二.とおりゃんせ
僕が神さんと再会したのは、数ヶ月後、桜の花が咲く季節である。
どこで僕の事を調べたのか、それとも“占い”で知ったのか、ともかく彼女は突如として僕の前に再び現れたのだった。
再会を果たした場所は、僕が通う大学の校門の前。
彼女は真っ赤なスポーツカーに背を持たれ、春らしい桜をあしらった振袖を身に纏い、非常に目立つ出で立ちで僕が構内から出てくるのを随分と長い間待っていたようであった。
講義を終え帰路に就いていた僕は、そんな彼女を遠目に見てすぐに神さんだと理解し、周囲の好奇な視線の中大いに驚いて、彼女にどうしてここに居るのかと近寄ったのである。
だが、それが良くなかったらしい。
再会の挨拶や随分と物騒な“占い”の結果について語る間も無く、衆目を集めながら僕はあれよと彼女の高級スポーツカーに押し込まれ、今ではどこか遠い地、見知らぬ神社に訪問する羽目に陥っていたのだ。
「ほら、いい加減機嫌直せよ。夜店のイカ焼きでも驕ってやんぞ?」
「……いいですよ」
「遠慮すんなって。人間、腹ぁ減ってると気が立つもんだしよ」
「子供じゃ無いんですから、そんなもので誤魔化されません」
「そうか? じゃ、後で筆おろしでもしてやっから、機嫌直してくれよ」
「そっ、それもいいです!」
神さんは人通りのある往来でさらりととんでもないことを言って、困ったように口の端を結んだ。
しかし美しい桜がそうさせるのか、彼女はすぐに元の、綺麗だが少し神妙な顔に戻って再び道を歩き始めたのだった。
神社の境内へと続く道は公園のような場所を横切り、満開の桜が両脇に並び立って、夜桜と屋台と酒宴に溺れる人々がそこら中に居る状況である。
少し時間は下がっていた為か、人混みもまばらとなって松葉杖をつく神さんは歩く分には苦労はしないようで、彼女は鼻歌交じりにひょこひょこと歩を進めていた。
僕はその後をゆっくりと歩きながらも、未だに何故、今日、ここへ連れてこられたのか理解も出来ず仏頂面を晒し続けて居る。
考えようによっては凄い美少女とのデートであるのだが、今の僕にとって重要なのは如何に早く家に帰り着くかどうかと言う事であり、誰もが羨むようなこのシチュエ-ションを楽しむ余裕など持ち合わせてはいなかった。
「神さん」
「あん? なんか食いたい屋台でもあんのか? ばぁちゃん、おごっちゃるぞ? ああ、金魚はやめとけ。すぐに死ぬ。死ななくてもバカみたいにデカくなる」
「いえ、そうじゃなくて。いい加減、教えてくれませんか?」
「あにを?」
「どうして僕をこんな所に連れてきたんです? 明日の講義、午前中だから早めに帰りたいんですけど」
「いいじゃねえか、たまにはこのババァに付き合ってくれよ、若者」
「……時と場合によりますよ」
「そうなのか? いや、悪いな。俺ぁ、こう見えてトモダチってのが少なくてよぅ。なにせ言い寄ってくる男は皆俺の都合に合わせて来るし、言い寄ってこねぇ男は皆良い女に捕まっちまってる。それに回りはみぃんな、手下みたいな爺ぃ婆ぁだかんな、気の使い方が苦手なんだわ」
神さんはそう言ってふり返り、予想外に申し訳なさそうに笑った。
僕はその笑顔を見て、思わず胸を高鳴らせてしまう。
――その瞬間、彼女は思わず足を止め見とれてしまうほど、美しかったのだ。
視界には夜の桜と散り始めた花びらが舞い、屋台と道沿いにぶら下げられた提灯の灯りはほんのりと神さんの白髪に色を添えて、しかしどこか寂しげであった笑顔はきっと、この世でもっとも綺麗なものであったのだろう。
そして、そのような物を見せられて尚自分の不満を貫く程、僕のエゴは強く無い。
「……わかりましたよ。そのかわり、理由位きかせて下さいよ?」
