夕方のカーテンコール
山のように積み上げられた文献を一つ一つチェックしていく、ルーチンワークがようやく完了する。
一息つきながら、部屋の隅に置かれている巨大なアンティーク時計を眺めてみると、夕方をとっくに越した時を指していた。
「どうにもこうにも、時間は少ないね」
思わずため息がこぼれてしまう。 全くもって、どうでもいい時との時間間隔の差異に苦笑するしかない。
ふわふわ漂う日常は、少しばかり不向きかなと思えた。
俺はペンを顎に当て、時折くるくると回しながら予定が無かったかと思考する。
しばらくしてから、些細な習慣に気が付いた。
「あー…… 今日は出かける日だったか。
あいつ何も言わないんだからなぁ」
週に二回の買い物のことをすっかり忘れていた。
記憶力が減退しているのかな、と苦笑しつつコートを着ようとするも、何かおかしい。
これがどうにも困ったことに、いつも掛けてあるはずの場所に無かった。
部屋右奥の本棚の取っ手にハンガーを引っ掛けていたはずだが、その痕跡すらどこかへ行ってしまったようだ。
「普段掃除なんかしない癖に、こういうときだけきっちりやりやがるよなぁ……」
あごひげを軽く撫でながら、一人ごちる。
それとなく周辺を見回してみても、シルエットは浮かんでこなかった。
これが世の常なのだろうか。 自分が行動したい時に限って邪魔立てするものが現れるというのは。
数々の書類や文献によって埋め尽くされた、知識の物置と化した机の上をよそ目に、
事態を一方的に他者のせいにしてみるが、あまり気分の良いものではない。
だが思考が制御できれば苦労したものではない。 思いついたものは神経を駆け巡り、スピードを上げて回転する。
それが単なる文句だとしても、考えることは尊い事だ!
そんな風に、己に対して言い訳をしているのが妙におかしくて、口の隙間から笑みがこぼれた。
「しかし、こうしていては何も進まんじゃないか」
やはり、居間に持って行ったに違いない。
そう思い込んで、居間に歩を進めるつもりだったが……
「容疑者を呼んだほうが、話が早いかな」
そんなアイディアが頭をよぎった。
言うまでもなく自分が楽をしたかった為だが、非常に合理的ではないか。
部屋が汚かったからとか、そのままにしておくのは良くないとか、どんな小言を言われようとも被害を受けたのはこっちだ。
ならば呼ぶぐらいの手間省きをしたって、誰からも責められるはずもない。
あまりにも無意味な心配だと自分でも分かり切っているが、とにかく正当性を求めたがる性分らしい。
こうやって理由付けをしてから、恐らく犯人であろう人の名を呼んだ。
するとすぐさま、
分かりました、今行きますー という返答が聞こえて、そしてそのうち足音が近づいてきた。
いざとなったらどう追及すればいいのか不安になったので、
とりあえずどんな顔をして迎え入れようか、ドアの前で百面相をして時間を潰してみる。
中途半端なタイミングで入ってこられると困るなぁ とか思いながら、ひたすらに試行錯誤していたのだが
ある重大な事実を思い出してしまった。 そういえば、あいつはノックを――
「何をしているのですか……? マスター」
彼女の瞳に映ったのは、恐ろしく間抜けな主人だっただろう。 確認は、したくないが。
「コートなら、本棚から落ちていたのを見つけたので、寝室のクローゼットに入れておきましたよ」
私の問いに冷静に対処してくれる彼女は優秀である。 あくまで、言葉だけをそのまま捉えた場合において。
しかし、コミュニケーションを取るときには、綺麗な言葉を並べただけでは成り立たないことも多々ある。
態度も相まって効果を発揮するのであり、言動と顔が一致していないと、それはそれは皮肉な結果を招くものだ。
つまりは、先ほどの変顔を思い出してなんだろうが、時折肩を震わせるのが窺えるこの従者はあまりにも、誠実といった態度から逸脱していると言えよう。
形容出来ぬ居心地の悪さを我慢するしかなく、ただただ最高のネタを提供してしまったと頭を抱えた。
