放課後のぼくと天の川の吟遊詩人
オルフェウスさんを案じてぼくらがアケローンを巡ってから、数日が過ぎた。
ぼくは相変わらず、いつも通りの日々を送っている。ただ、カバンにつけていた竪琴のストラップは外している。切れた弦をベガちゃんが直すと言ってくれたので、預けているのだ。
小さな竪琴一つだけど、それがないだけでなんとなく寂しく、心もとなくなる。
人波にまぎれて生徒玄関を後にする。校門までは少し距離があるが、なぜか今日はそこに人だかりができていた。
たぶんぼくには関係のないことだろう。そう思って、横を通りすぎようとした。
「文弥」
人だかりの中から、ぼくを呼ぶ声がした。ざわめきにかき消されることなく、ぼくまで届く。
「オルフェウスさん?」
「無事に会えて良かった。ここで待っていれば会えるだろうと、ベガに教わったんだ」
オルフェウスさんは、夜空の世界で見る時と同じ格好だ。落ち着いた濃紺の色合いの、吟遊詩人と聞けば思い浮かぶ帽子とマント姿。
あちらならともかく、ここでその姿は目立つ。人だかりの原因だろう。
「ねえ、あの人イケメン!」
「なんだろ、あの格好。コスプレイヤーさんかな?」
「たぶんそうだよ。写真って撮ってもいいのかな」
ぼくら、というよりオルフェウスさんを中心にできている人だかりは、ほとんどが女子だ。中には、スマホを構えている人もいた。
女子とはいえ、これだけ集まっていると妙に迫力がある。じりっと輪が一回り迫ってくる。
「ふ、文弥……!」
オルフェウスさんが、ぼくの後ろに隠れる。怯える小動物のようだ。だがぼくの方が背が低いので、隠れきれてはいない。
オルフェウスの最期は悲惨だ。エウリディケを失った後、彼に振り向いてもらえなかった女性たちに八つ裂きにされたのだ。
女性たちは石や矢をオルフェウスに投げつけたが、竪琴の音色によって阻まれた。そこで彼女らは、オルフェウスを囲んで、大声で叫んだり足を踏みならして音をかき消した。そうして、彼は殺された。
その時の状況と重なるものがあるのだろう。
「クールそうなのにああいう子の後ろに隠れるとか、ギャップ萌えー」
「ねえ、宵淵くんの知り合いさんなの?」
オルフェウスさんは、アケローンでぼくを助けてくれた恩人だ。気の強い女子は苦手だが、今度はぼくがオルフェウスさんを守らなければ。
「そうです! ぼくの大事な人なんです!」
人だかりの隙間をみつけ、ぼくはオルフェウスさんの手を引いて駆け出したのだった。
その瞬間、囲んでいた女子たちの目の色が変わった。
「大事な人宣言からの、手をつないでの逃避行……尊い!」
「これを逃す理由はないでしょ!」
「ひえぇえ! なんで!?」
反射的に逃げる者を追うのか、別の理由があるのかはわからないが、とにかく女子全員がぼくらを追ってきた。
慌てて生徒玄関に戻り、校舎に飛び込む。ついいつもの流れで靴を履き替えるが、後ろの女子たちも同様で助かった。オルフェウスさんは編み上げブーツのはずなのだが、なぜかあっさり脱ぎ捨てていた。
校舎内に不慣れなオルフェウスさんを先導し、階段をかけ上がったり降りたりする。たどり着いたのは図書室だった。
そこでは、校門前の騒ぎなどどこ吹く風とばかりに、先輩が読書をしていた。司書の先生は今はいないようだ。
「七星先輩、かくまってください!」
「宵くんの頼みなら。カウンターの中が死角だから、こっちおいで」
オルフェウスさんと共にカウンターの中に隠れた直後、図書室のドアが開けられた。
「七星、ここに宵淵くんとイケメンさんが来なかった!?」
「うん、さっき通り抜けていったよ。あと、図書室では静かにね」
「わかった、ありがと!」
ふたたび大きな音をたてて、ドアが閉められる。去っていく足音の数は多く、ぼくらは女子の団結力のすごさを思い知ったのだった。
「うう、女子怖い……」
「同感だ。時代が変わっても、あの恐ろしさは変わらないとは……」
ぼくとオルフェウスさんは身を寄せ合って、もう誰も追ってきていないのを確認してから、おそるおそるカウンターから出た。
「なんとなーく、状況はわかったかな。大変だったね、宵くん」
「先輩、笑わないでくださいよ……。オルフェウスさん、大丈夫?」
「問題ない……」
「え? 宵くん今、その人のこと『オルフェウス』って呼んだ?」
「あ」
七星先輩はぽかんとしている。当然だ。急に現れた美形で吟遊詩人の格好をした人を、後輩がギリシャ神話の登場人物の名で呼んだのだから。
彼女は物知りだし、人の話もよく聞いてくれる。数日前のぼくとの会話と、今目の前にいるオルフェウスさんのことが結びついたかもしれない。
「まさか、ね。楽器持ってるし、芸名とか?」
「ど、どうしよう、オルフェウスさん」
できれば、七星先輩に嘘はつきたくない。けれど、本当のことを話して信じてもらえる自信もない。
ぼくがすがるように見上げると、オルフェウスさんは一歩先輩に近づいた。
「はじめまして、七星。私は文弥の友で、名をオルフェウスという。ギリシャ神話の吟遊詩人だ」
