4 大きなクリの木の下で①
翌日の昼。
破壊神は昨日来た学校の前に立っていた。
塀にもたれて腕組みし、狭い道をはさんだ向こうの校門から出てくる生徒たちを、むっつりとながめている。
その肩の上にメイの姿はなかった。ミコもどこへ消えたか、まだ戻ってきていない。
「…………」
破壊神は不快そうに眉をしかめる。
とうに再生はすんでいたが、左側の目にまだ、痛みがあった。
たいしたやつだ、と思う。
左肩に乗っていたメイの霊力の暴発を浴びた直後、たっぷり三つ数えるほどの間、動けなくなった。でなければ反射的に、斬り殺してしまっていたに違いない。
だが。
あの時のメイに、闘志はなかった。
攻撃の意志さえなかった。
血肉を吹き飛ばし焼き焦がす凄まじい霊的エネルギーから感じたのは、母の胎内でまどろむ赤ん坊のように無味無臭の、純粋な生命の輝きだけ。
外側に少し、絶望や哀しみの苦味がこびりついていたが、あっという間に蒸発した。
メイ自身もなにが起きているのか、わかっていなかったに違いない。
証拠に、力を放った当人が驚きに目を丸くしたまま、マヌケにも自分の力の奔流に巻きこまれ、どこかへ飛ばされていってしまった。
斬らなくて良かった、と破壊神は今さらながらホッとする。
闘志も殺意もないくせにパワーだけはある、あんな生き霊を間違って斬って食べてしまっていたら、今ごろひどい食あたりを起こしていただろう。さておき、
「……どうして帰って来やがらねえんだ?」
破壊神は思わず、つぶやいた。
わけがわからなかった。
ミコが逃げるのは理解できる。
並みの妖怪があれほどの霊力の爆発に巻きこまれたのだ。
少なくとも一晩は、メイのそばにも寄りたくなくて当たり前だ。
しかしメイが逃げた理由は、いくら考えてもよくわからなかった。
生き霊のくせに空も飛べない。破壊神の肩へののぼりおりでさえ、あまり鈍くさいから助けてやっていたほどだ。ひとりではなにもできないと、いちばんわかっているのは本人だろう。
しかもアイシャの忠告を無視し、あれほどの霊力を暴発させてしまった。今やおそらく、あと一日生きのびられるかどうかも危うい。
なのになぜ、さっさと帰って来ないのか。
「…………」
破壊神はあのあとしばらく、メイの霊力で火が消えた離れの上で、メイが戻ってくるのを待っていたのである。
飛ばされたとしても近くの山までだろうし、それならいくらメイがグズでも、月の出までには戻ってくるだろう、と思ったのだ。
しかし月が天頂をすぎてもメイはあらわれなかった。
さては迷子になったか、それとも塀でも越えられずにまためそめそしているのかといらだち、破壊神は仕方なく、重い腰をあげて周辺を捜し始めた。
ところが、いくら捜しても見つからない。
途中で何度も火事の現場に飛び戻り、見ていない間にメイが帰っていないか確認もした。
しかしどこへ行っても、メイの気配の痕跡さえ見つからない。
ようやく、どこかで食い意地の張った小妖怪にでも食われてしまったのでは、と心配になってきたころには夜が明けてしまっていた。
さすがに少し焦った。
ここであの獲物を食べそこねるのは痛い。
だが冷静になってみると、あの生き霊娘が、そこらの小妖怪に食われてしまう可能性は比較的低いように思われた。命に危険がおよべばまたあの力が出るだろうし、そうすれば何キロ離れていようとそれとわかるはずだ。十中八九、まだ襲われてはいない。
ではなぜ、どこにも見あたらないのか、と考えこんでいてふと、
(まさか……逃げたのか? そして……自分の意志で隠れている……?)
という可能性に気づいた時には、太陽が西から昇ったような驚愕に襲われた。
身体を取り戻すには破壊神の力を借りるしかないと知っているはずなのに、死にたくはないはずなのに、なぜ、助かる道を捨ててまで逃げ隠れしたりするのか?
