1-6、屋敷
灰夏の用意した人力車に揺られて、銀華はさめざめと涙を流した。春の日差しが心地よく、ふたりを照らし出している。
一時間ほど人力車に揺られて、ついたのはきらびやかな屋敷だった。
灰夏にあてがわれた屋敷に入り、灰夏と銀華の人力車がそっと地面に降ろされる。
銀華は、ゆっくりと踏みしめるように地面に降り立ち、その荘厳な屋敷に向かって一礼した。
「礼などするな。今日からここが、ソナタの家だ」
「しかし、同じ屋敷に住むのですか?」
銀華が連れられた屋敷は、何棟もの家屋で成り立っており、銀華はあたりを見渡してため息をついた。
「広い……」
「だが、人はほとんど住んでいないがな」
「……?」
銀華にはその言葉の意味が分からなかった。灰夏がふうと息を吐き出す。
「ソナタの離れは、新しく作る」
その言葉に安堵するも、先ほどの言葉が気になって仕方がない。首を右に傾ける。
「人がいない、とはどういうことなのですか?」
「本来なら、侍女や下男が配属されるが。俺の元で働きたがるものはいない」
「すみません……言いたくないことまで言わせてしまい……」
「いい。銀華、オマエがいれば」
ふたりは豪華な門扉をくぐった。大きな門扉には、しかし門番がふたり、立っている。先ほど、灰夏は人はほとんどいないと言ったのに。
そのうえ、門扉の先にひとりの女性が出迎えた。
「お帰りなさいませ。灰夏さま。そして」
「あ。あ、銀華です」
「伺っております。わたくしは、侍女頭の真美子と申します」
銀華が灰夏を見ると、灰夏が柔らかに笑っていた。
灰夏が笑うところを、銀華は初めて見たかもしれない。銀華は驚き、笑い返すことができなかった。
銀華の反応を見て、灰夏がまた、笑った。
「ひとりもいないとは言っていない」
「早く教えてください」
「すまない。少しからかいたくなった」
扉を抜けて中に入ると、灰夏から聞いているより、ずいぶんと賑やかなようだった。
下男が三人、侍女が十人はいるだろうか。
みな、屋敷内を掃除していたり、料理を作っていたりと、楽しそうに仕事にいそしんでいる。
調度品を見ても、この屋敷が特別なことが分かる。
宝石の置物は、神の証だ。その置物は、金神の生み出した宝石でできている。両手で抱えるくらいの大きさだった。
西洋の机も椅子も、彫りが施されており、金の屏風が壁際に配置されている。屏風には上質の紙で、梅をかたどって切り取られた飾りが貼り付けてあった。
「お帰りなさいませ、灰夏さま」
「ああ。これは俺の神嫁ゆえに。早急に着物を誂え、風呂に通せ」
「はっ」
先頭を取ったの真美子である。真美子はだいぶ歳のいった女性で、ほんわりした雰囲気がある。
老齢ながら、この屋敷を取り締まる侍女の中でも最も地位の高い女性である。
きれいに髪を結い上げて、簪は一本、銀色のものを挿している。上品な顔立ちで、銀華は親しみを覚えた。
真美子の案内で、銀華は風呂に通される。風呂は屋敷の隣の離れにあり、歩く間、真美子が嬉しそうに銀華を見ていた。
「灰夏さまは、神々の間であのような扱いゆえに。女性を見初めることなどないと思っておりました」
よもや、偽りの神嫁とは言い出せなかった。
しかし、あの家から出るためには、この道が最善なのも確かだった。
銀華は真美子に本当のことを言い出せず、「はい」「さようですか」としか答えなかった。それが余計に好印象だったらしく、真美子はにこやかに銀華の名前を何度も呼んだ。
しばらく歩いて、銀華と真美子は風呂に到着する。
「では、ごゆるりと」
「あ、あの」
「なんでしょう」
「着替え……持ってなくて」
真美子がさがろうとするのを呼び止める。真美子が立ち止まり、銀華にこうべを垂れる。
