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帰還

夜明け前の湾岸道路。

舗装の剥げかけたアスファルトを踏みしめるたび、靴底に潮風の湿気が染みつく。

清は呼吸を整えながら、暗い海沿いの防波堤を歩いていた。背中のリュックはずっしりと重い。中身は任務の成果物――だが同時に、予想外の危険の証でもあった。


少し先に停められた黒いセダン。それは行きに清が乗ってきた車だ。

運転席のパワーウィンドウが音を立てて下がり、そこに座る女性が笑みを浮かべる。

「お疲れ、相棒。生きて帰ってきたね」

玲華だ。落ち着いた声色の奥に、心配の痕跡がわずかに混じっている。


清は助手席に乗り込むと、ドアを閉める前に潮の匂いをもう一度吸い込んだ。

「……任務完了。想定外のオマケつきだけどな」

「オマケって?」

「後で話す」

短く返すと、玲華は深く追及せずアクセルを踏んだ。エンジンの低い唸りが、夜明けの静寂を破る。


帰路の間、車内はほとんど沈黙だった。

街灯がまばらな湾岸道を走りながら、清は窓の外に漂う早朝の霧を眺め、頭の中で先ほどの光景を繰り返していた。

EMP装置が置かれているはずの部屋で見た、あの一瞬の顔。

鋭い灰色の瞳、頬に走る傷、無駄のない動き――忘れようにも忘れられない。


「帰ったらすぐ解析部に回すんでしょ? 例の“オマケ”も含めて」

玲華が前を見たまま問いかける。

「ああ……ただ、一つだけ確かめたいことがある」

清の声には、妙な緊張が滲んでいた。



車は市街地の外れにある廃倉庫群へと入り込む。

しかし、その一棟だけは外観こそ錆び付いた鉄板だが、近づくと微かな電子ロック音が鳴り、分厚いシャッターが静かに上がった。

中はコンクリートのスロープになっており、地下へと続いている。

ここが、彼らの本部――通称「セクション9」。


地下三階まで降りると、照明が白々と光る広いガレージに出た。

複数の黒塗り車両が整然と並び、奥には分厚い防爆ドア。

そこから先はIDカードと生体認証がないと入れない。


清と玲華は連続するセキュリティゲートを抜け、長い通路を歩く。

壁には大型モニターが並び、各地の監視カメラ映像や解析データが流れている。

この無機質な空間は、彼らの日常であり、戦場でもあった。



解析室の扉をくぐった瞬間、独特の匂いが鼻をつく。

ハンダの焦げた匂いと、古い紙の匂い、それに微かに混じるインスタントコーヒーの香り。

机の上は部品やケーブル、分解された機器の山で埋まり、奥の壁際には無造作に並べられたサーバーラックが低く唸っている。

その混沌の中心に、髪の乱れた男が腰掛けていた。


「おう、帰ったか。……ん? その顔は、何かあったな?」

男――木島は白衣を着てはいるが、襟元には油染みがこびりつき、袖口はほつれている。

眼鏡は片方のツルが黒い絶縁テープで補強され、肩越しには未処理のデータプリントが束ねもされず積まれている状態だ。

誰がみても、木島デスク環境は「最悪」の一言に尽きるだろう。

だが、その鋭い目つきは机の乱雑さとは裏腹に、一切の鈍さを感じさせなかった。


「……例の装置は、空っぽだった」

清が言うと、木島は手を止めた。

「空っぽ? じゃあそのリュックは何だ」

「お土産だよ。役に立つかどうかはわからんが」

清はリュックを机の上に置くと、金属製ケースやデータドライブ、書類を順に並べた。


木島は手元のマグカップを脇にどけ、白手袋を引っ張り出して装着する。

「ほぉ……ドライブは軍用規格だな。暗号化が三重にもかけられている……面倒だぞ、これは」

「そのために持ってきた」

「まったく、お前はいつも俺の徹夜を確定させるものばっかり拾ってくるな」

木島はぼやきつつも、目は明らかに楽しげだった。


玲華が部屋の隅から呆れたように口を挟む。

「二人とも、まずは中身を確認するのが先でしょ」

「わかってるさ」

木島は片手でサーバーラックのスイッチを押し、もう片方でドライブを専用スロットに差し込む。

モニターに複雑な暗号パターンが流れ出すと、口元がわずかに釣り上がった。

「……悪くない。久々に脳が回りそうだ」


清はふと机の脇に置かれた黒い筐体に目をやった。

