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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヒューストンより愛を込めて

作者: 明日

 

 もう何回死んだだろうか。

 ドスンという衝撃と一瞬の痛み。そして開ける視界に、風を切る感覚。

 その一連の出来事を、彼は何度も繰り返していた。


 コンクリートの縁を蹴ると、景色が逆さに映る。近付いてくる地面、ひび割れたアスファルトは朝日に照らされ、暖かな橙色が薄く浮かんでいた。


 そこに、また彼は衝突する。

 目の前が白くなり、赤くなり、黒くなり、そして意識が途切れる。

 鼻の奥のつんとする臭いや、骨の砕ける音はいつも一瞬だ。

 そして意識が途絶えた後、彼はまた屋上に立っている。そして、地面から足が離れ、落ちる。


 三十メートルほどの落下、時間にして三秒に満たない自殺。彼は何時から落ち始めたのか忘れるほど長い時間、死に続けていた。






 生きていたくない。

 彼が死のうと思ったのはそんな些細な理由だった。


 その日、彼は徹夜明けのテンションをそのままに、会社の屋上まで駆け上がった。

 当然、残業代などはついていない。ただ働きで、もう三日会社に泊まり込んでいる。

 目は充血し、剃っていない髭は触ればたわしのように肌を引っ掻いた。


 駆け上がる足下は当然ふらつき、視界はやけに黄色かった。

 屋上に通じるドアに鍵は掛かっていない。そこは社員達の喫煙スペースとなっており、社員であれば自由に入ることが出来た。それは、日付けが変わるほどの長い時間の残業の後、朝日が昇った時間であっても変わらなかった。



 ドアを押し開けるように強引に開く。ビル街の窓ガラスに反射してキラキラと光る朝日が、皮肉にもとても綺麗に見える。

 躊躇せず、彼は金属の柵に歩み寄り、その荒れた手をかけてよじ登った。身長ほどの柵である。日頃運動不足で、最近お腹が出てきた気がするのが悩みであった彼には少し難儀な作業であったが、それでも彼はやめなかった。夜露に濡れた柵に触れ、スーツのズボンが濡れる。柵の錆に引っかかり、服に傷が出来たがそんなことはもう気にしなかった。



 遺言など、ない。


 衝動的なものだ。靴を揃えて置いておくのが作法と聞いた気がするが、そんなことすら彼はしなかった。

 朝の眩しい日差しに包まれ、キラキラと輝く景色。ビルの縁に立ち、彼は一瞬だけその風景を楽しんだ。

 そしてそこにフラフラと誘われるように一歩踏み出し、そして彼は死んだ。






 初めは、何事かと思った。

 生きているのだ。今まさに死んだはずの自分が。頭部に衝撃を受け、チラリと赤い色を見た自分が、今またあの綺麗な風景を眺めているのだ。

 これは死の間際の夢だろうか。いや、それにしてはこの風景は、この頬を切る風の感触は、まさしく。


 そう悩んでいる間に、また彼は死んだ。

 同じようにビルの縁を蹴り、地面に向かって飛び込んだ。


 衝撃。それを感じた次の瞬間、またビルの上に立っていた。

 どういうことだろうか。彼は考える。

 また縁を蹴る。そして、逃れられぬ落下。時間にして三秒に満たない、ヒュー、ストンという落下。

 そして落ちた次の瞬間、また彼は立っていた。




 それから彼は、その自殺を何度繰り返しただろうか。

 終わらない。死んでも終わらない。

 朝日に照らされながら、何千回死んだだろうか。


 繰り返される三秒間。合わせて数時間に及ぶ思考の末、彼は一つの結論に到る。


 以前、聞いたことがある。

 自殺者は、死して幽霊となってもそれを繰り返し続けると。自分が死んだのも気付かないまま、自殺を決行し続けると。

 テレビの胡散臭い霊能者がそう話していたのを聞いたことがある。

 なるほど、その時は信じる信じない以前にまったく気にも留めなかったが、自分が当事者になって、その真実に気付く。

 あの霊能力者は本物だったのか。いや、たまたま当たっていたという事も考えられる。


 二十回分ほど彼は考え、そして自嘲した。そんなこと、今更真実だと知ったとしてもどうにもならないのだ。

 自分は今死に続けている。それをどうにも出来ない以上、あの霊能力者が本物であろうがなかろうがどうでもいいことだ。



 そう、どうでもいいのだ。

 死に続けている、だからどうした。

 もうここにいる以上、仕事はやってこない。鳴り響く電話に出なくとも良い。下げたくない頭を下げなくとも良い。朝眠い目を擦りながら、何の役にも立たない挨拶を交わし合うことなど、しなくてもいいのだ。


 今自分の身体は死に続けているが、心はもうとうに仕事に殺されていた。

 仕事に忙殺される、とはよく言ったものだ。心を亡き者にされ、殺される。それは残酷なことであり、今身体が殺され続けることで、心は救われているのだ。



 落ちていく僅かな時間に、身を捻れば遠くまで見える。

 透き通った空気、どこからか、キーンという綺麗な音が聞こえてくる。

 他界したというが、これが他界か。もうこの景色は自分とは関わりが無いのだ。もはや煩わしいことのない元の世界は、彼にとってとても美しいものだった。





 彼は、その自殺を楽しんだ。

 何千回だろうか、何万回だろうか。数えきれぬほど、死んだ。そしてその度に、もはや自分とは関わりの無い世界を眺めて溜め息を吐こうとした。時間が無くて、溜め息を吐くことはついぞ出来なかったが。