そんなバカな、ありえない! と即座に打ち消した。
それで、もしやまた記憶が吹っ飛んで、以前通った場所に戻っておびえているのでは、と考え、最初に出会った墓場から、通った道をすべて順に、もう一度捜し歩くことにした。
そしてついさっき、やっとこの学校前にたどりついたのだが──
「……ちっ」
破壊神は鋭く舌打ちして、足もとの制服カタログを蹴飛ばした。
今さらながらいまいましくてならない。
どうせ読めやしないのに、なんだって自分はこんなものを拾ったのだろう。そのうえ、メイが本にはさまって隠れているはずもないのにどうしてわざわざ、めくってみたりしたのか。
「…………」
破壊神は腕組みした片手につまんでいる紙切れに、嫌々ながら目をやった。
ミコが公園で、メイの背丈を測って喜んでいた、細長い紙切れだ。
本をめくったとたん、半分しかはさまっていなかったものが落ちたのである。
一方の面には絵と文字が印刷されている。裏は白紙。
そのすみに、いかにも手書きの小さな文字が二列、並んでいた。
もちろん、文盲の破壊神にはなにが書いてあるかわからない。
が、うじうじと震える線、上下の定まらない、いらだたしいほど自信なげな文字並びが目に入るやいなや、メイが書いた字だ、と確信した。
いわゆる「置き手紙」にちがいない、と理解したとたん、謎が再燃した。
こんなところに置き手紙が残されているということはやはり、メイは自分の意志で、破壊神から逃げ隠れしているのだ。しかし、いったいなぜ?
「…………」
破壊神はふたたび、手にした紙切れにちらっと目をやる。
人間だろうと妖怪だろうと、手紙を寄こすバカに会うのは生まれて初めてだった。
それでだろうか。
そこに書かれた判読不能の模様がなにを語っているのか、気になってしかたがない。
とはいえ、どのみち読めないのである。
破壊神は思い切って紙を捨てようとしかけてやめ、腹立ちまぎれに破りかけてまたやめた。
「……くそ」
逃げるならあとも見ずに逃げりゃあいいのに、と苦虫を噛みつぶしたような顔で考える。
こんなことをされるとかえって気になるではないか。
いや、わざわざ見つけて拾ったのだから自業自得という気もした。無視して捨ててしまえばいいのに捨てないのだからそれも自業自得だ。わかっているが、しかし……。
破壊神はメイの字が記された紙を、なにかひどく熱い物か、持ち慣れないほど貴重な物のようにそわそわと持ち替える。
メイのことだ、どうせくだらない泣き言が書いてあるに決まっている。
内容を知る必要など、まったくない!
と思いながらも、破壊神は文字の数を不器用に指折り数え、ありがちなセリフと照らし合わせ始めた。しかし、どうしても字数が合わない。数分間、夜叉神らしくもなく、はた目には行方不明になった親しい人の、悪筆の置き手紙をなんとか読もうとする人間と同じほど真剣に、手紙を解読する作業に没頭したあげく、ふと気づいた。
そういえばこの国の言葉は、一字が一音とはかぎらなかったのでは──?
破壊神はむかっ腹を立てて紙面から目をそらす。
「くそっ、だいたいてめえの名前もろくに思い出せねえくせして、どうして文字ばっかりごちゃごちゃ覚えてやがんだ……!」
八つ当たりの殺気のこもった視線を、校門を出入りする生徒たちに向けた。
歩きながらなにか冗談を言って友だちと笑い転げていた少女がひとり、ぶるっと肩をすくめて身震いする。不思議そうに明るく晴れた空を見あげた。
「あれっ、今日、もしかして寒い?」
連れの生徒たちはぷっと吹き出す。
「そんなことないよー」
「今日はどっちかっつーと暑いんじゃね?」
「カゼひいたんだ、カゼ!」
こちらに気づきもせず、仲良く校内へ入って行く彼らを見送って、破壊神はいらだちのあまり歯ぎしりする。
なにかが間違っている気がした。メイの行き先がわからないなら、せめてあの双子の足取りをつかもうと、ここで待つことにしたのだが──。
昨日の夕方ここに来た時、メイは「ここで待ってれば必ず、学校内にいる生徒は全員、出て来ますから」と言っていたが、今見ていると、必ずしもそうではない。
出るだけでなく入る者もいるし、門に近づきはしても、出ない者もいる。ボールで遊んでいる連中や、建物の中で食事している連中にいたっては、門に興味もないようだ。
(! 夕方にならねえとダメなのか?)
