1 千年にひとりのごちそう①
これは、
神に恋した少女と、
ひとを愛した神の物語。
ただし出会いは最悪だった。
月が、燃えている。
真夜中の街は明るすぎる月光に闇を灼かれ、白く、昏々と寝入っていた。
息も絶え絶えにあえぎ、よろめきながら走る小柄な少女に、目をとめる人影とてない。
大きな瞳に幼さの残る、可憐な少女であった。
しかし左右に分けて丁寧に編み、輪にまとめた巻き毛はほつれて乱れ、大ぶりな眼鏡は今にもずり落ちてしまいそうだ。
もう、走れない。
少女は必死で隠れる場所を探し、とっさに目についた木戸に手をかける。
「!!」
開いた。
夢中で飛びこんで戸を閉め、掛け金にぶらさがっていた南京錠をしっかりはめこむ。やっと少し安心して戸に背をあずけたとたん、後悔のあまりへたりこみそうになる。
そこは、墓地だった。
放置されて久しいらしく、信じられないほど荒れはてていた。草ぼうぼうの敷地にこけむした墓石が黒々とひしめき、今にもなにか出そう。反射的に引き返そうと背後の戸を手探りしたが、たった今自分で鍵をかけたばかりだ。開くわけがない。
涙ぐみながらもかろうじて覚悟を決め、少女は夜露に濡れた雑草をかきわけ、おっかなびっくり歩き出した。だが十メートルと進まないうちに、
「!」
なにか硬いものにけつまずき、思いきり草むらの中につっぷしてしまった。
童顔を泣きべそにゆがめて身を起こし、セーラー服についた泥をはらおうとしたが落ちない。
あきらめて眼鏡をひろってかけ直し、なににつまずいたのか確かめようとふりかえって──少女はぎょっと息をのんだ。
草むらの向こう、墓石の陰から、人の足が突き出ている。
骨と皮ばかりにやせこけた足であった。ぼろ布がからみついているが裸足。ひからびたミイラにしか見えず、少女はぞっと震えあがる。そこへ、
「……あ!」
墓石の陰からひょっこり、薄汚れた老犬が顔をのぞかせた。
これもひどくやせ、皮膚病にやられてハゲだらけだが首輪はしている。
少女を見るとちぎれんばかりにしっぽをふり、いそいそと近づいてきた。
熱い舌でぺろりと手をなめ、次いでセーラー服のすそをくわえると、キュンキュンと訴えるように鼻を鳴らしてひっぱる。ミイラのような足のぬしのところへ連れて行きたいようだ。
「そんな……あの……わ、わたし、い、い、急いでるんですけれど……」
相手は犬だ。言い訳などしている間に立ち去ってしまえばいいのだが、よほど気が弱いのかお人好しなのか、少女は結局犬の求めに従い、恐る恐る墓石の陰をのぞきこんだ。
「…………」
ぼろ布にくるまって地べたに横たわる人影をみとめて、少女はしかし、いよいよ青ざめる。
あれほど勢いよくつまずいたのだ。熟睡していても目を覚ますのが普通だろう。なのに飼い犬らしい老犬がクンクン鼻を鳴らしてつついても、なんの反応もない。
行き倒れか、それとも殺されて捨てられたのか。わからないがやはりこれは死んでしまっている……と思いつつも、少女は老犬のすがるような視線に負け、横たわる人影にそろそろとにじり寄った。ぼろ布の間からこぼれる、夜目にも白い長い髪に目をとめて、
「あの、お……おばあさん? こ、こ、こんなところで寝てらっしゃるとカゼひきますよ」
場違いなことを口走ってしまいながら、震える指先で相手の肩に触れようとする。瞬間、
「!?」
やせさらばえた手が獲物に食らいつく毒蛇の牙のようにひらめき、少女の手首をつかんだ。
少女は仰天して手をひっこめようとしたが、万力にはさまれたようにびくともしない。
悲鳴もあげられずに立ちすくむ目の前で、白髪の陰に沈む、相手の骸骨めいて暗くしなびた顔に、刃で切り裂いたような鋭い光の亀裂が生まれた。
亀裂はゆっくりと広がり、煌々と銀に輝く、真冬の月さながらにひややかな双眸と化して地べたから少女をにらむ。
「……誰が、ババアだと?」
思いがけず若々しい少年の声を耳にし、少女は自分の勘違いに気づいてうろたえた。
「あっ、す、すみません! ごめんなさい、暗くてよくわからなくて、わたし、あの……」
「ふん」
少女を見つめる白銀の瞳が急に、興味を失った様子で半ば閉じる。白髪の少年はあっさり少女の手を放すと、はしゃぐ老犬をじゃけんに追い払い、大儀そうに寝返りを打った。
「クソ……生き霊かよ。しけてやがる」
「えっ、い、生き霊!? どっ、どこにですか?」
青くなってまわりを見まわす少女に、少年は背を向けたまま辛辣に舌打ちする。
「アホウ。おまえ以外の誰がいる」
「……え? わ……わたし?」
その時、少年に甘えていた老犬が不意にがばっと向き直り、ぐるるると牙をむきだした。
同時に少女も、自分の背後に集まりつつある異様な気配に気づいてすくみあがる。
(追いつかれた!)
