アケローンと天の川の吟遊詩人
朝夕が寒くなり、空気の澄みきる季節が巡って来た。街路樹は鮮やかに色づいて、夜空の星は輝きを増して美しくなってくるこの季節が、ぼくは好きだ。
寒い季節の陽は、すぐに落ちる。すでに放課後には夕日がまばゆいばかりに、オレンジの光を溢れされる。
今日ぼくは、図書室に立ち寄っていた。星座の神話を調べるためだ。
ペルセウス座流星群の頃に出会った、あの美しき吟遊詩人のことが忘れられない。こと座の物語の主人公、竪琴の名人オルフェウス。
ギリシャ神話の時代から数千年。彼は今でも亡き妻を想い、アメシスト色の瞳を哀しみに染めていた。
「ぼくに、大したことができるとは思わないけど……」
それでも、何か力になれないだろうか。オルフェウスさんが依頼し、ベガちゃんが作ってくれた竪琴のストラップに触れる。
繊細な作りのそれには、小さな流れ星がついている。三人で協力して集めたもので、光が当たるとキラキラ輝く。
「それ、綺麗だね。宵くん」
「あ、はい。知り合いからの贈り物で」
「その石みたいなの、星っぽくてかわいいね。ってことは、こと座がモチーフかな」
「そうなんです。オルフェウスさ……じゃなくて、えっと……ぼくがこと座の物語が好きって言ったので」
図書室のカウンター越しに話しかけてきた人は、一学年上の七星先輩。ぼくを、苗字の宵淵からとって『宵くん』と呼ぶ。いつでも図書室にいる、ちょっと不思議な人だ。だから本をたくさん読んでいて、星の物語も知っている。
「こと座かぁ。私も興味深いと思うよ、あの物語。たとえばあの世とこの世には境界があって、それが川であり、かつ渡し守がいるところ」
「ギリシャ神話と日本神話の、有名な共通点ですよね」
「そう。オルフェウスもイザナギも、禁じられたのに妻を見てしまう。そこも同じ。いわゆる『見るなのタブー』だね」
星座にまつわる神話の本を探していると言うと、七星先輩は探すのを手伝ってくれた。
文学作品と違い、多くあるものではない。だからかえって、他の本にまぎれてみつかりにくいらしい。
「イザナギはイザナミと別れましたけど、七星先輩はオルフェウスさんはどうだったと思いますか?」
「そっちは、悲劇的な結末だったね。帰ってきたオルフェウスは、その後殺される。それなら、冥府で奥さんに会えたんじゃないかな」
ぼくがオルフェウスをさん付けで呼んだことに、七星先輩は少し不思議そうにしながらも答えてくれた。
「そのはず……ですよね」
だったら彼はなぜ、あの夜空の世界にいるのだろう。まだ哀しい目をしているのだろう。
「宵くんは、オルフェウスがエウリディケに会えてないのかもって思うんだ?」
「……もしかしたら、ですけど」
「そっか。私は、会えてたらいいなって思うよ。……はい、あった」
「ありがとうございます」
手渡しされた本の貸し出し手続きを終えて、図書室を後にする。単行本くらいの大きさで、分厚い本だ。
ずっしりと重いその本をしまう鞄には、小瓶や竪琴のストラップがついている。どれもが、あの夜空の世界で過ごした短い時間の思い出そのものだ。
ミニチュアの竪琴に目を向ける。オルフェウスさんが持っていたそれと、同じ形なのだ。弦は、あの夜オルフェウスさんが演奏した竪琴のものが使われている。
不意に、それがぷつんと音をたてて切れた。
「どうして……!?」
これを渡してくれた時、ベガちゃんは自慢げに『細工物としてはしっかりしてるよ』と言っていた。自分の役割に誇りを持つ彼女が、仕事に関して嘘をつくはずがない。