気づいたとたん、破壊神は焦りと憤りに目がくらんだ。
夕方まで待って、例の双子を見つけたとしても、メイが双子のところにあらわれるとはかぎらない。しかもあの双子の少女は昨日、乗り物で帰ろうとしていたではないか。グズのメイではとても追いきれまい。ということは──
「…………」
なにをしてもたぶんムダで、メイはこうしている間にも、どこかで勝手に消滅してしまうに違いない、と悟って、破壊神の表情が凍りついた。
ここしばらく忘れていた飢えが突如、怒濤の勢いでよみがえってきたのである。
血が、肉が、骨が。
獲物を求めて激しくきしんだ。
荒れ狂う飢餓感の向こうにあるのは、長年、空気のように慣れ親しんだ死の予感だ。
珍しくもない感覚だったが……その時、破壊神は初めて、奇妙な事実に気づいた。
考えてみれば、もうずいぶん長い間、ずっとこの状態だったのだ。小さな妖怪を少々狩ったからといって、空腹がおさまるはずもなかった。なのになぜ、メイがそばにいる間……そして帰ってくると信じていた今の今まで、飢えを忘れていられたのだろう?
闘志どころか生きる気力すらとぼしい、弱々しくも情けない泣き虫が一匹そばにいたからといって、栄養になるはずもない。
いつか食べられるからと楽しみにはしていたが、実際にはまだ食べていないのに、なぜ?
「…………」
そういえば……と、思い出されることがあった。
まだこの島国に来る前、連なる大陸の反対側の端にいたころも、ふと気がつくと後ろに、薄汚れた孤児や、痩せこけた獣がついて来ていることがよくあった。
あのころの人間の子どもはたいてい、破壊神の姿を見ることができた。
そうしてなぜか、相手が誰かを確かめもしないで、やたらとまとわりついてきた。
破壊神は誰も助けてなどやらなかったから、彼らは自力で食料を調達しながらついてきた。
知らぬ間に脱落して、ふり返るといないなんてこともしょっちゅうだった。勝手に破壊神のふところにもぐりこんできて眠り、朝になると死んでつめたくなっている者までいた。
実にうっとうしかった。
しかし奇妙なことに、考えてみると破壊神は、本気で彼らを追い払ったことはない。
今思うに、それは彼らがそばにいると、飢えが薄れるせいだったのかもしれない。
メイの場合と同じだ。
なぜかはわからないが、戦う力もないくせに死に物狂いでただただ生きようとする弱い存在がそばにいると、その間だけは楽だった──ような気がする。
「そんなことがあってたまるか!」
破壊神は思わず声に出してうなった。
自分が誰かの存在を必要としているなんて、想像するだけでむかむかする。
「考えすぎだ、くそっ。腹が減るとろくなことを考えねえ。そんなことより……」
そうだ、なんとしてでもメイを捕まえ、無理やりにでもあの身体に押しこんでやらねば。
そうすればメイは必ず怒る。怒らせれば食える。腹がいっぱいになれば不愉快な考えもどこかに消えるに違いなかった。だがそれには……。
「!」
破壊神はその時やっと、自分が手にしているメイの置き手紙に、なにか手がかりが書かれている可能性に思い当たった。
どうして思いつかなかったのだろう。行き先までは書いてなくても、逃げた先に見当をつけることぐらいはできるかもしれないではないか。
「よし」
しかしミコを捜すのはめんどうだ。誰でもいい、そのへんで字の読める妖怪をつかまえて手紙を読ませようと考え、歩きだしかけた時、
「あっ、ちょっとちょっとそこの君、待って!」
人間にくだけた口調で呼び止められ、破壊神は驚いてふり向いた。
見ると校門から、やたらと背の高い女生徒がひとり、大股に道を渡って近づいてくる。
少年と見間違えそうな痩せ形の、やけに足の長い娘だった。
目鼻立ちもくっきりと意志が強そうで、りりしい眉が目立つ。さらさらの黒髪をおかっぱにしているが、のどもとに届くほど長いわきから後ろへ、弧を描いて短くなる斬新なカットのせいでちっとも和風っぽくない。
どう見ても、早雲やメイのような霊力の持ち主ではなかった。にもかかわらず、娘は迷わず破壊神のすぐ前で足を止めると、高い位置から平然と見おろし言い放つ。
「君さ、メイのこと考えてたでしょ」
「……!」
