二話
「やあ、陽太くん。今晩は」
今の精神状況でできる最高の微笑みを浮かべたのに、扉を開けて入ってきた金茶の青年は物凄く嫌そうな顔をして踵を返そうとした。
10歳の時パーティーで見せた完璧なアルカイックスマイルはどこへ行ったんだ。
「愛すべき幼馴染みから逃げるなんて、よろしくないんじゃないかな」
まあ、予想の範囲内なのでがっしりと肩を掴んで引き留めさせてもらったけれど。
「緋佐奈ちゃんが僕に用事なんて、面倒事の臭いしかしないじゃないか」
「……心外だ……私は友の頼みを面倒だとか、迷惑だとか考えたこともなかったのに。例え君が私の親友に懸想しているにも拘わらず、全く興味を持たれていないどころか最悪の好感度でむせび泣いていたこととか……。そこから結婚を前提としたお付き合いまで発展させる協力を10年に渡りしてきたのにな」
大袈裟にため息をつけば、陽太はぐっとつまる。
それもそうだろう。
私の親友は、朝里はとても可愛い。そして、その二人の恋のキューピッドを少女漫画片手にやり遂げたのは私だからな。
もう少女漫画に足を向けて寝れない……あれこそが私のバイブルと言っていい。
「……はあ、嫌な予感しかしないけれど聞いておくよ。そして婚約者が帰ってくる前に早く出ていってね」
色素が薄く、日本ではそれなりに珍しい金茶の髪を煩わしそうにかき混ぜて呟く。
それはそうと、ドアを僅かに開けておくのはなんでだ。
椅子を移動させてまで、私がドアのすぐそばに座らせるのはなんでだ。
……前世の未婚の淑女の部屋に親公認の親しい男性が来たときみたいな対応なんだが。密室は避けて、男性は扉の隙間を覗いた時に必ず見える位置に立って潔白を示す慣例だったな……あれ、私が男か。
「この扱いには大変不満を覚えるが仕方あるまい……早速本題だが、落ち着いて聞け」
陽太の彼女である我が親友には大変受けの悪かった広い部屋の中央にあるソファーに深く腰掛けてから彼は頷いた。
「いや、実はだな……今しがた君の夕太に婚約破棄を宣言して来たんーー」
全部を言い切らないうちに盛大に転ける音がした。
……深く腰掛けてたのに、何故転べる。
恐らくは驚きのあまり立ち上がろうとした足がローテーブルに引っ掛かったんだろうが、なんとも無様である。
脛を涙目で押さえながら蹲っていても美形は美しいのだからお得なことだ。
10年前にパーティー会場でこの双子の兄と会った時はこんなキャラをしているとは思わなかった。弟のミスを手早くカバーする余裕綽々な王子様調だったのが今やこの有り様とは。
弟の夕太の方はまさに見た目通りという感じで、最低限しか話さない寡黙かつ無表情無感動な青年に育ってしまったというのに。
その変貌ぶりを少しでも分けてくれたならこうはならなかったのに……いや、違うな。
私が間違ったのだ。
前世の記憶を生かすとかどうとか言って、彼の選択肢を奪ってきたのは恐らく私なんだ。
「な、なんで、なんでそんなことを?!」
漸く立ち直ったのか蹲ったままながら、ローテーブルから辛うじて目を出す程度に顔を上げて言う。
「……それはなんというか、恥ずかしながら夕太に嫌われていたことに今更気付いてだな」
気まずくて目を逸らしながら言うと陽太から「なんでだよ!」と悲鳴のような声が聞こえた。
「はあ、そんなこと言って陽太はわかってたんじゃないのか?双子でたった二人の兄弟なんだから私より夕太と話す機会も多いだろうしな」
なんで君が泣きそうになるんだ……泣きたいのはこっちなのに。そう思ってじっとりと睨んでやると、何時もの落ち着いたテノールの欠片もない上擦った声で捲し立ててきた。
「知ってるからだよ!だから、その逆はあっても夕太が嫌うなんて有り得ないよ。むしろ、重くて逃げられるなら納得……って、あ、ちょっと待って、もしかして緋佐奈ちゃん夕太の未来日記でも見つけた?!」
いつから君の弟は神様になるためのバトル・ロワイアル を始めたんだ。
「未来日記って……君はアニメや漫画の類いには興味がないと思っていたんだが……まあ、そんな話はどうでもいい。落ち着いてくれ」
それにしてもびっくりだ。この男が間抜けなのは知っていたが、婚約破棄くらいでこうも慌てるとは。
大きな意味を持つと言っても、うちの父は双子の両親より乗り気ではなく「娘に恋人が出来たのならそちらを優先させていただく」と、なんとも高飛車な約束の仕方をしていた。
その上、陽太の恋人である私の親友は父方の従姉でもあるので血縁を結ぶチャンスが潰えるわけでもない。
そんなに慌てる要素など無いように思うのだけど。
「り、了解。けど待って、本腰入れて話す前に朝里を呼ばせて貰うから。あと部屋も応接室ね」
やっと痛みも治まったのか、通常営業に見えなくもない程度に体裁を取り繕った彼は立ち上がった。こうやって普通にしていれば優雅な動作ができるのに、座っている状態から転べる残念仕様なのはいっそ哀れでもある。
「朝里にはこの後話そうと思っていたのに……まあ、いい。一緒に話した方が手間は省けるからな」
陽太には家族と言うことで報告をしたかっただけで、朝里とはもっとじっくり話し合いたかったのに。
まあ、報告すら気まずいだろうから仕方ないか。
朝里は電話越しでもわかるほど動揺しつつ、自宅から真っ直ぐこちらに来ると叫んで電話を切った。