 そう繰り返している彼の視界のなかで、一つの部屋が目に留まった。

 小さく横に細長い窓。落ちていく時に一瞬だけ通る窓の一つであったが、首を動かす向きによっては中を少しの間眺めることが出来た。

 そこに一人の女性がいたのだ。

 長い黒髪に白い肌。この時間にいるということは、自分と同じく徹夜組だろう。その目には隈が出来ている気がする。

 彼女は外を見ていた。充血した目でこちらを見ていて、たまに目が合うこともあった。



 その部屋が何か、彼は記憶を探り、そして思い出した。

 たしか、資料室だったはずだ。

 資料係というその部署は沢山の本棚に埃が積もり、薄暗く不衛生な部屋だったと思う。

 配管が剥き出しの天井に、コンクリート打ちっ放しの壁。

 資料を傷めないように、照明は最小限の蛍光灯のみ。明かり取りの窓はある。だが資料が日光に晒されないように、天井近くの上の方に一つか二つあるだけだった。


 仕事は資料の整理のみ。

 といっても、資料の電子化まで進む昨今、紙の資料など価値はない。

 その資料室の価値はただ一つ。


 追い出し部屋だ。


 たしか、そこで外を眺めている彼女も、最近資料係に飛ばされた新人だった。

 上司からのセクハラに耐えかね、部長に告発、余罪が発覚し大問題になったのを覚えている。

 彼女自身に罪があったわけではない。

 ただ、扱いづらかったのだろう。ただそれだけで、彼女は自主退職を促され、あの部屋へ配属されたのだ。




 壁の配管にぶつかり、彼の身体が跳ねる。そしてその勢いのまま、アスファルトに滑るように着地した。

 結果は変わらない。地面を赤く染めながら彼は死んだ。

 落下中に身体を動かせば、軌道が変わるのはままあることだ。もう何度か起きてることなので、彼は気に留めなかった。





 それからも彼は死に続ける。

 ただ、変わったこともある。もはや覚えていないあるループから、彼の見る対象に資料室の彼女が加わったのだ。

 死ぬ最中、景色を見て、たまに彼女を見る。それを繰り返し、やがてはその順位が逆転していった。


 彼女を見て、たまに景色を見る。

 そうした繰り返しのうちに、彼の胸中に一つの願望がわき出てきた。


 彼女と、話したい。



 死に続ける時間は、皮肉なことに彼の心を癒やしつつあった。

 そして、徹夜明けの同じ境遇の彼女に親近感が湧くのは当然のことだろう。

 会って話がしたい。意気投合が出来るかもしれない。愚痴を言い合ってもいい。きっと彼女も辛いことがあるだろう、今の自分なら、きっとわかってあげられる。


 独りよがりの思考ではあるが、その思考に満たされ、やがて彼の心は完全に生き返った。


 死ぬのをやめよう。


 そう思った。

 何の根拠も無しに言っているのでは無い。

 彼は気付きつつあったのだ。

 軌道が変わる。首の角度で景色が変わる。つまり、意識がある三秒間は、自分の意識で動けるのだ。

 そして、毎回必ず行うことがある。

 地面を蹴るのだ。ビルの縁から一歩踏み出し、下へと落ちていく。


 これをねじ曲げるだけで良い。

 彼の胆は決まった。





 意識が途切れた。次の瞬間、死ぬ直前まで戻る。

 今だ。彼は必死で身体をよじる。

 ビルから落ちるのは変わらない。だが、自分の腕がビルの縁より下になるまで一瞬の猶予はある。


 一度目は失敗した。

 ビルの縁に掛けようと出した手の爪が剥がれ、なすすべ無く地面へと落ちていく。

 いつもの頭とは違う、背中への衝撃が新鮮だった。


 二度目は惜しかった。

 両手の指が一瞬かかるも、指先だけで自重を支えられるはずもなく。運動不足の彼は落ちていった。

 だが、その顔は確信の笑みが浮かんでいた。


 三度目の正直とは不思議なものだ。

 今度は掌、そして上腕が縁に引っかかる。今までで最良だ。彼は渾身の力を込め、自らの身体を引き上げる。

 縁に引っかかり、スーツのボタンが飛んだ。腕の部分が砂埃で真っ白になる。

 あがくように、宙を掻く手が偶然にも柵に引っかかる。

「……ふう……っい!」

 何度かつま先でビルの縁を撫でるように探り、そして、ついに彼は上り詰めた。


 彼の時間にして何日間か、客観的に見れば三秒間の自殺が、ついに彼の手で阻止されたのだった。




 彼は顔を上げる。

 もうその顔に自殺前の死相はなかった。不健康そうな顔に、薄汚れたスーツ。およそ正常な社会人には見えぬ彼は、今立ち上がったのだ。


 そして、彼女の元へと歩き出す。

 いきなり話しかけておかしな人だと思われないだろうか。それとも案外喜んでくれるかもしれない。葛藤が彼の胸中に吹き荒れる。

 だが、一度ならず何度でも死んだ彼だ。

 そんなことは気にもしない。


 彼女への感情が恋かどうか、それは誰にもわからない。

 ただ一つわかるのは、彼は今生き返っていたのだ。

 心も体も、今彼は生きている。

 死んで堪るか。

 めまいも倦怠感も気にはしない。颯爽と歩く。その歩みは、生気に満ちていた。






 かくして、力強く扉が開かれる。

 屋上から降りる階段。老朽化し、滑り止めが傷んでいるその階段で。


 彼は足を滑らせ、頭を打って死亡した。





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