「応。道すがらでいいか?」
「ええ、まあ。あ、晩飯は――」
「勿論、ばぁちゃんのオゴリだ。“仕事”が終わったらな。なに、俺ってば金だけはたんまり持ってんかんな、好きなモン食わせてやんよ」
「ホントですか?! じゃ、焼き肉とかでも」
「応、応。焼き肉な。ステーキだろうが特上カルビだろうが、なんだったら女体盛りだって高いモン食い放題でいいからな」
「……焼き肉屋で女体盛りって、無理あるでしょ、流石に」
「や、違いねぇ。ふふ、しっかしありがたいねぇ」
言いながら可可と笑い、再びひょこひょこと歩き始める神さん。
後からはどのような表情をしているのかは確認できないが、まばらにすれ違う人々が皆が皆、神さんに目を奪われて行く様子から察するにかなり上機嫌であるようだ。
その証拠に、やがて神さんは綺麗な声で鼻歌を口ずさみはじめた。
歌は和装の彼女によく似合う、『とおりゃんせ』である。
童歌は後から見る彼女と周囲の景色に良く馴染み、僕はついその風景に目を奪われ魅入ってしまうのであった。
とぉりゃんせ、とぉりゃんせ、ここはどぉこの細通じゃぁ。
天神、様の細道じゃ。ちっととぉして下しゃんせぇ。
御用のないもの通しゃせぬ。
この子の、七つのお祝いにぃ、お札を、納めに参りますぅ。
行きはよいよい帰りはこわい、こわいながらもとぉりゃんせとぉりゃん、せぇ、と。
何度か繰り返していた歌が、ふと停まる。
同じくひょこひょことした神さんの歩みも止まり、僕もつられて立ち止まってしまった。
何事か、と思うより先に神さんの傍らに、顔に手を当て泣いている小さな男の子を認めて、神さんはその子を見て立ち止まったのだと僕はすぐに理解したのだった。
男の子は五才か六才位で、夜の神社に花見に来た両親とはぐれてしまったのだろうか、とても寂しげに泣いている姿が印象的である。
いや、親を探そうとしてこけたのか、春先にしてはやや薄着の彼はそこら中に擦り傷やあざをこさえて、痛くて泣いているのかもしれない。
周囲を行き交う大人達は皆酔っているのか、それとも時勢柄厄介ごとには関わりたくはないのか、特にこの子には興味を抱かない様子で僕は神さんに先駆けて迷子センターでも探そうかと考え始めていた。
「……坊主、迷ったんか?」
「ひーん、うぐ、ううう」
「ばぁちゃんと来るか? あっちの神社に用があるんだけどよ」
「うう、ぐ、ひぐ、ぐしゅ、うん」
「そうか、坊主はえらいな。ああ、ばぁちゃん足が悪いから、こっちの袖を掴んどけ。な? あああ、小袖で鼻をかむんじゃねぇ! ちょっとまってろ」
神さんはそう言って器用に片足で屈みながら、懐からハンカチを取り出して泣きじゃくる男の顔に宛がった。
間を置いてびー、と鼻をかむ音が二つした後、男の子はひっくひっくとしゃくりながら神さんの袖を摘む。
「よし、偉いぞ坊主。男の子は強くないとな。……よっこら、せ、とぉ」
「その子の親を探してあげるんですか?」
「……探す必要はねぇだろ? 仕事の“ついで”だよ。俺の目的はアッチだしな」
言いながら、屋台が並ぶ道の先を指差す神さん。
その先に見える鳥居は薄暗く、奥は神域である為か屋台も花見客も無く更に暗い。
僕は神さんの探す必要は無い、という言葉に彼女の力を思い出し一人納得して、興味を子供から再び神さんがここへやって来た理由へと移した。
彼女の力をもってすれば、いや、恐らくすでに彼女はこの迷子がどのように両親と再会するのか、それともどこに両親が居るのか“知って”いるのだろうと考えたからである。
「じゃ、行くか」
再び杖をついてひょこひょこと歩き、『とおりゃんせ』を歌い始める神さん。
