2-2、珈琲
珈琲が冷めないうちに、お茶菓子と珈琲を盆に乗せて運んでいく。
土神の当主の間に行くのは初めてで、銀華は緊張の面持ちでその間に足を踏み入れた。
灰夏の屋敷とはまた雰囲気が違う、さすが神の住まいだ、配置される禁軍の数も相当であるし、侍女、下男は百を超えるだろうか。
たくさんの役人が見守る中、銀華は震える手で盆を持ち直し、土神の間の扉の前でこうべを垂れた。
「珈琲を……持ってまいりました」
「入れ」
側近が扉を開く。
音もたたないほど手入れの行き届いた扉の先に、当主の姿があった。
その姿を直視できず、銀華は下を向いたまま当主の書斎に足を踏み入れる。
西洋造りの床がぴかぴかで滑りそうだった。
当主が銀華に気づき、一度だけ顔を上げる。銀華は立ち止まり、盆を持ったまま礼をした。
「ああ。……いつもの侍女ではないのだな」
「あ、はい。銀華と申します。今日の珈琲は、私が工夫を凝らして淹れました」
頭を垂れたままに、当主の真ん前まで歩く。
そのまま、側近が盆を受け取って、当主に出される前に、毒見役が珈琲と茶菓子に口をつけた。
銀華が次期当主候補の神嫁だと、当主は気づいていないようだった。
会合でも顔を合わせる暇がなかったし、灰夏とともに当主に挨拶に行く前に、銀華がどうしても当主の病を調べたいと、侍女として潜伏していたことも理由の一つだ。
だが、顔を知らないくらいでちょうどいい。
毒見の女が、生きながらえたことにほっと息を吐きだした。
「問題ございません」
「わかった」
机に向かって、当主は上書を読んでいるようだった。紙をを開きながら、当主がカップを手に取った。
よほど忙しいのだろう、珈琲を飲みながら上書を読んで、しかし、当主の目が珈琲の方をまじまじと見た。
きれいな黒色で、香りはすがすがしい。
苦味はあるのに、甘みが引き立っている。
温度もちょうどいい。豆を変えたのだろうか。
「甘い……これは、いつもの豆か?」
「は、はい。今日の珈琲は、軟らかい水で淹れましたので」
「軟らかい?」
「はい。水には硬さがあるのです。地方によって、硬かったり軟らかかったり。今日は軟らかな水で淹れているので、甘い仕上がりかと」
当主が珈琲に気を取られている間に、銀華は当主の部屋を見渡した。
珈琲を頻繁に飲むのであろう、カップが机のそこかしこに置いてあり、その上、珈琲豆をじかに食べている形跡も見られた。
眠気覚ましに茶葉や珈琲を用いるのは、華族たちの間では流行っているようだった。
当主も、忙しさのあまり睡眠時間を削るために、珈琲を摂りすぎているのは明らかだった。
それでも、量としては、過剰というほどまでは摂っていない。
曲がりなりにも当主には医者がついているのだから、一日にどれくらいまでなら珈琲を摂っていいのか、指示されてはいるのだろう。
しかし、当主の病は、如実にこの珈琲が原因だと物語っている。
「当主さま。一つ伺いたいことがあります」
「なんだ」
「はい……無礼を承知で申し上げます。当主さまは、常用するお薬はありますか?」
当主のあれこれを聞くことなど、いち侍女には許されるはずがない。
あまつさえ、せんじ薬の内容なんて、息子でも知ることはできないだろう。
当主の体調はすなわち神の安泰に直結する。神の安泰はすなわち、国の安寧。
当主はこの国の根幹である。加護を持つ神が死すれば、国は加護を失い没落する。だからこれ以上――水神のように、神を失い、均衡を崩す訳にはいかなかった。
それに、銀華は自分の目的のためにも、今、この当主に死なれては困るのだ。
当主が眉根を寄せて顔を上げた。銀華の顔を見て、ほうと息を吐きだした。
「ソナタ。土神の侍女とは思えぬ顔立ちだな」
髪の毛は黒色だが、肌が抜けるように白く、瞳も色素の薄い白銀だった。
白銀の髪や瞳を有するのは、水の神の特徴だ。
しかし、水神とその一族は十三年前に滅びた。それでも、人間が加護を持ち生まれることが稀にある。土夏の神嫁のように。
だったら、この侍女もまた、水の加護をもち生まれた人間だろう。当主がふと息を吐き出す。
この国にとって、神とその当主はなによりも重要な存在だ。だが、水神はそれを危ぶんだ。つまり、水神は、ほかの神々を殺そうとしたのである。
ゆえに、神は国の総裁に命じ、水神の一族を廃した。処刑したのである。
五つの神々が、互いに作用しあって国を守ってきたことは、この国の誰もが知っている。
だが、だからと言って、他の神々を害そうとした水神を放っておくことはできない。
結果的に、水神が滅んでも、なんとか神々はその均衡を保てていた。
「わたしの薬を知ったところで、オマエはわたしを暗殺でもするつもりか?」
「いえ……見たところ、当主さまは珈琲を多飲していらっしゃいます。豆を直に食べることさえ。そうなると、心配なことがあるのです」
銀華は、当主に首を垂れたままに答えた。
