最終章最新重版時追加部分
これで読者もわかっただろう。魔皇リーエマは底なしのアホである。誰もがみな彼女を絶対の神聖として信じて強い憧れを持つことは私もよく理解している。だがよく思い出して欲しい。その憧れに合理的な理由はあるのだろうか。そう、無いのだ。憧れが先にあり、理由が後にある。しかも、その理由すらよく考えてみればバイアスにまみれた勘違いだ。読者が、世界の誰もが魔皇リーエマに憧れる理由など、なにひとつとして存在しないのだ。
どこまでもずぼらで、三日坊主以前に3日も何かが続くこと自体がまずない。発言は思慮にかけ、他人を思いやる気持ちなどない。あるように見えても、それは自身のペットか所有物を愛でる気持ちと本質は同じである。自分の失敗は他人のせい、他人の成功は自分のもの。語彙力は小学生以下でバカ以外の罵倒手段を持たない。調子に乗るまでのハードルはルンバでも乗り越えが可能で、いつでもそこから掌返しが可能。自分より強い者に弱く、自分より弱いものには絶対無敵。
明智光秀のハゲ頭をいじり、あまりのパワハラにキレた光秀が信長とともに本能寺を焼いた際には自分だけ秘密通路から逃げて信長を見捨てる。犬をかわいがろうと綱吉と意気投合し、日本史上最悪の法律生類憐みの令制定の際には江戸の民が飢えに苦しむ中でわんわんランドにて嫌がる犬の腹をなでまわし、その悪法が撤廃される際にはお得意の掌返しで綱吉を批難。もちろん解き放たれた野犬の駆除は見てみぬふりだ。沖田総司はイケメンだから無罪で、近藤勇は強面だからと切腹すらさせなかったルッキズムの塊。しまいには自分自身のためにと決起した陸軍将校達を直前まで応援していたのにいざとなるとはしごを外してオロチに焼かせ、その後は知らぬ存ぜぬを貫いた有り様だ。
他にも彼女に人生を狂わされた日本人は、時の大将軍から八百屋の娘まで3ヶ月に1人のペースで登場する始末。もはや聖竜とも呼ばれる竜吉公主がその手を汚す他なかった中国三大悪女筆頭の西太后の悪女っぷりが小物に見えてしまうほどのどす黒く巨大な邪悪である。そして西太后のように自らの利益や権力のために意図的に悪行を成しているわけではなく、ただ考えなしに害悪をばらまいているだけでこの1850年まるで成長しないのだからもはやマリー・アントワネットも真っ青である。
そんな彼女が評価される唯一の点。それこそ、今に至る日本の覇権を築いたことだった。歴史は勝者によって作られ、彼女は人類史究極の勝者となった。だから魔皇リーエマを神聖視することは自然なこと。それが今まですべての歴史家の定説だったが、それを誤りであるとしたのが本書の内容だ。
確かにその極まった弱さは最終的な勝利につながった力だった。だが考えてみてほしい。もう、我々は勝利したのだ。なら我々は親愛なる彼女に習おう。そう、はしごを外すのだ。あんなへっぽこクソ女のことなど忘れ、合理的で理想的な日々を生きよう。
魔皇リーエマが未来に残してくれたものは何も無い。あえていうなら、自身を反面教師にしろという教訓だけだ。読者よ、人々よ、世界よ。そのチートから、解き放たれる時は今だ。人は己の意思をもって合理的に生きるべきだ。もしその合理を忘れるべき時があるとすれば。それは、誰かに愛を伝える時だけでいい。