僕と男の子は彼女の後をゆっくりと追い、神社へと続く道を進む。
鳥居の近くには桜は無く、また周辺は神域であるからか花見客の立ち入りと屋台の出店は制限されているからだろう。
道の両脇に吊された提灯の数は減り、必然辺りは徐々に暗くなっていった。
やがて僕らは神社の鳥居の前にたどりついて、もう一度、足を止めたのである。
辺りからはすっかり人の気配は消え去り、春の闇が鳥居の奥へとどこか不気味に広がって居た。
対照的に喧噪は背後から聞こえ、だからか屋台や花見客達が居る場所から随分と遠く離れてしまったと殊更感じられた。
「さて、と。……なぁ、君。悪いがちょいと頼めるかい?」
それまでの上機嫌な鼻歌が嘘のような、神さんの低い声である。
僕はいよいよ神さんの目的を聞かせて貰えるのかと思うよりも、その雰囲気にぎょっとして思わず言葉を呑むのであった。
多分、初めて神さんの真顔を見たからであろう。
白い顔はぞっとする程綺麗で、しかしどこか人で無いような空気が僕の背に怖気を滑らせるのである。
「俺な、この先の本殿に用があんだ。で、君にはそこから帰る時、俺がこの参道の真ん中を歩いているかを見ていて欲しいんだ」
「真ん中、ですか?」
「そうだ。真ん中だ。後からついてきて、逸れたら教えてくれ。……ああ、理由は今聞くなよ? あとで教えてやっから」
「……わかりました」
「悪ぃな。ああ、そうそう。鳥居をくぐったら、君はここに戻るまでは出来るだけ口をきかねぇようにな。それと、君は真ん中を歩かねえこと。何、すこし真ん中からずれて歩くだけでいいからよ」
そう説明して、神さんは男の子に袖を摘ませたまま鳥居をくぐったのだった。
僕はといえば、説明を後回しにされた上一方的になにやら役目を与えられた事に不快感を覚えながらも、今更という部分もあって言われた通りに黙ってその背を追うことにした。
神さんは来た道と同じく迷子の男の子を連れたまま、しかし先程とは違い綺麗だがどこか不安になる声色で『とおりゃんせ』を歌いながら闇に近い暗がりの中を進んで行く。
歌は何か意味があるのか、それとも連れた男の子に不安を与えぬようあえて歌っているのかは僕には想像もつかない。
逆に想像がつく事と言えば、こんな暗い道にあの迷子の子供を同行させるのはきっと、この“用事”が終わった後両親が見つかるなりして解決するからであろう事だ。
神さんの予知のような“占い”について、今更疑うようなことはしない僕である。
参道は先程までとは違い左右に森が広がってとても暗かったが、神さんの歌声は暗がりに吸い込まれず、不思議と辺りに木霊してすら聞こえた。
僕は彼女の歌を聴きながらも足下すらおぼつかない有様で、前を行く神さんの派手な和服だけがぽっかりと闇に浮かび上がり、歌とその姿を頼りにしてなんとか前へ進み続ける事ができていた。
とぉりゃんせ、とぉりゃんせ、こぉこはどぉこの細通じゃぁ。
天神、様の細道じゃ。ちっととぉして下しゃんせぇ。
御用のないもの通しゃせぬ。
この子の、七つのお祝いにぃ、お札を、納めに参りますぅ。
行きはよいよい帰りはこわい、こわいながらもとぉりゃんせとぉりゃんせぇ。
拝殿までどれ程の距離があるのか僕にはわからなかったが、僕らが目的地にたどり着いたのは、神さんが三度『とおりゃんせ』を歌った後であったとは記憶している。
辺りには照明など無く、辛うじて参道の向こうから差し込む光によって見える拝殿は、背後の闇にそのシルエットだけをぼんやりと現して、厳かな神域の中えも言われぬ威圧感が僕の肩にのしかかった。
しかし神さんは慣れているのかそんな印象は抱いてはいないようで、気負った様子も無く拝殿をぐるりと回り、本殿へと足を運んだのである。