だが、そう直感する一方で、少女の心の中に初めて、素朴な疑問が生じていた。
(追いつかれた? って……でも……なにに?)
考えてみればそもそもいつ、どこで追われ始めたのかすらはっきりしなかった。
ずいぶんと長い間、死に物狂いで逃げてきたような気がするが──と、そこまで考えてようやく、少女はもっとずっと根本的な問題に気づいて愕然とする。
(わたしは……誰?)
背後で、ぎぎぎがぐう、となにかがふくみ笑った。
ぴちゃくちゃちい、となにかが甲高くおしゃべりする。
老犬が負けじと薄汚れた毛を逆立て、ワンワンワン! と勇ましく吠えたてた。
少女はゆっくりと、背後に目を向ける。
燃えるような月のもと、鼻が曲がりそうな悪臭と悪夢の極彩色が墓地を蹂躙していた。
虫の脚を生やした異形の胎児たちが水ぶくれした頬を寄せあってキイキイ笑い、狼の口を持つ時計は血走ったひとつ目をぎょろつかせて泣いている。ふためと見られぬ溶け崩れた顔が青白い茎の上に続々と花咲く足もとでは、月光にぬらぬら光る腐った内臓のようなものが、おぞましい影の口から緑のよだれをたらし、じゅうじゅうと草むらを焦がしていた。
(……わたし、きっと夢を見てるんだわ)
少女は思った。
(ほら、ぎゅっと目をつむって、ひとつ数えて、ゆっくり開いたら……覚める)
「…………」
目を開いても化け物で埋まった墓地は相変わらずそこにあったが、その時、少年の犬が吠えるのをやめた。
放たれた矢のように猛然と突進、手近な化け物の脚に噛みつくと、勇猛な猟犬のうなりをあげて首をふりたて、食いちぎろうとする。
しかし化け物は表情も変えず、おもむろに細長い手をのばして老犬の頭をつまんだ。
他の連中もわらわらと寄り集まり、老犬の四肢や尾をつかむ。次の瞬間、
「!!」
ギャッ、という総毛立つような絶叫を残し、老犬の身体はばらばらにひきちぎられた。
月光に黒々と飛び散った鮮血が数滴、少女の頬にも熱いしずくとなって当たる。
「き……」
極限の恐怖に凍りついた少女の瞳はまたたきを忘れた。見たくないのに、ばりばりくちゃくちゃと、スナックのようにたあいなく食われていく老犬の末路から目が離せない。
なにも考えられなかった。わかっているのはただ、次は自分だということだけ──。
「うるさい、黙れ」
足もとからぴしりと言われて初めて、少女は自分がのども裂けんばかりに悲鳴をあげていることに気づいた。叫ぶのをやめると酸欠で頭がふらつき、急にあたりが静かになる。
「そうだ、黙ってろ。せっかくの空気が苦くなる」
少女には、少年がなにを言っているのかよくわからなかった。
それよりも、目の前で自分の犬が殺されたというのに、少年の声がどこか浮かれているように聞こえるのが気になって、ぎくしゃくと首をめぐらし、少年の方を見る。
「…………」
少女はぼんやりとまばたきした。
ついさっき、あんなにやせ衰えて見えたのは、夜闇ゆえの目の迷いだったのだろうか。
悠々と頬杖をついて横たわる白髪の少年は、さっきとはうって変わって生気にみなぎっていた。見るだけで魂まで凍えさせる、恐ろしく無慈悲な微笑を浮かべた頬も磨きあげた鉄のような暗色につやつやと輝き、いかにも健康そうだ。
「やせ犬一匹を分け合うとは仲のいいことだ」
白髪の少年はおののく少女には目もくれず、化け物たちにからかうような声をかけた。
「だがそんなことで腹がいっぱいになるかよ、ええ? 考えてもみろ、どうせなら仲間を出し抜いてひとりじめにしちまえば、ずうっとたらふく食えるってもんだろうが」
無言で顔を見合わせる化け物たちを、少年は寝転がったままけらけらとあざ笑う。
「グズどもめ! 一匹じゃいつメシを食うかも判断できんのか。クソ虫以下だなあ!」
悪臭ふんぷんたる化け物たちにとっても、この言葉は侮辱であったらしい。ぎちぎちと怒りにきしむ彼らの輪郭が、見る間にひとまわりふくれあがった。
一匹が侮辱の返礼か、下水の逆流するような嫌な音とともに、未消化の汚物にまみれたなにかを吐いてよこす。