頭のてっぺんまで美しい。所作の一つ一つに品があって、どうやったらこんな女性になれるのだろうと銀華は思った。銀華の言葉に、真美子がクスリと笑った。
「ご心配なく。浴衣を用意しております。衣を着付けるのは、侍女たちの仕事です。本日はわたくしが着付けますよ」
「でも」
「ささ、疲れを流してくださいませ。本来ならば、お身体を洗うのも侍女の勤めですが、本日は灰夏さまたっての希望で、銀華さまおひとりになれるように計らっております」
花真美子に言われ、銀華は観念したように衣を脱いだ。あたたかな湯気が、こちらまでにおってくる。花びらを浮かべたそのお湯は、香りもよく、温度もちょうどいいに違いない。
ヒノキの大きな浴槽と洗い場。ヒノキには確か過剰免疫反応が起きる人もいるのだと聞いたことがある。
幸いにして、銀華は体だけは丈夫である。ヒノキの香りを楽しみながら、銀華は浴場の湯を肩からかぶった。
「温かい」
泣きたくなるのをこらえる。実家にいたころは、湯浴みなんて許さず、川の傍で水をかぶって体を洗っていた。
しかも夜に限られるのは、銀華の髪の毛が白銀だと誰にもばれないようにするためである。
川の水で体と頭を洗ったら、持ってきた煮詰めた海藻や薬品を混ぜたもので髪の毛を黒に染め直す。髪を頻繁に染め直すのは大変だから、水浴びは七日に一度がせいぜいだった。
銀華は昔を思い出しながら体を洗う。西洋から伝わった石鹸で体を洗うと、とてもすがすがしいにおいがした。銀華は外の気配を探る。真美子は傍にはいないようだ。
しかし、髪の毛だけは湯に浸からないように、簪できれいにまとめ上げてから広い湯船に体を沈めた。実家に行ったときに持ち出せたらよかったのだが、今は髪を染める海藻や薬品がない。
「気持ちいい……」
井戸での水浴びは、ものの数刻で終わらせなければならないため、気が抜けなかった。もちろん湯船なんて入れない。
フッと伸びをして、銀華は天井を仰いだ。水の質もかなり良く、体にしみわたるようだった。銀華は、湯を手のひらに掬い取った。
「いい水だわ」
「銀華さま」
「わ。はい!」
「お夕飯に、召し上がりたいものはありますか?」
「え、っと。特には!」
広い浴室に銀華の声がよく響く。銀華の答えに、真美子はまた笑いを漏らして、更衣室を出ていった。
風呂から上がり、銀華は下着を身につける。用意された浴衣は、銀華だけでも着られそうだったが、折よく真美子が現れて、あれよあれよと着つけられた。
銀華は自分で着ると言ったのだが、真美子が、「これくらいはさせてください」と譲らなかった。銀華は人形のように、されれるがままだった。
「ありがとうございます」
「お礼など! アナタさまは特別なのです」
「私が?」
「はい。灰夏さまだって……この屋敷の下男・侍女は、灰夏さまを尊敬しております」
屋敷に向かいながら、真美子が懐かしそうに目を細めた。それはまるで、母親ともとれる表情で、それだけで銀華は、この真美子が灰夏を大事に思っていることがうかがい知れた。
「灰夏さまは、虫すら殺生を嫌う方で。弟の土夏さまと比べられがちですが、わたくしは灰夏さまこそが後継に相応しいと思っております」
「灰夏さまって、優しい方なんですね」
さらに聞けば、灰夏のこの屋敷にいる下男や侍女たちは、土夏の屋敷に比べたら半分以下なのだそうだ。
灰夏のやり方を好かない人間が大多数で、つまり灰夏は異端らしい。たしかに、次期当主候補にしては優しすぎる。自分を殺そうとする弟の次期当主候補と和解したいだなんて。
「そして、下男・侍女たちもまた、土の加護があるのですよ」
「えっ、そんな方々にお世話になるわけには……!」
「いえ。次期当主候補の神嫁さまのお世話なんて、名誉なことです!」