本殿は拝殿に比べ小さな建物であったが、神さんにとってはこちらの方が何か思う所があったらしい。
彼女は本殿に近寄るや何かを躊躇するように一度立ち止まり、やおら懐から何かを取り出して、おずと本殿の閉じられた扉の脇へ置いたのだった。
神さんの様子からあまり本殿に近寄らない方が良いだろうと判断した僕は、その様子をやや遠巻きに眺めながらも暗闇に目をこらし、彼女が何を置いたのか確認した所、それはどうやら『こけし』であることが見て取れた。
――それが彼女のいう“用事”であったらしい。
神さんは踵をかえしてひょこひょこと僕の脇を通り過ぎ、来た道を戻り始めたのだった。
すれ違い様に耳にした彼女の和服の衣擦れの音と、ふわりと鼻についた甘い乙女の匂いは何故か今でも僕の記憶に焼き付いている。
思えばこの瞬間こそ僕は目をこらすべきであって、せめて彼女の表情をよく見ておけばよかったと後に後悔するのであった。
とぉりゃんせ、とぉりゃんせ、こぉこはどぉこの細通じゃぁ。
天神、様の細道じゃ。ちっととぉして下しゃんせぇ。
御用のないもの通しゃせぬ。
行きはよいよい帰りはこわい、こわいながらもとぉりゃんせとぉりゃんせぇ。
再び男の子を連れたまま『とおりゃんせ』を歌いはじめた神さんは、元来た参道の中央を歩き始めた。
僕はその後を歩き、神さんが参道の中心から逸れぬよう注意深く見守り続ける。
神さんの向こうには鳥居が見えて、その向こうの灯りを逆光に黒く在り、まるであの世とこの世の境のようであった。
「右に逸れています」
暗い参道であるが、その鳥居のお陰で神さんが道の中心を歩いているのか、後から見ているとよくわかる。
僕は少し右に逸れていた神さんに短く指摘した。
神さんは僕の声に返事はせず、しかし聞こえてはいるようで『とおりゃんせ』を歌いながらも指示通りに進行方向を修正したのだった。
そのようなやり取りを鳥居をくぐるまで、数度行った後。
再び屋台と夜桜を照らす提灯の灯火が届く神社の入り口に立った僕は、ある事実に気が付いてぎょっとしてしまう。
なんと、前を歩く神さんが連れていた迷子の男の子が“大きく”なっていたのだ。
いや、変わっていたのは身長だけではない。
服装も、顔形も、年齢もすべて変わっていたのである。
確かに五才か六才位だった男の子は、いまや十才位まで成長したように見えて神さんを見上げていた。
僕はそれを見て浦島太郎になったかのような錯覚に陥り、もしやと思いつつも体中をまさぐった。
神域に足を踏み入れた者が、往々にして知らず時間を浪費し老人になってしまう話は珍しくない。
勿論、僕にだってオカルトと現実の区別はついているし、そうは非現実的な事象に遭遇するわけがないと理解もしている。
だが、この時僕が同行していたのは正に非現実の塊である“生き神”で、先程までの雰囲気の異様さは僕の常識などアッサリと履き消していたのだ。
が、この心配は杞憂に終わり、ボロボロになってはいない衣服と皺もシミもない肌は、僕に安堵と疑問をもたらす結果となる。
つまり、“変わった”のはあの男の子だけであるようなのだ。
改めて見る男の子は衣服も年齢も、いや存在その物が誰かと入れ替わったかのように僕には思え、大いに首を傾げさせる。
そんな僕の混乱など神さんは知らぬといった様子で、鳥居をくぐった後も男の子を連れたままひょこひょこと歩き続け、やがて屋台とまばらになった花見客が陣取る桜並木の入り口でやっと立ち止まった。
そしてそこで男の子に向き直った神さんは、男の子と目線を合わせ予想外な台詞を口にするのである。
