もしも私に翼があったなら
カントは空腹だったが食堂へ行く前にパーツの点検をしていたカルナをつかまえ、エルシオンの不調の原因を聞いてみた。カルナは厳しげに眉根を寄せ、エルシオンをあちこち見回した後に一言、
「こりゃ、だめだね」
「そりゃまたどういう?」
「前も言ったけどノーメンテで来たつけが回って来てるよこれ」
カルナが言うにはどこかで溜まった砂や埃、その他の汚れが海水へダイブしたことによって泥状になり、関節部や推進装置を詰まらせている、ということらしい。
「あんたよくこんな機体で海から脱出できたねぇ」
カルナは巨大な布とこれまた巨大なドライヤーのような機械を持ち出し、カントに布を押し付けた。
「はい」
カントは身の丈ほどもある布切れを持て余しながらエルシオンについた水分を拭き取った。
「にしても、よくこんな機体で海から上がって来れたねぇ」
カントはスラスターが壊れてから飛空艇へ戻るまでをカルナに説明した。話がブレードを爆発させた辺りに差し掛かるとカルナは言葉もなくぽかんと口を開けて焦点の合わない瞳をカントへ向けていた。
「はぁ、あんたは最高の天才か、もしくは最大の馬鹿のどっちかだよ」
カントが話を終えるとカルナはわざとらしく大きくため息を吐き、肩を竦めた。と、そこへ今しがた戻ってきたレイ達が着艦し、カルナは慌ただしくそちらへ駆けて行った。メカニックというのはこうも休む暇が無いものなのか、とカントは感心した。
さあ食事にしよう、と食堂へ足を踏み入れようとするとミルに呼び止められた。
「少し時間、いいでしょうか」
いつになく真剣な眼差しだった。脅迫じみていない方向に。それゆえ逆にカントはその真意を測りかねた。
「お、おう」
カントは少し後ろ髪を引かれる思いを残して食堂に背を向けた。そこではカントに感想を言わせた服の一着を着たナタリスがちらちら視線をカレーを掻っ込むレイに向けていた。
「あ、待った」
「待ちません」
ミルは容赦なくクイーンでカントのナイトを弾き倒す。カントはミルの手元へ消えてゆく白いナイトを恨めしげに見た。ミルの部屋へ連れ込まれたカントはなぜか2人でチェスに興じていた。正確にはカントが一方的にいたぶられていた、なのだが。
盤面は圧倒的に黒に支配され、カントの操る白い駒はキングとポーンが2つ、ビショップが1つ、クイーンの5つしか残っていなかった。最後の悪あがきにクイーンを敵陣へ斬りこませる。だがそれもあっさり取られ、
「チェック」
コトリ、とクイーンをキングの目の前に置く。逃げ場もなくクイーンを取ってもポーンに取られてしまう。チェックメイトと言うやつだった。
「俺の負けだよ」
カントは両手を上げて降参のポーズ。ミルは勝ち誇ったように鼻を鳴らせた。
「これで私の3連勝ですね」
「で?結局何の用なんだよ」
ミルは何も答えず、また黙々と駒を並べ始めた。
「どうせナタリス絡みなんだろ?」
ミルの手が止まった。ミルがわざわざカントを呼びつける理由などそれくらいしか考えられなかった。そしてミルの反応を見るにカントの予想は当たっていたようだ。
「あの後、私がお嬢様に服を選んで差し上げました。ですがお嬢様はいい、と仰いました」
ミルは強く駒を握りしめた。白のナイトがミシッと嫌な音を立てた。
「カントが1番褒めてくれたこれを着るから、と……」
カントはミルを直視できなかった。首から下の限りで言えば手はヒビの入ったナイトをさらに強く握り、体はぷるぷると小刻みに震えていた。おそらくその上はまさしく修羅の形相をしていることだろう。その光景が人生最後の記憶になるのは遠慮願いたい。
「そりゃナタリスが男から見た意見が聞きたいって言うからだろ」
カントはよくも言い返したものだ、と自分に感心した。ナタリスはレイに見せるのに男目線での感想を求められ、それを基に決断を下した。別に不自然な所はどこにもない。
「15年、です」
そう言うミルの声は震えていた。だがその震え方は怒っている時のそれではない、とカントはなんとなく思った。
「私がお嬢様にお仕えしている時間です」
ミルの声が鼻にかかっていたことでカントは自身の予想が間違っていることに確信を持った。そして恐る恐る視線を上げ、ミルの首から上を視界に収める。
目元がじんわりと紅く染まり、瞼に溜めきれなくなった雫が一粒頬を伝っていく所だった。
「お、おい……」
初めカントは自分の目が信じられず、何度か目を瞬かせて目の前の光景が現実かどうかを確認する。残念なことだが何度視界にをリセットしてもミルの表情は変わらず、現実として疑う余地はなかった。だが人生初めての状況に何と声をかければいいのかわからず、結局何も言えずにポケットからハンカチを差し出してやることしかできなかった。
