2019.8.11 (秘匿事項、虚無記録)
────2019.8.11
それは、明るい真夜中のこと────。
☆★☆★☆★☆
────ぐちゃり。
そんな、自身の心臓が潰れる音で……眠れる私の意識は覚醒した。
「はぁ……この人は、まだこんな無茶をしているんですか」
────ぽつり。
独り呟いた。
体の状態は酷い。
両腕は完全に潰れ、心臓は今まさに死霊憑きの手によって潰されたばかりのようだった。
躰は墜ちている。
ちらりと辺りを一瞥した。
すると、視界を埋め尽くすような赤い液体の影に、見知った銀色がいた。
オオムラサキ……それよりも遥かに淡い幻紫光色の光が銀色を包み込み、こちらに向かってくる。
────彼女はあんな脱け殻同然のカタチになっても私との約束を守ってくれていた。
────この人のそばにいてくれた。
それに、つい頬が緩んでしまう。
けれど、私はすぐにそれを引っ込めた。
私が覚えていても彼女たちは自分を覚えていない。自分の存在を知ることはできないのだ。
それに、私の意識だって今この瞬間、ここだけの限定的なもの。謂わばイレギュラー。
今回、世界は記録を行わない。アカシックレコードには刻まれない。
私は虚無的事象として処理されるただの幻影。
……この時間だけは、情報の〈発現〉を力にもつ彼女でさえ記録することは不可能。
しかし、どんなことにも例外がある。
それが今回ばかり適応されないとも限らない。
だから。
私は、出来うる限りにあの人を思い浮かべて……。
彼女の名を叫んだ。
☆★☆★☆★☆
「シーナ!!」
墜ちるナナの叫びに、シーナは反応した。
それに呼応するかのように、彼女の光は一気にその輝きを増す。
────幻柴光色。それは、能力の使用を意味する。
シーナは情報の〈発現〉を行う。
〈発現〉は遺伝子の発現と似ている。DNAに含まれる情報────塩基配列を読み解き、タンパク質を合成していくのと同じこと。
シーナは、その〝眼〟を通して得た情報を〈魂〉に刻んでいるのだ。
〈発現〉により、情報をこちらの世界に引っ張り出す。
情報が具現化していく。
情報が〝モノ〟として固定化される。
そして、シーナの手の平から銀色の刃が姿を見せた。
「ナナ」
言って。シーナはナイフをナナに向かって投げた。
銀色は空を切り一直線。
それは……本来、間に合わないもの。
シーナの細腕で投げられたナイフとは速さの質が違う。アレは物理を超越しているのだ。疑似的な『心臓』を爆発させた死霊憑きの方が圧倒的に速い。
ナナが地面に叩きつけられることは必然だった。
────刹那。地面が揺れた。
死霊憑きを震源とした揺れは競技場全体に及び、黒い土煙をあげる。爆発を伴った振動がその場にいた者すべてを襲った。
死霊憑きは気付かない。
世界が改竄されたことに。
胎内みたいな生暖かい空気が、薄皮一枚の境界で彼女を包み込んでいることに……。
「────■■■?」
土煙の中。
この世ならざる言語で死霊憑きは呟く。死霊憑きは何かを探すようにあたりを見回した。
銀色の少女はスタンド席まで吹き飛ばされていた。先の衝撃に耐えられなかったのだろう。彼女の意識は削ぎ落され、ぐったりしている。
だが、肝心の黒色が見つからない。
貫いたはずの人間がいない……。
そのとき、一瞬だけ。
世界が胎動した。
「おい、死霊憑き。オレはこっちだ」
突然の声に、死霊憑きは後ろを振り返る。
すると、そこにあったのは傷一つないナナの姿だった。潰れた両腕も元に戻っている。胸にあるはずの貫かれた穴もない。
その姿は治ったというよりも、まるで初めから〝そんなことはなかった〟みたいだ。
一つだけ、最初と異なる点がある。
光だ。
ナナの体は幻柴光色に輝く光によって包まれていた。
死霊憑きは本能で理解した。
この異常な現象を可能にしたものの正体を。
そして、もう一人の死霊憑きに向かって叫んだ。
「なんだ?そんなにオレが無事なのが許せないのか?だが、わるい……」
言葉の途中。チラリとナナはシーナを見る。
そして、少女の顔で死霊憑きに微笑んだ。
「……まだ、この人を死なせるわけにはいかないの。ごめんなさい」
ぞぶり。
ナナの言葉と同時、死霊憑きは自分の胸元からそんな音を聞いた。
「ぁ────?」
死霊憑きから間の抜けた声が漏れた。
墓標みたく、死霊憑きの胸にナイフが刺さっている。
銀色の刃は心臓にまで達していた。
……もう遅い。
死霊憑きは、ゆっくりとその場に倒れた。
乾いた瞳が太陽を睨む。
「せめて、もう一度だけ……走りたかったなぁ」
その呟きはどちらのものだっただろうか。
春野侑希か。それとも春野瑞希か……。
だが、それはもう叶わない望み。
「あなたたちはもう救われない。初めからその願いは叶わない。でも、まだ人間に戻れる。……どう?救いもなければ奇跡もないような、最悪な現実だけど。そこに戻る気はない?」
その言葉に。
死霊憑きは静かに頷いた。
そして……。
────彼女たちの夢は終わった。