屋上に凄まうもの
「なんだここ?」
目の前の光景に疑問がこぼれる。
そこだけだ。
────屋上だけが異界めいていた。
屋上へと一歩踏み入れた瞬間に、ナナはこの場所の異常性を確信した。
────時の流れが固定されている。
見下ろす世界からは────色が消えていた。
独り、扉の前に佇む。
どこまでも広がる色の無い世界に、ナナはどこか既視感を覚えた。……というよりも、この世界はナナの生きる世界に酷似していた。
一度として誰とも共有したこのない世界。誰とも共有できなかった世界が、今、目の前に広がっている。
……ここを見に来て正解だった。
菖蒲の忠告を無視する形ではあるが、こんなにも自分の世界とおなじ場所なんて識らない。
────これをボクに見せたくなかった?いや違う。それなら菖蒲があんな忠告をするはずがない。
人間というのは禁じられた甘い果実……知恵の実しかり、禁じられれば禁じられるほど気になるものだ。
屋上に来る気なんてさらさらなかったナナがここにいるのも、ふと見た屋上に、揺蕩う『ナニカ』を見たことが原因だ。
もしかすると、菖蒲はこうなることを確信してあのとき忠告をしたのではないだろうか。そうでなければ、屋上を訪れる理由がナナにはないのだから……。
「あら、こんなところまで人がくるなんて。珍しいこともあるんですね」
虚空から。突然、鈴の音のような声音が転がる。
それは────落ち着いた印象を覚える少女のものだった。
それは────色の無い世界に浮かぶ唯一の色だった。
屋上の中心……そこに白いワンピースを着た少女が浮遊している。少女と同じように宙を揺蕩う黒い長髪────。
ふわり、と白と黒をなびかせながら少女はこちらを振り向く。その動作に重力の働きは感じられない。
少女と────目が合った。
その瞬間、ようやくナナは少女の存在を認識することができた。
シュレディンガーの猫ではないが、ナナと目が合うまで少女の存在は確定していなかった。音も色も存在は揺らいでいて不確定────少女の存在は肯定も否定も半々の確率で世界は判断を行っていた。
しかし、ナナという観測者を得たことにより少女の存在は世界に肯定された。揺らいでいた存在が確定したのだ。もちろん、そんなことをナナは知る由もないが……。
少女の存在確定をきっかけに、屋上の世界が塗り替えられていく。
────固定された時の流れが解ける。
世界が────色づき始める。
はじめからそうであったかのように、世界は書き換えられた。見てくれだけはナナの識る世界のままで。
だから、ナナは世界の〈改竄〉に気付かなかった────。
「ねえ」
ナナに興味を持ったらしく、少女は浮遊を止めて地面に降り立つと、ペタペタと音を鳴らしながら裸足のままナナの元へと駆け寄ってきた。
その場に立ち尽くしていたナナは不意を食らう形で少女に手を取られ、そのまま引っ張られるようにして屋上の中心まで連れられてしまった。
「あなたはだあれ?」
見たことも無い笑顔を浮かべる少女。彼女を前にナナはすぐ返事が出来なかった。
────動揺している。
感情のない自分が動揺しているのを、気持ちが揺らいでいるのをナナは感じていた。
少女の印象があまりに変わってしまったから。
「えっと、オレはナナ。君は?」
「私?」
聞かれると思っていなかったのか、少女はキョトンと首を傾げる。
一瞬悩むような素振りを見せたかと思うと、今度は何かいいことでも閃いたのか、キラキラ表情を輝かせながらぽんと手を叩く。
コロコロ表情が変わる忙しいやつだ。
「そんなの知らない。だからナナが決めて」
「え?」
「はやくはやく~」
有無を言わさず。
少女に持たれたままの手がブンブン振られた。
「わかった。わかったから、オレの手を振るのを止めてくれ!こうも振られたら決められるもんも決められないだろ」
「はーい」
ぽい、と少女はナナの言うことを聞いて掴んでいた手を放す。
あんがい素直なのな。
ナナは心の中で思う。
けれど、うるうる潤んだ瞳だけはナナの姿をつかんで離さない。
その瞳がもう待ちきれない、とナナを急かしていた。
少女は、心の面持ちとは裏腹に、言動だけナナに従ったようだった。
「じゃ、じゃあ……ナナカ……で」
「な、なか?」
両の瞳をキラキラ輝かせながら少女は聞く。
ナナはそれにもう一度答えた。
「そう、ナナカ。それでいいだろ」
「うん。私はナナカ!」
自分の名前に喜ぶナナカを前にして。
ナナという自身の名前に、今は夏だから夏を音読みの『カ』にして合わせたから……ナナカ。とは、ナナは言わないでおいた。
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遠い遠い、こことは違うどこか遠くの世界。
その最奥にて。
「三番……それに七番と四番────あとは私も使ったのか」
貌の無い男は嗤っていた。