束の間の休息
清がセクション9の解析室に足を踏み入れたのは、夜明けからしばらく経った午前七時過ぎだった。
薄い白光が窓越しに差し込み、散らかった作業台の上に置かれた工具や機材が淡く輝いている。
アジトについて清はすぐにシャワー室へ向かった。昨晩から今までの匂いを落とすためだ。そうして手早くシャワーで血と煙の匂いを洗い流し、新しい服に袖を通し、休む間もなく解析室へ足を運んだ。
解析室に到着すると、中央には背を丸めて作業を続ける男の姿があった。
「……木島」
呼びかけると、木島はゆっくり振り向いた。髪は乱れ、眼鏡の奥の目には薄いクマが刻まれている。
「おう、清か。帰ったのか。……そのリュック、中身を見せろ」
短い挨拶のあと、木島は清の背中からリュックを引き取った。作業台の上に置き、ジッパーを開けると、中の物を一つひとつ慎重に取り出していく。
「輸送記録……これはロシア語か。おっと、この回路片はEMP関係のものだな。……そして、このUSBメモリか」
彼は一つひとつの品を観察するたびに、眉をひそめたり小さく頷いたりしていた。
清は報告を簡潔に済ませると、机の端に腰を下ろす。
「メモ帳もある。“東”って単語が何度も出てきた」
「なるほどな。解析には時間がかかりそうだが、まぁこれだけ揃ってりゃ進展はあるだろう」
木島は証拠を作業台に並べると、顕微鏡の位置を微調整しながら、早くも解析作業に没頭し始めた。
清は時計を見た。時刻はすでに午前七時半を回っている。
そのとき、扉が開いて玲華が入ってきた。
制服姿の清を見て、軽く眉を上げる。
「あなた、今日くらい休んだら?」
「俺の本分は学生だからな」
清は短く答え、部屋を出ようとする。玲華は半分呆れた表情を浮かべながらも、それ以上は引き止めなかった。
清は扉を開けると、外の空気を深く吸い込んだ。
街はすでに朝の光に包まれ、通勤通学の人々で動き始めている。
数時間前までの緊張感と硝煙の匂いが嘘のようだった。
⸻
制服の襟を整えながら、清は校門をくぐった。
周囲では生徒たちが眠そうにあくびをしたり、友人同士で談笑したりしている。
彼らには、自分が昨夜どこで何をしていたのかなど知る由もない。
一限目の授業が始まり、教室にはチョークの擦れる音が響く。
清は教科書を開いたまま、視線を窓の外に投げた。
夜の廃工場。
埃っぽい空気と油の匂い、冷たい鉄骨の感触。
暗闇の中で交わされた言葉、鋭い視線、そして銃声の残響音——。
意識は自然と昨夜の潜入へと引き戻されていた。
視界の端では、黒板に数式が並べられていく。
だが頭の中には、工場内の構造や敵の動き、そしてセルゲイの冷たい灰色の瞳が鮮明に浮かび上がっていた。
⸻
「なあ清、その頬……どうしたんだ?」
休み時間に入ると、隣の席の大地が机越しに話しかけてきた。
清は何事もない顔で返す。
「転んだ」
「はあ? またかよ。この前も同じこと言ってただろ」
大地は半分笑いながらも、視線を外そうとしない。
清はペンを回しながら、あくまで淡々とした口調を保った。
「事実だ」
「……まあいいけどよ。怪我には気をつけろよ」
大地は肩をすくめると、別の話題に切り替えた。
清は軽く相槌を打ちながらも、心の奥では次に待つ展開のことを考えていた。
⸻
授業が再開される直前、机の上のスマートフォンが震えた。
画面を覗くと、玲華からのメッセージが届いている。
《学校終わりに来てほしい。》
清はすぐに「了解」とだけ返すと、スマホを伏せた。
再び授業に集中しようとするが、頭の中はすでに放課後のことで占められている。
⸻
終礼が終わるや否や、清は鞄を肩に掛け、校門を出た。
駅前でバスに乗り、市街地の外れへ。
降り立った先には、表向きは古びた倉庫がある。
鉄製の扉を押し開け、階段を降りていくと、低い機械音とサーバーの稼働音が混ざった空気が肌を包んだ。
木島の作業する金属音が奥から響いてくる。
清は足を止めず、そのまま解析室の扉に手をかけた。
