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前世の恋人だと思っていた王太子は別人でした――それでも逃げられません

掲載日:2026/03/27

 ――破滅なんて、御免ですわ。


 乙女ゲームの悪役令嬢アリスティアに転生したと気づいたその日、私はそう決めた。

 断罪、追放、破滅エンド。

 どのルートでも、私の未来は最悪だ。

 ならば――関わらない。

 王太子にも、ヒロインにも、物語にも。


(目立たなければいいのよ)


 灰色のドレス。控えめな笑み。伏せた視線。誰の記憶にも残らないように、空気のように振る舞う。壁紙のように。庭の石畳のように。存在しているけれど、見えない何かのように。

 それが、私の生存戦略だった。


 ――そのはずだったのに。


   *


「……アリスティア嬢」


 名前を呼ばれた瞬間、息が止まった。

 秋の回廊。傾いた陽光が石畳の上に細長い影を落として、窓の外では枯れ葉が風に舞っている。バラの香りが微かに漂う、静かな午後だった。

 振り返る。

 そこにいたのは、王太子ユリウス。

 淡い金の髪が光を受けてやわらかく揺れ、琥珀色の瞳が静かにこちらを見つめている。高い鼻梁、薄く結ばれた唇。整いすぎた顔立ちに、どこか温度のない美しさがあった。人形みたいだと思った。けれど人形よりも、ずっと怖い。

 視線が、逸らせない。

 逸らせないのに――


(……見られてる)


 ただ見られているだけなのに、逃げ場を塞がれている気がした。四方を壁に囲まれたみたいに。


「……やっと見つけた」


 低く、柔らかな声。

 けれど、その言葉は。


 ――ずっと前から決まっていたことを、ようやく回収しに来たみたいで。


(……おかしい)


 私は、隠れていたはずだ。誰にも気づかれないように。選ばれないように。物語の外側で、静かに息をしているだけのはずだった。

 なのに。


「少し、話そうか」


 気づいた時には、もう距離を詰められていた。柑橘とかすかな木の香りが届く距離。一歩下がる。


 ――同じ分だけ、彼も近づく。


(……逃げられない)


 そう思った瞬間。


「大丈夫」


 そっと、囁かれる。優しく。


「怖がらなくていい」


 その声は甘くて、ひどく落ち着いていた。まるで私が怖がることも、最初からわかっていたみたいに。

 それが、余計に怖かった。

 なのに、どうしてか、逆らえなかった。

 気づけば、頷いていた。


 ――そこから、すべてが始まった。


   *


 避けていたはずなのに。

 いつの間にか、隣にいる。

 欲しいと思う前に差し出される。寒さを感じる前に温められる。言葉にする前に、すべてを与えられる。


「……甘いものは控えめがいいだろう?」


 差し出された菓子は、私の好みにぴたりと合っていた。砂糖を抑えた、ほんのり紅茶の香りがする焼き菓子。こんなことを、頼んだ覚えはない。


(……どうして)


 言ったことなんて、一度もない。


「手、冷たいな」


 指先を取られる。そのまま、両手で包まれる。逃げようとするより先に、温もりが伝わってくる。厚い毛布に包まれるような体温。


「無理はしなくていい」


 低い声が、耳元に落ちる。


(……なんで、こんなに優しいの)


 優しすぎて。


 ――怖いのに、逃げる理由を失いそうになる。


 隣に座って、何も言わずに髪に触れる。指先がゆっくりと梳く。乱さない。傷つけない。ただ、確かめるように。


(……知ってる)


 この触れ方。前世で。


 ――あの人にされたのと、同じ。


 怖いのに。心臓が、少しだけ落ち着く。それが一番、怖かった。


   *


 王宮の一室の暖炉の前で、炎がパチと爆ぜる。赤い光がユリウスの横顔を照らして、影が深くなる。美しい。不自然なくらい美しい。

 ずっと、胸の底に引っかかっていた。

 彼のアリスティアへの触れ方。言葉の選び方。ふとした瞬間の間の取り方。そして――ふたりだけのあのささやかな記憶を、彼が少しも覚えていないこと。


(……この人は)


 信じたかったからこそ、目を逸らし続けていた。けれど、積み重なった違和感はもう、どこにも消えてくれない。

 何と言われるか怖くて聞きたくなかったけれど、勇気を出した。


「……あなたは」


 喉が震える。でも、もう止まれない。


「本当に、蓮ですの?」


 しばらく、沈黙が落ちる。

 彼が、ゆっくりと笑う。


「……ねえ」


 腕を掴まれる。逃げるより、先に。彼の笑顔は消えない。


「僕が誰でも……もう同じだろう?」


「……っ」


 ようやく理解した。

 優しくされて。先回りされて。満たされて。逃げ道を一つずつ、気づかないうちに塞がれて。


「……僕は、君を離さない」


 甘く、囁くように。


「だって、君はもう――僕を選んでる。僕たちは結婚する。誰も反対できないよ。……たとえ君でも」


 王太子の権力を振りかざして。

 彼は笑う。


「逃げようとしたって無駄だ。君がどこにいたって、僕は捕まえる。そのための力もある。……だから」


 耳元で、甘く囁かれる。吐息が耳にかかり、背筋がぞくぞくと震えた。


「――僕を、受け入れてよ」


 きつく目を閉じる。

 目蓋の奥には、かつての婚約者の顔が映る。

 いまでも愛している。

 彼だと信じたかった。


 ――でも。


 この腕の中が、一番あたたかいことを、もう知ってしまった。

 涙が頬を伝う。嗚咽が漏れる。


「……ひどい人だわ」


 怒りでも、嫌悪でもない。


 ――諦めでも、なかった。


(……逃げたくない)


 もう、逃げたくないのだ。

 それだけが、答えだった。

 そのまま、顔を引き寄せられる。

 逃げるより、先に唇が重なった。

 優しく――けれど、離れない。息を奪うように、深くなる。逃げようとした指先を、絡め取られる。


 ――逃がさないまま。


 ようやく唇が離れたとき、彼は、すべてを手に入れたように微笑んでいた。


   *


 これはアリスティアの知らない真実。彼の前世の名前は悠真という。

 親友で幼馴染の蓮の隣で、ずっと彼女を見ていた男――それが悠真であり、王太子ユリウスだった。

 

(僕は、彼女の婚約者じゃない……)

 

 蓮は明るく、人に好かれる男だった。

 彼女が彼を選ぶのは、当然だった。

 だから悠真は、ただ隣にいた。

 夜中の電話が鳴るたびに、出た。

 

「美咲ってさ、甘いの苦手っぽいんだよな」

「最近、眠れてないみたいで」

「誕生日、何がいいと思う?」

 

 全部、聞いた。

 全部、覚えた。

 頼まれたからじゃない。

 

 ――ただ、覚えてしまっていた。

 

 それでも、選ばれなかった。

 告げる前に、すべてが終わった。

 事故で、二人を失って――自分も死んだ。

 理由なんて、どうでもよかった。

 目を覚ました時。

 すべては、もう一度始められる場所にあった。

 そして彼女――アリスティアを見た瞬間、わかった。

 

(――ああ……彼女だ)

 

 灰色のドレス。俯いた横顔。

 

(やっぱり)

 

 名前も、姿も違うのに。

 

(――やっと、僕のものになる)

 

 今度は、もう、譲らない。

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