「……!」
鈍い音をたてて墓石にはね返り、少年の目の前まで草むらの中を力なく転がってきたものは、殺された老犬の首輪であった。少女は全身の血の気がひくような衝撃をおぼえたが、ふと目に入った少年がうっとりと、愉悦に近い表情を浮かべているのを見て目を疑う。
「!」
瞬間、ドッジボールの球を受けそこなったような衝撃に額をたたかれ、少女はあっ、とのけぞった。間一髪、牙をむいた化け物の影が鼻先を黒い風のようにかすめ過ぎる。
少女は驚いてバランスを崩した。が、彼女の腰が草むらに落ちるより速く、
「!!」
まばゆく輝く流星が突如、視野一面に音もなく降りそそぎ、美しい白銀の軌跡で夜空を縦横に分割したように見え──そのとたん、先を争って襲いかかろうとしていた化け物たちもまた数センチ四方に分割され、ばらばらの肉塊と化して吹っ飛んだ。
生臭い突風がどっと真夜中の墓地をなで、草むらをなぎ倒す。
血まみれの肉片があたり一面に飛び散り、墓石にべちゃぐちゃとはりついて汚らしくその表面を伝った。と思う内にどの肉片も黒っぽい塵となり、カビの胞子めいて崩れていく。
すとん、と少女はしりもちをついた。
月光が冴え冴えと明るさを増す中、死んだ化け物たちの塵が渦を巻いて集まってくる。
少年が、悠然と立ちあがった。
(あっ……!?)
そのとたん、少女は息ができなくなった。まわりの空気がいきなり深海の水圧を獲得したかのようで、今にも押しつぶされてしまいそうだ。
石になったように動けない少女の前で、塵の渦へ向かって手を差し出す少年の肩から、ぼろ布がすべり落ちた。長い白髪がむき出しの背に、魔獣のたてがみのようにひるがえる。
「…………」
見れば、小柄な少年であった。ぼろ布の下の上半身は裸で、密林の狩人か古代の戦士のように月光に隆々たる陰影を刻んでいるが、平均的な中学生より小柄だ。しかし、その小さい立ち姿が今や、太陽か月でも体内に宿しているかのように、一種異様な重量感──いや、物理的引力にもひとしい超常の圧迫感を放ち、まわりの空気をゆがめていた。
しかもその腕からは、刃だろうか、月の縁をそぎ取ったように鋭い、つめたい銀にたわむ光が生えており、あっという間に化け物たちの塵をのみほすと、カタツムリの触角のようにやわらかそうに縮んで体内に消える。暗い肌には痕跡すら残らなかった。
「なんだ、まだいたのか」
ふり向く少年の額に第三の、満月の輝きをたたえた瞳が鋭く縦に開いているのを目の当たりにして、少女はやっと、理解した。
あの化け物たちだけでなく、この少年もまた、人間ではなかったのだ。
そしてそう納得したとたん、少女は、全身が砂になって崩れていくような無力感に打ちのめされた。ここは本当に日本なのか。自分は誰なのだろう。これが現実ならもうなにもできる気がしなかった。逃げるどころか息をすることも、存在し続けることさえ……。
「クソ、苦いっ」
白髪の少年が不意に強烈な嫌悪に顔をゆがめ、ほんとうに苦いものが口に入ってしまったかのようにぺっぺっとわきにつばを吐き捨てた。
その額で第三の瞳が跡形もなく閉じ、すると、夜空をゆがめていた異様な圧迫感も消え失せた。少女は思わずホッと息をつく。
「このクソアホウ! 根性なし! とっとと失せろ、せっかくの後味が悪くなるっ!」
ぽんぽんののしる少年も、今は普通の……とは言えないかもしれないが、いちおう人間に見えた。少女はしかし、気持ちが楽になったとたん、あることに気づいてハッとする。
あわててまだ力の入らないひざをはげまし、墓石にしがみついて立ちあがった。
「あっ、あ、あの、た、助けていただいて……その、ありがとう……ございました」
恐怖と緊張にどもりながらも、なんとか感謝の言葉をしぼりだす。
あの一瞬、化け物に食いつかれずにすんだのは見えない衝撃に突き飛ばされたおかげだ。
なにをどうしたかはわからないが、少年がやったとしか考えられない。しかも、彼のおかげで恐ろしい追っ手はすっかりいなくなったのである。相手が人間だろうとなかろうと、ここはちゃんとお礼を言わなくては、と考えたのだが、
