愛と法との狭間にて
「やっぱり、キミの方から譲る気はないんだね?」
一人は残念そうに、しかしそれでいて、どことなく得心のいったような態度で言った。
「当たり前じゃない。 自分にだってこれは切実な問題なんだから。 うん、ここは譲れないよ、絶対に」
対する一人は、少しばかり興奮して言葉を返した。
征矢と春花――この二人は、今まさに互いの愛の大きな分岐点に立っていた。
隣のキッチンの電灯が消されているためか、二人が居る真夜中のリビングは薄暗く寂しげな雰囲気だった。 二人が向かい合って座るテーブルの上には、二人の愛を結論づける為に存在する一枚の書類が置かれていた。 それはすでに「あとは判を押すだけ」の状態だった。
「くそ…… 最初から不安には思っていたんだ。 こんな事なら……」
男が思わず感情を露わにしたその時、女もまた抑えていた気持ちを曝露させた。
「やめて! 今はあなたの口からそんな事聞きたくないの! 言わないで…お願い……!」
今にも大声で泣き出しそうな、あるいはヒステリーさえ起こしてしまいそうな春花のうろたえようを見て、征矢もこれ以上感情的にはなれないと悟った。
二人は、是が非でも互いを傷つけたくなかった。 二人の間には、いまだに確たる『愛』が通っていた。
それこそが二人それぞれの葛藤の原因だったというのは、あまりにも皮肉である。
二人にこのような状況が発生してしまった原因はただ一つ――はた目にはとても単純明快で理解に苦しむ、たった一つの障害によるものだった。 そう、二人のそれぞれに関して言えば、本来二人の愛が阻まれる理由など無かったのである。
「あ……! んん、取り乱してごめんなさい…… そうよね、あなただって、私と同じことで苦しんでるのにね…… ああ、私…本当に浅はかな女だよね……」
春花は我に帰るや、相手への思いやりを明らかに超えた重い自虐に陥った。
「いや……気に病むなよ。 そもそもこんなの誰にもわかりっこないんだ。 俺達の苦しみの辛さなんて」
征矢は春花の両頬に手をあてた。 それは彼自身のあふれんばかりの想いを伝えるために、思わずとった行動だった。
それでも、時が進めば状況は変化する――それが摂理である。 征矢は、不本意ながら春花にある提案をした。
「なあ、ここはもう仕方ないから、コイントスに全てを委ねないか?」
話し合いによる解決に限界を感じた女は、それを承諾した。
「じゃあ、この100円玉を弾いて地面に落とす、それで表が出たら俺の勝ち、裏ならキミの勝ちだ。 そして負けた方は勝った方に従う。 もうこれしかないだろう?」
春花はしっかりと頷いた。
征矢はいよいよ二人の運命を決定づけるべく、親指を勢い良く弾いた。 この時の二人には、球状の残像を見せながら放物線を描くコインの動き、それすらまるでスローモーションのように映っていた。
フローリングの床にカタカタと音を立てて、コインはついに静止した。 二人に見えた面は――裏であった。 春花の勝利だ。
「……っ!!」
春花は、征矢に気を遣いつつも、全身を覆う解放感を隠せなかった。
「…えへへっ、悪く思わないでね。 でもこれだけは間違いないよ…… 私はあなたのこと、世界で一番愛してるから……」
この愛くるしい素振りには、征矢も観念するほかなかった。
「はぁ…… ま、これも身から出たサビか。 よし! 気持ちを切り替えて、お互い幸せになろう!」
「ええ……! 私たち、紛れもなく今でも最高のカップルだよね……?」
そして二人は、ついに書類に判を押した。
と、その時、二人の居るリビングの電話がけたたましく鳴った。
「ん、電話か。 じゃあ俺が出るよ」
征矢は重い腰を上げて電話に向かった。
それと同時に、春花の持つ携帯電話にも、一通のメールが届いた。 春花は携帯を取り出して内容を確かめた。
征矢の持つ受話器の向こうで話すのは、いかにも飄々とした喋り方の男だった。 ちょっと気が早いかもしれないが、征矢に明るく話しかけていた。
「よう、春花! そろそろカタはついたか? 今の俺にはこんな言葉しか思い浮かばなかったよ。 とにかく今後も頑張れよ!」
彼が話しているつもりなのは、春花だった。
『春花』と呼ばれてしまった征矢――しかし彼は少しの沈黙のあと、不可思議にもこう返した。
「ああ、ありがとうよ」
一方、春花の携帯、メールの内容はこうだった。
『征矢先輩、先輩のお悩み、そろそろ結論が出る頃と思って連絡しました。 いかがでしたか…?』
差出人の名前は「松村ゆりの」なる女性――征矢に宛てたメールは、春花の携帯に届いていた。
しかしそのメールに対し、春花は不可思議にも、嬉々としてすぐにこう返した。
『最高の結果!! 超うれしい!! とにかくありがとう!!!!!』
……?