そんな後悔に色めき立つ心を抑えきるのに精いっぱいで、もう少しで真向かいに立つ彼女の存在を消し去る所だった。
当人は困惑した表情はおくびにも出さない。 が、それとなく次の句を待っているような感じがする。
何か気の利いたのを言わないと、今後の信頼関係に影響が出かねないと危惧して、
「あ、ありがとう。 それじゃ、それを取ってきて貰えるかな。
買い出しに出かけようかと思ったんだけど、見つからなくて困っていたのでね」
少々つまづきかけたが、十分に落ち着き払った様相だったと思う。
相手には、あまりにも滑稽であったかもしれないが。
そう言うと彼女は、柔和な笑みを浮かべながら、かしこまりましたと優しく返答すると、そのまま部屋から出て行った。
踵を返した時に、彼女の髪がしなやかになびく様はいつ見ても可憐で、ありふれた色合いでしかないけれど。 何よりも特別だった。
手入れにどれだけ苦労しているのか想像に難くない。
時折笑いを堪えるような雰囲気が無ければ、完璧な従者に見えたものを。
彼女の姿が見えなくなると、間抜けを晒した事実に疲弊してしまったのか、
近くの椅子に体重を思いっきり預ける選択があまりにも魅力的で。
格好良く待つ主人…… という像はもはや建造不可能であるのは明白なので、どうしようもなく座って待つことにした。
長年愛用している椅子だけあって、座るたびにギシッと独特の軋む音を上げてしまうが、
修理を何回も重ねた甲斐あって、今まで生き長らえている。
ここに住んでいる間は、使い続けてあげたいものだ。
そんな年季入った椅子に乗り、船を漕ぐようにして身体をゆらゆら揺らしていると、徐々に眠気に襲われていく。
抵抗する理由もないので、まどろむ意識に身を任せてぎーこ、ぎーこと時計の音に合わせるようにしていると、
少し遠くから、パタパタと駆けてくる足音が耳に入る。
「マスター、お待たせいたしました。 準備に時間がかかってしまって申し訳ありません」
さすがに外出するのに、あの服――いわゆるメイド服だが、これといって私の趣味ではなくそういう決まりなのだが――で出掛けるわけにもいかず、着替えをしていたら遅くなったらしい。
カヌーに乗ってどこまでも行かんばかりの気概で、小規模な冒険スペクタクルを椅子の上で思い描いていたから、長い時間待たされた気分ではなかったのだが。
「遅いのは構わないよ。 俺は俺で、有意義な時間を過ごさせてもらったからね」
などと、少しばかり癖のある言い方で惑わそうとしてしまう。
自分でも、どうしてこうも意味のない言い回しをするのだろうと後悔しても、事実の撤回は不可能で。
それに対して彼女は訪ねることもなく、申し訳ありませんともう一度謝罪したのち、私にコートを渡そうとする。
「そこに置いといていい」
「あっ…… そうですね。 ありがとうございます」
彼女は礼を言うが、俺は特に気に掛けることはない。
この不自然なやりとりは、彼女が俺に触れられない事に起因する。
何年も衣食住を共にしているが、理由を尋ねたことは一度しかないし、その時の返答は曖昧で、それ以来聞く機会を失っている。
従者としては不便であるし、その資格さえ疑われても不思議はないほどに、不明確には出来ない部分ではある。
だが、真相を知りたい好奇心よりも、心地の良い関係を終わりにしてしまうのではないか。
そんな恐怖心が勝っているから、パンドラの箱を開けようとは思わない。
猫の手が借りられるのなら、心の隙間を漁ってもらいたいものだが、どうせ真相にたどり着かないまま、無残にも殺されてしまうのが確実だろう。
それに、彼女が口を開かないのであれば、まだその時でない何よりの証。 献身的に尽くしてくれる人の欠点を責めることなど、誰が出来ようか。
「眠いのですか?」
俺が焦点を適当な場所に合わせ、棒のように突っ立っている姿に違和感を覚えたのだろう。
少し不安そうな顔つきで尋ねられたので、なんでもないよと答えようとしたその時。