「助けただあ? ケッ、寝ぼけてろ! きさまのようなクソ苦いヘタレの命が混じっちまったらせっかくのメシがだいなしになるだろうが!」
少年はふり向きもせず、しっしっと追い払うように手をふった。
「行っちまえ。二度とこのあたりには近づくなよ!」
「……す……すみません」
少女は消え入りそうになってうつむき、素直に立ち去ろうとしたが、考えてみればどこへ行く当てもない。思わず少年を見たが、あの一方的殺戮を〈メシ〉と称するような恐ろしい存在にあえて道をたずねる勇気もなく、とほうに暮れて立ちつくす。
少年は、少女の存在などすでに忘れた様子で、ぼろ布をひろいあげた。
それなりに大事にしているのかどうか、黒っぽい大きな布を片手で器用にひるがえし、マントのように肩に巻きつける。最初に寝ていたのと同じ場所にまた腰をおろそうとして、足もとにゴミでも見つけたらしい。無精にも、無造作に足で蹴りよけた。
「……!」
ゆがみのきた自転車の車輪のようにふらふらと少女の前に転がってきたのは、化け物が吐きだした老犬の首輪だった。ぱさりと草むらに倒れて止まる。
血と汚物にまみれた首輪をぼうぜんと見つめるうちに、少女は唐突に、自分でも思いがけないほど熱い怒りが、ふつふつとこみあげてくるのをおぼえた。
そう、この少年は人間ではない。しかもあんなにも圧倒的に強かったのだ。
なのになぜ彼は、主人を守ろうと命がけで奮戦した老犬を見殺しにしたのだろう?
いや、それどころか……。
「ど……どうして……」
少女は拳を固く握りしめたまま、憤りに震える声が自分の口からこぼれるのを聞いた。
ふり向いた少年のうるさそうな表情にひるんだものの、あふれだした言葉は止まらない。
「なんであんないいコの首輪を蹴ったりするんですか! あ、あなたの犬なんでしょう!?」
「バカ言え。俺が犬なんか飼うか。あいつは勝手にそばにいただけだ」
「そっ、そうだとしてもあのコ、あ、あなたのことを守ろうとして死、死んだのに……!」
「それがどうした。俺がたのんだわけじゃねえ」
そのとおりだ。確かにそのとおりだったが、少女はますますかっと頭が熱くなる。
しかし少年は、怒りに震える少女を見て、かえっておもしろがるような笑みを浮かべた。
「ふうん、うす汚い野良公が最期にひと花咲かせたのがそんなに気に入らんか? カイセン病みの老いぼれにしちゃ、なかなかの気合いだったじゃねえか! くく、まあ、かなわねえ相手に真っ正面からかかっていくようじゃ、若くても役には立たなかったろうがなあ」
「……こ、この……」
のどもとに熱いかたまりがつかえ、憤りの涙に目がかすむ。
「ひとでなしっ!!」
叫んでしまった瞬間、少女の視野をまぶしい光が、真っ白に塗りつぶした。
◆
「!?」
空は確かに夜なのに墓地の中だけが真昼の明るさに包まれ、その奇妙な光の中でなにか見えない力がでたらめに荒れ狂っているようだった。風もないのにあちこちで草むらが踏みつけられたようにつぶれ、墓石までごとごとと揺らぎ出し、次々に倒れていく。
「あ……!」
気がつくと、すぐそこにいたはずの少年が数メートルも遠ざかっており、なおも自分を押しやろうとする見えない力に逆らって身をかがめていた。空気は動いていないのに、少年の白髪も衣服も吹きちぎられんばかりになびき、踏みとどまろうとする足は土に深々とめりこんでいる。その、目をかばうようにかざされた両腕が、この光に耐えられないのか、ちりちりと泡立ちながら焼けただれていくのに気づいて少女は真っ青になった。
いったいなにが起きているのか。あわてて敵の姿を探しかけた時、
「くっくっくっ、こいつぁ驚いた」
少年が心底愉快そうにのどを鳴らして笑い、煙をあげる腕の陰からこちらを見た。その瞳に、活きのいい獲物を前にした猛獣の笑みをみとめて少女は息をのむ。
(まさか、これ……わ……わたしが!?)
