中編 お嬢様、合縁奇縁
ヴァニラが家に閉じ籠ってから一週間以上が過ぎていた。
彼女はこの間、侍女を介して大衆紙を買い漁らせ、それはもうしつこく読み耽っていた。
マカロナージュ家に新聞は届くが、大衆紙は置いていない。
あれらは有名人著名人の作り話じみた噂話や他人の色恋沙汰や刃傷沙汰、犯罪記事は良くも悪くも無責任で興味本位な内容を取り扱い、主に三民のガス抜きとして読まれる下世話なものであったので、この家に持ち込まれることは本来なら絶対にないことだ。
ヴァニラは両親以外の他者からの情報が欲しかった。
新聞記事では淡々としたものだったが、大衆紙は違う。
醜聞狙いの記者によって、皇太子の婚約者となったアイシア・アフォガートの情報が予想通りこれでもかと詰め込まれていたのを貪るように読む。
帝都の三族専用の学舎には通わず、色々とユルい女学院に通っていること、金や権力を匂わせているために魔導研究所から勧誘されるのではないかということ――さらに幼い頃と、最近ではあるがかなり遠くから撮られたようなアイシアの写真も載せられていた。彼女の幼い頃のものは髪がボサボサで目も鋭くキツく、本当に獅子のようだった。
記事は他にも『父に付いて他国を巡り男漁りをしていた(ことはない)』『女学院への多額な寄付の見返りは……(三族なので真っ当な事柄)』『突然見初められた彼女の裏の顔を激白する関係者(という記者自身の妄想)』などなど実際はでっち上げも甚だしいものばかりだが、アイシアについてのことは真実なのだ、と頭に血が上りきっている彼女は全ての内容を信じた。
こうなってくると誰かに思いの丈を聞いてもらいたくて仕方なくなってくる。
母だけでは足りず、侍女たちは基本的に家具のようなものだから話し相手にならない。
知った情報を共有し、それについて語りたい欲求が募るものの、ヴァニラにはそうできる友人がいなかった。
友人がいないわけではないが、取り巻きも含め彼女たちは皆結婚してしまっていて、卒業以降付き合いがない。
いや、結婚式なり某かのパーティーだので会うことはあるし会話も普通にする。するけれども、どうしても会話の内容が『夫人』と『婦人』では隔たりがあって続かなくなってしまう気がヴァニラにはあった。
だから、まるで狙ったかのようなタイミングで連絡と誘いを知人から受けた時は、ヴァニラは内心で小躍りしつつ、気落ちしていて気乗りしない風を装ってしまった。
そして待ち合わせる。
場所は帝都一等地にある小洒落たカフェの個室。
ヴァニラの知らない店だ。
店内は落ち着いた店構えと同じく、賑わっていたが騒がしくはない。客層が良いようね、合格だわと店員に個室に案内されながら周囲をチェックして評価する。
そうして通された個室にいたのは見知らぬ女だった。
息を呑んで固まったヴァニラに彼女は微笑む。
「ふふ、お久しぶりです。ヴァニラ様……食事は取られていらっしゃって? 顔色がよろしくないようですが」
学舎卒業以来久々に会った目の前の彼女――シャンティを見てヴァニラは目を瞪る。
学生時代の面影はなく、まるで別人のようだ。
彼女の学生時代は髪をしっかり結い、分厚いレンズの眼鏡を掛けかっちりとして……言い方は悪いがもっさりとした印象を受ける少女だった。
高等部の趣味の会で話すようになった、貴族エクレール侯爵家のシャンティというヴァニラのみっつ年下の令嬢。
それが今やまるで大輪の華のように、蕾が花開いたように艶やかな大人の女へと変貌している。
あの頃の結われた濃い赤毛はまるで色を付け直したかのように明るく鮮やかで、あの不恰好な眼鏡をやめてしまえば、吸い込まれそうなほど大きな瞳が真っ直ぐこちらを射貫いて煌めいていた。
待っていたシャンティの、テーブルに両手で頬杖を付き首を傾げたその姿は過去のシャンティがよくしていた態度。