ふと、頭によぎる言葉。 それをぐっと抑えようとした時、見つめる瞳を捉えてしまった。
そう、目の前に佇む少女は従順だけれど、その思考の縁すら見えない、とても不思議な性格をしている。
喜怒哀楽ははっきりしているはずで、一緒にいて退屈だと思うことはほとんどないぐらいだ。
利口であるし、おどけた態度で人を惑わす事もある。 至って純粋な人。
だけど、真っ白い紙にインクを零してしまったような、そんな不自然な影があるのを知っている。
俺に触れられずに荷物を置き渡す時の表情は、どうしようもなく薄幸の存在を匂わせる。
出かける前の、ためらいがちな顔も見飽きるほど見てきた。
そのたび、不安になるも何の言葉もかけられず困惑する俺を見て、優しく笑う瞳は純粋で。
そんな奴の、しなやかな指に触れたくて。 たおやかな髪を撫でたくて。
どうしても汚せない存在の、漠然とした謎を解き明かすつもりはないけれど。
――ないけれど。
頭を支配した言葉は回転数を増して、自分に制御出来ない欲求へと変貌するのがよく分かる。
次第に、欲求は理性を超え、自我の手の離れた場所へ――
「俺といて、幸せかい?」
机上に置かれたコートを羽織りながら、多分、このように言ったのだろう。
自分が発言したと知ったのは、全てを言い終えてからだった。 何せ短いものだったから、自制しようにも間に合うはずもなく。
そんな突然の質問に、少し下を向いて床の模様を眺めていた彼女の眉がピクリと反応する。
少し考え込むような動作を通した後、ゆるりと顔を上げこちらを一寸の迷いない瞳で見つめた後、
「はい」
とだけ答えてくれた。 その色々な思いが凝縮され紡がれた言葉は、あまりにも直球すぎて。
目を逸らしてはいけないと、頭のどこかが警笛を鳴らしている感覚はあるものの、視線を外さぬように我慢するにも限界があるもので。
結局は、気恥ずかしさにまみれた照れ笑いをするしかなかった。
やがて、照れを隠すように そうか、とだけ返事をして立ち上がろうとするも、
右足に込められた力は見当違いの方向へ分散して、体重の行き場を失った身体は重力にさらわれる。
前にくずおれそうになったが無様に倒れるわけにはいかない。
とっさに近くの机に片腕を押し付けて、バランスを取り戻してから、一つ苦し紛れの笑顔。
「マスター、やはり杖が――」
非常に心配そうな表情で言いかけた言葉を、手で軽く塞いで、首を静かに横に振った。
「いや、いいよ。 今日は自分で歩きたい気分だから」
長い間座っていたからどうにも上手くいかないだけだ、ゆっくりとなら歩きだせる。
そう無理やり判断して、一歩ずつ慎重に足を動かした。
時折ふら付いた時には壁に安定を求めるように手を張り付けて、ようやくドアの前へとたどり着く。
まだ心配そうに俺を見つめる人を、どうにかして安心させたくて。
「俺は自分の足で、道を歩きたいんだ。
何かに頼りきりで、独りで歩くことを忘れたら、きっと手を離された時に倒れてしまうだろうから。 君にとっても、それは不幸だろう?」
拙い説得で、単純に己を鼓舞したかっただけと指摘されても言い返せないこの言葉。 それでも、若干の効果はあったのだろう。
数刻、考えるような仕草をした後に、一つうなづいて温厚な表情に戻った彼女は、はいとだけ答えて、私のすぐ後ろに寄り添う形で着いてきた。
もちろん触れる事は出来ないので、一歩分の距離は空いているけれど、そんな事はどうでもいい。
詰められる距離に埋まるのは、確かな愛情とでも思っておけばよいだろう。
足を上手く扱えない主人と手伝わない従者。 そんな奇妙な関係を二人で笑いながら、私達は書斎から一歩、先に踏み出した。
この珍妙な主従関係が繋ぐのは、幸福なのか、それとも不幸なのか。
全ては、この先待ち受ける必然の闘争が、全ての解答を提示してくれよう。
ただ、それまでにはしばしの時間がある。
だから、この気だるい日常から与えられる幸せを享受しよう。
物語が開幕を告げるその日まで。