「朝里はあと10分で来るって言ってる。何があったのか聞く前にこういうこと言うのもどうかとは思うんだけど、考え直してみてくれないかな。僕にはどうも弟が君以外といるところが想像出来ないんだけど」
応接室の場所なんてわかりきってるから歩き出した私の背にそんな声がかかってきた。
「それはそうだろうよ。夕太は元から一人でいる方が好きだったのに最後の最後まで付きまとっていたのは私くらいだったからな」
正直、陽太に悪気はないとわかっていても悲しみと怒りがない交ぜになったような不愉快な感情がわき上がってくる。
私もそう思っていた部分もあった。
どうしてなのかわからないけれど、心を閉ざして人との関わりあいを避けようとする夕太。
生まれた時からずっと一緒にいた兄の陽太にさえ笑いかけたことなんてなかったし、私なんか当然、殆ど声もかけられることすらなかった。
それでも、私が傍に居ることを嫌がっているとは思っていなかった。
それこそ空気のような扱いではあったけれど、黙っていれば他の人のように強制的に排除されたりすることはなかったから……ちょっとは特別だと思ってしまっていたのだ。
私が前世だの能面公爵にそっくりだのとはしゃいでいたから気が付かなかっただけで、彼は私を嫌っていたのだ。
それこそ、私という存在を考えるのさえ嫌なほどに。
「陽太、頼むから……頼むから、話すのは後で。一度に全部話すから」
振り返らないままに言うと陽太は何かを言いたそうに息を飲んだものの、黙って付いてきてくれた。
「ヒサちゃん、あのクサレ能面野郎が何かしたの?!」
10分どころか、5分とたたずに扉が勢いよく開いて高めの可愛らしい声が響く。
クサレ能面野郎とは朝里が稀に使う夕太の別称らしい。
それにしても彼女の自宅から直線距離でさえ5分かかると思っていたのに、どんな手妻を使ったんだ?
「朝里……その呼び方は止めなよ。わからないでもないけどさ」
陽太が米神に手をあてながらたしなめた……なぜか肯定的だけど。
「わからないでもないじゃないでしょ!!!意味わかんないあの屑め、ヒサちゃんくらいしかあんなのを相手にしてくれる女の子なんていないのに!」
……いつもはこんなに酷い言い方をしてなかったと思うのだが、なんだ、その……私の婚約者を今まで朝里はそんな目で見ていたのだろうか。
夕太は空気が読めなくてコミュ障というか他者と交流することを心底嫌悪していて自分の感情自体理解できないから全く相手のことを考えることがわからないだけの青年だ。
人間関係を除けば能力やその他には問題ないぞ。
「っていうか、アンタなんかどうでもいいのよ!ヒサちゃん、ヒサちゃん!大丈夫だった?浮気しないのが唯一の取り柄だったのに、脇目でも振ったの?取り敢えず警察は押さえておくから、復讐でもして元気出して!」
自分より動転している人を見ると不思議と落ち着いてくるものだ。ぎゅうぎゅうと抱きついてくる朝里を宥めつつ、発言内容が本気でないことを心底願う。彼女の目が真剣かつ剣呑な光を帯びてるなんて、そんな、有り得ないことである。
「朝里がまず落ち着いてくれ」
怒った猫のようにフーフーと息を荒らげる朝里が落ち着いたところで相空家に務める家政婦の箕田さんがお茶を運んできてくれた。
話はきっと長くなるから丁度いい。
夕飯の時間を過ぎてしまうだろうから、茶菓子が多めに添えられているのも有り難かった。
「で、緋佐奈ちゃん……話してくれるんだよね?」
どう切り出していいかわからずに黙っていた私を促すように、向かいに座った陽太が尋ねた。
「そう、だな……有り体に言えば私は夕太に心底嫌われていたというだけなんだが……私は最初から間違っていたみたいで、何処から話していいかわからないんだ」
視線を定めることが出来なくて窓の外を見たりしつつ言う。陽太は私贔屓の朝里が「そんなことない!」と叫ぼうとするのを止めてくれた。
「どうしても纏まらないから、時系列も滅茶苦茶になると思う。それに、精神異常者の戯言と思ってくれても構わない、幼い頃の夢のような話も入る……それでも聞いてくれる?」
多分、夕太が私を嫌う理由には前世からくる思い込みも多く入っているはずだ。全部は語らないにしても、普通に考えたらおかしいことだらけになるだろう。
「そんなの気にしないよ、ヒサちゃんが話したいように話して……わたし、なるべく黙って聞けるようにするから」
既にいつの間にか出したレースのハンカチを引きちぎりそうになっている朝里が力強く頷いてくれた。ある意味で説得力皆無だけれど、その一生懸命な様子が有り難くて私はこくりと首を縦に振った。
次回、緋佐奈の独白か。
相空 陽太
双子の兄。緋佐奈の幼馴染みかつ、将来の兄だったはず。10歳の時より確実に劣化してると思われる。
金茶の髪に明るい鳶色の目。
夕太の未来日記を知ってしまった唯一の男。
相空 夕太
双子の弟。緋佐奈の婚約者。緋佐奈は能面公爵を思い出させるほど無表情。
黒髪にグレーがかった薄茶の目。
これ以上書くとネタバレになるから紹介が難しい男。
海原 朝里
緋佐奈の親友。ヒサちゃんと呼び、いつもベタつく。夕太が嫌い。
黒髪黒目の美少女。清楚系じゃなくて小悪魔系。
夕太とは犬猿の仲。最初の紹介文に陽太の恋人って出てこない時点で何かを察すべき女。※適当