そののち、銀華が顔を上げて当主をまっすぐに見据える。その目に一切の嘘はなく、当主は迷いながらも立ち上がる。
「ソナタは、何者だ」
「当主のお身体を、治しに来ました」
「わたしの? わたしの病の原因が、わかるのか?」
発汗に手足の震え、それに心臓が不規則に脈打つ。医者たちも、この病にあてはないと首をひねるばかりだったというのに。
当主が銀華を見据えている。銀華は、当主に一歩歩み寄り、空になったカップに手をかざした。
銀華の手から、こんこんと水があふれ出し、カップ一杯に満たされる。
「ソナタ……水神の?」
水神の一族は死したはず。ならば、
「水の加護を宿した人間なのです。わたくしの秘密は明かしました。どうか信じて、せんじ薬の内容を教えていただけませんか?」
やはり、加護持ちの人間か。
土神の当主が銀華を見やる。その目に、一切の悪意はなかった。
土の国の当主は、灰夏に似て聡明で優しいとは、聞いたことがある。その当主が、目の色を変えた。
「ソナタ……灰夏の神嫁……?」
銀華がその場に膝をつき、一礼する。
そういえば、と土神の当主は思い出す。
灰夏と土夏が神嫁を決めたあの茶会で、銀華とは顔を合わせていた。
あの日は髪も結わず化粧もしていなかったから、今日の侍女が銀華だと気づくのに時間を要した。
「はい、銀華にございます」
「なぜ侍女の姿をしている?」
「それは、当主さまに内密にお話がございましたゆえに、次期当主候補の神嫁ではなく、侍女としてまいりました」
確かに、次期当主候補の神嫁として銀華が当主に謁見したのなら、あらぬ噂もたてられるだろう。
うん、と当主はうなって、椅子に座り直して銀華に信頼のまなざしを向けた。
「先日、宰相たちに贈られた隣国の紅参(高麗人参)、それから葛根に甘草に桂皮」
「紅参、ですか?」
ぴくり、銀華の表情が変わった。
当主もそれに気づき、しかし、これでなにも有益な情報が出てこないのならば、この次期当主候補の神嫁を生かしては返すまいと当主の視線は鋭い。
銀華が深呼吸する。やはり、この病は珈琲が原因で間違いない。
医者も気づかなかったのは、当主の摂取する珈琲の量が、病的でなく普通量の範囲内だったからだろう。
しかし、何事にも飲み合わせというものが存在する。
「紅参には、滋養強壮の作用がありますが、それはすなわち、血行を良くすること、そして、消化吸収を高めることを意味します」
「それくらい、わたしでも知っているが」
「はい。当主さまの場合、珈琲が毒に転じているのです」
「はっ、なにを言い出すかと思えば、珈琲が毒だと?」
あきれたと言わんばかりに、当主が立ち上がって銀華の真ん前まで歩いた。
その顎をつかんで上を向かせる。銀華のあまりの美しさに、一瞬躊躇する。
吸い込まれそうなほどの、きれいな顔立ち。大きな瞳に、すっと伸びる鼻梁、そして、小さな口には紅がさしてある。どこかの神だと言われても納得してしまうほどの、気品が漂っているようにも見えた。
当主がふるふると首を横に振った。
「当主さま。当主さまはおそらく、珈琲の覚醒作用のある成分に中毒を起こしておられます」
「中毒?」
「はい。ヨウロプの珈琲の成分が、体に吸収されすぎているのです。紅参でその成分の吸収が高まっていらっしゃいます。ゆえに、心の臓が頻繁に脈打ち、珈琲が切れると震えと発汗が起こるのです」
当主が側近に目配せする。
つまり、当主の体調不良を銀華に話したのか、という確認だった。
側近がフルフルと首を振って、しかし、当主にも納得がいかない。
「そのようなことを言って、わたしに取り入るつもりか?」
「はい、さようです」
馬鹿正直に答える銀華に、当主は思わず声をあげて笑った。
肝の据わった。
銀華の話は遠巻きに聞いたことはある。
兄である灰夏の神嫁は、いつも背中を丸めてうつむいていると。
しかしどうだ、今目の前にいる銀華は。誰がどう見たって、見事なまでに次期当主候補の神嫁だ。
「なにかおかしいですか?」
「いや。して、この病を治す方法は?」
「はい。珈琲を飲む回数を控え――欲を言えば珈琲を断ち、紅参は煎じぬようにすれば、よくなるかと。しかし、離脱症状がありますゆえ、相当お辛いかと。解毒作用のある茶を、のちほど医者に頼みます」
実際は、特別な解毒作用のある水を銀華が加護で作り、出す予定だ。
これは、銀華のみが知る、銀華の秘密だ。
水神のひめである銀華には、様々な加護を施した水を作り出すことができる。解毒すら可能な、加護だ。
「かまわん。しかし、ソナタ。それを言うために、今日、わざわざここに来たのか?」
「はい。私には、やることがありますので」
銀華は、当主に礼をして屋敷をあとにする。
その後、十四日ほどして、当主の体調がよくなったとの知らせが銀華のもとへと入る。
これを境に、土神の現当主の新人侍女が姿を消す。あの侍女は当主のお手付きになったとか、殺されたとか、侍女たちの噂話は、一晩で屋敷中を駆け巡った。




