怒りも、全てを飲み込んで浮かべたその笑みに胸が裂けそうになる。
どうか親不孝な自分をお許しください。貴方の願った幸福を叶えられない自分を。他人の幸福に使いつぶされる未来の自分を。
レイはゆらりと歩いて、家の扉を開けたのだった。