その時、少年の額に、あの恐ろしい第三の瞳が開こうとする気配がした。
間違いない。純粋な狩りの喜びに燃える少年は、反撃に出ようとしていた。
あの銀色の刃の乱舞で他ならぬ彼女を、細切れの肉片に変えて食う気なのだ──と、そう悟ったとたん、少女は恐怖の悲鳴とともに目をつぶり、頭を抱えて縮こまった。
「ごめんなさい! す、すみません、許して……あなたになにかするつもりなんかぜんぜんなかったんです、ほんとです! ほ、ほんとに……」
「…………おい」
予想した刃の代わりに、頭の上から降りかかってきたのは少年の、不満げな声だった。
「おいこら。返事ぐらいしねえか!」
「は……はいっ」
「どうしてせっかくのやる気をひっこめちまうんだ?」
「…………はい?」
なにを言われているのかよくわからず、少女は恐る恐る薄目を開いて様子をうかがう。
さっきまでの明るさがウソのように、当たり前の夜の暗さがあたりをおおっていた。
墓石はもう動いておらず、少年の白髪ももう、なびいてはいない。その腕の火傷が、早くも治りかけているのを月光をたよりに見てとって、少女は安堵のあまり涙ぐんだ。
「ご、ご、ごめんなさい、ほんとにわた……わたしがそれ……や、やったんですか」
「アホウ! どうせ謝るんなら途中で怖じ気づいたことの方を謝りやがれ、腰抜け!」
「すっ……すみません」
「バカ正直に謝るんじゃねえっ!」
ではどうすればいいというのだろう。なすすべもなく、涙目でがたがた震えるばかりの少女を見下ろし、少年はあからさまに嫌そうに顔をしかめた。
「なんだぁ、そのざまは! てめぇあんだけの力持ってておびえるしか能がねえのかよ!」
「ち、ち、力なんて……知りません」
少年は皮肉な冷笑に口を曲げただけであいづちも打たない。少女は気圧されながらも必死に、
「ほんとです! あれはなんか勝手に……だってわたし、な、名前も思い出せないのに」
言ってしまったとたん一気に気持ちがくじけ、こらえていた涙がどっとあふれてきた。
「も、もうやだ、わ、わたし、どうすれば……な、な、なんでこんなことに……」
あとはもう言葉にもならず、しゃがみこんだまま止めようもなくぼろぼろ泣き出してしまう。
そのとたん、少年がいかにも動転した様子で数歩後じさる足音がした。
「なっ、なんてことしやがんだこのクソ女っ! 空気が苦くなるって何度言ったら……」
「?」
目をあげると、少年は、まるで泣く少女から激烈な悪臭でもするかのように顔をかばい、半ば逃げ腰で距離を置いている。少女はなにか、とほうもなく恥ずかしいことをしでかしてしまったような気がして頬を赤らめ、あわててポケットからハンカチを出し涙をふいた。
「ご……ごめんなさい」
「だからいちいち謝るなってんだ! おまえ、そこまでめめしくて恥ずかしくねえのか!?」
「は、恥ずかしいです。ごめんなさ……」
失敗に気づいて口を押さえようとして、少女はきょとんと自分の手を見た。
一瞬だけだが、てのひらの向こうが透けて見えたような気がしたのである。