オルフェウスさんは、優雅なしぐさで一礼した。何度見ても綺麗だけど、芝居がかって見えはしないだろうか。
オルフェウスさんが否定されるのも、先輩に嘘つきだと思われるのも、ぼくは怖い。
「ほんとに、あのオルフェウスなの?」
「世界は広く、深い。思いがけない真実もある。それを信じるかどうかは、君次第だが」
「……わたし、物語が好きなんだ。こんな世界やこういう人が、どこかにいてくれたらなって思うこともある。だから、信じるよ」
七星先輩は、不思議なくらいいつでも図書室にいる。その理由を、ぼくは知らない。
「それに、宵くんが信頼してるんだもん。かわいい後輩の友達なら、悪い人じゃないよね」
「七星先輩……」
「あとでいろいろ聞かせてくれたらうれしいな、宵くん。今は追及しないからさ。あとは二人でどうぞ」
何か用事があって来たんでしょ、と七星先輩はするどい。ありがたくその言葉に甘えて、ぼくはオルフェウスさんとテーブル席についた。放課後の図書室に、他に利用者はいない。
「ストラップの修理が終わった。ベガが返しに行くと言ったのだが、私がぜひにと申し出た。だが、こんな騒ぎになるとは……。すまない、文弥」
「ううん、いいよ。届けてくれてありがとう、オルフェウスさん」
小さな竪琴を受け取る。彫刻は丁寧で、流れ星が煌めく。切れた弦も元通りだ。
「流れ星は換えなくて良かったのか? これにはもう、願いを叶える力はないそうだ」
「この星がいいんだ。あの日、三人で集めた星だから」
「君のその考え方は、私は好きだ」
「ベガちゃんにも、同じこと言われたよ」
「ありうることだ。私とベガは同じでないが、似た存在だ」
オルフェウスさんはギリシャ神話の概念が由来だが、ベガちゃんはまた違うという。
「ぼく、二人のことまだまだ知らないことばっかりなんだね」
「それは、まだ知る余地があるということだ。文弥は、もっと知りたいと思ったのだろう?」
「うん。だって二人ともっと、仲良くなりたい……です」
途中ですごく恥ずかしくなって、消え入るような小ささの声になってしまった。
オルフェウスさんは優しくほほえんで、ぼくの椅子の横に来る。顔が真っ赤になったぼくに視線を合わせて、膝をついた。
「文弥はもう、私の大切な友だ。ベガもそう思っている。今日は君に礼を言うために、ベガに代わってもらったんだ」
「お礼なんて、ぼくは何も。むしろ助けられたし。オルフェウスさんが自分で、あの『後悔』を乗り越えたんだ」
「君の願いのおかげだ。あまり、それを否定しないでくれ。私は確かに、救われたのだから」
「わ……」
「ありがとう、文弥」
ふわりと、柔らかく抱きしめられる。オルフェウスさんは、暖かかった。子供っぽいと思いつつ、ぼくは竪琴のストラップを握った手で、彼の服をつかんでいた。
「あの『後悔』は私が私たるゆえんで、完全になくなりはしない。だが、あれはこれからも抱え続けていくには、あまりにも重かった。それを軽くしてくれたのは、君なんだ」
「……うん」
ぬくもりが離れていく。けれど、オルフェウスさんの言葉がぼくの心に暖かさを残していく。彼の奏でる音楽とは、また違った伝わり方で。
「こうすれば親愛の情が伝わると、エウリディケがよく言っていた。音楽でなくとも、感情は伝えられるんだ」
エウリディケさんの名前を口にする時、彼は以前ほど哀しげでなかった。語る思い出も、幸せだった頃のものだろう。
「そういえば、この前読んだこと座の話では、オルフェウスさんが冥府でエウリディケさんに会えたことになってたんだけど、その……そういう可能性はあるの?」
オルフェウスさんは、概念の存在だという。それなら『オルフェウスがエウリディケに会えた』という概念が、多くの人々に伝われば、オルフェウスさんが冥府に行けるようになるかもしれない。
「概念が変化するのは、珍しくない。人々への認知と定着に、少々時間はかかるが。私の場合は長らくこの状態だから、彼女に会ったという概念が新たに加わったとしても、冥府に行けるようになるだけだろう。私が属するのは、あの夜空の世界だ」
寂しげに、だが迷いなくオルフェウスさんは言った。まだ夜になっていなくて、星の見えない空を見上げて。
「そっか」
「新たな出会いもあった世界だ。もちろん、君とも」
「ぼくも、オルフェウスさんと会えて良かったよ」
「それは良かった」
以前のオルフェウスさんは、笑顔でいても憂いを帯びていた。けれど今の笑顔は、ただ優しくうれしそうだった。
「ではな。また会おう、文弥。我が友よ」
「うん。またね、オルフェウスさん」
オルフェウスさんの姿が光に包まれる。ぼくと違って、彼は夜空の世界へ自在に戻れるらしい。
「友達……か」
あの日のカロンさんの気持ちが、ぼくにはよくわかると思う。オルフェウスさんは、音楽で人の心に共感を呼び起こすほどの竪琴の名人だ。
そんなすごい人が友人だと、対等な関係だと言ってくれたのだ。少しおそれ多いけど、誇らしくてうれしい。
「オルフェウスさんの友達って呼ばれるのに、ふさわしくなりたいな」
そうなれたら、自分のことももう少し認められるだろうから。