「――なあ、坊主。おっ父ぅとおっ母ぁは見つかったか?」
「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」
「気にすんな。……たんと、甘えんだぞ」
「うん! じゃあね!」
「もう迷うなよ」
神さんの台詞を最後まで聞かず、男の子はどこかへと駆け出し、そのまままばらになった人混みの中へ消えて行く。
僕は何が何だか理解出来ぬまま、いまだ見送り続ける神さんの隣りに立ち、事情の説明をして貰うべく声を掛けるタイミングを計り続けていた。
しかしその必要は無かったようで、神さんは今は見えなくなった男の子を見送りながらも、ぽつりぽつりと事情を話し始めてくれたのである。
――とても、悲しそうに。
「最初からこの辺りで迷っていたと“知ってた”んだ。そもそも、この仕事はとある両親からの依頼でね」
「迷って、た? あの子、霊とかだったんですか?」
「“生き霊”ってやつだ、“あの子”はな。事故で昏睡状態の息子を助けてくれって、妙な縁から頼まれてな。その子は天神様に“取り上げられる”歳でもねぇし、俺が身代わりのこけしを作って迎えに来たってわけだ。今頃病室で目覚めているさ」
「はぁ……。でも、最初と最後じゃ随分と姿が変わってたんですが。それだけ長い間眠っていたって事ですか?」
「いんや。最初の子は別人だよ」
「へ?」
「あの子は天神様の所から連れ戻した子だ」
「じゃ、じゃあ最初の子は?」
問いに神さんは相変わらず前を向いたまま、きゅっと唇を結んだ。
綺麗な横顔ではあったがたまらなく悲しげで、すぐに僕はあまり良くない内容をこれから聞かされるのだと理解した。
「あの子は偶々ここらで迷ってた他の子さ。“ついで”に天神様の所へ案内してやっただけだ」
「じゃあ、最初の子も生き霊だった?」
「さぁな。もしそうだとしても、今はもう違う」
「な?! どうし、どうしてですか?」
「あの子はダメだ。七つになる前だからな、天神様の所からは戻れねぇよ」
「なんで!」
「あのままほっとくと一生浮かばれねぇんだよ馬鹿。それに俺につっかかるのは筋違いだぜ?」
「あ……すいません、そういうつもりじゃ、なかったんですがつい……」
「……なぁ。あの子の体、みたか?」
「はい」
僅かな沈黙。
つい声を荒げてしまった僕には、気まずさがそうさせるのか、その無言が何より重苦しい。
続くであろう説明は、間違いなく彼女を今以上に不快にさせる事は容易に想像が付いていたからだ。
「……俺も左目で見ちまったんだけどよ。あの子なあ、親の虐待が原因でここらで“迷って”いたらしい。体中、あざと傷こさえてよぅ。身に過ぎた大金こさえて救ってくれっつぅ親もいりゃ、ひでぇ親もいたもんさ」
「どうして……ですか?」
「あん?」
「どうして、七つになる前だと、ダメなんですか?」
「そりゃ君、七つまでは神のうちって言うだろ? 俺達が今通って来たのは、『とおりゃんせ』の歌にある天神様の細道だからな。参道の真ん中の事な? あれは幼子は戻れねぇ道なんだ。俺だって、そこを逸れると無事には戻ってこれねぇ。で、君に後から見て貰ってたってこった」
「……ごめんなさい、意味がわかりません」
「そうか。最近は“違う”んだったな、そういや。クソ、そんな気分じゃねえが、説明はする約束だからなぁ」
神さんはそういって頭を一つ、二つと掻いて、無知な僕でもわかるよう懇切丁寧な説明を始めたのだった。
――七つまでは神のうち、とは近代以前、日本で一般的であった子供に対する死生観である。
当時の医学の発達していない世では、子供という存在は非常に危うく死にやすいものであった。