それなら、どうして弦は切れてしまったのだろう。楽器には詳しくないが、そう簡単に切れるものではないと思う。それにこの弦は、オルフェウスさんの竪琴のものだ。
「もしかして、オルフェウスさんに何かあったんじゃ……!」
気のせいならいい。けれど、胸騒ぎがする。せめてベガちゃんに相談できればいいのに。
どうしよう。あの夜空の世界へ行く方法を、ぼくは知らない。
きらりと、竪琴の星が煌めく。そうだ、これは流れ星だ。流れ星なら、願いを叶えてくれるだろうか。ぼくは、星に祈った。
「お願い。あの夜空の世界に、連れてって」
とたん、ストラップの紐部分に付けられた流れ星が、まぶしく輝く。星とは思えないほどの強い光に、ぼくは目を瞑った。
暗くなったのを感じて目を開けると、そこは天の川のほとりだった。中流なので川幅は広く、流れはゆっくりしている。ここからもう少し下流に、ベガちゃんの作業小屋があるはずだ。
道しるべがないこの場所を、天の川に沿って進む。ほどなくして、こじんまりした小屋にたどり着いた。
「ベガちゃん、いる?」
「……その声、文弥?」
ドアをノックすると、すぐにベガちゃんが開けてくれた。
「ホントに文弥だ! どうしてココに?」
「竪琴の弦が切れて、それで、オルフェウスさんに何かあったんじゃないかって……!」
「わかった、詳しく聞くよ。まずはホラ、椅子にでも座って」
慌てて話し出すぼくを、ベガちゃんは椅子を勧めて落ち着かせた。
順を追って、さきほどあった出来事と推測を話す。気にしすぎだと笑われてもしかたないのに、ベガちゃんは真剣にうなずきながら聞いてくれた。
「そうなんだね。わたしは文弥の予想、そんなに外れてないと思うよ。弦が切れたのは、確かに不自然だからね」
「何か、あったと思う?」
「ソレはまだ何とも。だから、誰かに聞いてみようか」
立ち上がったベガちゃんは、ぼくの手をとる。つないだ手をぎゅっと握って、作業小屋の外へと歩き出した。
彼女はそうしてぼくを連れ出してくれる。そのたびにぼくは、星が流れる天の川から、そっとたった一つだけ星をすくい取る彼女のイメージが浮かぶ。
ありふれたものでも、彼女なら特別なものにしてくれるような気がして。
「あ。あの子に聞いてみようか」
天の川のほとりに、小さな影があった。どうやら小動物だ。
近づくと、それは小さな仔狐だった。もふもふとした毛並みで、ぬいぐるみのようにかわいい。この子は、こぎつね座という星座らしい。
「こぎつね。オルフェウスさんを見なかった?」
ベガちゃんはしゃがんで、こぎつねに目線を合わせて話しかけた。
「見たー。ぼーっとしながら琴弾いて、また天の川に落っこちてたよ」
「エー、またかい?」
「え、天の川に落ちるのがよくあることなの?」
「オルフェウスさんだけだけどね、しょっちゅうあるよ」
なんでも、オルフェウスさんはよく天の川のほとりで、作曲や考え事をするらしい。それを歩きながらもするせいか、よく天の川に落ちる。
ベガちゃんも星集めをしている時に、それを何度か助けたことがあると言った。
「そういえば、いつもならもう上がってくるのにね。流されちゃったのかなぁ?」
「天の川の流れは、そう急じゃないよ」
「んー。でも、ちょっと前に早く流れてたの、ぼく見たよ」
「雨も降ってないのに、ソレはおかしいね。文弥、やっぱりキミの予想は当たってるかも」
「オルフェウスさん、何かあったの?」
不安げに見上げるこぎつねの頭を、ベガちゃんは優しくなでた。
「ダイジョウブだよ。天の川はわたしの仕事場だからね、任せてよ」
