2 妖怪がいっぱい②
見ると、木の梢のあたりに、畳半分ほどもある鬼のお面が浮いている。
鬼、と思ったのは立派な二本の角のおかげだ。しかし目も、長い牙が上下ぶっちがいにはみ出した口も大きすぎ、怖いというより陽気な印象だった。肌は赤いが、いかつい顔をふちどる乱髪は枯れススキのような明るい色で、年経た大猿のようにも見える。
大きな目玉をぎょろっと破壊神に向け、顔の筋肉を生々しく動かして──笑った。
「それに……冗談ばあ言いよる思うとったが、おまえらの言うとおり、あいつはうんと強そうじゃ。ムズムズしてきたわ!」
ぐわらぐわらと笑う鬼の顔に応え、へえ、さようで、などと口々に返事の声がしたので見まわすと、いつの間にか立木や建物の陰に赤い目がびっしり生えている。
ベンチの背板にも血走った目をひとつ見つけて、あっと息をのむメイをよそに、
「ちょっとちょっとあんたたち!」
猫娘のミコは、短パンの腰に拳を当て、ぐいと強気に鬼の顔を見あげた。メッシュの入った短い髪を逆立て、黒く塗られたくちびるからちらっと鋭い牙をのぞかせる。
「この虫を横取りしようなんて大それたこと考えてんじゃないわよっ! これはスサノオ様の物なんだから、恐れ入ってとっとと退散しちまいなっ! しっしっ」
「ほー、おどれはエラそうな猫じゃのう」
鬼の顔は、気分を害した様子もなく、乱杭歯をゆるめて笑った。
「スサノオか、ハハハ。ワシゃあ若輩者じゃけえ、そがあな古い神さんの顔ァ知らんけえ」
「!?」
鬼の顔の向こうから、恐ろしく太く、長い腕が、爆発するように生えた。
いや、よく見れば生えたのではない。非常識にも頭を下に、宙に逆さまに立っていた鬼が、大きすぎる顔とススキのような乱髪に隠れて見えなかった腕を、外へ伸ばしただけ……と理解する間に、鬼は能天気な笑顔のまま、急降下してきた。
瞬間、メイは、メイとミコをベンチごと抱えつぶす勢いで迫る、鬼の両腕の巨大さに凍りつき──その手前に破壊神が白銀の髪をなびかせ、バスに乗るような気軽さで割りこんでくるのを見た。その、浅黒い頬に刻まれた無慈悲な笑みが目に入るより速く、 銀の光が三筋、流星の残像のように視野を裂く。
(えっ……!?)
確かに斬られたはずだが、鬼は止まらなかった。
小型のショベルカーのような手のひらが、左右から土をえぐってベンチにぶつかったとたん、ベンチはコンクリートの台座もろとも、ビスケットのようにあっけなく砕け散った。
「ひえっ」
ミコは足もとの地面ごと跳ね飛ばされたが、さすがは化け猫、空中で鮮やかに身をひねり、余裕で体勢を立て直す。
一方メイは、爆発同然に飛び散ったベンチの破片とともに、なすすべもなく宙を舞いながら、身体の小ささゆえか、ものごとの経過を妙に長く感じていた。
(今度は、どれぐらいの高さまで飛ばされたのかな……)
考えたくないのに、考える暇まである。
(下を見ないようにすればいいわ。そうすればきっと……死んでも怖くない……かも)
「!」
鬼と、目が合ってしまった。
鬼のごつい横顔に、落ちている肉を見つけた犬のような表情がひらめく。
小さなメイには一面のススキ野のように見える鬼の乱髪が、荒れた海面の迫力でどっと波だった。鬼は向き直り、メイに手をのばそうとする。そこへ、
「やらんぞ」
破壊神の楽しそうな声がすぐ後ろでしたかと思うと、ふたたび白銀の光が幾筋か走り、
「おうっ!?」
鬼はなんと、支えなどあるはずのない空中を大きな手のひらでたたいた。その反動を利用し、巨体にもかかわらず信じられないすばやさで、破壊神の刃を避けてのけぞる。
そのままバク転、空中高くへ逃れた。
破壊神は小さなメイのえり首をつまんで確保、ふわりと地面に降り立つ。
「ふうん、なかなか丈夫じゃねえか、気に入った」
鬼を見あげてつめたい銀の目を細め、合格だ、と言いたげな笑みを浮かべた。
メイはその肩に乱暴に乗せられてようやく、逃げた鬼を見る。