「なぜわかるかって顔ね。うん、なぜかって言うと、遠くから見た時、君の顔がメイに見えたから。オバケってなぜか知らないけど、考えてることが時々、外に見えるんだよね」
「……見鬼か」
破壊神はつぶやいた。
霊力のあるなしにかかわらず、大昔の子どものように妖異をあるがままに見る者たちを、この国では昔、そう呼んでいた。だが、声まで聞こえるとはかぎらない……と考えるより早く、少女が妙に感心した様子でうなずく。
「見鬼? あたし霊感ない方だと思うけど、それでもやっぱり見鬼なんだー。そーかー、なんかスッキリしたぞ! で……メイのことなんだけど、君、メイのこと知ってんの?」
「……そっちこそ知り合いか」
「まーね、友だちとは違うけど」
「?」
「あの子すっトロくて、見てるとなんかこーイライラするからさー……しない? メイってホントは五月……神納五月ってゆーんだけど、幼稚園以来、べーべーめーめー泣かされてばっかりいたからめーちゃん……転じて、メイってあだ名がついちゃったわけ。お母さんがまた軽い人でねー、五月は英語でメイだからってんで喜んで、うちの中でもメイって呼ぶようになって、本人も気に入っちゃってね、それで今でも自分でメイって言うの。バッカよねー、もともと悪口だったのに」
なるほど、それは確かにあのメイの話に違いない、と納得して、破壊神はきく。
「そいつには双子の姉妹がいるのか」
「いないいない。そんなもん」
長身の少女はぱたぱたと手をふった。
「あっ、そーか! 君、もしかしてここでメイが出て来るの待ってたんだ? でもあの子、今日は学校来てないし、さっき電話かけてみたんだけど家にもいないんだわ。それにここ数日、なんだかメイなのにメイじゃないみたいな感じでさー。昔っからよくオバケにとり憑かれる子だけど、今回は特に様子がヘンだからさすがにちょっと心配になっちゃって……少し様子を確かめた方がいいかなーって、捜しに出て来たとこに君がいたから」
友だちではないなどと言うわりに、あたりにあふれる苦い気配が「ちょっと」ではなく心底、メイを心配していると告げている。
破壊神はとりあえず信頼できそうだと判断するなり、まだ名前も知らない相手に、手にした紙切れを押しつけた。
「たぶんやつの書いた手紙だ。読め」
「ふーん、君、字、読めないのか。強そうなのに、意外」
長身の少女は動じるどころか、破壊神顔負けに傍若無人な態度で紙面を受け取ると、目を落とす。声に出して読んだ。
「『約束を守れなくてごめんなさい。お世話になりました。どうか人を殺さないでください』」
「……それだけか?」
「それだけね。むうー、この『か』と『い』のつぶれ加減、ほんっとーにメイの字だわ」
なにやらしみじみと、さらさらの黒髪を揺らしてうなずく少女に破壊神は詰め寄る。
「ちょっと待て、行き先は? 他にはなにも書いてないのか!?」
「ないよもちろん。これ、どー見たって書き置きだもん。捜さないでくださいって書いてないのが不思議なぐらいだわよ。ま、これのおかげであたしの捜してるメイと君が知ってるメイが同一人物だってことは確信できたから、行き先もだいたい見当ついたけど」
にっこり笑って紙片を返してよこす肝の太い少女に、破壊神は殺気立った。
「それはどこだ? 案内しろ!」
「あたしとしてもオバケが見えるだけで他になにができるわけでもないし、メイの身体にとっ憑いてるやつを追っ払う手伝いぐらい、君にお願いしたい気持ちはあるわけよ。でもね」
長身の少女は悠々と腰に手を当て、まっすぐ破壊神の目をのぞきこむ。
「その前にメイとのいきさつをかいつまんで話してもらわなきゃ、だわ! あのびびりん坊で弱虫毛虫なメイが、なけなしの勇気をふりしぼって君から逃げたわけでしょ? わけも聞かずにあの子の決心をムダにしたくはないからね。さ、ちゃっちゃっと話した話した」
「…………」
破壊神は、こんな変な人間に手紙を読ませてしまったことを、いささか後悔した。
◆
明るい陽射しに巨大な雑草が、別の星のジャングルのように雄大に揺れている。
メイは泣き疲れてはれぼったくなった目で、ぼんやり緑の輝きをながめていた。
(スサノオは……わたしの手紙、見つけてくれたかな……そ……それとも……わたしから出たあの光のせいで……死んじゃった……かも……)