「こぎつね、教えてくれてありがとう」
ぼくもこぎつねにお礼を言って、背をなでる。ふわふわでさらさらの毛並みだ。こぎつねは、心地よさそうに目を細めた。
「文弥、舟を出すよ。あのストラップは持った?」
「うん」
「ソレがあれば、だいたいならオルフェウスさんの居場所がわかるはずだよ。さあ、行こうか」
ベガちゃんと、岸につけていた舟を天の川に出す。かすかに煌めく星の水が飛び散った。この舟に乗るのも、ベガちゃんと出会った去年の七夕以来だ。
静かに流れる水面へ漕ぎ出す。こぎつねはしっぽをふぁたふぁた振って、ぼくらを見送ってくれた。
「オルフェウスさんの居場所を教えて」
ふたたび星に願いを告げると、小さな竪琴は輝いて光がある一方向を指し示した。
「使いこなしてるね、文弥」
「そうかな。でもこんなふうに使えるなんて、今日まで知らなかったよ」
「流れ星だからね。持ち主であるキミの願い事は叶えてくれるよ。でも人のために使うって、文弥らしいね」
「二人からのプレゼント、だから」
「やっぱり、文弥のそういうトコ好きだな」
たくみに舟を操りながら、ベガちゃんは笑った。
星空の下、舟は天の川を下る。だんだん川幅が狭くなっていくが、竪琴はまだ先を示す。
と、舟ががくんと揺れた。急に流れが変わったようだった。ベガちゃんは少し動揺したものの、その流れに対応するのはさすがだ。
「なんだろ、いつもの天の川と違う……? ココまで下流には、めったに来ないからかな」
突然、どうっと水が押し寄せた。ぼくらが乗った舟は、木の葉のように流される。
ベガちゃんも来たことがないほどの下流の先は、いったいどうなっているのだろうか。舟は大きく揺れ、圧倒的な力で押し流されてゆくばかりだ。
「文弥! 絶対、手を離したらダメだよ!」
「うん!」
ぼくとベガちゃんはただ、投げ出されないよう必死に舟に掴まっていた。
夜空の景色がぐるぐる回る。いつ終わってしまったのだろう、ちらりと見えた水面にもう星はなかった。ここはもう天の川ではないようだ。
「ベガ! 文弥!」
凛とした声の誰かが、ぼくらを呼んだ。荒れ狂う水流の中、大きくはないのに確かに響くのは竪琴の音色。
穏やかな旋律に、少しずつ流れは落ち着いていく。
「オルフェウスさん? ……っ!?」
ほんの、一瞬。意識が声の方へ向き、片手が舟のふちから離れた。
舟が揺れ、ぼくはバランスを崩した。暗い川へと、ぼくは投げ出される。星のない水流はなぜか、天の川よりもおそろしく思えた。
「文弥!」
二人の声がぼくを呼ぶ。視界の端に、ぼくに手を伸ばすベガちゃんが見えた。
ごめん、ベガちゃん。手を離さないって約束したのに。エウリディケさんを振り返ってしまった、オルフェウスさんもこんな気持ちだったのかもしれない。
ぼくの身体は、いまだ荒れる流れに飲み込まれた。
優しい川のせせらぎが聞こえる。そのほとりで、座り込んでいる人がいた。自然の音楽に耳をかたむけるわけでもなく、竪琴を抱え込んでいるのは、オルフェウスさんだった。
きっと冥府から帰ってきた直後なのだろう。紫の瞳には何の感情もなく、まるで本物のアメシストのようだ。
『なぜ私はあの時、振り返ってしまったのだろう。あと、ほんの一歩だったのに……』
つうとひとすじ、美しいアメシストの瞳から涙がこぼれ落ちる。
『すまない。すまない、エウリディケ……』
確かめるような手つきで、一音。虚空を見つめたまま、オルフェウスさんは次の音を探る。竪琴がそれに応えて、哀しげな音色を奏でる。
「あ……」
