蛇足 伯爵令息、行雲流水
エクレール侯爵家といえば、興国から存在している貴族のひとつであることは歴史書にも、三族名鑑にも記載されている至極当然の事柄。
エクレールは貴族家の栄光と没落が移り変わることが常の世の中で、歴代皇帝のどの御代でも変わらず政治の中枢に存在している。
現侯爵は『宰相補佐室付き』、侯爵家縁の者たちの『何とか大臣付きかんとか』などそれなりの役職名を与えられているが、これは家名のみではなく、個々の能力を買われてのことだ。
では、未来の女侯爵の婿となるはずだった彼はこれから先、何の能力を伸ばし買われどこに配属になるのか――現在高等部の彼は学舎に併設されている図書館にいた。
カスター・エクレール。
エクレール侯爵家の分家にあたるエクレール伯爵家長男、15歳。
年齢よりやや大人びた佇まいと風貌に美しい赤毛を持ち、パッと見で人目は引きやすいが何となく印象は強く残らない。
エクレール家のこれまでの実籍から皇太子シフォンの側近候補として、学舎では彼に侍っている。
そんな彼は現在、気だるげに頬杖をつきながら三族名鑑を流し読みしている。
そして、長机を挟んだ向かいに座って難しい顔で勉強している幼い少女――実際己より3つ年下の、自身の従妹でもあり婚約者でもあった――をそっと窺い見る。
(よくこんなに頑張る、さーすが)
彼女は本来ならば侯爵家の後継者となるはずの、エクレール侯爵の娘、シャンティ。
自身と同じ血を感じる、赤毛。
本来とても艶やかでさらさらとした美しい髪だが、今は2つに分かれきっちりとした三つ編みに結ばれている。
あえてかけている分厚い眼鏡のせいでその奥にある大きな瞳も見えにくい。
シャンティは学舎ではわざわざ顔の造りが分からないようにしていて、その雰囲気までも近寄りがたく変えていた。
単なる身内贔屓かもしれないが、彼から見てシャンティはかなりの美少女で、もう少し成長すれば貴族の間でちやほや――忖度込みで――されているマカロナージュ公爵家の娘よりずっと美しくなるだろうことは簡単に予想できた。
だが、彼女が自身を隠す格好をしている理由も理解っているので何も言わない。
更に努力を惜しまないこのシャンティにこそ『国母』という誉れの冠を被せるべきではないだろうかとまでカスターは思っている。
このある種、崇拝じみた考えはややキモチワルいと自覚しているので、そんなことを考えていることは誰にも、当然本人にも伝える気はさらさらない。
彼がこんな風に年下の従妹に対して、尊敬というにはやや重みのある思いを持つようになったのも、2人の関係性とこれまでの経緯のせい。
カスターとシャンティは彼女が生まれた時からの付き合いだ。
シャンティが生まれてすぐに、カスターが婚約者に指名されたものの、兄妹のように近しく育てられてきた。
そのため共に過ごした時間がお互いの親より多くなり、ちょっとした仕草や話し方の癖まで同じになってしまうほど。
そんなだから婚約者という事実があっても、カスターが年頃になっても全く意識することなどなかったし、シャンティも同じで、よく初恋は親戚のお兄さんだとか言うが、そういうこともないまま。
カスターはそれで良かった。
仮にシャンティに好きな男ができたとしても関係性は変わらないし、周囲を黙らせるよほどの才能を持っていない限りはカスターを夫の座から下ろすことは出来ない。
自分との間に後継者となる子供を最低ひとりでも許してくれれば、シャンティが愛を貫いて全然構わないし、なんなら別邸にでも移動してひっそり暮らすくらいの気持ちがあった。
これはカスターもシャンティをそういう対象として見ていないし、自身も恋愛を経験したことがないせいもあるし、貴族教育が成功している証でもある。
ところが、これが覆った。
2年前、シャンティが10歳を過ぎたところで弟が生まれ、周囲は一変する。