鬼は空中に、猿っぽく背を丸めて立っていた。
オランウータンとゴリラを、足して二で割ったような体型をしている。
肩も胸も岩のように幅広く分厚く、腕は拳がつま先に届くほど長い。腰だけが不釣り合いに細かったが、親指が横についた猿のような足も太く、大きかった。
顔と手足の先以外の全身を枯れ草色のふさふさした長い毛が覆い、やっぱり大猿っぽい。
「!?」
と、その赤い顔の真ん中に不意に切れ目が走り、左右が上と下へ、ズレた。
「うお、わ……た、た!」
さっき破壊神に斬られたところが今ごろになって割れたらしい。
鬼はあわてて顔を押さえてもとの位置に押し戻したが、すると今度は首がズレ、手足や胴にも次々に切れ目が入ってずり落ちそうになる。鬼はしばしばらばらになろうとする身体とあたふたと格闘したのち、結局、血の一滴すらこぼすことなく踏みとどまって、
「ううむ…………つ、強いのう」
たった今、初めて納得したかのように、大きな目を丸くしてつぶやいた。
「あんたァ、ほんとうにスサノオノミコトかもなあ!」
「だっ、だからそうだって言ってるでしょこのバカ鬼っ、謝るんなら今のうちよっ!!」
と怒鳴ったミコは、鬼の攻撃によほど肝を冷やしたのだろう、巻き添えにならないよう公園のすみの木陰に身を隠し、顔だけのぞかせている。しかし破壊神は、
「謝るこたぁねえ。おまえ、こいつが欲しいんだろ?」
メイのえり首をつまみあげ、見せびらかすようにぶらぶらふって見せた。
ふりまわされる方はたまったものではない。メイはぶれる景色に気分が悪くなりながら、吹っ飛びそうになる眼鏡を必死で押さえる。しかし破壊神はきわめて機嫌良く続けた。
「どうだ、俺と勝負して勝てたらゆずってやるぞ。もちろん、勝負の途中でかすめ取ったって文句は言わん。何人の仲間の力を借りようがおまえの自由だ。やってみんか」
言われて、鬼は素直に勝ち目を計算する目つきになり、長い腕を組む。そこへ、
「だまされてはなりませぬじゃ、しんら様」
鬼のかたわらにつうっと糸を引いて、小さな紫色のクモが降りてきた。
しゅうしゅうと、のどから空気がもれているようなかすれ声で忠告する。
「まっことそのお方が素戔嗚尊なら、先ほどのはただのお遊び。本気で戦われる際には額にもうひとつ、銀のまなこがあらわれるはず。そうなればしんら様とて、ばらばらにされてしまいましょう。決して決して、戦うてはなりませぬぞ」
クモの忠告に続いて、真昼の陽射しにきらめく木の茂みのそこかしこからいくつも、声をひそめたつぶやきが巻き起こる。
「おババの言うとおりだ」
「言うとおりだ。しかし、素戔嗚尊なんてとうに飢えて死んだと思うとったが……」
「わからんなあ。飢えとるならなんで、あの生き霊娘をさっさと食べてしまわんのか?」
「うまそうなのになあ」
「うんとうまそうなのになあ」
「さては、何百年も飢えとった死に損ないには栄養がありすぎて毒なんじゃろ」
「そうだ、かえって毒で食えないのに違いない。それならあれは、いらんものだな」
「いらんものだな。返してもらってもいいな」
「いいな」
あっという間にまとまりかける相談に、
「しんら様! ハァ、婆の言うことを聞きなされや」
紫色のクモが金切り声をはりあげて水をさす。しかし、しんらと呼ばれた鬼は、空中に突っ立ったまま、巨木の幹のような首をかたむけ、にんまりした。
「ほうか、この人が名だたる出雲の暴れ神か……豪気じゃのう! よほどの縁がのうては会えんおひとじゃ。ババよう、そうとわかれば逃げちょる場合か、罰ィ当たるわ!」
「わかってるじゃねえか」
破壊神が相好を崩す目の前で、しんらはごおおう、とつむじ風を起こす勢いで息を吐いた。
うん、とひと声、大量の空気をのみこんでふたまわり近く大きくなる。
「度胸のねえやつはひっこんどりゃええ! ワシがやる、生き霊取り返しちゃるっ!!」
(あ!)