半信半疑で手を左右に動かしてみたとたん、見間違いでないことがはっきりした。手を透かして草むらが見える。墓石も見える。月も、少年まで……。
「怒れ」
不意に、少年が険しい表情で言った。
「怒れ! 早く! 理由なんかなんでもいいから……」
言いも終わらず、悪夢めいた速さで瞬時に少女のかたわらに立つ。
いきなり、まだそこに転がっていた老犬の首輪をめちゃくちゃに踏みつけ、踏みにじった。
「そら、怒れ」
どこか底抜けに子どもっぽい、自分勝手な期待に輝く顔で言われて、少女は困惑した。
自分の透けた手は気になるし、少年の足の下でつぶれた首輪を見ても悲しいだけだ。
「なにグズグズしてんだ? さっきはこうしたらすっぱり気持ちよく怒ったじゃねえか」
いらいらとせかす少年に、
「ご、ごめんなさい、でもわたし、今はとてもそんな怒ったりなんかできな……あ!」
また謝ってしまったと気づいて少女はあわて、反射的に出かけた謝罪の言葉をなんとか寸前でのみこんだ。さしもの少年もあきれたのか、むっつり黙りこむ。と見えたが、次の瞬間、
「えいクソっ! もったいねえ!!」
というわめき声と同時に、少女はぐいと乱暴に腕をひっぱられた。
あっけなく足が宙に浮き、特急にでも飛び乗ったかのような強烈な風が、全身をたたく。
「!?」
墓地と墓地を囲む塀は、瞬時に視野から飛び去った。
見知らぬ夜道が、かすむ速さで流れて行く。
いや流れるばかりではない。遠ざかっていく。ひっそりと軒を寄せあう家々の屋根も、立ち並ぶ街灯の光も、見る間に足もとはるかに小さくなっていくではないか。
少女はあぜんとして、つかまれている手の先を見る。
白髪の少年はべつに翼を生やすでもなく、絵本から抜け出た妖精のように、身ひとつで平然と、夜空を飛んでいた。
「…………」
耳もとでごうごうとうなる風音を聞きながら、徐々に、飛行機の飛ぶ高さを生身で飛んでいる、という非常識な事態への実感がわいてきて、少女はようやく激しい恐怖をおぼえる。
が、それが悲鳴になるのを待たず、少年がふり向きもせずに怒鳴った。
「わめくなっ! いいか、俺のそばでは恐れるな。不安がるな。絶望するな。めそめそするな! 今度クソ苦いまねしやがったらこのままドブ川にたたきこむぞっ」
「は……はい」
この高さから捨てられてはかなわない。
少女は血の気の失せたくちびるを噛みしめ、少なくとも悲鳴はあげまい、と決意する。
だがやはり怖くてたまらないのでせめて気を紛らわせようとなけなしの勇気を奮い起こし、どこへ行くんですか、ときこうとしたその時、
「たしかこのへんだっけな」
というつぶやきとともに、少年がいきなり下へと向きを変えた。
「!!」
頭からまっしぐらに地面へ向かうのである。恐ろしい速さでぐんぐん近づいてくる街並みに少女は真っ青になって目をつぶり、あやうくあふれかけた絶叫を噛み殺した。
(こ、怖くない怖くないっ、まさかこ、このままつっこみはしないはずだもの……!)
