■■■■
僕が家に戻ったのはとっくに日付が変わった後で、結局、この時間になっても春野侑希は見つかっていなかった。
シーナはまだ帰っていないようで、玄関にスニーカーはない。
暗がりの廊下を進んでいると足元がよろけた。
まただ。これで今日、何度目だろう。
寸前のところで壁に寄り掛かったので倒れてはいないが、体の調子がすこぶる悪かった。
屋上を出てからというもの僕の体は自分のものではないみたいに不自由だ。
重りをつけたみたく体は重いし熱でもあるのか全身がだるい。
しかし、肝心の〈渇き〉である眠気だけは襲ってこなかった。
「これも……反動なのか?」
独りごちる。
当然、それに応える者は誰もいない。
しかし、光るものはあった。
連絡端末だ。
家に置きっぱなしだったそれが着信を知らせる。
床に転がる機械をなんとか拾うと、電話の向こうから何か咎めるようなシーナの言葉が飛んできた。
「なんでずっと出ないの?」
「ごめん、家に忘れていた」
電話の向こうで嘆息する声が漏れた。
呆れているのだろうか。
「スマホを壊すのはダメだけど持っていないのは論外」
「……ごめん」
先月も似たようなことを言われた気がする。そういえば、前回はスマホをボロボロに壊してしまって怒られていた。あれは不可抗力だったが、今回は少し違う。
反論する理由もなく素直に謝る。
すると、電話口から菖蒲の笑う声が聞こえた。
どうやら、菖蒲とシーナは一緒にいるらしい。
「今どこにいるんだ?」
「あ、まって。菖蒲に変わる」
「妾たちは病院だ。今、春野侑希の病室にいるが……ナナはどこにいるんだい?」
菖蒲のスイッチはもう入っているみたいだ。
なら、話は早い。
「ボクは一旦家に帰ったところ」
「ふむ、つまり春野瑞希はまだ見つけられていないんだね……」
一瞬、菖蒲の言葉に違和感があった。
しかし、それはその後に続く言葉によってかき消されてしまう。
「本馬陸上競技場だそうだ」
「本馬……?ああ、あそこか────」
考えてみれば簡単なことだ。
しかし、何故か僕は菖蒲の口からそれを聞くまで競技場を思いつきもしなかった。
春野瑞希を探すというのなら一番に思い付きそうな場所だというのに、ほぼ一日中探し回って一度たりとも思い付けなかった場所……。
まただ。
また、小さな違和感を覚えた。
それの正体は掴めそうで掴めない。何かを忘れている気がする……。
「ナナ?」
「いや、なんでもない。気のせいだ。ボクは今から競技場に向かうけど……手筈通り、春野侑希は連れてこれそう?」
「うーん、それが少しかかるかもしれないね……」
珍しく、電話の向こうの菖蒲は弱気だった。
「何かあったのか?」
「あ、いや……大したことではないんだが、まどかが病院にいてな」
「まどかさんが?……ひき逃げ犯は捕まったって、昼間にまどかさんから聞いたけど。何で病院なんかに来てるんだあの人」
「さあ?あやつのことだから女の勘とか言うんだろうさ。ま、あやつはあれで結構勘がいいから。少しだけ準備がいるけど、外に出す分には問題ない。それまで彼女と楽しくトークでもしてるといいさ」
「……善処する」
「あ、言い方が違かったね。二人でじょ……」
菖蒲は何か言いかけていたが、通話を切ったので最後までは聞こえなかった。いや、聞かなかった。
どうせ、ろくでもないことを言おうとしたに違いない。
菖蒲がいつも僕をからかうときと同じトーンだったのだから。
スマホをポッケに入れ、部屋を出る。
途中。台所にある包を持っていくか迷ったが、結局、持っていかなかった。
────2019.8.11
☆★☆★☆★☆
私はただ……最後に走りたかっただけ。
私はただ……羨んだだけ。
なのに。今の私は彷徨う亡霊。
なのに。今の私は夢を映す鏡。
────ぎちぎちぎちぎち。
歯車のズレる音は大きくなっていく。
私たちの想いはズレていく。
────チクタクチクタク。
大切なものを自覚できないまま時計の針だけが進んでいく。
はじめの願いなんて、もう覚えていない。
それでも私は……走り続けるだけ。意味なんて忘れてただただ早くあろうと変化する。
それが、誰のためだったのかなんて忘却して。
それでも私は……見つめ続けるだけ。壊れた想いは妬みと恨みへ変化する。
それが、誰へ向けたものだったのかなんて忘却して。
だから。
私たちは……。
────あの夏をもう夢みない。