第6話「世界は書き換えられていた。俺はそれにずっと気付けなかった」
「浩様、ご結婚おめでとうございます!」
1770年、春。九段下の軍人会館で開かれた結婚式には日本と大韓帝国両国の重鎮が顔を揃えていた。名家の淑女、嵯峨浩様。彼女が大韓帝国の皇帝、愛新覚羅溥儀陛下の弟にあたる溥傑様とご結婚されたことは、まさに流転を続けたアジアに統一国家が誕生した象徴的出来事だった。
イギリスの阿片貿易に対抗するために結ばれた日清同盟。そこから日英戦争、日仏戦争、日露戦争と共闘した後、竜吉公主は朝鮮半島の白頭山に帰還しその帰属を数千年振りに中国から朝鮮へと移した。
これには当然中国国内からも大きな反感が集まったが、日本との蜜月の橋渡しとなっていた大韓帝国情勢を含めて彼女の主張する「1つの中国、1つのアジア」が国民にも受け入れられ、そして今回のご結婚へと繋がった。
「これでようやく私の夢見た1つの中国……いえ、1つのアジアが生まれたのですね」
「そうね。乳がデカいだけのあんたにしちゃよくやったんじゃない?」
元寇でのトラウマも記憶の彼方。竜吉公主を煽る魔皇リーエマ。公主もそんな彼女に何故か苛立ちを覚えることなく、彼女の神聖を前に優しく微笑み返した。
「ま、あんたの政治は優秀だしね。それは認めてあげる」
「まぁ、魔皇様みずからそのようなことを」
「でもね、1つだけ言わせて。共産主義。あれはダメよ」
竜吉公主の微笑みがピクりと凍る。西欧の思想家が解き、ロシアを革命へと導いた未来の自由平等思想。競争を是とし資本主義化を影で進める竜王バハムートに対し、平和で平等な世界のための共産主義思想を奨励していた竜吉公主は、その言葉にだけは頷けなかった。
「……理由をお聞きしても?」
「あんたの言う共産主義ってやつはさ、あらゆる富を均一化し再分配するシステムよね?」
「そのとおりです。天は人の上に人を作らず。あなたの国の偉大な先生が言った言葉です」
「そうね。一見そう聞こえる。でもね、考えてみたの。もしも私が魔皇なんかじゃなくて、お米作って生活するだけの平凡な農民だったらどうだろうって」
「あら、魔皇様ともあらせられるものが、なんと想像力豊かな……それで?」
ずっと皇帝の隣に立っていた自分には想像できるできない以前に想像しようとも思わない思考。公主はその新鮮な考えに微笑ましく笑い返した。そんな彼女と目をあわせたリーエマはふふんと鼻息を荒らげた後で胸を張ってのドヤ顔で宣言を返す。
「畑を捨てるわね! 私一人が働かなくても大したことない! もしそれが許されないまでも手を抜くわ! それでも均等にお金がもらえるなら、それがとーぜん! 天才の思想よ!」
その時、公主に電撃走る。理想を信じながらも最良の未来を描く公主に、そのような愚かな発想は生まれ得なかったのだ。
「まぁ私ほどの天才がどれだけいるのかわからないけど、あんたの国ほど国民が多ければ、1000人に1人くらいは同じことを考えるやつがいるわよね。で、その天才たちが楽な生活をしているところを見たら周りもそれが賢い方法だとさすがに気付く。するとどうなるかしら? 天壌無窮の神勅、維持できる?」
「そ、それは……」
事実、最近の中国は農作物の収穫量が減衰する傾向にある。国の主導で進む重工業産業の生産力も予測よりも上がっていない。竜吉公主にはその理由がわからなかった。だが今、魔皇リーエマとの会話でついにその答えにたどり着いたのだ。
(バカの考え休むにすら至らず……! それは、賢人の予想を遥かに下回る……! 私は、人の愚かさを過小評価していた……!)