真美子が屋敷の扉を開ける。畳張りの部屋には、大きな机が置いてある。銀華は机の脇の椅子に座り、銀華の髪を真美子が触った。
「乾かしてもよろしいでしょうか」
「や、自分で」
風呂に入ったというのに、銀華の髪の毛は濡れていない。洗っていないのだ。
真美子はそれ以上なにも言及しなかった。
銀華の髪の毛は、まだらな黒をしている。真美子に気づかれないかと、銀華はなるべく真美子から離れようとした。それなのに、真美子は銀華の髪の毛を手櫛で梳かし、
「では、髪の毛を結ってもよろしいでしょうか?」
「そ、それなら……」
今、なにも言われないということは、銀華の髪はちゃんと黒色に見えているということだろう。
それに、なんでもかんでも断ったら、余計に怪しまれる。銀華は真美子に身を任せる。まるで子供にするように、真美子の手つきは優しいものだった。
五歳のころに今の義母に拾われたから、もうほとんど実母の記憶なんてない。そのはずだった。
しかし、灰夏があの家に助けに来た時、銀華は確かに、実母の記憶を、少しだけ思い出せた。
だから、真美子のこの優しい手つきは懐かしく、銀華がホロホロと涙を零す。
「銀華さま?」
「すみません。こんなに優しくされたの、初めてで」
「さようですか」
真美子は笑みを湛える。銀華の髪の毛を、きれいにまとめ上げて、持ってきた簪で結い上げる。
「簪は、どちらにしますか?」
木箱にずらりと並んだ簪は、どれも美しい。翡翠、金、銀。
細工も見事で、銀華は、これは自分にはふさわしくないと恐縮する。
しかし、真美子が譲らないため、一番控えめな、花の彫りの簪を一本、挿してもらうのだった。
髪を結わえ終えたころ、灰夏が料理を片手に部屋に入ってくる。
瞬間、ふわりとかぐわしいにおいが立ち込めて、銀華は思わず灰夏に目を向けた。
「銀華、くつろげた――」
料理を机に置き、銀華を見た瞬間、灰夏の目の色が変わった。銀華は灰夏と目が合ったことに恐縮し、慌てて顔をそらした。
「泣いたのか!?」
銀華の目が真っ赤に腫れている。
先ほど、真美子に優しくされて泣いたことを、どう説明すればいいだろうか。
銀華が答えあぐねていると、灰夏が真美子を責めるように見た。慌てて銀華が、
「や、あの。違うんです」
「なにがあった!?」
灰夏は銀華を抱き寄せて、結い上げた髪の毛を撫ですいた。
真美子が笑う。普段感情を表に出さない灰夏の意外な一面は、真美子をうれしくさせた。
「灰夏さま、違うのです。真美子さんが優しくしてくれて、嬉しくて」
「本当か? なにか不便はないか? あんな実家でも、出るのは嫌だったのか? それとも俺が――」
おろおろする灰夏を、銀華は笑った。
銀華がやっと笑ってくれたことはうれしいが、灰夏は至って真剣に心配しているため、やや不服そうに口を結んだ。
銀華が本当は、灰夏と結婚などしたくないのではと不安になった灰夏の気持ちなど、銀華は知る由もなかった。
「銀華?」
「いえ。私、あの家から出たこと、なんとも思ってないんです。不思議と」
灰夏さまがいるからかな、と笑うと、灰夏が銀華を抱きしめた。
華奢で、折れそうな体だった。風呂上がりだから体温が高く、少ししとっていて、色気がある。
「良かった」
「灰夏さま、恥ずかしいです」
「慣れてくれ。これでも遠慮しているんだ」
「そう、ですか」
ふたりのやり取りを、真美子が微笑みながら見守っている。
銀華は、自分でも意外なほどに、実家への執着がない。
この灰夏という人間とは出会ったばかりだが、えにしを感じるのは否定できない。
それ以前に、灰夏という人間を、知る必要があるというのに。偽りの、神嫁なのに。それなのに、銀華は灰夏を無碍にできない。きっとそれが、加護の存在なのだろうなと、銀華は思った。