雷鳴のような鬼の咆哮を聞いたとたん、メイはハッとした。
さっきも赤い目玉のどれかが「返してもらう」と言っていたが……。
(返せって言うってことは、もともとこの人たちがわたしの持ち主だったってことで……それならもしかしてこの人たちなら、わたしがどこの誰か知ってるかも!?)
「あっ、あの……」
しかし気づいたことを口にする間もなく、
「おい虫、しっかりつかまってろ! 落ちやがったら承知しねえぞ」
破壊神がにやっと笑う──その目の前で、宙に浮かぶ鬼が突然、三匹に分裂した。
びりびりと肌に伝わる異様な圧迫感は、増えた鬼が目くらましなどではなく、正真正銘の実体なのを告げていた。メイはあわてて足場の布にしがみつく。
三匹の鬼はそろってぎょろ目をむき、大きな拳を高々とふりあげた。
「しんら様ァ!」
悲鳴のようなクモ婆の叫びとともに、紫色の糸の束があちこちの木陰から噴出。投網のように覆いかぶさってくる。
その糸より速く眼前に迫った鬼は、破壊神めがけ、山をも砕きそうな気のこもった拳をふりおろした。破壊神は片手で、平然と受け止める。
第二の鬼、第三の鬼はしかしひるまず、止められた拳の上に、重ねて我が拳を打ちつける。
「!!」
瞬間。
破壊神の足もとの地面が、巨大な鉄球でも激突したかのように深々とへこんだ。
ずしん! と異様な衝撃に地が震え、八方へ地割れが走った。水道管が破損したらしく、あちこちで泥まじりの水が勢いよくほとばしる。が、
「いい気合いだ」
と笑う破壊神は、三匹の鬼の拳を支えたまま、立ち位置も、高ささえ微動だにしていなかった。地面が押しつぶされ沈んでしまったことになど気づいてもいないかのように、地表があった高さに平然と立っている。いや──そのなにもない空間を身軽く蹴り、
「なにをほうけてやがんだ? とっとと次の手を打たねえか!」
巨木のような腕と腕の間をすり抜け、三匹の鬼の顔の前まで跳躍するなり、からみついてくるクモ婆の糸をものともせず、真正面の鬼の、半畳ほどもある横面を、殴った。
(えっ……)
メイは、鬼の巨大な頭が、だるま落としのだるまのように、たあいなく身体からたたき飛ばされ、驚愕に大きな目をなお大きく、ぽかんとみはりながら飛んでいくのを見た。
破壊神が、無邪気なまでに純粋な殺戮の喜びに顔を輝かせて、鬼の、首をもぎ取られたばかりの真っ赤な傷口めがけ、三日月のような銀の刃を一閃させるのを見た。
しかも、斬っただけでは容易に離れないと知った鬼の身体を、長い毛を両手でつかみ、無造作に左右へ引きはがす。
「くははっ、さあ、どうするよ?」
ついに離ればなれとなった鬼の半身を蹴り落とし、半身を片手に軽々とぶら下げたまま、破壊神は白銀の髪をひるがえして宙へ跳ぶ──その背後でようやくどっと、血煙が立った。
(やっ……やめて……!)
