2019.8.10
久しぶりの目覚めは気分が悪かった。
体が重い。
頭もぼーとしている。
ぼやけた視界で、ここがどこだか分からない……。
取りあえず、僕は上体を起こした。
「ようやくお目覚めかい、今回は随分と長かったみたいだね」
────と、僕に気付いたのか声がかけられた。
言ったのは菖蒲だ。
……ということは、ここは菖蒲の店なのだろう。
チラリ。辺りを見回すと見慣れた店内の姿がそこにはあった。シーナはまだ来ていないのか、店内にはカウンターでコーヒーを淹れている菖蒲しかいない。
僕が眠っていたのは店の端に置いてある堅いソファー。クッションの死んだスカスカのやつ。
菖蒲の言う通り僕はかなり眠っていたみたいだ。
少し動かしただけで体の節々が痛い。特に首のあたり。
「……どれくらい寝てた?」
「うーん、今日は八月十日だから。丸々三日以上は寝てたかな」
壁に掛けられた日めくりのカレンダーを見ながら菖蒲は答える。
つられてカレンダーの方を見てみると時計が視界に入った。
時刻は十時キッカリ。
もう、開店の時間だ。
だというのにシーナがここにいないのはおかしかった。
「シーナは?」
「ああ、シーナには少し使いをお願いしててね。なんだい?やっぱり朝はシーナと一緒が良いのかな。なんだかんだ言って楽しく暮らしているみたいじゃないか」
菖蒲はからかうようにケラケラ笑う。
実際、菖蒲は僕をからかっているのだ。一割くらいは僕の感情を刺激する目的で。
だが、残りの九割は菖蒲が楽しむためのものなので、僕はそれを無視して話を進める。
ようやく頭が働いてきたのだ。
春野侑希に関して菖蒲には言わないといけないことがある。
僕はそれを三日越しに菖蒲へと伝えた。
「なるほど。それで?ナナはどうするんだい」
二人分のアイスコーヒーをテーブルに置いてから菖蒲が言う。
春野姉妹に関する説明は少々長くなってしまったので、二人とも席を移動していた。
菖蒲はカウンターに座り、地につかない足をぶらぶらさせ始める。
「それでもボクは……あの二人を救おうと思う」
僕がそう言うことを予想していたのだろうか。
菖蒲は変わらず足をぶらぶらさせている。
カランカランとアイスコーヒーをストローで混ぜている。
普段と変わらない、何食わぬ顔で答えた。
「そっか」
けれど、その声音は違った。
菖蒲の表情から感情を推測することはできない。
だから、その声音だけでしか判断できないが、菖蒲はどこか嬉しそうだった。
その感情をもう少し探ろうと、菖蒲を観察していたら頭を小突かれた。
同時、菖蒲はそっぽを向いてしまう。
「だったらこんなところにいないで急ぎなさい。時間がないんだろ?」
「わかった」
時刻は十一時過ぎ。
この時間だと春野侑希は部活に行っているはずだ。
問題はもう一人だが……。
「病院の方はシーナに行かせるから安心なさい。ナナは学校に行けばいいさ」
僕の考えを見透かした菖蒲の言葉によって目的地が決まる。
「あ、あと学校に行くなら制服を……」
続くそんな言葉は無視して、僕は店を後にした。
☆★☆★☆★☆
「……で、学校に来てはみたものの。春野侑希がいなくて困っていると」
小説片手にそう言うのはナナカだ。
今日も変わらず初めは浮遊していたが、僕に気付いてからは地に降り立っていた。僕との会話に集中するためか、そのときには小説は閉じられていた。
「そうです。ナナカは何か知っていますか?」
前回よりスムーズに敬語で話すことができている。と、僕がそう思っているとナナカに笑われた。
ナナカの体は幻柴光色に光っている。
どうやら、ナナカの能力〈コネクト〉により僕の考えは筒抜けのようだ。
しかし、一体どこがおかしかったというのだろう。
よくも分からず、ナナカを訝しむように見ていると、再びナナカに笑われた。
しかも今度は盛大に吹き出していた。
「ぷふっ……いやぁ、ごめんなさい。ナナがあまりに変な言葉で話すものだから……つい、ね。そんな英文をそのまま翻訳をしたみたいな喋り方されたら、それはもう……ぷぷっ、しかも何のことか分かっていないみたいだし……はぁー、おもしろい」
「慣れていないんです。別にいいではないですか」
「ごめん!私が悪かった!私が悪かったからその変なしゃべり方っを止めてー!!あと、なんでこれがおかしいって分からないのよ!ナナのその、意味わからないって考えていることがもっと面白いんだからー……って、これは私がリンクを切ればいいだけか」
ぷつり、と何かが切れたようにナナカの纏っていた光は消えた。
そして、なんとか冷静さを取り戻したナナカは何故か僕の方をキッと睨んできた。顔が整っているので威圧感はあるがそんなに怖くはない。ナナカは赤面したままで、しかも瞳もうるうる潤んでいたのだから。
「もう……ナナは敬語禁止。会話もまともにできないし特別ね。私とフラットに話すことを許可します」
「そっちの方がボクもは話しやすいし助かる」
「そこは躊躇しないのね……まあ、いいいわ。それで春野侑希がなんでいないのかよね?それなら知っているわよ。単純に、陸上部は今日お休みなの。オフ日ってやつね」
「じゃあ、春野侑希が今どこにいるのかはわからないのか」
「そうね。あの子もう帰ったから今ごろ家にいるんじゃないのかしら」
「帰った?」
ナナカの言葉に引っ掛かりを覚え聞き直した。
「ええ。あの子、朝グラウンドに来てたのよ。しばらくしてから帰っていったけど……あれはわかっていなかったのでしょうね。かなり進行しているみたいだから……」
「そうか……」
「あら?もう行っちゃうの」
踵を返すと背中ごしにナナカから声をかけられた。
「ああ。夜までに見つけないと取り返しがつかないから」
「それもそうね」
それだけ言うと、ナナカはもう興味をなくしたのだろう。
ペラリ、と本を捲る音がした。
……そういえば、あいつもあの本好きだったな。
その音に。ふとそんなことを思った。
「ナナカはそれ好きなの?」
振り返りはしない。
ナナカに背を向けたまま僕は聞いた。
「ええ。私、小説って読むのも書くのも好きなの。だけど、一番好きなのはこれね。もしかしてナナもこれ好きなの?」
「いや、先輩?が好きだったんだ。ちょっと思い出しただけ」
「へえ、その人とは仲良くなれそう」
「無理だよ」
「なんで?」
「もう死んでるから」
「あら、それは残念ね」
それは軽い言葉だった。
ナナカを見ていないからわからないが、きっとその表情は何も変わっていないはずだ。
ナナカはそのことに対して、残念とは思っても悲しいとか辛いなんていう分かりやすいものは何も感じていない。
僕もそうだ。
あの先輩とは短い付き合いだったけど、死んだからといって何も感じてはいない。そんなもの持っていないのだから。
でも、胸の奥が少しむず痒かった。
この先輩や春野侑希が死んだときを想像すると、それはもっと大きくなっていく。
菖蒲やシーナについては……やめておいた。
理由も分からなければ答えもわからないが、僕はこれ以上知った人が死ぬのは嫌みたいだった。
「ナナカ。またそのうち」
「ええ。また近いうちに」
ナナカに別れを告げ、屋上を後にした。