その為か七つまではこの世の存在として見なさず、不慮の死を迎えても天神様に“取りあげられた”と見なし、それどころか飢饉の時なども真っ先に口減らしとしてこれ以下の子供は殺されていた程だ。
だからか、天からの授かり物である幼子の死は天の神への返還と見なされ、口減らしとして殺された子もその後「子消し(こけし)」として天神と共に祀られる地方もあったようだ。
そのような危うい立場である子供達であったが、七つになった時初めて人の世に生まれたと見なされ、社会へと真に受け入れられたのだと神さんは説明してくれた。
「七五三のお参りや『とおりゃんせ』の歌もこれに当たるかな。“この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります”ってな。どれも愛しい我が子を天に取り上げられず済んだってんで、天神様に感謝を捧げる行為なんだぜ?」
「そんな……じゃあ、あの子は……」
「大丈夫だ。天神様はきっと、優しい。今度は良いおっ父ぅとおっ母ぁの元に生まれるさ」
再び、今度は長く重い沈黙。
相変わらず前を向いたままの神さんはとても綺麗で、しかし酷く儚げに見えた。
僕は彼女が“仕事”としてここへやって来ていた事を思い出し、今まで何度もこのような事に立ち会ってきたのかと考え、同情で胸が苦しくなってしまった。
それは神さんにしてみれば安っぽい物であるのかも知れないし、僕自身彼女はそのような物を望まないと短い付き合いながらも理解している。
だからこそ、かける言葉は見つからず、どう声を掛けようかと悩み始めた頃。
「……なぁ、若者。悪いが、飯は今度でいいか?」
「え? ええ、まあ。僕も今はご飯を食べる気にはなれませんし」
「……ありがとよ。ばぁちゃん、今回はちっときつかったからよ。くそ、なんも考えられねぇようになるまで、滅茶苦茶にヤりたい気分だ」
「それ、僕じゃ無理ですよ」
「知ってら」
「代わりといっちゃなんですが、一緒にお酒でも飲みませんか?」
「ばあちゃんと呑んでもつまんねぇぞ? 行きは酔い酔い、帰りは怖いってな、君の童貞を勢い奪っちまうかもなぁ。なんせ俺ぁ、今自棄になっちまってる」
そんな淫らな冗談をいいながら、神さんは初めて僕の方へ振り向いた。
にししと歯を剥き悪戯っぽく笑うその笑顔はいつもの彼女である。
僕はその笑顔に少し安堵して、少々魅力的に思えてきた彼女の冗談を華麗に無視しながらも、前半の台詞を否定して見せたのだった。
「でも、そうでも無いかもしれないですし。何せ、僕はもう二十歳ですから“神のうち”じゃあない。“取りあげられる”心配はないですから」
「明日の講義ってのはどうすんだ」
「そこはほら、“生き神様”の御利益で」
僕の反応は彼女にとって非常に好ましいものであったようだ。
神さんは悪戯っぽい笑顔を一瞬驚いたように変えた後、刹那微笑んで前を向き、じゃあ、呑むか! と言いながらドンと僕の背を叩いたのである。
――僕はその、春の夜に見た刹那の微笑みをきっと一生忘れられないだろう。
屋台にぶら下がる提灯と満開の桜を背景に、白い髪をやや茜に染めて微笑む“生き神”は、文字通り神々しいものであったからだ。
思い返せば、この瞬間に僕と神さんの縁が決定的にな物となっていたのかも知れない。
それはともかく、気を取り直したい僕らは、それから東京に戻りしこたま酒を飲む事にした。
結果、僕は次の日の朝、酷い二日酔いで寝込んでしまい結局は講義には出ることは叶わなかった。
が、後日“運良く”受ける予定であった講義は悉く中止となっていたと知り、僕は苦笑いを浮かべてしまうのである。
神様は案外、優しいのだ。