わなわなと両手を震わせつつ、竜吉公主は魔皇リーエマに頭を下げた。
「申し訳ありません、魔皇リーエマ様。高貴なあなたに、このような道化を演じさせてしまい……」
「ん? え? なんで?」
「しかしおかげで目が覚めました。共産主義政策の中止、確かに大韓帝国と清の両皇帝に進言致します」
「あー? うーん……まぁわかってくれたみたいだし、今日の主役の二人も幸せみたいなのでおっけーです!」
何気ない世間話をうまい感じで終えたような気分で魔皇リーエマはばちこーんとウィンクを決めつつ片手でグッドサインを突き出した。こうして式場の片隅で最終的な世界の未来を決定させる決断がなされていたことは、歴史上誰も知らない。
「私共の幸せを祝福していただき、誠にありがとうございます」
「ヒロちゃん! 白無垢とってもきれいだね! いいなー! 私もお嫁さんになりたいなー!」
今日の主役、嵯峨浩が優しい笑顔でリーエマに声をかけた。
「ふふっ。ありがとうございます。でも、リーエマ様も女性ですから。望むなら嫁入りもできるでしょう」
「うーん、でも私ってばみんなのアイドルだし、魔皇だからなー」
「魔の王と書いての魔王ではなく、魔の皇帝と書いての魔皇……そういえば、何故リーエマ様はそのような立場を名乗られたのですか?」
今更とばかりに疑問を口にした竜吉公主に、リーエマが昔を語り始める。
「いや、私は元々魔王の娘として生まれたのよ。それで、父様のアドバイスを受けてオロチと契約を結びに行った帰り道にね、アホ面さらして伸びていたあの奴隷を拾ったのよ。今でこそ結構強いあいつだけど、当時はただ不老不死なだけで、ウサギ一匹捕まえられないノロマクズだったの。二兎を追って一兎も捕れないやつはセンスがないのよ! 狩りが得意だった私の手ほどきがなければ、何もできないようなやつだったわ」
「玲司さんもそんな時代が……信じられませんね」
「確かに。逆の方が想像できるのに」
「あはは! そんなわけないっしょ~!」
ふたりの不敬を咎めることもせず笑って流したリーエマが話を続ける。
「で、そんな私の偉大さを見たあいつが言ったのよ。あなたは魔王の器になど収まりきらない、王を超えた皇帝、魔皇となり世界を導いてくれ、と」
「なるほど……つまり、リーエマ様は玲司さんのために魔皇をやっていられるのですね」
「そうよ! あの奴隷は我が国最初の民で、最初の臣下なんだからね! あいつがいなけりゃ、魔皇なんて面倒なことやるわけないわ!」
自信満々に胸を張るリーエマに、浩が優しく微笑んだ。
「それなら、玲司さんとご結婚されれば良いではないですか」
「へ?」
突然の提案に素っ頓狂な間抜け面をさらすリーエマ。
「確かに。というか、あなたがご結婚されるなら玲司さん以外にありえないでしょう」
そんな二人の言葉にリーエマは茹でダコのように顔を真っ赤にした。
「あ、あああ、ありえない! ありえないわ! あいつは奴隷よ! 奴隷! 私のド・レ・イ! そんな卑しい身分のやつと、高貴な私がけ、けけけ、け……結婚!? ありえない! ぜぇぇぇえええったいに、ないっ! そうでしょう!?」
キッとリーエマの瞳が二人を睨み付けた、その時。キィィンと小さな音が響いたような錯覚と同時に、それまで優しく微笑んでいた二人の目から生気が抜けていった。
「そうですね。失礼しました」
「魔皇様が奴隷と婚約など。そもそも、神聖なる魔皇様が婚約などありえません」
「でしょ!? そうでしょ!? わかればいいのよわかれば!」
相手二人の変化に気付くこともなく、どうにかの取り繕いを保ったリーエマは少しだけうつむき、誰にも聞こえない声で呟く。
「そうよ。ありえないわ。いくらあいつが私に優しくしてくれても、それは私が魔皇で、あいつが私の奴隷だからなの。そうじゃなかったら、きっと……うん。どんなに私があいつを大切に思ったとしても、この関係は壊しちゃダメ。ありえない。絶対に……ありえない」
一方、噂の奴隷である玲司は丸メガネが特徴的な男から茶封筒を受け取る。一言二言の会話の後で男は玲司に一礼の後にリーエマへと歩みを進めた。
「おや、魔皇様! どうされましたか? グラスが空ですよ! どうぞどうぞ! いやぁ、魔皇様には本当にお世話になりました! あなたのお言葉がなければ私も今頃……」