内臓をこぼしながらたちまち黒い塵となって崩れ、破壊神の銀の刃に吸いこまれていく仲間になど目もくれず、残る二体の鬼は破壊神に躍りかかる。
「だ!!!」
「が!!!」
人ひとり、すっぽりもぐりこめそうな大口を開き、凄まじい轟音を吐いた。
あまりの音圧に空気が圧縮され、風景がゆがんだ。まともに浴びたら自分など消し飛んでしまうに違いない、とメイが思うより速く、銀の光が大気を割る。
「……!!」
鬼の放った衝撃波と、破壊神の刃が生んだ衝撃波。その激突が生んだ爆風は公園の立木をなぎ倒し、ブランコの鎖を引きちぎり、公園に面した窓という窓を粉砕した。
車道でも、窓を割られた車が数台、仰天して急ブレーキを踏む音が響く。
「楽しいなあ、おい」
ほとんど親しげに言った時には、破壊神の片手はすでに右側の鬼の、頭骨深くめりこんでいた。なにをする間も与えず、イチゴでも摘むようにあっさり鬼の首をむしり取ってのけながら、暴虐の神は少しだけさびしそうな顔をする。
「残念だ。おまえぐらい骨がありゃあ、あと千年ぐらい育ってからの方が、食いでがあって美味かったろうによ」
その額に、第三の瞳が縦の裂け目となって開き始める気配に、メイは夢中で叫んだ。
「まっ……待ってください! 殺さないでっ、その人に話を聞……」
黒い風のように、破壊神の腕がメイをかすめた。すると、
「し、しんら様ァ……!」
姿を隠し、メイを横取りしようとねらっていたのだろう。メイの目の前に老婆の顔と腕を持つ紫色の大グモが、忽然とあらわれた。無念の形相も凄まじく、まっぷたつに分かれていく。
「おババ!」
鬼の、吠えるように悲痛な叫びにメイは胸を衝かれた。
血相を変えて襲いかかってきた三体目の鬼は、確かに破壊神の第三の瞳を見たはずだ。
しかし、ひるまなかった。
ゆえに、破壊神は笑った。
極北の闇よりつめたく、灼熱の太陽より明るく──
直後、鬼はつめたい銀の輝きにみじんに斬り刻まれ、無数の肉片と化して吹き飛んだ。
◆
「これがガス爆発? 不発弾でも埋まってたんじゃないのか」
「間もなく爆発物処理班が到着します。あっ、危ないので入らないでください……そこの人! 入らないでくださいってば!」
三十分後。
立木も遊具も見る影もなく破壊され、直径数メートルのクレーターから泥水があふれ続ける小公園には、消防車やパトカーが続々と到着していた。
日中だというのに野次馬も多く、しかもみな、妙に殺気立っている。
「いいじゃないか写真ぐらい撮らせろよ! 官憲オーボー反対!」
「壊れた車の保障は誰がしてくれるの!? ガス会社? 水道会社? ハッキリしてよっ」
「だから奥さん、原因究明がすんでからじゃなきゃわからないって言ってるでしょう!」
「部長っ、本部から応援の要請が……地下街で刃物を持った男が……」
「道を空けてください、道を空けてください、救急車が通ります、道を空けて……どけってんだろこのノータリンどもっ、こっちゃあ急いでんだひくぞオラ!」
「きゃーっ、ドロボーっ」
「おっ、火事場泥棒だ! とっつかまえてフクロにしたれ!」
「お集まりのみなさん! この世は腐っているうっ!」
「はあ!? さっきの爆発で死んでたじーさんが生き返った!? すっかり元気? ぴんしゃん? ああ……ハイ、おめでとうございます。じゃ……行かなくていいんスね?」
スピーカーを切るのを忘れての救急車の中のやり取りが筒抜けになり、一瞬、その場の全員が静まりかえったかと思うと、祝福の歓声にどよめいた。
「運のいいじいさんだ!」
「あやかりたいわ」
「救急車にタッチしたら運をもらえるかな」
誰かが口走ったとたん多数が反応し、救急車のまわりに押し寄せて車体をたたき始める。
「止めろ! やめさせるんだ! 野次馬を救急車から引き離せ!」
部下の警察官にのどをからして指示し、私服の上司は、疲れきった顔で眉間をもんだ。
