徳島と焼畑農業
なんとなく徳島が見えてきた。何故徳島が特殊なのか?で多分焼畑だと思う。ふと全くの偶然から徳島はおそらく縄文から焼畑が盛んだった可能性がある。何故今まで分からなかったか?と言うと、縄文に特定できる焼畑関連の遺物が見つかったのを私が知らなかったからになる。日本全国で焼畑は残っているため、焼畑が盛んである事自体は何の証拠にもならない。
時代の特定が大事で、これで神話の意味も通る。忌部氏が有名だが、忌部氏が来る前にすでに重要な神が徳島には根付いていて、それがオオゲツヒメノミコトになる。当初忌部氏の結びついた神だと思い込んでいたら、時代がずれてる。しかもこの順序的に古いとの情報は以前から握っていたが、私は神話だけじゃ決定し無い。やはり物証が重要になる。
この点私の神話関係の話しが物証や遺伝子が絡んだ特性が強い。そういったもの以外ならとっくの前に神話関係で詳しい人は皆分かってるつまらない事だからになる。オオゲツヒメノミコトがまず徳島の最初の重要な神となって根付いて、これに従った阿部氏の祖神が2番目の神になり、3番目に忌部氏の祖先神が絡んでくる。4番目あたりに秦氏が絡んでくるといった所だろう。
これに物部氏も関わってるが、以前これはもう紐解けた。これはおそらく忌部氏の勘違いだと思われる。日本書記がそうだが、異聞を乗せる。こういう話もあるとして、複数の説が載せられる。それに近いものだと見ている。母方物部氏と繋がって、その物部氏から出た母系が皇后になったため、それをごちゃごちゃにしてしまって、父系で物部氏と忌部しは同族とやってしまったと見ている。
これは伝統的に異聞を乗せる流れで書いただけだと思う。確証があって伝えたものじゃない。拾うという字が使ってあるので、古代の話しを拾い集めただけで、それがすべて真実だというものじゃないと見ている。よって物部氏は徳島にとって重要じゃない。それと言うのも、特に徳島で物部氏が大量にあるわけじゃなくて、その物部氏から出た皇后の神社が唯一あるのが徳島だと言うだけの話しなので。
まず焼畑の民族は誰だったか?で焼畑の民族はハプロで言えば、母系B系がまず第一。だがこの一族何度も日本に来ていて、時代によっては系統は全く違う。ポリネシアの拡散が始まって日本がかかわるのが、3000から4000年ごろの弥生付近になる。これより前に来ている形跡がある。
サトイモが有名だが、サトイモはこの時期よりおそらく前に来てるのじゃないか?と見ている。焼畑の歴史がポリネシア人の拡散より古い時代になるからになる。5000年前ほど遡れる可能性がある。これはポリネシアの拡散の時期から考えると古すぎる。系統的には皆B母系の海洋民族の拡散だが、船や海洋技術の進化度が全く違う。
プラントオパールの関係から陸稲が来たのはこの最新のポリネシア人の拡散の時期のフィリピンが起源の台湾や中国南方の焼畑農業だと考えられる。焼畑の歴史は長い、それは渡来人が来るたびに変化するのは農業じゃない。焼畑に使用される農作物がその都度追加されていくという点。
これは時代的に別の民族が持ってきたもので、この点は特にプラントオパールなどからは時代の特定は容易であるため、順次追加されたもので、一気に来たものじゃない。良く分からなかったのは、これを一度の出来事にしてしまった事の問題だと見ている。別だと考えるとすっきりする。
すべてが別なんだとするといろいろとすっきりしてくる。例えばO1B2もおそらく一度に来たわけじゃない。おそらく近い時代に分けてきていると見ている。もし時代が大きくずれるなら変異にその特徴が出るためそれが無いため時代は近いと見ている。その時代の違いは非47zと47zの違いにだけに出てるのは無いか?と見ている。
金属加工、稲作民、海人のO1B2は全部で大きく分けて4種類居たと見ている。金属加工は扶余系=C2Cに混じってやってきたわいはく民族の中国東北人の系統になる。推測になるが、これは非47zが多かったのでは無いか?と見ている。稲作民は47zで正しいと思う。これは長江から北上して、原遼河人と混血して半島から南下してきた人達だと見て良い。
人種的にはほぼ金属加工の集団と変わらない。日本最大グループのモンゴルと繋がる系統と見てよい。違いはより北方のC2Cの存在だけになる。問題は海人になる。稲作民が来る前に交易民、漁民として日本に中国南方から来たグループが居ただろうと見ている。この系統が2つに分かれると見ている。
1つは稲作民と全く同じルートになる。遼河人との混血は山東省でなされていて、必ずしも遼東半島沿いに回ってきたグループじゃないと思う。山東省から直接朝鮮半島南端、九州に来た可能性がある。弥生時代なら直接ルートの集団は多くなるが、縄文期においてそこまで発達した民族は中国文明人には居ない。
