2019.8.21
あれから、僕は十日間にも及ぶ休養を要した。……いや、正確にいうと、一週間分は〈渇き〉による睡眠で使いきっていたので、体感的には三日間。
あれだけ短期の間に無理やり能力を使ったのだ。
その反動はすさまじく、だいぶ回復した今でも自分の体に違和感が残っている。
今日も寝起きから体が重く、活動はすっかり太陽が上ってからだった。
しかし、どうにもこの体の重さは〈渇き〉の影響だけではなさそうだ。
八月も下旬だというのに、まだまだ夏は終わらないようで、今日も朝からかなり暑かった。残暑も猛暑もこの国はもう変わらないみたいだ。
簡単に支度をして、一人家を出た。
店までの短い距離を歩いただけなのに、着く頃には汗でTシャツがビッショリと濡れて肌に引っ付いていた。額にも大粒の汗が浮き出ている。
下着が透けるからとTシャツを黒にしたのは間違いだったのかもしれない。
そんなことを考えながら店につくと、菖蒲とシーナがいた。シーナは僕が倒れてからというもの機嫌が悪く、目覚めてから会話という会話をできていない。今だって、わざとらしく目を反らされてしまった。
そして、少し意外な人物もカウンター席にいた。
「あら、ナナちゃん。夏風邪で寝込んでたって聞いたけど、もうよくなったの?」
『ナナちゃん』僕のことをそうやって呼ぶのは、星宮まどかただ一人だ。
仕事の途中で寄ったのだろう。まどかは遊びのないピリッとしたスーツ一式で身を固めている。明るめの長い茶髪は、暑いからか後ろ手にゴムで縛っていた。いわゆるポニーテールというやつだ。嬉しいことにシュシュをしている。二十代半ばらしいが、童顔の彼女には良く似合っている。
刑事とは言ってもまどかも乙女。こういうところでおしゃれを楽しんでいるのかもしれない。
「まあだいぶ……それよりもまどかさん。その、ボクをナナちゃんって呼ぶのはやめてくれっていつも言ってるじゃないですか」
無駄だとは思いつつも一応、交渉にでる。
しかしというか、やはりというか、それは無駄に終わってしまった。
「えー、だってナナちゃん可愛いじゃないー!こんなの愛でないと罪よ!シーナちゃんもそう思うわよね」
まどかにそう言われてシーナが頷く。相変わらず、僕とは目を合わさないけれど、話には参加するつもりみたいだ。
ちらりと見た菖蒲は「諦めろ」とそんな意図を含んだ目線だけ送って笑っていた。
どうやらここには僕の味方なんていないらしい……。
「うっ……可愛いも止めてください」
「お姉さん。可愛いって言われたら、女の子なら泣いて喜ぶと思うんだけどなー、ふつう」
「いや、だからボクは……」
「まあまあ、まどか。ナナは難しい年頃なんだからその辺にしときな。まどかだって、腹筋バキバキなんて言われたくないだろ?」とは菖蒲の言葉。
まどかの言葉を訂正しようとした僕に、割って入る形だった。
素直に感謝はできないが助かった。
「それもそうですけど……って!?菖蒲さん!私っ、腹筋割れてるだけでバキバキじゃないんですけど!そういう誤解を招く発言は止めてよー!」
「どっちも一緒みたいなもんだろ?」
「ぜんっぜん違いますから!腹筋バキバキはレディにとって死語だから。死語……なんだから」
「まどかさんの腹筋がバキバキとかどうでもいいけど、まどかさんは仕事戻らなくていいの?」
「うぅー、ナナちゃんまで……?でもそうね。そろそろ戻らないと小平さんに怒られるか……」
あのクソ親父、時間に厳しいのよねー。などと愚痴をこぼしながら、僕にとって嵐みたいなまどかは店を出ていった。
それを確認してから、菖蒲が嘆息した。
「……ったく。ナナもいい加減、女の子扱いに慣れたと思ったのにな」
「ボクは男だ。慣れるわけにもいかないだろ」
「でも、今の姿は誰がどう見たって可愛い女の子だろ?」
菖蒲に言われて、ちらりと窓ガラスを見る。
そこに映っているのは、黒髪の少女だ。
中性的な顔立ちは見る人が男なら女に、見る人が女なら男に見えるだろうが、肩口あたりで乱雑に切られた黒髪がなければ男性っぽさはほとんど感じられないほどに、少女の顔は可憐だ。
そして、胸元の小さな膨らみと全体的に丸みおびた体のラインが男らしさを完全に否定している。
これではせいぜいよくて、ボーイッシュどまり……の少女。
それが僕の今の体。
僕はこの少女にとり憑いた死霊憑きなのだ。
「……ま、私はナナが男だろうが女だろうが構わないけどね、世間的にはナナは女の子なんだ。さっきみたいにボロが出たら後に困るのはナナなんだぞ。その辺りもう少し考えなよ」