「まだそれ、使ってるのか」

「当たり前だ。お前の軍用スマホの設計だって、これがベースになってるんだぞ」

木島は黒いスマートフォンを軽く持ち上げ、机の上に置いた。

外装には細かい傷がつき、ところどころ塗装が剥げて金属の下地が覗いている。

「お前が作ったやつは基板配置も暗号化アルゴリズムも完璧だった。だが、それを実用レベルまで落とし込めたのは、この俺の知恵が必要だったのを忘れるな」

「忘れたことはないよ」

清は口角を上げ、木島もふっと笑った。


二人の間に流れるのは、互いの能力を知り尽くした者同士の信頼感そのものであった。

玲華はその空気を横目に、ため息をつく。

「はいはい、男同士の自慢話は後で。今は仕事」

「わかってるって」

木島は手際よくケーブルを繋ぎ替え、複数の解析プログラムを同時に走らせた。

機器のファンが一斉に回転数を上げ、部屋の温度がわずかに上がる。

「さて……お前の“お土産”が、どれだけ価値のある物か見せてもらおうじゃないか」


モニターには破損したデータの断片が並び、再生ウィンドウにはただのノイズだけが流れた。

「やっぱり……映像は全滅だな」

木島が鼻で笑いながらも、キーボードを叩く手は止めない。

「消されてるの?」玲華が問う。

「上書きだ。しかも軍用アルゴリズムでな。素人の仕事じゃない」


清は腕を組み、椅子の背もたれに深くもたれたかかる。

「……映像はなくても、顔は覚えてる」

玲華が首を傾げる。「あんた、あんな一瞬で?」

「一瞬あれば十分だ」

その自信に、玲華は小さく肩を竦めた。


「なら、描け」

木島がスケッチブックと鉛筆を差し出す。

「いいのか、こんなやり方で」

「お前は小さい頃から妙に観察眼が鋭かったろ。しかも絵もうまいときた。データがない以上、頼れるのはお前の記憶だけだ」


そう言われるとすぐに清は無言で鉛筆を走らせる。輪郭線を引くのも迷いがない。顎の角度、額の広さ、目の間隔。鉛筆の先は紙の上を正確に滑り、あの灰色の瞳と頬を横切る傷を再現していく。

呼吸が浅くなり、そこにはもう作業室の風景はなかった。思い出すのは暗闇の中、冷たく光る眼差しだけ。


木島と玲華は背後から黙って覗き込む。線は重なり、影が落とされ、やがてそこには“生きた一人の人間”が浮かび上がる。

「……できた」清は紙から顔を上げた。


木島はスケッチを無言で受け取ると、スキャナーに通す。すぐに画像検索にかけられ、複数のデータベースが横断し始める。

玲華はモニターを見つめながら、ぽつりと呟いた。「本当に……そっくりなんだろうね」

清は短く答えた。「あぁ、間違いない」


数分後、画面に一人のある男の写真が浮かんだ。似顔絵とほぼ一致する輪郭と瞳、そして同じ位置に走る傷。

「……セルゲイ・ヴォルコフ。ロシアSVRの工作員だな、大物だよ」

木島の声が低く落ちる。

玲華の眉が動く。「でも、この人……三年前に死んだって」

「公式記録ではな。だがこれでは生きて動いてる。しかも最近だ」


木島が衛星写真の解析に移る。都市地図の上に点滅するマーカーが現れ、そのひとつが郊外の廃工場を示す。

「ここで奴を確認した。旧造船施設だ」

清は地図を見つめながら呟く。「そこに行けば、何か掴めるってことか」

玲華は静かに目を細める。「あんた、行くつもりなの?」

「当然だ。唯一の手掛かりだからな。」澄んだ声はどこか覚悟を滲ませていた。



解析室の蛍光灯がじわりと明るさを増す中、モニターには複雑な衛星写真が次々と切り替わっていった。

木島はマグカップを片手に、キーボードを乱打する。画面上では地図が拡大と縮小を繰り返し、港湾都市から内陸部まで、無数の点が光っては消えた。


「まずは監視衛星“オルフェウス”のデータだ。リアルタイムじゃないが、過去二十四時間の全フレームがある」

木島の声は低いが、そこには高揚感が滲んでいる。


清は椅子に腰かけ、似顔絵と検索結果を脇に置いたまま、画面を食い入るように見つめている。

「こいつ、足取りはかなり意図的に消してるな」

「面白い」と木島がにやりと笑う。


映像は時系列順に並べられ、特定の人物の移動軌跡だけが強調表示される。灰色のジャケット、長身、そして帽子の影に隠れた顔。だが歩き方の癖や姿勢は他は騙せても木島には隠せない。