昔と違うのは、どこか感じるあざとさとこちらを見下すような表情。
それが過去と現在を結び付けた時、石を飲んだような息苦しさと重苦しさが胸にくる。それは覚えのある感覚だった。
ふと自分を襲った既視感にヴァニラは形の良い眉を顰めた。
(……確かあの頃も)
あの頃――学生時代。
こうやってシャンティを前にしていた時だ。
* * * * *
もう卒業も半年以内に迫ってきたある日。
ヴァニラはいつものように、昼休憩をランチルームのシフォンが見える位置に陣取っていた。
天気が良ければシフォンたちはランチルームと隣接しているテラス席にいる。
そのテーブルに女子が混じることがないことはすでに暗黙の了解だ。
「本命はヴァニラ様ですかね」
ヴァニラの視線の先を同じく見ていたシャンティがふふっと肩を竦めて笑う。
「……そう、かしら。あの方からまだはっきり言われたわけではないの」
「でも、もうヴァニラ様しかいらっしゃらないじゃないですか。ここには」
シャンティは眼鏡の縁をくい、と自身の指の背で押し上げた。目が悪く眼鏡を愛用しているが、お洒落と言えない分厚い眼鏡を掛けた人が大抵醸し出す真面目そうな印象を彼女からも受ける。
おそらくもともとくりくりとした大きな瞳なのだろう、それは眼鏡越しでも愛嬌があり、好奇心に輝いているのが分かる。彼女がヴァニラをそういう目で見つめてくるのは嫌いじゃなかった。
シャンティは頭の出来が良く、飛び級で上がってきた子女のひとり。
それでシフォンに声掛けしてもらっていたが、他の女子と違って頬を染めて舞い上がるようなことはなかった。それもヴァニラにとって彼女の好感度が上がった要因のひとつだった。
けれど何だか――その視線が今は棘を孕んでいるように感じて居たたまれない。
「直接お話があったわけでもないし……」
「卒業してからなんじゃないですか? 今は学生ですもん。遊びたいお年頃というか」
「……あそびたい」
ヴァニラがきょとんとした顔で繰り返すと、彼女は頷く。
「男性が――って一括りにしちゃいけないんですけど。私の婚約者もそんな感じですし」
「えっ」
驚いて見つめてくるヴァニラに、シャンティは微笑む。
「あなた婚約者がいらっしゃるの?」
「……ああ~、言ったことなかったですもんね。でも私ももう14歳になるので。まあ家からは皇太子妃候補に上がれと言われてたんですけどね」
その言葉にヴァニラは言い知れぬ不安を抱き、やや胡乱な瞳を向けてしまったが、シャンティは鼻で笑った。
「だって、シフォン様はこの11年、誰もお決めにならなかったじゃないですか。しかも同学年にはあなた様がいらっしゃる。家から皇太子を落とせと言われた娘たちも、皆諦めて婚約者作りに精を出さなきゃいけないわけですよ」
明け透けで諭すような物言いにヴァニラが目を白黒させているのを見て、シャンティは愉しげにくふくふ含み笑う。
「正直、私はまだ良いですけど、皇太子の婚約者候補にもなれないまま16歳になるのは焦ると思うんですよねえ。その点ヴァニラ様はほら、由緒正しき貴族の公爵家のご令嬢。優秀なお兄様もおられて後継者教育も順調とか。じゃあヴァニラ様はお嫁に行かなきゃいけません。シフォン様の婚約者候補の最有力者ですし、実際もう国内にはヴァニラ様しかいないじゃないですか」
だから、とシャンティは口角を上げる。その表情はヴァニラの胸に黒い染みを残す。何だかちょっと、嫌なものだった。
「……だから、本命ではない女と遊びたいんですよ。もしかすると将来の愛人候補を見繕っているのかも」
「……そんな、だって、まだ婚約者も決まっていないのに」
「決めてしまってからじゃあ大手を振って遊べませんもん。私が婚約者がいることも、それが誰かと特定することもあえてしないのは、お互い学舎にいる間は見て見ぬフリをしようって約束だからなんです。別に私たちは本来なら自由恋愛だって認められてて、誰と付き合おうが、一線越えようが、好きにしていいんですからね」