夢中で自分に言い聞かせる間もなく少年が急停止し、当然の結果として少女は慣性の法則に従い、恐ろしい勢いで前へ、いや正確には下へ投げ出される──。身体が目をつぶった闇の中でぐるんと一回転し、少年につかまれたままの腕がちぎれそうに痛んだ。
「バカか、おまえは」
少年のため息まじりの悪態を頭上に聞いてやっと、少女は目を開き、足もとを見る。
揺れるつま先すれすれの近さに、アスファルトの路面があった。
少年が手を放した。少女はあぶなっかしく着地すると足もとの大地の確かさに死ぬほどホッとしたが、身体の重みを支えられず、くたくたとその場にすわりこんでしまう。
「頭の固いやつだな!」
ふわりと、体重などないかのように目の前に降り立った少年がうなった。
「生き霊の分際で落ちることができるほど重さにこだわりやがって! 今のおまえに重さなんかねえんだよ。ありていに言やぁ身体もなけりゃ足もない。おまえがあると思うからそういう形になってるだけなんだ! だからそのまま消えてなくなりたくなかったら、歩いてでも火の玉になって飛んででもいい、好きな方法でさっさとついてこい!」
「え……あ……」
待ってとたのむひまもなく、少年は肩にまきつけたぼろ布と白髪をひるがえし、すたすたと先へ行ってしまう。少女は、立ちあがろうと地面についた手が半透明なのを見てもまだ、自分が生き霊だとは信じきれずにいた。しかし、ともあれ少年が助けてくれようとしているのは確かに思えたので必死で立ちあがり、転がるようにあとを追う。
「…………」
路地を出ると、ネオンが明るさを競い、怪しげな看板が乱立する歓楽街が広がっていた。
嬌声をふりまきながら行く女性の一団とすれ違ったとたん、あまりの酒臭さに息が詰まる。
蛍光色のはっぴを着た呼びこみの男たちは、やる気のあまりか殺気立ち、今にも道行く客につかみかかりそう。スーツ姿のビジネスマンも、スマホに向かって怒鳴っていた。遠目にちらっとだが、本気で殴り合う集団まで見かけた。
(よ……夜の街っていつもこんななの? ここ、ほんとに日本?)
少女は生きた心地もせず、少年の後ろで半透明の身を縮める。
しかも、こんなに大勢人がいるのに誰ひとり、ふたりの方を見もしない。
いや、道ばたで、黒布を張った台にアクセサリーを並べていた若者がひとり、少女の視線に気づいたらしくふり向いた。その無表情な目がぼうっと、夜闇に青白く発光する。
「これはなんと、おめずらしい。天魔王様がおなごの魂を連れてござる」
老人の声でつぶやいたのは、売り物台に置かれていた木彫りのフクロウの方だった。
「とうに亡くなられたとばかり……」
「ではさきほどのただならぬ霊気はやはり、あなた様だったので」
「どうりで今宵の街は常より荒れ気味。ご健勝のご様子、謹んでおよろこび申し上げます」
真鍮のカニや張り子のライオン、時計のついたピエロ人形が口々にうやうやしく挨拶するのを無視して少年は行きかけたが、当てにしていた目印が見つからなかったらしい。舌打ちしてきびすを返すと、台の上の作り物たちにひややかな銀の視線を当てた。
「アイシャはどこだ」
「姫にご用で」
木彫りのフクロウがゆるりと首をかしげる。
「用がなきゃ捜すかよ。おまえがここにいるからにはやつも近くにいるはずだ。どこだ?」
はやくもいらだつ気配を見せる少年を前に、木彫りのフクロウは太った身体をひと揺すりするとたちまち本物のフクロウに変わり──いやきっと木彫りのふりをしていただけなのだろう──綿毛さながら音もなく飛び立った。
「ご案内いたしましょう。ここ五十年ばかり、やれ建築基準がどうの、耐震基準がどうのとこのあたり一帯取り壊したり建て直したり。引っ越しばかりさせられておりましての」
「店は今もやってるんだろうな? 言っとくが歌の方じゃないぞ」
「もちろんですとも。どちらも姫の大切なご道楽にございますれば」
少年の背後に隠れるように従う少女を、値踏みするような、物欲しそうなまなざしでちらりと盗み見て、物言うフクロウはゆるゆると、ただようように飛んでいく。
入り組んだ暗い路地を三度ほど曲がり、ビルの裏手にまわって狭い階段を下りると、そんな場所には不似合いな、黒々と磨きこまれた年代物の木の扉があった。
「どうぞ、こちらでございます」
アンティックなデザインのライトに羽根を休めて告げるフクロウを、ねぎらうどころか見もせず、少年は扉を押す。少女はあわててあとについて入りながらふり返り、
「あの、あ、案内してくださってありがとうございました」
代わりにフクロウに礼を言った。
物言うフクロウはよほど意外だったのかぐうっと百八十度首をめぐらし、頭だけ逆立ち状態で大きな目をぱちくりさせる。重い扉は手を放すとすぐに閉じてしまい、おかげで少女はフクロウのひとりごとを聞かずにすんだ。
「はぁて、天地がひっくり返っても姫へ手土産をお持ちになるような御仁ではないが、ご自分で召し上がるにしてはなんとも覇気のない……いやさ、行儀の良すぎる娘だの?」
1 千年にひとりのごちそう②へ続く
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