「見つけた、こいつだけ靴底のパターンが合致してる」木島がズームした画像を指差す。

映ったのは雨に濡れた舗道に残された靴跡。それは清の記憶にあるブーツと一致していた。


玲華が隣からモニターを覗き込む。「で、どこに向かってるの?」

木島は画面をスクロールさせ、衛星画像を切り替えた。

「北西の郊外。……ほら、この廃工場だ」


地図には広大な敷地を持つ旧造船施設が映し出される。鉄骨の骨組みだけが残った建屋、錆びたクレーン、雑草が舗装を突き破って広がっている。

「数年前に閉鎖されて以降、政府の管理下。だが実際は放置状態だ」木島は淡々と説明する。


木島がマグカップを机に置き、キーボードを最後に叩くと、工場周辺の熱源データが表示された。

「通常ならこの時間帯はゼロだが……ほら、昨夜だけ内部で複数の熱反応が確認できる」

清が画面を凝視する。「この数……作業員じゃないな」

「全員武装してると考えて間違いない。衛星からのスペクトル反射で、金属反応も出てるしな」


玲華が腕を組む。「つまり、完全に拠点化してるってわけね」

木島はにやりと笑った。「俺の推測じゃ、廃工場はただの中継点だ。本命は別にある」

「それでも行く価値はあるな」と清の声は冷たく締まっていた。



しばし沈黙のあと、木島がふっと表情を和らげる。

「衛星からの追尾はここまでだ。残りは現場で確かめろ」

「助かる」清は立ち上がり、机の端に置かれていた地図を丸めてポケットに突っ込む。


「本当に行くのね」

「もちろんだ。……あいつの顔をもう一度、間近で見るためにな」


モニターにはまだ、廃工場の俯瞰映像が映っている。

鉄骨の影が長く伸び、その奥で微かな熱源が脈打つように瞬いていた。



東の空が白み始めていた。

太陽はまだ昇っていないが、冷えた空気の中にかすかな温もりが混じる。

清は郊外の工業地帯に足を踏み入れ、舗装の剥げた道路を歩いた。

夜露を含んだアスファルトが靴底でわずかに鳴り響く。

正面には雑草と錆びたフェンスに囲まれた廃工場が、眠るように佇んでいた。


耳元の小型イヤピースから、落ち着いた玲華の声が届く。

《監視カメラの位置、送るわね》

彼女は数キロ離れた拠点から、軍事用スマホを通して映像解析を行っている。

清はポケットから同じ端末を取り出し、受信データを確認した。

画面上には工場外周の赤外線センサーと監視カメラの位置がマッピングされている。

《西側の壁に死角がある。巡回は二名、パターンは五分周期》

「了解。侵入する」


清はフェンスを越え、湿った地面に着地した。

潮と錆が混じる空気が鼻に刺しこんでくる。

工場の西壁に近づき、崩れかけた部分の影に身を潜めると、裂け目から内部を覗く。

倉庫群の間を二人の武装兵がゆっくりと歩き、視界の外へ消えた。


《今よ。巡回が反対側へ行った》

玲華の声に合わせ、清は裂け目から滑り込む。

内部は冷え切り、湿った鉄粉の匂いが漂っていた。

歩を進めるたび、靴底がざらりと音を立てる。


倉庫に近づくにつれ、中から低い話し声が聞こえてきた。

ロシア語だ。耳を澄ませると、ある名前が混じっていることに気付く。

——セルゲイ。

そう、あの灰色の瞳、傷のある頬の男の名が、何回か繰り返されていた。


清は錆びた窓の下にしゃがみ、小型カメラで内部を覗いた。

雑然と並ぶ木箱、コンテナ。

中央のテーブルには地図や衛星写真が広げられ、数人の男たちが武器を整備している。

その奥で、背の高い影がゆっくりと立ち上がった。


灰色の瞳。

セルゲイだ。


湾岸施設で一瞬だけ見たあの目と、まったく同じ光。

清は息を殺し、カメラをわずかに引いた。

だが、その動きを察したかのようにセルゲイの視線がゆっくり横へ流れ、窓の方をかすめた。


《どうしたの? 心拍が上がってる》玲華の声がイヤピースから響く。

清は短く息を吐き、囁く。

「……見つかったかもしれない」


倉庫内の兵士たちが徐々に動きを止め、空気が張り詰めていく。

セルゲイは一歩、また一歩と、窓の方へ向かってきた。

そうして、その灰色の瞳が、完全に清の姿を捉えたのだった。

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