前世の恋人だと思っていた王太子は別人でした――それでも逃げられません
――破滅なんて、御免ですわ。
乙女ゲームの悪役令嬢アリスティアに転生したと気づいたその日、私はそう決めた。
断罪、追放、破滅エンド。
どのルートでも、私の未来は最悪だ。
ならば――関わらない。
王太子にも、ヒロインにも、物語にも。
(目立たなければいいのよ)
灰色のドレス。控えめな笑み。伏せた視線。誰の記憶にも残らないように、空気のように振る舞う。壁紙のように。庭の石畳のように。存在しているけれど、見えない何かのように。
それが、私の生存戦略だった。
――そのはずだったのに。
*
「……アリスティア嬢」
名前を呼ばれた瞬間、息が止まった。
秋の回廊。傾いた陽光が石畳の上に細長い影を落として、窓の外では枯れ葉が風に舞っている。バラの香りが微かに漂う、静かな午後だった。
振り返る。
そこにいたのは、王太子ユリウス。
淡い金の髪が光を受けてやわらかく揺れ、琥珀色の瞳が静かにこちらを見つめている。高い鼻梁、薄く結ばれた唇。整いすぎた顔立ちに、どこか温度のない美しさがあった。人形みたいだと思った。けれど人形よりも、ずっと怖い。
視線が、逸らせない。
逸らせないのに――
(……見られてる)
ただ見られているだけなのに、逃げ場を塞がれている気がした。四方を壁に囲まれたみたいに。
「……やっと見つけた」
低く、柔らかな声。
けれど、その言葉は。
――ずっと前から決まっていたことを、ようやく回収しに来たみたいで。
(……おかしい)
私は、隠れていたはずだ。誰にも気づかれないように。選ばれないように。物語の外側で、静かに息をしているだけのはずだった。
なのに。
「少し、話そうか」
気づいた時には、もう距離を詰められていた。柑橘とかすかな木の香りが届く距離。一歩下がる。
――同じ分だけ、彼も近づく。
(……逃げられない)
そう思った瞬間。
「大丈夫」
そっと、囁かれる。優しく。
「怖がらなくていい」
その声は甘くて、ひどく落ち着いていた。まるで私が怖がることも、最初からわかっていたみたいに。
それが、余計に怖かった。
なのに、どうしてか、逆らえなかった。
気づけば、頷いていた。
――そこから、すべてが始まった。
*
避けていたはずなのに。
いつの間にか、隣にいる。
欲しいと思う前に差し出される。寒さを感じる前に温められる。言葉にする前に、すべてを与えられる。
「……甘いものは控えめがいいだろう?」
差し出された菓子は、私の好みにぴたりと合っていた。砂糖を抑えた、ほんのり紅茶の香りがする焼き菓子。こんなことを、頼んだ覚えはない。
(……どうして)
言ったことなんて、一度もない。
「手、冷たいな」
指先を取られる。そのまま、両手で包まれる。逃げようとするより先に、温もりが伝わってくる。厚い毛布に包まれるような体温。
「無理はしなくていい」
低い声が、耳元に落ちる。
(……なんで、こんなに優しいの)
優しすぎて。
――怖いのに、逃げる理由を失いそうになる。
隣に座って、何も言わずに髪に触れる。指先がゆっくりと梳く。乱さない。傷つけない。ただ、確かめるように。
(……知ってる)
この触れ方。前世で。
――あの人にされたのと、同じ。
怖いのに。心臓が、少しだけ落ち着く。それが一番、怖かった。
*
王宮の一室の暖炉の前で、炎がパチと爆ぜる。赤い光がユリウスの横顔を照らして、影が深くなる。美しい。不自然なくらい美しい。
ずっと、胸の底に引っかかっていた。
彼のアリスティアへの触れ方。言葉の選び方。ふとした瞬間の間の取り方。そして――ふたりだけのあのささやかな記憶を、彼が少しも覚えていないこと。
(……この人は)
信じたかったからこそ、目を逸らし続けていた。けれど、積み重なった違和感はもう、どこにも消えてくれない。
何と言われるか怖くて聞きたくなかったけれど、勇気を出した。
「……あなたは」
喉が震える。でも、もう止まれない。
「本当に、蓮ですの?」
しばらく、沈黙が落ちる。
彼が、ゆっくりと笑う。
「……ねえ」
腕を掴まれる。逃げるより、先に。彼の笑顔は消えない。
「僕が誰でも……もう同じだろう?」
「……っ」
ようやく理解した。
優しくされて。先回りされて。満たされて。逃げ道を一つずつ、気づかないうちに塞がれて。
「……僕は、君を離さない」
甘く、囁くように。
「だって、君はもう――僕を選んでる。僕たちは結婚する。誰も反対できないよ。……たとえ君でも」
王太子の権力を振りかざして。
彼は笑う。
「逃げようとしたって無駄だ。君がどこにいたって、僕は捕まえる。そのための力もある。……だから」
耳元で、甘く囁かれる。吐息が耳にかかり、背筋がぞくぞくと震えた。
「――僕を、受け入れてよ」
きつく目を閉じる。
目蓋の奥には、かつての婚約者の顔が映る。
いまでも愛している。
彼だと信じたかった。
――でも。
この腕の中が、一番あたたかいことを、もう知ってしまった。
涙が頬を伝う。嗚咽が漏れる。
「……ひどい人だわ」
怒りでも、嫌悪でもない。
――諦めでも、なかった。
(……逃げたくない)
もう、逃げたくないのだ。
それだけが、答えだった。
そのまま、顔を引き寄せられる。
逃げるより、先に唇が重なった。
優しく――けれど、離れない。息を奪うように、深くなる。逃げようとした指先を、絡め取られる。
――逃がさないまま。
ようやく唇が離れたとき、彼は、すべてを手に入れたように微笑んでいた。
*
これはアリスティアの知らない真実。彼の前世の名前は悠真という。
親友で幼馴染の蓮の隣で、ずっと彼女を見ていた男――それが悠真であり、王太子ユリウスだった。
(僕は、彼女の婚約者じゃない……)
蓮は明るく、人に好かれる男だった。
彼女が彼を選ぶのは、当然だった。
だから悠真は、ただ隣にいた。
夜中の電話が鳴るたびに、出た。
「美咲ってさ、甘いの苦手っぽいんだよな」
「最近、眠れてないみたいで」
「誕生日、何がいいと思う?」
全部、聞いた。
全部、覚えた。
頼まれたからじゃない。
――ただ、覚えてしまっていた。
それでも、選ばれなかった。
告げる前に、すべてが終わった。
事故で、二人を失って――自分も死んだ。
理由なんて、どうでもよかった。
目を覚ました時。
すべては、もう一度始められる場所にあった。
そして彼女――アリスティアを見た瞬間、わかった。
(――ああ……彼女だ)
灰色のドレス。俯いた横顔。
(やっぱり)
名前も、姿も違うのに。
(――やっと、僕のものになる)
今度は、もう、譲らない。