――侯爵待望の男子。
それであっさりとシャンティは後継者から外れた。
更に『万が一ということもある』と侯爵が皇太子妃候補にと皇家に名乗りを上げた。
これはある意味エクレールとして当たり前の選択だった。
こうして当然一族以外には公表していなかった2人の婚約はすんなり――カスターの母以外には――解消される。
あの日のシャンティの荒れ様は筆舌に尽くしがたい。
もちろん婚約解消を惜しんだからではない。
カスターには何の打つ手もなく、かける言葉も見つからない。
かつてどんなに厳しい勉強内容でも泣かなかったシャンティの、慟哭が漏れ聞こえるそれをドアの前で項垂れて受け止め、ただ立ち尽くしていた。
侯爵の夫となる未来はなくなったが、カスターが彼女の従兄という事実も、シャンティの支えになる立場も変わらないと思っていたのに、己の無力っぷりを突きつけられてしまった。
それでもシャンティは一晩で立ち直り――そう見せかけているのは分かった――前を向いている姿に胸を打たれ、こうして彼は見事な崇拝者となった。
あの日の痛々しい姿を思い出し、ページを捲る手を止めれば、目に入ったのは皇族の文字。
彼女が皇太子妃を目指すなら、皇族の近くに侍り、歩むはずの輝かしい道の露払いをするつもりだった。
皇太子であるシフォンと同級生で、運良くというよりは当然側近候補にも名が上がっていたが、これまではそれを先延ばしにしてきていた。
側近候補というだけで他人から注目されることが多くなるのはなるべく避けたかった。
むしろ側近の取り巻き辺りが妥当な位置だった。
だが、話が変わった。
一族の姫が皇太子妃候補に名乗りを上げたなら、そうなるように推していかなくてはならない。
だから側近候補も受け入れたし、シャンティのついでのような顔をして図書館にも来ている。
名鑑の皇族のページを飛ばせば、忌々しい文字が目に入る。
マカロナージュ公爵家。
(……ヴァニラ・マカロナージュ)
その公爵家の娘である彼女もまた同級生だ。
シフォンはまだ婚約者を決めていないのに、さも自分がそうであるかのように振る舞う女。
シフォンを筆頭に、側近候補たちの間では評判の良くない女。
女同士の噂話はえげつないと聞くが、男同士――いや、シフォンの優しげな見た目とは裏腹に彼は明け透けに物を言うので、忖度なしの男同士の女性品評会の内容も中々エグい。
そのおかげで、彼女が皇太子妃に選ばれることは永久にないことを知っていた。
シフォンは物語の王子様然とした見た目と、その高貴な生まれのせいで、幼年部から初等部にかけて散々な目に遭ってきた。
今ではおかげで女嫌いとまではいかないものの、女性不信気味に陥っている。将来の皇帝としては大変ヤバいかもしれない事態。まだ女好きの方が未来は明るいが、大人たちは『若い頃の潔癖さだと』深刻に考えていないのがまた不安を煽る。
(まあでも、それはシフォンの問題だし)
そして素のシフォンはどちらかというと、研究家気質で口が悪い上に、しょっちゅう授業もサボっている。
だがその立場に無責任というわけではない。
そもそも学舎は彼のための箱庭であり、人材育成と発掘の場である。
息抜きしたっていいじゃん、というのが彼の本音だ。
シフォンはそして抜け目ない。成績は贔屓なしで上位から落ちたことがない。やらねばならないことはきっちりやるし、人も裏の裏までよく見ている。
カスターを側に置いているのもそうだ。
そんな彼は、ヴァニラを――というよりもマカロナージュ家自体を『世間知らず』だと唾棄した。
ヴァニラもまた幼い頃から、その身分により将来が決まっていた。
ただし、一方的に。
ヴァニラに悪気もなければ、そう育てられただけで罪もない。
あるとすれば無知の罪だろうか。
