しょうずかばあさんの御利益
しょうづかばあさんのお話し
駅の西口から荒川の方面に300m位下っていくと左手に春日神社があります。そこを左に行き。さらに小道を左に行くと、空き地があります。そこにはいくつかの墓がありますが。その中に石仏としてのしょうづかばあさんがでんとあるいはゆったりと座っています。これは正式には奪衣婆と言うそうです。
多くの地獄絵図に描かれる奪衣婆は、現世での悪党に対して、三途の川で亡者の衣服を剥ぎ取る役目をする官吏である。服を着ていないものは身の皮を剥がれるのである。三途の川の渡賃を持っていなものはその代わり衣服を剥ぎ取られる。上尾の奪衣婆はしょうづかばあさんと言う。衣服を剥ぎ取ったり、身の皮を剥ぎ取ったりはしない。しょうづかばさんの石仏の周りを掃除したり草をむしったり、あるいはこのばあさんお酒をたしなむらしくて、竹筒に少々のお酒お供えしていると、耳だれが治ったり、悪い疫病も治るという、言い伝えがあります。
この石仏は今を300年も前、五代将軍綱吉の頃に柏座村の住人が立てたといいます。座った姿勢で、胸ははだけて、二つの乳がぶら下がり、左手に衣を持ち、右手は膝においている。顔は柔らかく、怒っているようにも見えるが、にやりと笑っているようにも見えます。拝む相手によって人相が変わるようです。不思議な顔ですね
話は徳川も終わりの頃の話でありますが、上尾村に住んでいた弥太郎には嫁をもらって5年ぐらいになりましたが、子供が生まれませんでした。徳川の時代は穏やかで平和な時代が続いたが、終わり頃は騒然としてきたのです。中仙道を走る早馬も往来が激しくなってきました。東京湾に黒船が押し寄せてきて、江戸が攻め込まれるという噂もありました。
弥太郎一家は農業で生計を立てていましたが、そういう緊迫した世情のために、週に2回は郷士制度に組み入れられて、銃剣道、さらには鉄砲の打ち方の訓練までさせられたのです。しかも子供を3人以上は生むようにとの激しい達しが来ていました。
昔から、しょうづかばあさんのところに行って、願い事をすれば、大抵のことは快方に向かうと言う言い伝えがありました。しかし近年はそう言う話を信じるものはありませんでしたので、次第にそこの石仏の周りは草ボウボウと荒れ放題となっていました。
その年はいろいろ変わったことが起こりました。荒川の水が氾濫するやら、桜の花が一ヶ月も前から満開になりましたやら、三年にいっぺんしかなっていない柿の実が毎年実り出したりしました。いい知らせも悪い知らせも一緒くたに来たようです。
あるとき、弥太郎の妻の夢枕にしょうづかばあさんが出てきて言うには
「わしのところには最近誰も訪れるものがなくてのう、草がぼうぼうじゃ
、お酒も久しゅう奉納してくれるもんもおらんじゃ。まだまだ、わしの神通力はおとろえておらんだ。子供ができんそうじゃがな、一度おがみにきてみんかあ」と言って、しょうづかばあさんはいつの間にか消えてなくなりました。
弥太郎の妻は二日にいっぺんは、しょうづかばあさんのところに出かけて、草刈り、お酒のお供えをして子を授かるようにお参りをしました。その結果なんと三月もしないうちにつわりなどの体調の異変に気づいたのです。
村の産婆さんに見てもらうとこの症状は子が宿った証拠だと言ったことでした。
これを聞いた弥太郎は跳び上がって喜びました。それからは朝5時に起きて、農作業をして収穫を増やしていきました。金回りも良くなりました。決められた郷士教育にも参加し、勉強にも励みました。
やがて臨月近くになると、妻の腹部がやたらと大きくなり、凄く大きな赤子が生まれると皆で噂していました。出産のときがきて、産婆さんを呼んで、男の子が一人生まれて、それでやれやれと思いもつかの間、もう一人の男の子が出てこようとしたので、これは双子じゃっと言うことになり、慌てて産婆さんをもう一人来てもらいました。
妻は二人目を出し切ったところで、安心しきったのか、生命力を使い果たしたのかわかりませんが、気絶してしまったのです。
弥太郎の妻は三日三晩眠り続けましたが、二人の赤ん坊の激しい鳴き声で目が覚めました。
それから、村の人は奪衣婆とは呼ばず、しょうづかばあさんと呼んで願い事を叶えてくれるお婆さんと称えて、荒れ放題となっていた、周囲の草刈りをしたり、竹筒にお酒を備えたりして大事にしたといいます。