そう考えると恐怖と罪悪感のあまり胃がぎゅっと痛み、メイは吐き気に青ざめた。
あんな力を出すつもりはなかったのだ。なのにあの瞬間、メイの意識や思考を突き破るようにしてあふれたあの力は、確かにメイに属していた。
というよりあのふくらんで広がっていった光すべてがいわば、メイの命そのものだった。
メイは、自分が式神を焼き、人々を捕らえていた力のきずなを片端からちぎってしまうのを感じた。火事の炎を押しつぶすように消してしまう一方で、驚きの表情を浮かべたミコに触れたとたん、そのきれいな髪や肌を焦がし、はじき飛ばしてしまうのも感じた。
黄昏の空に、見えるはずのない満天の星が見え、敷地のすべての草が見えた。それから──
破壊神が、揺るぎない岩か山のように強力に、自分を押し返すのを感じた。
まるで、急にふくれた風船が、小さなものはなんとか押しのけたものの、動かない壁には逆にはじかれたような感じで、メイは空高く飛ばされた。そして、見た。
悪夢の光景だった。
至近距離でメイからあふれた光を浴びた破壊神は、ほぼ黒焦げだった。それでも断固として立ってはいたが、特にメイに近かった顔の左半分と左肩は、肌も肉もごっそり吹き飛ばされ、あちこちから骨がのぞいていた。左耳も左目も、鼻もなくなってしまっていた。
その恐ろしい顔が、むきだしになった歯並びを食いしばるのが見えた。
無事な方の右目に凄惨な殺意が浮かび、額に第三の瞳が開こうとする気配がした。破壊神は間違いなく、メイを追って殺すために飛び立とうとしていた。だが──
驚いたことに、よろめいた。
倒れたかどうかは知らない。見なかったからだ。
あまりの恐ろしさに、メイは目を閉じてしまったのだった。
パニックを起こし、ごめんなさい、ごめんなさいと夢中でくり返しつぶやきながら、飛ばされるにまかせて長い、長い距離を飛び……また、墜落した。
(だってやっぱり……生き霊だって落ちるよ……)
生き霊のくせに落ちることができるほど頭が固い、と破壊神に言われたことを思い出し、メイは思わず涙ぐむ。
破壊神に生きていて欲しいのか死んでいて欲しいのか、今でもよくわからなかった。
でもどちらにせよ、破壊神にあの、自分そっくりの少女を殺させるわけにはいかない──。
だから、なにかの茂みに墜落してすぐ、破壊神とはもう二度と会わない、と決めた。
しかしそれは破壊神との約束を破るだけでなく、身体に戻る望み、生きのびる可能性を捨ててしまうということでもある。
メイは、森のような茂みから脱出しようと歩きながら、泣いた。
破壊神が怖くて、自分のしでかしてしまったことが怖くて、今いる場所も、死ぬのも怖くてたまらず、泣いた。
壁に開いた真っ暗なトンネルのような、ブロック塀の割れ目を抜けると意外にも、夕方に訪れた、学校のすぐ前だった。
もうすっかり夜で校舎は暗く、校門も閉まっていた。人通りもない。ただ街灯の下に、ミコが座布団代わりにしていた制服カタログが、片づけられずに残っていた。
どこを見ても知らないものばかりで心細かったので、メイはつい本に近寄って、なでた。
ほんとうは、こんな見つかりやすい場所にいてはいけないのはわかっていた。
破壊神も怖いがミコも、火傷させられてきっとひどく怒っているに違いない。次に会ったら今度こそ、メイを殺そうと襲いかかってくるだろう。
でもそれでも、記憶のないメイにとっては破壊神とミコだけが、この世でたったふたりの親しい相手だった。想い出の品から立ち去りがたくてためらううちに──
ふと、制服カタログからはみ出している、しおりが目に入った。
地面すれすれの位置で、今のメイの背丈にあまるほどの部分が、外に出ている。
それを見て、せめてお別れの手紙を書こう、と思いついた。
破壊神は字を読めないけれど、きっとミコが読んでくれるだろう。
しばらく、なにを使って字を書くか悩んだ。
近くでタバコの吸い殻を見つけたので、試しにその煤を靴のつま先になすりつけ、筆代わりにして紙に書いてみた。ちゃんと読める文字が書けた。
勢いづいて、メイは何度も吸い殻としおりの間を往復し、読みやすいように大きく、大きく、と意識しながらけんめいに文字をつづった。
途中かすれたところもあったが、なんとか書きあげられた時は嬉しかった。
