夜も更けた頃に
「明るい?」
先に競技場へと入ったシーナがそう呟く。
日付が変わるまであと一時間もないし、ライトの照明もついていないのだ。競技場が明るいはずなどない。
シーナの言葉に疑問を抱いた僕はしかし、競技場へと一歩足を踏み入れた瞬間。シーナとまったく同じことを呟いていた。
「うん。それに……暑い」
昼かと見間違うくらい明るい競技場は、シーナの言う通りかなり暑い。夏真っ只中、八月上旬の夜とはいえこんなに暑くなることも無いだろう。明るさ同様、気温も昼さながらのものだった。それらを認識していく僕の額に小さな汗の粒がぽつぽつと作られていく。
この現象については見当もつかないが、原因は分かった。
僕は忌まわしげに空を見上げる。
「太陽か」
「ありえないけど……あの太陽は本物。少なくともこの空間では」
隣のシーナを見ると、淡い幻柴光色の光子を纏っていた。
能力を使ったシーナが『本物』と言ったのだ。
で、あれば……空に輝く太陽は幻術でも偽物でもなんでもなく、実際に存在している本物の太陽ということになる。ふつうは、そんなこと信じられない。
けれど、僕のそんな常識よりシーナの言葉の方が信憑性があった。
というのも……
「シーナはこれ作れるのか?」
シーナの能力は情報に関するものなのだ。
情報を操作する能力……昼間、登校時に使ったのはこれだ。あのときのシーナは結局エプロンをつけたままだったが、シーナの姿を見た人がそれに気づくことはまずない。視覚情報が書き換えられているのだ。シーナを見た人全員がその姿を制服を着た生徒だと誤認し、取得する情報として重要度が限りなく下げられたシーナの顔を覚えている人はいないだろう。
もう一つは、情報を収集する能力……先ほど春野瑞希を見つけたのがこの能力だ。シーナは手で触れた面を自分の〝眼〟として使うことができる。一万を優に超すその情報源は街中に張り巡らされた防犯カメラをハッキングするのと同じだ。
シーナの能力は他にもいくつか見たことがある。
しかし、シーナ曰く。彼女の能力は死霊憑きの例に漏れず一つ。情報の〈発現〉だけだそうだ。
レパートリーが豊富に見えても〈起源〉は一つだけ。
それが、死霊憑きになっても変わることのない〈生命〉のルールだった。
「創れない。大きさが違い過ぎる……でしょ?」
言って、シーナは僕に手の平を見せてくる。
「たしか、シーナが作れるものは手の平を通り抜けられるサイズだったか。さすがに太陽は無理だな」
「うん……」
肯定の意味でシーナは頷く。
シーナは一度視たことのあるものを自在につくることもできるが、それを取り出すときに制限がある。あくまでもつくることができるのはシーナの世界の中だけで、それをこちら側に引っ張り出すためにはシーナの手の平を通り抜ける必要があるのだ。
つまり、シーナの手は彼女の世界と僕らが住むこの世界とを繋ぐゲートだ。
ゲートを通り抜けられないものは、こちらに持ち込めないのだからつくれないのと同じ。
しかし、続くシーナの言葉は意外なものだった。
「でも、これと似たことはできる」
「どうやって?」
「ここの空間ごとすべての情報を書き換える」
「じゃあ……この現象も?」
「うん。わたしと似た能力の仕業。でも解せない……綻びがない。わたしと同じ能力だったら、必ずどこかに癖がでる。その歪みをわたしが見つけられないわけない」
シーナはスタンド席の方を見つめていた。
僕には見えないが、きっとその目は春野瑞希を見ているのだ。
未だ理解できない少女のことを……。
「ここは……まるで夢の中みたい」
その小さな呟きは、なぜだか僕の耳によく残っていた。
☆★☆★☆★☆
「どういうことだ?」
スタンド席に入ったナナの口からはそんな疑問が口から零れ落ちていた。
ナナの視線の先には、トラックの最終コーナーを駆け抜ける春野瑞希の姿。瑞希はバランスを崩しかけながらも風を切る。その速度はなかなかのものだった。
しかし、ナナの疑問はそんなところではない。
瑞希の在り方が昼間と変わっているのだ。
それはまるで……
「……人間?」
その答えを、ナナの代わりにシーナが答える。
そう。腑に落ちないところがあったとはいえ、昼間ナナが瑞希を見たとき、彼女は死霊憑きだったのだ。
それが、今トラックを走っている瑞希は間違いなくただの人だった。一度、死霊憑きになった人間が元に戻ることは二度とないというのに……。
