夏は遠からじ
「ナナ。お前、ちょっくら学校に行ってこい」
そんなことを菖蒲が僕に言ったのは、世間で言うところの夏休み真っ只中。
八月五日のことだった。
夏という季節らしく、今日も朝から店内に設置していた熱中症予防用のブザーがうるさかった。
外から菖蒲の経営する喫茶店に戻ってきたばかりの僕は、汗で服の背中辺りが少し滲んでいた。きっとこの汗は暑さだけが原因ではない。僕がカウンター席について早々、菖蒲が僕に学校に行けなんていうあまりに異常な発言をしたのだから。
ことの張本人、菖蒲はというと、僕の隣の椅子にちょこんと座り、地面に届かない足をぶらぶらさせながら濃いめのカル○スを飲んでいた。どうせすぐ喉が渇くからと、薄めのを作ってくれたシーナを無視するように原液を追加で入れてまで作ったのだ。その味に満足しているようで菖蒲は一息に飲み干した。
その行動と肩口あたりのところでざっくり乱雑に切られた髪が彼女の幼げな印象を助長する……というよりも、今の菖蒲は良くも悪くも幼女そのものだ。かつての妖艶な魅力と色気を放つ大人の女性という印象は影もない。変わらないのは、絹糸のように艶のある墨みたいな漆黒の髪。髪と同じ漆黒の海を泳ぐ、燃えるような深紅の金魚が浮かぶ着物だけだ。
金魚の数は二匹────やはり、まだ彼女の力は戻ってきてはいないらしい。
菖蒲の着物を確認しつつ僕は疑問を口にした。
「なんで?」
夏休みに関係なく、僕は今年の四月からほとんど学校に行っていなかった。理由はいろいろあるけれど、一番は四月に僕が死霊憑きになったことだ────。
『死霊憑きっていうのはねナナ。死してなおこの世に残留した〈生命〉……いや、正確には〈死〉を超えた上で〈生〉に在る歪んだ〈生命〉というべきかな……って、別に君は学者でもなければ研究者でもないんだし、そんな詳しいことはどうでもいいっか。
今の君にも分かりやすく言うとだね。人っていうやつは死んでもすぐには死なないの。ほら、例えば君が今死んだとしてもみんながみんな君のことをきれいさっぱり忘れるわけではないだろう?ちょっとロマンチスト気味だけど、死んでも君は誰かの胸の中では生きている。記憶や思い出としてね。だから、人の場合は死ぬために少し時間がかかるんだ。とまあ、本来ならちょいと綺麗な話で終わりなんだけど、現実はそうもいかない。
良くも悪くも想いや後悔が強い人間が死んでしまうとね、人として死ぬ前に魂が具現化してしまうんだ。それが死霊。新しい器を求めて彷徨う悪霊さ。君も病院で襲われただろ。あれあれ。
それでここからが死霊憑きについてなんだけど。死霊憑きっていうやつは、その成り方で二つに分けられる。死霊が憑りついた人間、もしくは死霊に憑りつかれた人間の二種類。前者は死霊側が勝った場合、後者は死霊側が負けた場合のことを指す。まあ、一般的に死霊憑きの成り方は後者がほとんどだから分ける意味も薄いんだけどね。
え?なんの勝ち負けかって?
そんなの決まっているじゃないか。魂としての所有権争いさ』
────とは、僕と出会ったばかりの頃に菖蒲が言った言葉で、菖蒲は元々死霊憑きの研究をしていたからか、あのときは随分と熱弁していた。言葉遣いが彼女にしては柔らかかったのは教鞭のつもりだったのだろう。菖蒲には申し訳ないことに、その内容のほとんどを理解できなかったけれど……。
あれから少し時間が経って理解していることは、僕は死霊が憑りついた場合の死霊憑きということ、それと、死霊憑きというのは生き残るために何かを失っているということだ。
僕の場合は、それが記憶であり、生きているという実感や感情であったりする。
僕は今、色の無い無感動な世界で生きているんだ。
機械のように人の感情を学習し、シミュレーションを行い、感じるふりをして、誤魔化し誤魔化しでなんとかその場をしのいでいるに過ぎない。
今だって、僕が学校に行くか行かないかなんてことはどうでもよくて、菖蒲の言葉の意図が掴めず理解できなかったから聞いただけだ。
理解はできても感じない。感じないから本質では感情を、人を理解できない。
それが僕の現状だ。
そのことを菖蒲もよく知っているはずだ。
だから、僕が学校に行かないことを菖蒲は了承していると思っていたんだけど……。
「なんでってね。……これでも一応、私は君の保護者な訳でだね……」
菖蒲は俯きがちに答える。
とたんにさらりと流れた黒髪が彼女の表情を隠してしまい真意は分からない。
言葉の節々から滲み出る彼女の感情を探る。意図を、言葉の意味を計算していく────。
「楽しそう」
────と、僕の計算は会話に割って入った無機質な声で途切れた。
声の主は考えるまでもない。
それは、今しがたまで僕の分のカル○スの濃さをどうするかずっと迷っていた白銀の少女────シーナだった。
ようやく濃さを決めたのか、シーナは氷の入ったグラスに原液とミネラルウォーターを慣れた手つきで注いでいく。
さすがのシーナも今日は暑かったのだろう。