だが、それが終わるともう、することがなかった。
あとはどこかで、誰にも見つからないように死ぬだけだ。
あてもなくとぼとぼと歩きながら、メイは泣いて、泣いて、泣いた。
死にたくなかった。同じ死ぬにしても、せめて知っている場所か、知っている人のそばで死にたかった。なのにどこまで行っても、知らない風景ばかりだ。
(こんな制服なんてきっとウソ。この顔ももしかしたらウソ。わたし、こんなとこに住んでたなんて感じ、全然ないもの……もう、なにもかもウソなんだわ)
泣きながら歩き続けるうちに、気づくと夜が明けていて──
急に目の前が開けたと思ったら、見知らぬお寺の境内に入っていた。
雲のようにわきあがる朝もやの向こう、グランド・キャニオンさながらそびえたつ巨大なお寺は、なんだかとても美しく見えた。しかも、親指姫サイズのメイから見ると、境内の木々はみな天をおおうばかりに大きく、壮大だ。
もうへとへとだったし、ここでいいや、ここで死のうと思い、メイはさらに一時間ほどかけて境内を横切った。
途中で猫に出くわした。
ちょびヒゲっぽい黒ぶちのあるでぶ猫で、ただの猫らしかったが、ちらっとこちらを見た。
襲われるかと身構えたけれど、興味なさそうに行ってしまったので心底ホッとした。
一本の木の根もとに洞窟のようなうろを見つけた。
隠れるのにちょうど良さそうだ。
でも雑草のジャングルを抜け、うろまでよじ登るのにさらに二時間ほどかかった。
メイはほとほと疲れはて、うろにたまった落ち葉の上に腰を下ろした。
乾いてくるっと丸まった大きな落ち葉は、不思議とすわり心地が良かった。
今度こそほんとうになんにも、することがない。
そうしてもう何時間も、ただぽかんと死の訪れを待って、雑草をながめている。
「…………」
もうすぐお昼かな、と太陽の位置を確かめながら、メイはふと気づいた。
(そういえばわたし……お腹すかない)
一日以上たつのに一度も空腹にならないし、のども乾かない。
「…………」
初めて、今の自分にはほんとうに肉体がないのだ──という事実が意識にしみこんできて、メイは思わずまばたきした。
(あんなに歩いて疲れてるのに……眠たくもならないし……)
そっと、椅子代わりにしている枯れ葉をなでてみた。
よく見ると、芯まで枯れてぼろぼろの、見るからにもろそうな枯れ葉だった。
テントウムシなら大丈夫だろうが、カブトムシが乗ったらぱさっと崩れてしまいそうだ。
(でも……わたしが乗ってもへこみもしないのね)
ということは、今の自分の体重はどれぐらいなのだろう?
興味がわいて、ほんの少し、力を入れて枯れ葉を押してみる。
枯れ葉はびくともしなかった。
いくらなんでもカブトムシが踏むよりは力が出そうな気がして、もう一度試してみる。
「!」
手は、今度はなんの抵抗もなく枯れ葉を砕いて突き抜けた。
「…………」
急に、ドキドキしてきた。
本屋で平積み台から破壊神の手まで跳ぶのに成功した時、破壊神が、できると思うことはできる、と言ったのを思い出す。
(ほんとう? もしかしてほんとうにできるの? じゃあ……)
たとえば今、自分の身体のところにワープしたい、いや、ワープできる! と思うことができたら、ほんとうにワープできたりするのだろうか?
「…………」
メイは息をこらして数瞬、その可能性について考え、
「……やっぱりムリだわ、きっと」
どうしてもそんな現象が起きるとは信じられず、小さく肩をすくめた。
苦笑しながら視界が涙ににじむ。
なんとなく、わかったのだった。
たぶん自分は、ムリだと思うからムリなのだ。
でもそれでも、どうしたってムリとしか思えないものはしかたがない。
「…………」
膝に置いた手が一瞬、透けて見えた。
てのひらを日の光にかざしてみる。
血の赤ではなく、梢の緑の輝きがちらちら、きらきらと透けてまぶしいぐらいだ。
「ん。そろそろかな」
まだとても怖かったが、やっと少し、ひとりで死ぬ覚悟ができてきた気がした。
ふと、破壊神はきっと生きてるに違いない──という直感がひらめく。
あまりに明るい確信に満ちていたので、メイはその直感を信じた。
ものすごく嬉しいような、どうしようもなく不安なような、混乱した気分のまま、破壊神が手紙を見つけて、読んでいてくれることを心から祈る。