「くそ、わけがわからない。あいつは何だ?ボクが見たときは確かに死霊憑きだったはずだぞ」
「わからない。でも、今はただの人に……え?」
珍しく、シーナが驚嘆の声を漏らす。
その瞬間、ナナも見た。
「死霊憑きに戻った、だと?」
トラックを走り終えた瑞希は死霊憑きに戻っていた。正確には、昼間、ナナが見た奇妙な死霊憑きに。
「ナナ。上……」
シーナがそう言って空を指さす。
それを追って上を見ると、さっきまであったはずの太陽が消えていた。
「……もういい、アレは危険だ。〈組織〉に見つかる前にオレがここで殺る」
もしも、春野瑞希が自在に人にも死霊憑きにも成れるというのなら、これほどイレギュラーな存在はいないだろう。
瑞希を殺す理由は数あれど、生かしておく理由はこの瞬間に消えていた。
「わかった」
返事と同時、オオムラサキのような紫────幻柴光色の光がシーナの体を迸った。
その、魂の色とも称される光は、能力の行使を意味する。
無限にも等しい情報から、シーナは一つを選択する。直後、シーナの手の平を介して銀色の刃がナナに渡された。
「シーナ、最悪の場合はオレの体を頼む」
「わかってる」
シーナの返事を聞くと、ナナはナイフで自分の胸────心臓を突き刺した。
そこに迷いはない。
ナナの先に待ち構えるものは死だけだ。
しかし、ナナはその〈死〉を待っていた。
ぞぶぞぶ、と胸に空いた穴から血液が滲み出る。
突き刺さった銀色を辿って赤い血が流れ落ちる。
しかし、落ちた血液が地面を汚すことはない。
落ちた血液は霧散するみたくすべて昇華され空気を満たしていく。
ずぶずぶ、と体の奥へ奥へと潜りこむ銀色。
ナナの体から大量の血液が失われていく。
〈死〉は目前まで迫っていた。
そして、ナナが〈死〉を迎えたその瞬間。
ナナの体を赤い霧が包み込んだ。
その中心で、幻柴光色に輝く何かが産声をあげた。
「それじゃあ、いってくる」
ナナの体は幻柴光色の光を纏っていた。
それは、能力の行使を意味する。
胸に空いた穴は塞がっていた。まるで、はじめからそんなものなかったみたいに。
右手には銀色の刃。それが、この世に在るだけで空間が啼いていた。
「がんばって」
そんな、シーナの見送りを背に。
ナナは瑞希に向かってそこから跳んだ。
たった一足で。助走も無しに十メートル近い距離が縮まっていく。
その間、ナナはその〝眼〟で見る世界を理解していく。
死ぬ直前や死んだ後では使えない、〈死〉そのものの状態でないと使用すらできない、死をファクターとした最強の能力────それが、ナナの能力〈干渉〉だ。
〈干渉〉とはそれすなわち、能力、事象、現象など……すべてに文字通り干渉することを意味する。
例えば、モノを凍らせる能力があるとしよう。その能力は、ただモノを凍らせるという『結果』だけを引き出す力なのではない。もしも因果を無視して結果を引き出しているのなら、その能力は『因果系』と呼ばれるまったく別の力になってしまう。
能力という一見、摩訶不思議な力にも理屈はあるのだ。
厳密に言うと、モノを凍らせる能力とは……『熱』と呼ばれる、原子や分子の熱運動の激しさをマイナス方向に限定して〝干渉することができる〟力のことである。干渉することによって熱を奪い、モノを凍らせるという手段なのだ。
シーナの能力、情報の〈発現〉にしてもそうだ。
『情報』というこの世に存在する大量のデータを扱うことができるのは、そこに〝干渉することができる〟からだ。
決して、無から有を創造しているわけではない。
したがって能力とは、ある『結果』を引き出すための手段のことであり、一般に、〝一部〟の因果と結果の繋がり……そこに〝干渉することができる〟力のことである。
そして、ナナの能力〈干渉〉とは、すべてに干渉できることから〝すべての能力を内包した〟すべての能力の〈起源〉そのものである。どのような能力であれ、存在する時点でそれはナナの能力の一部に過ぎず、その干渉する力の大きさは〈起源〉であるナナには及ばないのだ。
故に。
ナナはその眼を通してすべてを視た。
ここを夢の中みたいと言ったシーナの言葉が頭の中で反芻される。
────これは、いったい……?
ふわり、と長い滞空時間を終えたナナは春野瑞希の前に降り立った。
そして、目の前の少女────春野瑞希に似た誰かにこう言った。
「お前は……誰だ?」