およそ十二時間前、非番だったのに手が足りないと駆り出されてから、一睡もしていない。
なにかが、妙だった。
殴り合いのケンカだけでなく刃傷沙汰、殺人、強盗、人質を取っての立てこもり──昨夜から、あらゆる重大事件がふだんの数倍のペースで乱発していた。
平日で特にイベントもないというのに、泥酔者保護のトラ箱もずっとパンク状態だ。
一方で、子どもが暴れているという現場に駆けつけると虐待されていた児童の逆襲だったり、強盗に入られた七十代女性が逆に強盗をやっつけてしまったり、ひきこもりのニートが火事場に突入、捨て身の人命救助を成し遂げ感謝状をもらう、などというレアケースも頻発。
加えて昨夜だけで「家に火をつけようと思ったけどやめました」「私は実は泥棒です」などと自首して来た者、実に十数人にのぼり、もうわけがわからない。
「…………」
公園地下にガス管が通っていないのは確認済み。
これは、ガス爆発ではない。
ものが焼けたり焦げたりしたにおいもまったくなかった。爆発物でもなさそうだ。
ではいったいどうして街中の公園にクレーターができ、ベンチが粉砕され、立木がなぎ倒されて周辺のガラスまですべて割れるなどという事態になったのか? しかも今までのところ、不審な人影を目撃したという証言はひとつも得られていない──。
「部長?」
いぶかる部下を手で制止し、私服の上司はひとりパトカーに入ってドアを閉めた。
あそこに通報できるのは、警部以上の階級の者だけだ。
直属の部下にも、存在を知らせてはならないことになっている。
当然だ、どうせ信じやしないからな、と考えて、彼はふん、と不機嫌に鼻を鳴らした。
警部に昇進する際、お偉方から初めてあそこの存在を知らされた時、彼もすぐには信じるどころか、お偉方の頭が変になったかと本気で心配した。山のような正規のファイルや写真を見せられても、警察官としての強固な常識がそんなバカげた存在を許さなかった。
駆けだしのころ、迷宮入りになったと信じていたある事件の真相を聞かされ、証拠物件を見せられてやっと、嫌々ながら、納得したが──。
実際通報するハメになるのは初めてである。
しばし前方をにらんで気合いをかき集め、最後はやけくそでスマホを取り出し操作する。
すぐつながった。
「もしもし、あー……」
緊張で声がかすれたのであわてて咳払い、まわりを見まわしてつい声を低める。
「……零課ですか? こいつはもしかしてその……おたくの管轄じゃないかと思ったもんですからね……ええ、はい、そうです、こちらは所轄の……」
「……えらいこっちゃ」
盗み聞いてつぶやいたのは、パトカーの車体の下をイモムシのようにはっていく鬼の指だった。指の先に小さな顔があらわれ、手が生え、見る間にむくむくと育っていく。
「しんら様!」
「ご無事でしたか、しんら様!」
車体の腹の影になったところに赤い目がぱちり、ぱちりといくつか開いてささやいた。
「なんの、ほとんど食われてしもうた。おババも……かー、まいったのう」
子猫ほどの大きさまで育ったミニチュアの鬼は、ぐすん、とごつい鼻を鳴らして玉のような涙をぬぐう。やおら立ちあがると、チビサイズのままてくてくと歩きだした。
「し、しんら様、どちらへ?」
あわてて呼び止める赤い目たちに、小さな鬼はふり向かずに手をふる。
「ワシゃあ、あの神さんにゃー勝てん。ほいじゃけえ、あの生き霊ももう知らん。あいつらんとこにも戻らん。おまえらは好きにしたらええ。じゃな」
ぴょんと跳び上がると、水面に飛びこむようにアスファルトに沈んで──消えた。
◆
「……という次第でございます。しんらめは手下を連れ、いずこへか姿をくらましました」
薄暗い板の間に湿った音をさせて手をつき、平伏した作務衣の小男は、まん丸な目ばかり大きい、不細工な魚の顔をしていた。