そんな男と入れ違いで玲司と会話を始めたのは、この式の主役のもう片方である大韓帝国の皇帝溥傑だった。軽い世間話を何往復かした後に、溥傑は今までと同じ世間話感覚でこう切り出す。
「正直を言えば、私はこれを政略結婚だと考えていました」
その溥傑の言葉には、思わず玲司も驚かされた。
「しかし、それでも浩は素晴らしい女性です。たとえきっかけが国家の意向であったとしても……私が素晴らしい女性と巡り会えたこと、そして、今の私が幸せであること。それは揺るぎない事実なんですよ、玲司さん」
玲司はそれが世界情勢の傀儡とされた口から出た発言ではなく、包み隠さない彼自身の本音だと理解して深く頷きを返した。
「改めて、ご結婚おめでとうございます、溥傑様」
「ありがとうございます」
溥傑は皇帝の弟という高貴な身分にありながら、ただの奴隷に深々と頭を下げた。流石にその姿は周囲で見ていた両国首脳陣に衝撃を走らせ、冷たい視線が玲司に集中する。
「あああ! 頭! 頭をあげてください! あ、いや、確か大陸の乾杯の風習って偉い人がグラスを下げたら周りはそれより下にグラスを下げるっていう……お、俺土下座すればいいんすかね!? します! 土下座します! させてください!」
そうして玲司が見事なジャンピング土下座を決める様子に、両国首脳達はやれやれとため息をつき土下座する奴隷を見下してから視線をそらした。そんな一触即発の雰囲気すら愉快そうにくすくすと笑って見せる溥傑は、まさに人生幸せの絶頂にあったのかもしれない。
「ところで、玲司さんはリーエマ様とご結婚なさらないのですか?」
「はぁ!? なんであんなや……」
突然のセリフに顔を真っ赤にしての否定を返そうとした玲司の顔色が、不自然に変わる。恥と気恥ずかしさに染まりかけたその目は、一瞬で明鏡止水の静けさへと変化した。
「いえ、神聖不可侵なるリーエマ様に恋心など」
「それは当然ですね」
対する溥傑もまた、まるで傀儡の操り人形のような生気のない顔でそれに答える。そんな二人の会話を、シリコンの血液が流れる一匹のドラゴンが見つめていた。
左手に魔皇リーエマが自分のために作らせたコンサートホールを見つつ、玲司は九段の坂を登る。この先には、元寇の際に竜吉公主の飛び蹴りで蒸発した鎌倉武士達が風葬されたことをきっかけとする慰霊の社が存在する。その社の本来あるべき名前を知っていた玲司は、そこがまもなく始まる大戦争で命を落とすだろう英霊たちの魂の安らぎとなってしまうだろう現実に胸の痛みを覚えていた。
歴史の流れは阿片戦争の日清連合勝利によって大きく変化した。それでも、世界は確実にあの大戦へと進んでいる。欧州情勢は複雑怪奇。来年の総裁選の最有力候補として平沼騏一郎の名前を見た時、もはやどうあっても変えられない大いなる流れがあることを、嫌というほどにわからされていた。
負けるわけにはいかない。魔皇リーエマによる天壌無窮の神勅が約束された国土が焼かれることなど、あってはならない。事実としてアジアが1つになった今、そのような絶望的未来は回避できるはずだ。
しかし、それでも戦死者は無数に登るだろう。そうして大勢の命が失われ、この先の丘の上の社に還ることを、本当に自分は「必要な犠牲だ」と言い切れるのだろうか。言い切ってしまって良いのだろうか。
玲司の立場は奴隷である。魔皇リーエマの側近を許され、異世界の歴史を知る語り部としての才を認められてもなお、彼が国の政治に口を出す権利はない。
元寇の当時、防人の早めの招集を実現させるだけの権力があった彼も、文明化に伴う肥大化と複雑化を進め、選挙で選ばれた政治家が内閣を形成し動く国となってしまった今はもう真の意味でただの人でしかない。それは、溥傑が頭を下げた際に彼へと向けられた冷たい視線からも見て取れるだろう。もはや彼に出来るのは、見守ることだけだった。
「それでも……この力があれば……」
玲司が小脇に抱える茶封筒には、3方向に伸びる菱形のエンブレムと、極秘のスタンプが押されていた。彼がその封を解こうとした、その時。
「そういう物を、外で開いてはならぬな」
びくりと鼓動をはねさせた彼が声に目をやると、そこには薄汚れた茶色のコートを羽織った老年の男が立っていた。彼は男の名を知っている。いや、彼は男の真の姿を知っている。