できればたのみを聞いて欲しかった。ダメならしかたがないけれど、もし自分の思い次第で奇跡が起こるものなら、そういう奇跡こそ起きて欲しいと思う。
その時、
「おーやあ?」
「!?」
顔をあげると大きな黒ネズミが、うろをのぞきこんでいた。メイから見ると虎ぐらいある。
「なんだあ、こいつ、生き霊じゃねえか」
とかしげた頭のてっぺんには、一角獣のような長い角。妖怪だ。
「なに、生き霊!? わしの寝床に生き霊じゃと!?」
別の一角ネズミがうろの入り口でのびあがり、メイの前に大きな影を落とした。
フンフンとしかつめらしく鼻を鳴らし、空気のにおいをかぐ。
「おんや、ほんとうだ。生き霊だ」
最初の一匹が「だろ?」と自慢げに胸をそらす横から、もそりとムカデの頭があらわれた。
「生き霊とは豪勢な! これこれネズミさんたちよ、ひとりじめはいかんぜ」
それともヤスデかゲジゲジだろうか。よく知らないメイが判断できないうちに、足のたくさんあるのや少ないの、背中に人の顔がある甲虫や虹色のハエなんかが、ぶんぶんわさわさと集まってきた。押し合いへしあいしながら、うろの中をのぞきこむ。
「なんだなんだ? 生き霊って聞こえたぞ!」
「うひょーっ、ついてる! 身体のねえやつは食ってもおとがめなしなんだぜ」
「エサだ!」
「食いほうだいだ!」
「しかしちっちぇえな」
「こんなに小さくちゃ分けられねえな」
「それに消えかけてるぞ」
「賞味期限ぎりぎりだ」
「誰が食う?」
「もちろんこの家の持ち主のわしじゃ!」
「早い者勝ちにしようぜ」
「反対! それじゃ、前にいるおまえの方がずーっと有利だ!」
「うるさい。おれは早い者勝ちでいい」
「あたしも早い者勝ちでいいよ」
勝手にまとまっていく妖怪たちの相談をぼうっと聞きながら、メイはようやくじんわりと、憤りがこみあげてくるのをおぼえた。
いったいどうして「エサ」だの「小さくて分けられない」だの「賞味期限ぎりぎり」だのと言われて黙っていなければならないのか。
自分の名前も思い出せない消滅間近の生き霊で、そのうえ親指姫サイズだからといって、誰も彼も、メイを物のようにしかあつかおうとしないのは、あんまりではないだろうか。
「んじゃ、よーいどん、でスタートな」
「よしきた。よーい……」
小学生のように無邪気な期待と食欲に目を輝かせ、ぐぐっと身構える妖怪たちを前に、
「バカあっ!!」
メイは思わず、力いっぱいわめいた。
ネズミや虫の妖怪たちは、まさか消えかけのチビの生き霊がそんな強気な口をきくとは思っていなかったらしい。意表をつかれてぽかん、と止まる。
メイはすっくと立ちあがり、涙ぐみながらも破れかぶれで怒鳴った。
「そうよ、あなたたちの言うとおりわたしはもうすぐ消えちゃうのっ! でも、だったらそっとしといてくれるのが人情ってものでしょう!? それをなによっ、人のことパック入りの生鮮食品みたいに……わ、わたしにだって意志もあれば都合もあるの! わたしはあなたたちのエサじゃないし……だいたい、食べていいなんてひとことも言ってないわっ!!」
「…………なんだあ、こいつ?」
ネズミと虫の妖怪たちは、不思議そうに顔を見合わせる。
「おいおい聞いたかよ? やけにでっけえ声でしゃべったぞ」
「思ったよりイキがいいな。やっぱり分けよう」
「そうだな。分けよう」
「先着四名様で山分けだあ!」
ますます嬉しそうに、先を争ってどっと飛びかかってくる妖怪たちを、メイはぼうぜんとながめた。破壊神と話していた時と同じ、底なしの徒労感に襲われる。
(もう……やだ)
またしても、なにを言ってもムダなのだった。彼らは破壊神同様、人間の言うことはもちろん、気持ちになんか、ぜんぜん興味がないのだから──。
「!!」
先頭を切って突っこんできたムカデの、大あごに足をはさまれそうになり、メイはあわてて足をひいた。がちん、と獲物を捕らえそこなった大あごが金属質の音を立てる。
すかさず横から一角ネズミが、ピラニアみたいな牙をむいて食らいついてきた。
灼けるように熱い、生臭い息が顔にかかる。
食われる。
ぞっと鳥肌立つような恐怖にメイは、なにを考える暇もなく跳んだ。
(……えっ?)