「捜し出してこらしめますか?」
「捨ておけ。しょせんは大義に殉ずる志も持てぬ小物よ」
上座の闇にひっそりとすわる華奢な人影が、重々しい老人の声を発する。
昔風の燭台にともされたロウソクの火が、その声音の威厳におののくかのようにゆらりとたなびき、壁に大きな影を躍らせた。
「わたくしもそれがよろしいかと存じます」
灯火近くにすわる、和装の人物が口をはさむ。
人間か、妖怪か。見た目は五十歳前後、紋付きの羽織袴で正装し、江戸時代の医師か易者のように、肩まで伸ばした半白の髪を後ろになでつけている。そんな出で立ちがさまになるだけの風格をまとっていながら、目には人をおどしつけるような光をたたえ、なぜか、虚勢を張る詐欺師のような余裕のなさも感じさせた。
「それより、当面の問題は生き霊を手にした者が、あの三日月の刃のぬし、マハーカーラであったということでございましょう」
「しかり」
と、上座の華奢な人影がうなずく。
「伝説の大神が相手では、しんらであろうとなかろうと、娘を取り返せるとは思えぬ」
「ですからあの娘はもう少し丁寧にあつかいましょう、と再三申し上げましたのに……」
和装長髪の男は、あてつけがましく嘆息した。
丁寧語こそ使っていても、上座の相手を敬ってはいないというのがよくわかる態度に、下座に平伏したままの魚怪が、無礼をとがめる目で男をにらむ。
しかし男はこれを無視し、眉根にことさら深刻そうなしわを刻んで、重々しく腕を組んだ。
「しかも零課に通報されてしまったとなれば……かかわる神が大物なだけに、課長の大谷野が出向いてくるのも時間の問題……」
「あやつが……来るか!」
初めて、上座の老人の声に動揺の色が混じった。
しかし和装長髪の男は、自分で言い出しておいて、老人のその反応は気に入らなかったらしい。気むずかしげに顔をしかめながら、皮肉な笑い声を立てた。
「なに、そうまでお気にされるほどのことはございますまい。わたくしのつかんでいる情報では、大谷野は現在九州の山奥に出張中。若さにまかせてなにもかも自分でやりたがるゆえ、急な通報には間に合ったためしがないとか。ですから一両日でけりをつければ……」
「ならばよい。とはいえ急がねば……縮身薬をもってしても生き霊はそう長もちするものではない。それにつけても……わからぬのはなにゆえ、素戔嗚尊が娘の生き霊を手中におさめられながら召し上がりもせず、高価な薬をのませてまで連れ歩いておられるかじゃ」
「報告を聞くかぎり、囮としてわざと見せびらかしている、というふうにも見えますが」
「…………」
上座の闇の中で、華奢な老人は考えこむようにゆっくりとあごをなで、すると闇が水のように波立って急につめたさを増す。
「ふむ、囮か……さても相手は神話に名を残すいくさ神、もしや……」
「我らの計画を見通された上で、暗に取り引きを持ちかけておられるのかもしれませぬな」
「さもありなん! 娘の生き霊と引き替えに、なにかを求めておられるのか、さなくば……おお! 尊は荒ぶる神の中の荒ぶる神、夜叉神様の中の夜叉神様じゃ、我らの戦いに加わってくださるおつもりかもしれぬ! ならばなんと心強いこと!」
高まる期待に老人の目が薄青い光を放ったとたん、ざあっと広がった水の気に灯火が吹き消され、板間の室内に真の闇が落ちた。
「では、わたくしが行って、大神のお考えを確かめてまいりましょう」
和装長髪の男が、袴を鳴らして立ちあがる。
「素戔嗚尊のお力添えがあれば、零課どころかこの国を転覆するもたやすいこと……なんとも楽しみなことでございますなあ!」
ふふふ、とふくみ笑ってきびすを返す男に、魚怪がふすまを開いてわきにひかえる。
男は暗闇をものともせず、魚怪の礼に送られ悠然と立ち去った。
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