これは一体どいういうことか?
征矢が出た、春花への電話、
春花に届いた、征矢へのメール。
いずれもなんの滞りもなく、二人それぞれが何も不審に思わず返事した。
その真相は、やはり単純明快にして、はた目には理解に苦しむものだった。
二人に挟まれていたテーブルの上の書類――二人の愛を目に見える形で結論づける『婚姻届』が原因であった。 そして、愛し合う二人のたった一つの障害とは――その婚姻届の中にまざまざと顕れていた。
夫となる者の氏名――『春花 征矢(はるか まさや)』
妻となる者の氏名――『征矢 春花(まさや はるか)』
何たるめぐり合わせの妙だろうか、互いの苗字と名前が互い違いであった恋人同士。 恋人であるうちは笑っていられた偶然の一致も、いよいよ結婚に際して、それは目をつぶることのできない障害だった。
だがそれも、たった今のコイントスの結果で終わりを迎えた。 完成した婚姻届が受理され次第、夫はそれ以降「征矢 征矢(まさや まさや)」と名乗ることとなる。
つまり、仮に春花が勝負に敗れていれば、逆に彼女の本名が「春花 春花(はるか はるか)」になるところだった。
双方ともかなり珍しい苗字を持ち、また双方とも自分の氏名を気に入っていた。 それが二人の間に立ちはだかっていた、唯一にしてきわめて解決困難な障害だったのだ。 それを、断腸の思いで夫が折れた。 それは、お互いまったく譲れないはずだった誇りに二人の激烈な愛が勝り、とうとう妥協がなされた瞬間だった。
征矢が再びテーブルの席に戻った。 そして、半ば開き直ったように、ささやかな愚痴をこぼした。
「あーあ、どうしてくれるんだかな。 俺、これからなんかバカみたいに思われないかな?」
春花は大げさに首を横に振って答えた。
「大丈夫だって! 少なくとも私にとって、あなたの魅力にはなんの影響もないんだから! それに、いざとなったら離婚すればいいでしょう? それでまた結婚して、かわりばんこで私が春花春花になれば……! それが生涯助け合う、夫婦のあるべき姿でしょ?」
春花は、屈託のない笑顔で征矢を励ました。
「フフッ…… そういうどこまでも朗らかなところが、大好きだよ。 ああ、これからも、ずっと一緒にいてくれよ」
勝負に敗れ涙を呑んだ征矢も、春花への愛の前には、この期に及んで落ち込んでなどいられなかった。 早ければ明日から、征矢征矢となる身でありながら……
二人は、真夜中の薄暗いリビングで、テーブルを挟んで熱いキスを交わした。 そして、存分に互いの愛を確かめ合った。
『夫婦同姓制度なんかに負けてたまるか』
法の試練に打ち克ち結ばれるべくして結ばれた運命的な二人だとでも言わんばかり――薄暗い部屋の中にあって、彼らの瞳はいずれも、強い意思に裏付けされた確かな輝きに満ちていた。
う〜む…… 人様にお見せする前提で書いた小説としては、生まれて初めて完結までこぎつけた作品ですが、やはりこれも、自分が思うより数倍ひどい駄文なのでしょうね……
いやしかし、これからはもっとマシな小説を書きたいと思うゆえ、ぜひともここで皆様の苦言やアドバイスを頂戴したいと思っている次第であります。 どうか正直なコメントを多数いただけることを、心よりお願い申し上げます。
最後になりましたが、全文に目を通してくださった皆様方、本当にありがとうございました。