今朝渡した証拠が、どこまで解き明かされているのか——その答えが、この先に待っている。
解析室の奥、複数のモニターが並ぶ壁際で、木島がキーボードを叩く音が響いていた。
清が入ってくると、彼は一瞬だけ手を止め、分厚い眼鏡越しにこちらを見た。
「来たか、清。……まぁ座れ」
机の上には、今朝清が持ち帰った証拠の数々が、分類されて並べられている。
輸送記録のコピー、回路片の分解写真、そしてあのUSBメモリの解析画面。
木島はマウスを動かし、あるファイルを開いた。
映し出されたのは、複数の取引記録と、その末端に繋がる一つの名前。
「“アレクセイ・ドラガノフ”——聞いたことは?」
「……いや」
「この男が裏で糸を引いてる可能性が高い。元は旧ソ連軍情報部。冷戦後は民間軍事企業に転じ、今は複数の武器ルートを握っている。今回の件もおそらくこいつの仕業だろう」
木島の声は淡々としていたが、その眼光は鋭い。
清は画面の名前を何度か頭の中で繰り返す。
ドラガノフ——その響きが、氷のように冷たい感覚を残した。
「それと、セルゲイの件だが……尋問班が手を焼いてる」
「手を焼く?」
「ああ。“清としか話さない”と言ってな。すまないがお前が行ってくれ」
⸻
尋問室は分厚い鉄扉で隔てられ、内部には机と椅子が二つ、中央に並んでいるだけだった。
室内灯の白い光が、机の表面に鋭い影を落としている。
椅子に座っていたセルゲイは、両手をテーブルの上に置き、薄く笑った。
頬の古傷が光を受けて浮かび上がる。
「やっと来たか、若造」
「話を聞きに来た」
「そうだろうな。お前にしか話す気はない」
清は向かいに腰を下ろすと、間合いを測るように視線を交わした。
沈黙が数秒続き、やがてセルゲイが口を開いた。
「昔な……ある村があった。山奥の、小さな集落だ。そこに、俺は任務で向かった」
彼の声は淡々としていたが、どこか遠くを見ているようだった。
「俺たちは命令通り動いた。抵抗勢力の拠点を潰すためにな。だが……そこにいたのは武器を持たない者たちだった。老人や女子供。だが、上からは“殲滅”の指令が出た」
清は瞬きもせず、彼の言葉を聞き続けた。
「俺は従った。だが——あのとき、一人だけ逃げた子供がいた。泣き叫びながら森へ走っていった。小さな背中だった。……あの子がどうなったのか、俺は知らない」
セルゲイは清の表情をじっと観察していた。
清は何も言わず、ただその視線を受け止める。
「……お前の目を見て、思い出したんだ。あのときの、あの子の目をな」
沈黙が落ちる。尋問室の時計の針の音がやけに大きく響いた。
「話はそれだけか」
「いや」
セルゲイの声が低くなる。
「ドラガノフの目的は、この国のインフラを一時的に麻痺させることだ。電力網、通信網、交通システム……全部だ。その混乱の間に、ある“物”を運び出すつもりだ」
「その“物”とは?」
「そこまでは俺も知らん。ただ、輸送はすでに手配済みだ。時間がないぞ、若造」
清はゆっくりと立ち上がった。
セルゲイは笑みを浮かべ、椅子に背を預ける。
「また会えるといいな」
⸻
尋問室を出ると、通路の冷たい空気が肌を刺した。
清は無言のまま解析室へ向かう。中では玲華と木島が待っていた。
「どうだった?」
「ドラガノフの狙いは、この国のインフラを麻痺させることらしい。その間に何かを運び出す……ただ、詳細は不明だ」
木島が腕を組む。
「EMPを使えば都市機能は一時的に止まる。……そこまでして運び出す“物”か。武器か、人間か、あるいは——」
「どちらにせよ時間はない。奴らが動く前に、手がかりをもっと探す必要がある」
清は机の上の地図を広げ、昨夜の廃工場周辺を指でなぞった。
「ドラガノフの輸送ルートは、この湾岸地区に集中してる。監視網を強化すれば——」
そのとき解析室のドアが音を立てて開いた。
入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ女性だった。
