春野侑■
「春野侑希。春野瑞希の妹です。ナナさんとは同じクラスだけど……覚えてないよね」
「なんとなく、名前くらいは……」
僕は四月から学校に行っていないのだ。一度、登校したときもクラスで自己紹介くらいはしたが、ほとんど顔も名前も覚えていない。
そんな僕が春野侑希の名前を知っているのは、菖蒲から見せてもらったリストにその名前があったからだ。事故で意識不明になった妹……として。
「そ、そうだよね。私って人の顔とか名前覚えるの得意だから覚えてたけど、ふつうは覚えてないよね。私ぜっんぜん気にしてないから!」
と、侑希は何か勘違いしたようでそんなことを言う。きっと、学校に行っていない僕のことを気遣ったのだろう。
その様子からいくつか推測が浮かびあがる。
周囲に劣等感を覚え自分に自信がない……。
ほぼ初対面の人間をも気遣える優しい性格……。
誰にも相談できないほど今回の件で追い詰められている……などなど。
だが、それはあくまでもただの推測。少ない情報を基に勝手に計算して導き出した架空の彼女だ。
そんなもので彼女のことを決めつけるのは良くない。いくつも浮かんだ推測を僕は頭の奥底へと追いやった。
「ボクはそんなこと気にしないから。それよりも、君たちにいったい何があったんだ?」
一瞬、頭に疑問を浮かばせる侑希だったが。
彼女は静かに自分たち姉妹の身に起きた今回の事件のことを話し始めた。
☆★☆★☆★☆
「……と、ここまでが世間に流れている情報」
元々喉が乾いていたのだろう。侑希は、キリの良いところで一旦ストローを口にする。黒いコーヒーは、ちゅうちゅう吸われてあっという間にきえてしまった。
「ボクが聞いたのもそんなところ」
今のところ、侑希が話した内容と菖蒲から教えてもらった内容に大差はない。
八月二日……春野姉妹は下校途中、運悪く交通事故の被害にあう。
姉の春野瑞希は擦り傷程度の軽傷で済んだが、妹の春野侑希は意識不明の重体。今も市内の病院で眠り続けている。
犯人は未だ逃走中……。
しかし、僕の目の前には今、病床で眠っているはずの春野侑希がいるのだ。
例え、その見た目が春野瑞希そのものだとしてもどこかで事実が捻じ曲がっている。
そして、おそらく……そのタイミングで春野侑希は死霊憑きになった。
僕の知るよりももっと────歪なカタチの〈生命〉に。
侑希のアイスコーヒーが空になってしまったので、注文を済ませてから話は再開した。
「でもね、実際には逆なんだよ。あの日助かったのは私で、眠ってしまったのはお姉ちゃん。最近、記憶が曖昧なんだけど……それだけはハッキリと覚えているの。あの日、私は病院のベッドで泣いていたから」
「つまり、八月二日の時点ではまだ侑希は侑希のままだったてこと?」
「……たぶん?」
言って、侑希の目が僕から逸れる。いや、正確には逸れてなどいない。けれど、彼女の目は僕をみていなかった。
そのとき、侑希はまさに心ここにあらずといった感じでどこか上の空だった。
しかし、それも一瞬のこと。
侑希はすぐに帰ってくると補足をした。
「その、泣いてたことまでは覚えているんだけど。その後から記憶が曖昧でね。気が付いたときにはお姉ちゃんになってた」
「気が付いたときって、それは朝か?」
僕の問いに、侑希は戸惑うような仕草を見せる。
「それって大事なの?」
「大事になるかもしれない」
朝と夜とでは死霊の影響が違うのだ。
〝いつ〟なのかはかなり重要だ。
侑希はしばらく唸るようにうんうん言ってから返答した。
どうにも、そのあたりもよく覚えていないようだ。
「朝……じゃない。暗かったと思う。それに……アレ、たしか誰か一緒にいたような……?」
────と、侑希が何かを思い出した瞬間だった。
突如、侑希の体が発光した。
侑希の目は僕を見ているが視界に留めていない。意識はここには無い。
まるで、魂だけ何処かへ抜けてしまったみたいだった。
「……うそだろ⁉このタイミングでかよ!」
思わずそんな言葉が口から出る。
幸い瑞希を包み込む光は弱い。
今、僕たちに気付いている客はいないだろうが、このまま放っていれば誰かに気付かれてしまう。それだけは不味かった。こんなところで〝組織〟に勘付かれるわけにはいかないのだ。
淡い幻紫光色の光は次第にその輝きを増していく……。
「っち、こんなところで不明な能力を使わせるわけには……!」
僕はすかさず侑希の体を思いっきり揺さぶった。
「わっ⁉急に何するんですか!は、離してくださいよ!!」
すると、そんな侑希の言葉と同時、彼女の意識は回復した。
侑希を包み込んでいた光も消えている。
一安心したところで、僕が一言文句でも言ってやろうと思ったときだ。
彼女はこんなことを言った。
「ていうか、あなた誰ですか?」
春野侑希はたった今の記憶を失っていた。