名店の牛タン×莫逆の友
アルバイト先に向けて車を飛ばしていると、ダッシュボードの中に隠しておいたスマホが鳴って肝を冷やした。
恐る恐る発信者名を確認すると、高校時代からの友人の川口だった。
こいつとは妙にウマが合う。
ハンズフリーにして応答した。
いつものように少しせっかちで、力強い声が車内に響いた。
「桜井、今、どうしてる?」
「車を走らせてる。これからバイトだよ」
親友からの着信に肝を冷やしたことが気恥ずかしくて、少し素っ気なく応答する。
まだ心拍数が上がっている。
そんな俺の動揺にちっとも気づくことなく、川口は自分が言いたいことを勢いよく喋り始めた。
相手の心の機微を察することのできないのが、川口の短所である。
もっとも、こういった場合は、心の内側を隠したい側としては好都合だ。
「俺は今、授業が終わった。昼間からずっとくるみに連絡してるんだが、返事が無いんだ。
四ツ谷に美味い牛タンの店を教えてもらったんだ。
くるみの代わりに、桜井を飲みに誘おうと思ったんだけど、今日は無理そうだな」
珍しいことに、言葉の終わりの方で川口の声は失速した。
疲れているのか、それとも他の原因があるのだろうか。
牛タンは魅惑的だが、今日はこれ以上、すみちゃんの怒りを買うわけにはいかない。
だから、にべもなく断った。
「いや、無理。バイトが明けたら、すみちゃんの部屋に速攻で帰るよ。
今日は付き合った記念日なんだ。なのに、約束を半日も遅れてしまった。
しかも、うっかりバイトも入れちゃってた。すみちゃん、怒ってたよ」
電話の向こうで川口が大笑いしていた。
入り込む雑音からすると、駅構内にいるようだが、周囲をまったく気にすることなく、笑い声をあげられるのも川口の特性だ。
「そりゃ、そーだろ。記念日はマストだよ。うっかりし過ぎだろ」
「おかげで、すみちゃんお手製の角煮丼がお預けになった。俺の大好物なのに。
めちゃくちゃ腹減ってたんだぜ。キッチンから、角煮の香りが魅惑的に漂ってくるんだ。
それを待て、だなんて、しつけ訓練中の犬か、俺は」
「あははは。素行の悪い犬だ。
どうせまた、合コンで知り合った女の子と遊び歩いてたんだろ」
川口に『素行の悪い犬』と言われて、言葉に詰まる。
そう、数時間前に俺は、犬みたいにくるみの指を舐めていたのだ。
その光景が脳裏に浮かぶ。
マニュアル車のシフトダウンにしくじり、ギアから嫌な音がした。
動揺がただならない。
言葉が上手く出てこないが、無言だと動揺を悟られる。
だから俺は無理やり言葉を繋げた。
「ん、まぁ、そんなところだ。確かに、俺は素行の悪い犬だ。
お茶するだけのつもりが、つい遠出することになってしまった」
「お茶のつもりが遠出? どこまで行ったんだよ」
まずい、喋り過ぎている。
自分の中でアラームが鳴動する。
危険な部分に踏み込み始めている。
進め方を誤ると、とんでもないことになる。
そう思いながらも、いったん発した言葉は消去できない。
仕方がないので、肝心の部分をぼやかして、真実を語る。
「高原の牧場。ソフトクリーム食べて来た」
「で、すみちゃんとの約束の時間に遅刻か。そりゃ、怒られるだろ」
さらに川口は、大笑いした。
笑って少し元気を回復したらしい。
親友の気が晴れるのなら、俺自身の失敗談など、いくらでも提供してみせよう。
ただし、問題のない範囲でのみ。
少しほっとして、おどけたように俺は言う。
「帰りはアクセル全開で走ってきたんだけどな、さすがにダメだった」
「すみちゃんほど、桜井のことを想ってくれる子は居ないぞ。
あんまり遊び歩いていないで、もっとすみちゃんのことを大切にしろよ。
でないと、そのうちマジで愛想つかされるぞ」
「そりゃ、わかってる」
「いや、桜井は全然、わかっていない。人生は一度きりなんだからな。
幸福を最大化するために、自分にとって何が大切なのかを理解しなきゃならない」
時に川口は、兄のような口調で、俺のことを諭す。
心配してくれるのはありがたいが、正直言って、たまに重く感じる。
同い年の川口に、そこまで言われなくても、俺は問題なく生きている。
健全な川口に、浅慮な自分を非難されているような気がして、居心地が悪くなる。
だから俺は川口に聞こえないようにして、呟いてしまう。
「川口こそ、それで良いのか。
お前だって、自分の彼女の『くるみ』を大切にしなきゃいけないんじゃないのか」と。
「ん? 何か言ったか?」
川口に問われて、慌てて俺は取り繕う。
「いや、何でもない。バイト先に着くから、電話を切るよ」
わざと声のトーンを事務的にして通話を終えた。
自分の心が揺れているのを、悟られたくなかったから。
けれどスマホの向こうの川口は、いつも通り無邪気で、どこか呑気で、そんな変わらなさが、今の俺には酷く辛かった。
通話を切ったスマホを、助手席に放る。
黒い画面が下を向いたまま動かなくなった。
まるで、何かを覆い隠すかのように。
言えない事実を、そうやって隠して、見ないふりをして生きてきた。
罪悪感が胸を刺す。
それは火のついた煙草を肌に押し当てられたような痛みで、じわじわと形を変えて広がっていく。
最初の頃は慣れれば済むと思っていた。
人間はどんな環境にも順応できるものだと、どこかで甘く見ていた。
けれど現実は違った。
慣れるどころか、日を追うごとに心の奥深くに染み込み、燃え広がっていく。
川口は、何も知らない。
俺が何をしてきたのか、どんなトラブルの火種を抱えているのか、まるで知らない。
それで、いいと思った。
屈託のない川口の笑顔を、損ないたくなかった。
でも本当は、ほんの少しでいい、気づいて欲しかったのかもしれない。
どうしようもない暗闇に、足を突っ込んでしまった俺の心を。
「どうした?」って、聞いて欲しい。
そんな淡い期待を、どこかで抱いていたのかもしれない。
ハンドルを握る手が冷たく感じる。
車内はエアコンが付いているのに、妙に寒かった。
俺は心が冷え切っているに違いない。
何を失えば、俺は赦されるのだろうか。
車窓の外に広がる街並みは、もうすっかり夕暮れに染まっていた。
高層ビルのガラスに反射する西陽が、橙から紫へと少しずつ色を変えていく。
通りを歩く人々の影は長く伸びて、まるで時間の引力に引きずられるように、地面に溶けていた。
車を早く走らせることで、少しでも自分の罪を置き去りにできるのなら、どんなに良いのだろう。
この夜の向こうに、赦される明日があるのなら、全力でそこに向かいたい。
俺は現実から逃げるみたいにして、さらに深くアクセルを踏み込んだ。