「……わかってるよ。それで?まどかさんは何の用だったんだ?さすがにコーヒー飲みに来ただけじゃないんだろ?」
まどかは刑事だ。
それも死霊憑きが関与したと考えられる事件専門の。
そんな彼女がかつて死霊憑きの研究をしていた菖蒲の元を訪れたのだ。菖蒲は情報屋として警察の一部とコネクションを持っており、まどかもそのうちの一人。
何かしらの情報交換、もしくは貰った情報の礼に報告をしたに違いない。
僕が思いつくのは春野姉妹の件しかなかった。
体感では三日前の出来事も、実際には十日も経過している。
彼女たちに何か進展があったっておかしくはない。
「ああ、春野瑞希と春野侑希について簡単な報告だよ。ナナが期待しているような物はないけど聞くかい?」
僕は頷いて、いつものカウンター席に座る。
すると、目を合わせてはくれないが、シーナがアイスコーヒーを置いてくれた。
「警察の方では、春野姉妹に関する事件を〝すべて〟死霊憑き関連のものとして処理することにしたらしい」
「すべて?すべてってなんだ?あの二人が起こしたことは、せいぜい陸上競技場での出来事くらいだと思うんだけど」
「ああ、あの二人はな。だが、昨日、捕まっていたひき逃げ犯が留置所で死んだんだ」
「死んだって……自殺か?」
「いやいや、そういうことができる類いの物はふつう没収されているよ。彼の死因は心筋梗塞だそうだ。けど、彼は若くて健康な普通の人間。そんなことが偶然このタイミングで起きるとは考えにくいだろ?だから、最初の交通事故から犯人の死亡までを全部ひっくるめて死霊憑きが関与したと考えるのは当然の流れだ」
「けど、それだと一番に疑われるのは……」
「春野侑希と春野瑞希の二人だろうね。でも安心なさい。まどかには私の方から言っておいたし、あの二人はもう普通の人間だ。ナナがせっかく元に戻した彼女たちをこんなことで潰させはしないさ」
「それならよかった。春野侑希は少なくともそんなことをする奴じゃなかったから」
「そうだね。けど、これでハッキリしたよ。今回の件には組織が絡んでいた。目的は分からないが、手口がナナのときと一緒なんだ。今回も奴らにとっては何かしらの実験だったんだろうさ。内容は考えるだけで吐き気がするがね……」
「組織が……」
「ま、そのあたりはまた考えるとして。春野姉妹の容体についてだ。こっちも当然、聞くだろ?」
☆★☆★☆★☆
皮肉なことに。
彼女たちの身にあれだけのことが起きながら、結局は振り出しに戻っていた。
いや、初めと完全に同じではない。
春野侑希は、死霊憑きだった代償としてその両足の機能を失った。切断には至っていないが、回復は絶望的だという。
彼女は今後、残された長い人生で車椅子生活を送ることとなった。
春野瑞希もだ。
彼女は未だ目覚めず長い夢の中。
命に別状はないが、彼女も死霊憑きだった代償が残っている可能性が高い。彼女はきっと妹のために今も夢の中で走り続けている。
そんな彼女がいつ目覚めるのかは神のみぞ知るところだろう。
奇跡なんてものは起こらない。
奇跡とは、必然と偶然……その繰り返しの中で起きた事象を人が勝手に意味づけたものだ。
現実は厳しい。
彼女たちに奇跡は起きなかった。
でも、それでも春野侑希は言っていた。
『お姉ちゃんは必ず目覚めるから……。私が待っててあげないとね』────と。
この世に奇跡なんてものはないが、希望はある。
彼女たちは希望を持って、この厳しい世界に生きている。
だったら、僕たちはその日が訪れるのを待つだけだ。
春野侑希はその日を夢見ている。
春野瑞希はその日まで走り続けている。
ふと、思う。
僕にもそんな日があったのだろうか。
……わからない。
それは、記憶を失っている僕にはわからないこと。
でもきっとあったはずだ
だって、こうしてシーナや菖蒲たちのことを見ていると、胸のあたりがモヤモヤしてしまってしょうがないのだから。
……ああ、そうか。
記憶も失っているくせに。
感情だって失っているくせに。
いつの間にか、僕はこんなにもこの居場所を大切にしていたのか。
それに気がつくと、顔が熱くなるのを感じた。
きっと耳まで真っ赤に染めてるに違いない。
もちろん、強い日射しのせいなどではない。
なんとなく理由は分かっている。
でも、こんなこと。菖蒲はとにかく、シーナに気づかれるわけにはいかない。
僕はまだ、あの夜のシーナの言葉に返事を用意できていないのだから。
……だから。
僕は逃げるようにして店を後にした。
叙述トリックを目指した部分もあり、ナナの性別については隠してきました。
そうした理由はいろいろあるので、続きの部分で明かしていこうと思います。