「オロチ……様……」
「まぁ座ると良い」
くいっと首を動かしたオロチに従う形で、玲司は社の大鳥居の前の石の階段に腰を下ろした。
「よもやこんなとこまで来てしまうなど。わしの前に生け贄に捧げられた小娘が、あの頃と変わらぬ愚かさのままで日本を統べているという事実は、話だけ聞かされても誰も信じまいて」
「でしょうね。一体何が彼女の力なんだか」
「あぁ。そうだな。わしもさっぱりわからぬ。故に……恐ろしい」
普段の威厳がまるで感じられない蜉蝣のような声に驚いた玲司が思わず右を向いた時。そこでは手をわなわなと震わせるオロチの姿があった。
「あの者の目だ。あれを思い返すと、頭の中がかき乱されるのだ。何者かの力で記憶が、思想が、わしのわしたる根幹が書き換えられていくような感覚。だがそれも一瞬。すぐにわしは彼女こそ絶対的神聖を持った不可侵なる存在として認めることに疑問を挟まなくなっておる。おぬしにはそのような経験は……なかったか?」
「それは……」
あった。一度や二度ではない。何度も何度もあった。あったはず、なのに。
「いえ、一度もありません。魔皇リーエマ様の神聖は本物です」
「で、あるか」
その冷めた感情のない言葉に、オロチは一度ため息を挟んで目を閉じ。そして、カッと目を見開くと同時に両手の震えを強引にねじ伏せてその爪で自らの胸を貫いた。
「かはっ……!」
「オロチ様!? 何を!?」
「黙って見ていろ!」
オロチの歳は既に9000。竜種としての平均寿命を大きく超えたその体には確実に衰えが出ているはず。そんな老体に鞭を打ち、彼はその胸から流れるシリコンの血液を玲司へと浴びせた。
「オロチ様! オロチ様!」
「はぁ……はぁ……どうだ? 魔皇リーエマは、今なお絶対神聖たる存在か?」
「今はそんな常軌を逸した低俗さでバカの極みたるへっぽこクソ女のことなど……はっ!?」
口からこぼれたのは間違いなく彼の本心だった。だがその本心が偽りであるかのような錯覚が同時に駆け上がってくる。絶対の神聖、救いようのないバカ。2つの相反する思いが渦巻く中、オロチが玲司の体を揺する。
「言え! お前の本心を言え! お前にとって魔皇リーエマとはなんだ!?」
「お、俺の……卑しい奴隷である俺のマスターで……」
「それだけか!?」
「丁寧にブロッコリーだけ残し、ゴミを部屋に投げ出したまま寝るずぼら女で……」
「それだけか!?」
「日本を統べるにふさわしい現人神で、太陽の化身で……」
「それだけか!?」
「いつだって他人を嘲り笑い、国と彼女を愛するあまりに急ぎすぎてしまった青年将校達の不始末をオロチ様に押し付けてなおそれを忘れようとする恩知らずで……」
「それだけかぁぁぁっ!?」
目から流れる赤い血はシリコンではなかった。無作法で強引に書き換えていくチートに対し、ちっぽけな人間の意志が足掻き、もがき、苦しみ、そして。
「それでも俺は! わけわかんないし、全然合理で説明できないのに! リーエマが、好きになっちまったんだよぉぉぉおおお!」
その叫びにオロチはにやりと笑って。
「なんだ、言えるじゃねぇか」
こうして転生者近藤玲司は、女神のチートを上書きした。季節は4月。九段の坂に桜の花びらが舞う夜のことだった。
「だが、大変なのはこれからだぞ。お前の恋が叶うか否か。その前にこの国は、最後の試練に向き合わねばならぬ」
まとっていたコートを破って簡易式の包帯としたもので手当を受けつつ、オロチは背中に向かって語り続ける。
「西欧諸国との最終戦争……」
「蹂躙されることはないだろう。だが、人死の数はもはや想像もできぬ。お前は勝算を見るか?」
「わかりません。俺の知る歴史はもうあてにならない。それにもしもあてになるなら、それは日本の敗戦を意味します」
「そうか……だが、力はあるのだろう?」
そう言ってオロチが視線を向けた先にあったもの。それは、先程玲司が開きかけた極秘資料。稀代の天才技術者にして天才魔道士でもあった男、堀越二郎の傑作。試作名称、十二式人竜一体折張金強化魔導装甲。後の採用時の正式名称は零式神竜武甲、略して「零竜」の設計図面だ。
「わしに乗れ。背中を許す」
そして歴史は、最終局面へと進んでいく。