彼女にしては珍しく、銀色に輝く長い髪を後ろ手にゴムで縛っていた。いわゆるポニーテールというやつだ。あいにくシュシュはしていない。何事にも無頓着なシーナのことだ。きっと、髪の手入れなど全くしていないだろうに、そこには枝毛一つなかった。菖蒲が普段から恨み言を垂れるのも少しわかる。
日本人離れした雪のような純白の柔肌や整った顔立ち、僕よりも少し高い背丈……などなど。控えもに言っても美人の部類に入るシーナだが、特筆すべきはその瞳だ。光の反射具合によって海のような澄んだ蒼にも、森のような深い翠にも見えるその不思議な色の瞳が一際群を抜いて彼女の魅力を底上げしていた。
一見、容姿に文句の付けようのないシーナだが、唯一欠点を挙げるなら、凪のように揺れることのないその表情だ。
それだけが完璧な造りの彼女に違和感をもたらしている。そのせいか、僕の中でシーナの外観は、『美しい人』というよりも『美しい人形』という表現がしっくりくる。僕は彼女が笑ったところを見たことがないから……。
「ナナが行かないならわたしがいく」
グラスを僕の前に置くと、シーナはカウンター内の椅子に座った。
いつもの場所だ。
「わたし、学校がどんなところか見てみたい」
「シーナだけ行くのは流石にダメ。行くならナナも一緒に行く事だ。それが条件」
シーナという思わぬ援軍に、菖蒲はわざとらしくこちらへ視線を流した。
その視線の意味するところはあながち「どうだ?これで学校へ行く気になっただろう?黙って学校に行け」なんてところだろう。
僕がシーナに弱いことを知っていてそんなことを言うのだ。ほんと意地が悪い。
けれど、そう簡単に了解するわけにもいかない。
菖蒲の言動で疑問が解決した。
学校に行くと何かに巻き込まれる。それもかなり面倒なタイプの話だ。ヤバい話のときほど、命令ではなく自主的にやらせるのが菖蒲のやり方だ。特に菖蒲がこういう搦め手を使ってくるときは決まって裏に厄介ごとが隠れていた。少し前も殺人鬼の件で痛い目を見たばかりだし、正直あのときみたいな面倒ごとは二度とごめんだ。
なんとしてでも学校に行くわけにはいかなくなった。
「そう。じゃあ、ナナも行くよね?」
「ちょっと待て。シーナよく考えてみろ」
「なに?」
「いいかシーナ。学校ていうのは、別に楽しいところでも何でもないんだ。学校はな、人間がたくさん詰まった箱みたいな部屋の中でただただ一日勉強する施設だ。休憩時間もあるにはあるが、関係性もあいまいなクラスメイトなんていう奴等の相手をしなければならないし、しなければしないでクラスの輪から浮いてしまい面倒なことになる。しかも放課後には部活なんていう残業もあるし」
「ナナは覚えているの?」
痛いところをつかれた。
「いや……覚えてない。識ってるだけ」
「そう」
「それに学校って言っても、あそこは転校して籍だけ置いてあるような場所だから、僕の記憶を取り戻す手掛かりは無いんだ」
「なら……行く必要ないのね」
シーナはつまらなさそうにそう呟くと瞼を閉じる。
彼女が一体、学校の何に惹かれたのか真意は分からない。
けれど、シーナの学校に対する興味は尽きたようだ。
会話が終わる。
シーナには悪いけど、なんとか面倒ごとをしないで済みそうだ。
「甘いね」
その呟きと同時、通学鞄が僕の足元に放られた。
チャックがきちんと閉まっていなかったのか中身が散在する。筆記用具、ノート、制服にプリント類……などなど。よくもまあこんなに詰め込んでいたものだ。
鞄が投げられた。ただそれだけのことだった。
けれど、菖蒲の最後の一手は今回も僕の思惑を超えていた。
「もれなく今ならナナの制服姿が見られるけど、シーナは本当に行かなくていいのかい?」
その一言でシーナの興味に再び火が付いたようだ。爛々と輝く蒼い瞳、その視線の先には鞄から飛び出した制服が転がっている。
菖蒲はというと、それを見て、したり顔でにやけていた。
「ボクにこんなのを着れと?」
「見たい」
菖蒲に言ったつもりだったのだけれど、返事をしたのはシーナだった。
「シーナもそう言ってることだし、さっさとそれに着替えて学校に行くことだね。まあ、そもそもナナは高校生なんだし、学校に行くなんてのは当たり前のことなんだけど……。あ、一応確認しておくけど、ナナはあくまでも自主的に学校へ行くわけだからね。私は強制なんてしていないから。そこんとこちゃんと覚えておいておくように」
勝ちを確信した菖蒲はケラケラ笑う。
今回も菖蒲の方が一枚上手だったようだ。
面倒ごとが確定した瞬間だった。
「……分かった。けど、着替えるから二人は店から出て行ってくれ」
「わたし達ぜんぜん気にしないけど」
「さすがにそろそろ慣れたころだと思っていたのになぁ」
「ボクが気にするの!いいから二人とも出ていけ」
キョトンとしたままのシーナとからかう菖蒲を店から追い出してから、地面に転がった荷物を拾い上げでは鞄にしまっていく。
「マジで、これを着るのか……」
最後に拾った制服を見ながら、独りごちる。
約十分間の葛藤の後、僕は泣く泣く夏の制服に袖を通した。