シャンティが幼い頃から必死に学んでいたことと比べ、ヴァニラは後継者教育を受けているわけでもなく、蝶よ花よと甘やかされて育てられてきている。
淑女たれと育てられるのは、貴族の女に生まれたからにはごくごく当たり前。
皇太子妃に相応しいからといっても、特段幼い頃から学ぶことなどあまりない。
よく物語にある影の歴史だの何だのは皇帝となる者だけ知っていれば良い。
そもそも、興国から続く旧い家ならその辺のことはしっかりそれぞれの家で好きに何かしら残されているものだ。
どんな国にだって、後ろ暗い歴史も隠したい変事や不祥事は大なり小なりあるものだ。
綺麗な水に魚は棲めない。上に立つものは清廉潔白でいられない。民がそう望むから見せかけているだけで。
とにかく。
マナーなどの一般的な教養は高位貴族ならば出来て当たり前なことだし、皇族の特殊なマナーやしきたりなどは婚約時代にそれなり、嫁いでから本格的な教育を受ける(様々な理由で解消になることもあるため)。
確かに語学は共通語だけでも全く困らない。皇室付きの通訳はその都度付く。
それでも目指すなら主要な友好国の幾つかくらいは話せるのが理想だが――ヴァニラにそのつもりはなさそうだ。
更に皇太子妃となるなら、それなりの派閥を率いることになるが、本人は仲良しやおべっか使いを取り巻きとして侍らせるものの、彼女らを統率しようとする意志はこれっぽっちもない。
そして、ただ、物欲しそうに見つめるだけ。
じとーっと、物陰からひたすらシフォンを物言いたげに、時にガラス越しに、時に隣にいながらも黙って熱く見つめる。
これにシフォンはかなり参っていた。
彼を取り巻くグループにいたカスターも、初等部からずっと彼女の、一見慎ましくいじらしいストーカー行為を見てきたひとりだ。
彼女の見目の美しさは、過剰な賛美ではあるがまったくの嘘ということはない。
見た目だけならカスターだって『きれいだね』と評する。
それだけ。
中身がない。
だから『何も出来ない』お人形と揶揄される。
すっからかんだ。
いや、あるのかもしれない。だが、シフォンどころかカスターにも全く分からない。
そしてヴァニラは彼女に気に入られようと動く者を注意しない。容認黙認し、好きにさせている。
自身の日課にしか興味がない。
彼女らの行き過ぎた、くだらない嫌がらせで逃げた者もいる。
それをいつの間にか邪魔者がいなくなったとでも思っていそうだった。
実際、問題を問い詰めても『知らぬ存ぜぬ』で逃げ切るつもりなのだろうということだけは嫌でも分かる。
しかし、そのせいでシフォンの周囲は常に厳戒態勢で、皇室勤めの童顔騎士が側近候補の生徒に扮して護衛していたくらいだ。
あからさまに出来ないのがまたこの身分社会の面倒なところ。
かと言って、例え学舎の建前に身分差を問わないとあっても、そもそも学舎は貴・華族でなければ通えないのだとしても放っておくわけに行かない。
できるだけ穏便に済ますのがこっそり護衛を付け、未然に防ぐこと。
堂々と護衛を付ければスイツの貴族の多くを罰しないといけなくなる。
何て頭の痛く、そして程度の低いことだろうとシフォンたちは自嘲しているが。
そしてヴァニラの取り巻きたちが必ずしも彼女の味方とは限らない。
愚かな足の引っ張り合いには親たちの目論見が透けることもある。
ヴァニラを陥れ、マカロナージュ家に瑕疵を与えようとするための。
――しかしながらそれは、皮肉なことに現在において意義は失われてはいたものの、マカロナージュはその興りに相応しく正しく皇帝の盾として機能していると言って良い状況でもあった。
※蛇足はややシリアス気味というか
本編の主役を取り巻く人たちの関係性や肚の底などが垣間見えます
そのため全年齢からR15に念のため引き上げました
読んでくださってありがとうございます┏(ε:)و ̑̑