言われてみれば、シフォンに付きまとっていたのに消えたご令嬢方は別に世を儚んだわけでも、どこかの家が消したわけでもない。
単にシフォンを諦め、他の人と婚約を結ぶなり、とっとと嫁いで退学してしまっているのだ。
「――ヴァニラ様だって、羽目を外されてもいいんじゃないですかねぇ?」
突然放たれた思いもよらないその言葉にヴァニラは固まる。
シャンティは微笑んだままだ。
大きな瞳が愉しげに細められたのはメガネ越しにも分かる。
「別に純潔を散らせと言ってるんじゃないんです。ほかの男性を見る機会があったっていいと思うんですよね……ほら、今目があった彼」
シャンティの目線を追えば、シフォンのいるテーブルの端、気だるげに片肘ついて頬を乗せる彼が、彼女の言う通りこちらを見て口角を微かに上げていた。
「……いかがです? 彼も満更ではないと思いますけど?」
そう言って頬杖をついたまま首を傾げる彼女にヴァニラは眉根を寄せた。
* * * * *
唐突にあの出来事を思い出す。
ヴァニラはその一件が不愉快で、シャンティとの付き合いを止めて今の今まで忘れていた。
自分の純粋な想いもシフォンも汚された気になったからだ。
ヴァニラとの関係性もはっきりしていない上に、愛人を持つどころかお互い恋人さえもいなかったのに。
しかもシフォンから言われたならともかく、単なる傍観者、第三者から言われることほど腹の立つことはない。
――慰めてくるならまだしも、遊べだなんて。
「……ごきげんよう、お久し振りねシャンティさん」
「ヴァニラ様が卒業されてからお会いしてませんものね。おかげさまで結婚して家を継ぎましたの」
「シャンティさんが?」
まだ若いのに? とヴァニラは疑問に思う。
「一人娘でしたからね。あの当時は色々とありましたけど、結局結婚してしまいました……まあ私の話なんて今はどうでもいいですね。……ご連絡差し上げた時も伺いましたが、ヴァニラ様は大丈夫ですか? ああ、その前に何か頼みません?」
シャンティは姿勢を正すと、メニューをヴァニラの前に広げる。
「各国で嗜まれるお茶とお菓子を揃えてあるんですよ。色とりどりで面白いの――あっ、申し訳ないけれど、対外的に私の方が爵位が上なので敬語は外しちゃいますね」
そう言ってシャンティはくふふと含み笑う。
この独特の笑い方も変わっていない。
ヴァニラは、シャンティがメニューをこれがあの国の紅茶、これはあちらの国の黒豆茶などと指し示すのをぼんやり見ていた。
あんなに心を占めていたシフォンへの想い――アイシアへの負の感情は新しい刺激によってすっかり飛んでしまっている。
シャンティの変貌、自分から彼女を避けてそれを忘れきっていたことを思いだし、のこのこやってきて自分は何をするつもりだったか。
何もなかったように彼女の前で自分はただ誰かへの悪口雑言――それも真偽不明な――を捲し立て、あわよくば彼女の口からもそれを言わせようとしていた。
しかも再会してわかった。
ヴァニラはシャンティを遥かに下に見ていたことを。
学生時代の見た目、家柄や爵位だって大昔ならともかく、現在序列として下位でもなければマカロナージュ家より劣っている訳でもない。
むしろエクレール家は政治の中枢に食い込んでいる国にとって大事な家だ。
ヴァニラはそれを自覚すると、とても恥ずかしくなりいても立ってもいられない気持ちになってしまった。
「……おすすめで」
もう、シャンティのおすすめにしてもらって、早く飲んで帰ろう。
勢い込んで来た分、何だかどっと疲れがやって来る。
この一週間以上、いやこれまでの20年近く気を張っていたことや諸々がヴァニラに一気に押し寄せて来ていた。
シャンティは目を細めて微笑みながら頷くと、テーブルの上のベルを鳴らす。
「――では、頼みましょうか」