鋭い目元と整った輪郭、肩までの黒髪が光を受けて艶めく。
「話は聞いたわ」
低くも明瞭な声。
清も玲華も、自然と背筋を伸ばした。
「これからの行動については私が指揮を執る。……清、あなたは次の任務に参加し、現場指揮をとってもらうわ」
その言葉には、拒否の余地など微塵もなかった。
女性は室内を一瞥し、木島に視線を移す。
「解析は続けて。全情報を三時間以内にまとめて。作戦についてはそれからよ」
「了解だ」
清はその場で呼吸を整えた。
セルゲイの言葉が頭から離れない。
次の一手は、もう始まっている。
⸻
解析室から出た清は、廊下の突き当たりで立ち止まった。
足音が背後から近づき、先ほど現れた黒いスーツの女性——統括官の佐伯香織が声をかけてくる。
「清、少し来なさい」
その声音は命令にも似ていたが、耳に残る響きは柔らかかった。
二人は無言のまま廊下を進み、奥にある小さな作戦指揮室へ入る。
扉が閉まると、外の喧噪は一気に遠のいた。
香織は机の端に軽く腰を下ろし、腕を組んで清を見た。
彼女は30代半ば、長身で引き締まった体つき。黒髪は首筋でまとめられ、視線は鋭いが口元にはいつも微かな笑みが漂っている。
部下からは恐れられつつも、信頼されるタイプのリーダーのような雰囲気だ。
清にとっては、現場のリーダーとして頭を下げる相手であり——同時に、幼い頃から姉のように慕ってきた存在でもあった。
「……久しぶりね、こうして二人で話すのは」
「ええ、任務以外では」
「相変わらず口数が少ないわね」
香織は軽く笑う。
その笑い方は、まだ清が少年だった頃、任務帰りの車中で眠りこけた彼を起こすときと同じだった。
「木島から聞いたわ。廃工場での件も、セルゲイとのやり取りも」
「状況に合わせて動いただけです」
「そういうところが、あなたの長所でもあり、危ういところでもあるのよ」
香織は机から離れ、清の前に歩み寄る。
視線が真正面からぶつかる。
「セルゲイが話した過去の話……何か心当たりは?」
「……ありません」
「嘘をつくとき、あんたは必ず少しだけ間が空くのよ」
清は答えず、視線を逸らした。
香織はそれ以上は追及せず、わずかに息を吐く。
「黒幕——ドラガノフは簡単には尻尾を出さない。けど、今回のEMP計画は単なる威嚇じゃない。もっと大きな“動き”の前段階よ」
「その“動き”に、俺はどう関わるんですか」
「もちろん、現場のリーダーとして動いてもらう。あなたの判断でチームを指揮し、阻止する。それが任務」
香織の声は冷静だが、その奥には深い信頼があった。
「……あんたは昔から、人のために体を張る。それで自分が壊れても構わないと思ってる節があるわ。だけど、現場のリーダーは倒れたら終わり。——だからこそ、今は休みなさい」
「俺にはまだやることが……」
「そうだわ、木島には3時間を与えたわね。あなたにも同じ3時間を与える。これは命令よ」
清は反論しようと口を開きかけたが、香織が一歩近づき、肩に手を置いた。
「学生だからって、昼間も夜も全力疾走じゃ、すぐに潰れるわ。……あんたを潰すつもりは私にはない」
一瞬、清の心がわずかに揺らぐ。
任務以外でこうして真正面から気遣われるのは、いつ以来だろうか。
「……わかりました」
香織は満足げに微笑み、腕を組み直した。
「仮眠室、まだ空いてるはずよ。ここから一番奥。照明は自動で落ちるから、しっかり休んできなさい」
清は小さく頷き、指揮室を後にした。
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仮眠室のドアを開けると、室内は薄暗く静かだった。
簡易ベッドが並び、白いシーツが整然と張られている。
清はブーツを脱ぎ、ベッドに横たわった。
天井のわずかな灯りがじわじわと暗くなる。
瞼の裏には、セルゲイの顔、廃工場の冷気、そして最後に話した香織の声が浮かんでは消えていく。
“証拠は木島や玲華たちが探してくれるはずだ——”
その思いを最後に、意識は静かに深みへ落ちていった。