「私の方がずっと一緒にいるのに、私の方がずっとお嬢様のことをわかってるはずなのに、私の方がずっとお嬢様のことを考えてるのに、私の方が……」
ミルはカントの手からハンカチを受け取らず自分の袖で涙を拭った。
「なのにあなたが来てから何もかも変わってしまった。お嬢様が辛い時側にいたのも、お嬢様の命を救ったのも、お嬢様が頼るのも全部……わかりません」
わかりませんわかりません、そうミルは繰り返す。それは一種のヤキモチに似た感情だった。自分の中ではナタリスが1番で、ナタリスにも自分が、ミル ブルーメが1番であることを求めた。それが自分の我儘に過ぎないとわかっていても。
だがカントは決してそうではないと思った。カントの見る限りナタリスは自分などよりずっとミルを信頼しているし、近しい存在なのだろう。最近カントとナタリスが関わることが多かったのは単なる偶然だ。カントは勿論ナタリスにも何かしらの意思があったわけではない。
だが実際行方知らずになったナタリスを見つけた時もユウの工場の時もカントであるわけで、そこにミルが納得できない思いを抱えることが理解できないわけではない。だがそこで当のカントが何か言った所でミルの耳には届かないだろうし、何と言って良いかもわからなかった。
その時だった。どこからともなくグゥ〜と何とも間抜けな音が聞こえた。この緊迫した局面でそんな音を鳴らすとは何事だ、とカントは辺りを見回すがそんな音を出しそうな物は見当たらない。それ以前にこの部屋にはカントとミルの2人しかいないのだ。
「……何を鳴らしているんですか」
腕で顔は見えないが口元が少しだけ笑っているのが見えた。
「いや、そういえば何も食ってなかったな」
カントは頭をガリガリ掻く。昼食をずっと食べ損ねていたのを忘れていた。
「人が泣いている時によくもまあそんな間抜けな音が出せますね」
言葉は鋭いものの口調は柔らかかった。怒っていると言うより面白がっている様子だった。
「これでは私が馬鹿らしいではないですか」
と、ミルはカントの手にぶら下がっていたハンカチをひったくると赤くなった目元を拭い、おまけに鼻をかんだ。
だが後で少し後悔したらしく、カントのハンカチをポケットにねじ込んだ。
「……これは洗った後返します」
その後、カントは食堂へ行き、2人分のパンとお菓子を拝借し、ミルの部屋へ戻った。ナタリスはレイにくっついてLAの整備を手伝いに行ったらしい。食堂はもぬけの空だった。
「ほら、あなたの番ですよ」
戻るなりミルはカントに駒を動かすよう迫る。どうやらミルが満足するまでカントを解放する気はないらしい。カントはその辺りがナタリスと似ていると思う。ヒビ割れたナイトを動かすミルはなぜか少しご機嫌だった。
もう何回目だろうか、カントも少しは上達し、5回に1回くらいは勝てるようになった頃、ミルが鼻歌を歌いながら駒を並べている横でカントはなんとなく窓を眺めた。もう日はとっくに落ちて外は夜の闇だ。その時、一瞬その闇が一層深まった気がした。
「どうしましたか?」
「あ、ああ、何でもないよ」
だが特にそれについて深く考えることもなく、再び盤面に注意を戻した。
「これでチェック……」
カントがビショップを掴んだ瞬間、この飛空艇で絶対に響くはずのない音、銃声が響いた。それも単発ではない、広くアサルトライフルと呼ばれる種類の連続した発射音だった。
「おいおいおい、冗談だろ?」
以前死の大地で嫌と言うほど聞かされたカントにはわかった。銃の発射音とはそれを模倣した何かとは別種のプレッシャーのようなものがある。
またそれはミルも同様だったようで、近くの引き出しをごそごそやっていたかと思えば黒光りする拳銃を取り出した。カントが使ったのとは違い鉛の弾丸が出るタイプだ。
こういう武器は昔からほとんど変わっていない。人を殺すのにそれ以上の殺傷力は必要ないからだ。
「あなたはここにいてください。私はお嬢様を探してきます」
「正気か?何人入り込んでるかわからないんだぞ?」
それにあくまでカントの予想ではあるがこのような招かれざる客が目指すものは大きく2つ。飛空艇のコントロール、そして頭、つまりオズマだ。皆殺しにするならともかく真っ先にナタリスを狙うとは考えにくい……
「ここでお嬢様を探しに行かないことの方が正気ではありません」
それに、とミルは付け加えた。
「この場合、あなたは役に立ちません」
そうミルはピシャリと言うと注意深く扉を開け、不気味な静けさが漂う廊下に飛び出した。