足もとの枯れ葉がバネになって、身体をはじいてくれたかのようだった。奇妙な加速感を感じたかと思うと、メイの身体はもう軽々と、身長の三倍の高さを舞っている。
跳びすぎて、うろの天井に背中が触れた。
「あっ……」
落ちる、と思いかけたとたん、ぐんと、身体全体に、下へ引かれる感覚が生じた。
だが真下から、大口を開けた虹色のハエが迫ってくるではないか。
「やっ……いやっ!」
メイは必死でうろの天井を手で押し、じたばたと手足を動かし空気をかいた。
そうすれば少しは、落ちる方向を変えられる気がしただけだったのだが、
「!?」
すると急に、水の中のような浮遊感が全身を包んだ。
メイはうろの出口へ向かって、つうっと空中を横すべりする。
(ウ……ウソ、変! なにこれ……ゆ、夢の中みたい……!?)
あとはもう無我夢中で、ネズミをかわし、ムカデの上を走り、メイにとっては乗用車サイズの甲虫の、背中の顔を踏んで跳び──うろの外へ飛びだした。
(大丈夫、落ちない、落ちないわ! だって、わ、わたしは……生き霊だから!)
二階建ての屋根から飛び降りたようなながめに、どっと冷や汗が噴き出す。
おぼつかない確信に見合った不安定さで、メイは、無重力空間に投げ出された宇宙飛行士そっくりにゆらゆらと前転しながら宙を飛んだ。かろうじて雑草の茎にしがみつく。
ちょっとホッとしたとたん全身に、大地にひきつけられる重力の感覚がよみがえった。
畳二畳分ぐらいに見える細長い葉はたちまちメイの、どれぐらいなのかよくわからない体重を確かに受け止め、重々しくしなう。
「……で……できた」
心臓が……生き霊には実はないのかもしれないが……飛びだしそうにドキドキしていた。
そっと、木のうろの方をふり返る。
妖怪たちはうろの入り口で互いに折り重なったまま、驚いたようにこちらを見ていた。
「おお? こいつ、意外とすばしっこいぞ」
「すばしっこいな。すっげえうまそう……」
言いも終わらず、食欲に目をぎらつかせ、猛然と追いすがってくる。
どこへ逃げればいいか考えるひまもなく、
「きゃあ!」
ネズミの一匹が雑草の幹に体当たり。メイのしがみついている茎がめきめきと倒れ出した。
メイは必死で隣の草へ向かって跳んだが、そこへ甲虫が身体ごとぶつかってくる。
「!!」
虫の脚にがっちりと抱えこまれ、メイは甲虫もろとも地面にたたきつけられた。
思いきり頭を打ってしまい、気味の悪いしびれが全身をおおう。
「獲った、獲ったぞ、やったぜ一番乗りぃ!」
甲虫の嬉しそうな叫びも、変な具合にエコーがかかって聞こえた。
(あ……いや……)
目の前でクワガタに似た大あごが開き、その中心で、ぬめる緑色の花のようなものがさらに開く。無数のトゲみたいな歯があらわになった。
(食べないで……)
思考が停止し、時間感覚が無限に引き延ばされていく。
心の底にふたたび、昨夜と同じまばゆい光があらわれるのを感じかけた、その時。
「!?」
天から、赤いマニキュアをした大きな指が降ってきて、虫をメイからひきはがした。
「ったく虫の分際で、スサノオ様の獲物に手ェ出すとはいい度胸だねっ!」
ぐちゃっ、と虫を握りつぶしたのは、ミコだった。
とっくに火傷は治ったようで、短い髪にもきれいな肌にも、なんのあとも残っていない。
ただ服装は、昨日とは違っていた。
黒のタンクトップに真っ赤な革のミニスカートをはき、網タイツの足に金のミュールをつっかけている。その色っぽい出で立ちで四つんばいになり、ミコは、クモの子を散らすように逃げる小妖怪に向かってひらりと跳ねた。
かと思うともう、黒ネズミの妖怪を一匹、黒い口紅を塗った口にくわえ獲っている。
ぶちん、と無造作にネズミの頭を食いちぎると、ミコは魚の丸焼きよろしくネズミのしっぽをつまんでぶらさげ、むしゃむしゃと丸かじりにたいらげてしまった。
しゃがんだままぺろりと舌なめずり、倒れたまま動けないメイをふり返る。
「あぶないとこだったねえ、でもあたいが来たからもう大丈夫さ」
と言ってにんまりしたミコの、笑顔の恐ろしさにメイは気を失った。
4 大きなクリの木の下で②へ続く
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