それは造船技術の発達と、海人の中国人化によるものになる。弥生時代になると中国文明人が直接日本に来た可能性は高い。直接ルートで来たのは、ポリネシア系となる。ポリネシア系にO1B2はおそらく居ない。じゃ何故か?それは、ベトナムから中国南部にかけてやってきたポリネシア系はおそらく地元の海人系と混血した可能性があるから。
初期日本にやってきた焼畑グループはO1Aや、O1b2、O2a2 (JST021354/P201) O2a1c (JST002611) など中国南方系グループだと見ている。その候補が雑多なのは重要なのはB母系であり、父系はどうでも良いからになる。それゆえ日本には焼畑民について特定のハプロが出ないんだと見ている。
続いて、やってきたグループにO1B2が混ざったポリネシア系だった可能性があると見ている。何故初期に居ないのか?と言うと、そもそも変異の歴史が浅いので、初期のグループにO1B2が混ざってるほうがおかしいから。この集団が陸稲の担い手だと見て47zであっただろうと見ている。
このグループがもたらした焼畑が四国のベースじゃないか?と見ている。それと言うのも初期の焼畑はどうも関東を中心に発達してるからになる。関東の集団はちょっと異常なハプロが出る。ほぼ弥生人と変わらないmtDNAの分布になる。大陸系の母系ハプロが明らかに関東だけ突出して多い。
これともう1つある。関東だけ焼畑による土壌なのでは?と見られる部分がある。黒土のすべてが焼畑ではないが、黒い土に焼畑による炭素がベースになった黒さの土じゃないか?と見られている。もちろん山火事が考えられるが、何度も繰り返して焼畑が行われただろうとみられるような厚い層が関東だけに突出して存在する。
他にもある。日本の大豆は日本で栽培化された可能性がある。野生種と栽培種の遺伝分布が関東を中心に広がっている。高い栽培化の見識を持った集団がここに住んでいたため日本独自の野生種を栽培化した可能性がある。もちろん確定では無い。
全国に焼畑が広がったが、その中心地は関東であって、徳島の物はまだまた無いといけないと見ている。それがポリネシアだったのか?と言うと、それもある。あくまでもである。高い徳島のO1B2は忌部氏以外である可能性がある。忌部氏も確定じゃないし、秦氏もO1B2が多く含まれていただろうと予想できるので、なんとも言えないが、これにもう1つ加えるハプロがある。
それはY染色体ではなく、HLAハプロになる。これが太平洋岸に広がった特定のグループが居て、これがおそらく黒潮にのったポリネシア系だろうと見てるからになる。もう1つ黒潮民がいるが、C1A1がその候補であるが、これは絶対違う。何故なら、縄文期におけるHLAは起源不明で終ってるからになる。
何故?となると、起源地のもう残って無いからが答えになる。そもそもO1B2系の稲作民海人民族ももう起源地の中国南方に残ってない。あくまで親戚であるO1B1の系統が残っているため予想できるだけになっている。縄文期のHLAハプロはもう起源地に残ってない。これに関しては核DNAの古代人口検査によって、ラオスあたりがD1Bの起源だろうとか推測されている。C1A1は良く分かってない。
徳島のC1A1は別の可能性で増えたのじゃないか?と見ている。それがN系になる。これこそがオオゲツヒメノミコトだと見ている。曾畑土器はN系を伴わず日本に海人によって文化的な模倣でもたらされたとなっている。だがそうだろうか?と私は見ていて、その一部はC1A1と混血して徳島に来た可能性があると見ている。
最初は東北のN系が徳島に来たと見ていたが、そこで出てきたのが縄文から続く焼畑文化である。これが神話と重なってくる。剣山と言って、徳島の山には神話と結びついた山があり、ここで山岳をベースにした焼畑が発達したらしい。何故Nが必要なのか?と言うと、これが単純に半島の焼畑民ならNなんて弥生時代にはまず考えられない。Nが半島に居た時代というのはちょうど弥生時代が始まる前になる。
曾畑土器の時代になる。次にじゃポリネシアが持ってきたのでは?これについては、粟はかなり後だと分かっていて弥生時代の流入だと言われている。そこで弥生じゃ無理、だが縄文ほど古くない。そういった微妙な時期に来たとなるNが最も良い候補になる。粟は長江から直接来たものじゃない。
おそらく半島を伝って古い時代に半島に居たN系が持ってきたものだろうと見ている。すでに焼畑農業が根付いていた地域に粟が追加されて、それがあまりに大きな作物になったために徳島がアワと呼ばれる原因になったと見ている。これが徳島でNとC1A1が高い理由だと私は見ている。