ミルの部屋に1人取り残されたカントはこの襲撃の犯人についてぼんやり考えてみた。そこで真っ先に思い浮かんだのは昼間同様旧コロニー連合の残党だ。もしそうであればやはり狙われるのはオズマ……と、今の状況は何かに似ている気がした。
ミサキ、と1つの単語がふわりと浮かんでくる。後は芋づる式にミサキが連れ去られた、カントの運命を変えたあの日のコロニーツヴェルフと重なった。
こんなに広かったか、とミルは感じた。もう大分走ったつもりなのにナタリスの部屋はまだ遠い。曲がり角に近づく度に耳と指先に全神経を集中させる。銃声からして敵はそれなりに重装備らしい。ならば歩くときに多かれ少なかれ音は出てしまうはずだ。戦闘になれば厄介だが極力気づかれないようにすれば何とかなる。
もし狙われるとすればコックピットか現議長であるオズマである、なんてことはミルも百も承知だった。だがミルはナタリスのメイドであり、ナタリスの命を守る義務がある。それにレイのことだ。オズマの方に既に向かっているはずだ。
ようやくナタリスの部屋へ到着し、扉に手をかける。だが予想に反して鍵は開けたままだった。ミルの額に冷や汗が浮かぶ。小さく息を吐いて扉の内側に飛び込んだ。
「お嬢様!」
銃を構えて周囲を見渡す。だが部屋は真っ暗で人の影はない。もちろんナタリスのものも。
その時だった。突然口を塞がれ、体を押さえつけられた。そしてそのまま物陰に押し込まれる。あまりに突然のことで声を出す暇もなかった。だが何とか全身の筋肉を動かし、腕の中で手足をばたばたさせて暴れる。その時振り下ろした右手が何か硬いものに当たった。
「バッカ、俺だよ俺」
ハッとして振り返るとそこにあったのは見知った顔だった。
「そこにいるのは誰だ!」
直後、扉を蹴破るように開けて何者かが入ってきた。声からしてミルの知り合いではない。
「ここは娘の部屋だろう、ここに用はない」
その後ろから落ち着いた声がした。
「ですが確かに声が……」
「俺たちは目標を達成すればいい」
落ち着いた声に諭されて2つの足音は少しづつ遠ざかっていった。カントはその声がどこか聞き覚えのあるものに聞こえた。
「はあ、はあ……」
ミルの口に当てていた手をどかし、2人揃って床にへたり込んだ。
「痛ってえなあ、あんまり暴れるなよ」
カントは手の甲で口元を拭った。僅かだが血が付いている。ミルに暴れられたときに切ってしまったようだ。
「あ、すみません……」
「え?」
カントは一瞬ミルが誰に何を言っているのかわからなかった。何せ今まで散々殴る蹴るの暴行を繰り返していたのに今さら唇を切ったくらいで謝られるとは思えなかったのだ。
「だからその、血が……」
「お前が謝ることなんてあるんだな」
「その言い方だとまるで私が血も涙もない極悪人のように聞こえますが」
実際そうだったろ、と今まで自分が受けた理不尽な暴力の数々を思い返しながらカントは心の中で呟いた。
「何か?」
だがどうやら無意識に口に出してしまっていたようだ。ミルがいつもの調子を取り戻し、怖い顔でカントを睨む。カントは両手を上げて降参を示した。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「それで、ではありません。なぜあなたがここにいるのですか」
「いや1人で部屋にいるのは寂しくてさ」
「また適当なことを……」
ミルは頭を抱えた。カントは次にミルが何か言う前に先手を打って切り出した。
「俺はお前を追いかけてナタリスの部屋へ向かったんだよ、そしたら部屋には誰もいない。足音がしたから慌てて隠れたらお前がいきなり飛び込んで来るわ大声で叫ぶわで心臓が止まるかと思ったよ」
カントはミルより遅く出発した。にも関わらずカントの方が先に到着した。と言うのもミルは緊張と不安のあまり頭が混乱して知らず知らずのうちに遠回りをしてしまっていたのだ。
「それにしても声をかけるとか他に考えなかったのですか」
口を塞がれた瞬間、命の危険とともに女性としての危険も感じた。振り返ったカントがいた時に悔しくも安心してしまったのはミルの中だけの秘密である。
「俺も焦ってたんだよ」
確かにあの時はミルとて冷静さを欠いていた。大声をだしてしまったのは紛れもなくミルであるため、それ以上の文句は喉の奥に飲み込むことにした。
「もう一度聞くけどこれからどうする?奴らの目的は今のではっきりしただろ」
侵入者の目的はオズマ フロイド。更に司令官のような男の口ぶりからそれ以外の者に危害を加える可能性は少ないようだ。となればオズマの元へ行くのが最善策なのだろうが、ミルはそうは考えない、ということでカントはわざわざそうミルに聞いたのだ。
「私は……」