自分でも意識しないまま、ぼくは泣いていた。『音楽というものは、言葉が通じなくとも共感させる力を持つ』。オルフェウスさんの言葉が、頭に浮かんだ。
音が空気を振動させるように、音楽が心を揺らす。同じ響きを呼び起こす。
これが、オルフェウスさんの感情。まったく同じものではないはずだけど、ぼくはこの気持ちの名を知っている。きっと、誰もが経験したことがある。
確かに、この感情にとらわれてしまえば、心が壊れてしまってもおかしくない。
どこまでも鮮烈で、重苦しい『後悔』。
「聴かないでくれ、文弥……っ!」
後ろから目をふさがれて、過去のオルフェウスさんが見えなくなる。さらに、抱え込まれれば『後悔』の曲の音色も遠のく。
これ以上聴いていたら、ぼくも『後悔』の感情におぼれていたかもしれない。
そうしてぼくを守ってくれた人は、小さく震えていた。
「オルフェウスさん……?」
「駄目だ、あの曲を聴いては。私は……君の心を壊したくない」
「ぼくは大丈夫だよ。オルフェウスさんのおかげで」
こわばっている身体から、ほんの少し力が抜けた。そっと目隠しをといて、オルフェウスさんはぼくと目を合わせた。
不安げに揺れる瞳は、過去の彼と違ってきちんと感情がある。宝石のように綺麗だけれど、無機質ではない。
ぼくが笑いかけると、オルフェウスさんも淡い微笑みを返してくれた。整った顔立ちに浮かぶ優しい表情は綺麗で、その近さにいまさらながら照れてしまった。
「そのようだな。良かった、本当に……」
いつのまにか、過去のオルフェウスさんの姿は消えていた。
彼がいた場所に視線を向け、オルフェウスさんはぼくの手を引いて、その横を通りすぎた。
「戻ろう、文弥」
「あ、そうだった。ぼくは川に落ちて、気づいたらここに……」
「その通りだ。だから私も君を追って、嘆きの川に飛び込んだ」
この場所は、川の中とは思えない。過去のまぼろしが、オルフェウスさんの姿と後悔を見せた。
「オルフェウスさんは、帰り方を知ってるの?」
「いいや。だが、誰ならば私たちを連れ戻せるかは知っている」
オルフェウスさんはぼくをしっかりと抱え、上に目を向けた。
「カロン、頼む」
「まったく。手間のかかる人ですね」
誰かの返事が返ってくると、水がまとわりついてくるような感覚がした。
「文弥、息を止めろ。水面に出るぞ」
オルフェウスさんに言われ、息を止める。次の瞬間、ぼくらは川の中にいた。とっさにしがみつくと、オルフェウスさんが何かをつかんで水上にぼくごと出た。
「文弥、ダイジョウブ!?」
「うん。オルフェウスさんが、ずっと守ってくれたから」
ベガちゃんの手を借りて、彼女の舟に戻る。水に濡れた制服が重たかった。
川の流れは落ち着いていて、水量も減っているように見える。すぐ近くには別の舟があった。ローブ姿の人がいて、オルフェウスさんを櫂で雑に引き上げていた。
「助かった、カロン」
「まず、礼を言う前に反省してください。俺は水難救助隊じゃないんですよ。自らの嘆きで荒れた川に飛び込むとは、何を考えているんですか、オルフェウス」
「すまない、文弥を助けなければと必死で……。それに、お前ならば後はなんとかしてくれると思っていた」
「当然です。俺の前で生者が死者になることは、あってはいけない」
ローブ姿の彼は、ぼくに視線を向けた。櫂を手に、舟にたたずむ様子がやけにしっくりくる。
「カロンって……ギリシャ神話の渡し守、カロン?」
「よく知ってますね。俺が、憎悪の川ステュクスと嘆きの川アケローンで渡し守をしている、カロンです」
「文弥は、星の物語や神話に詳しい。私や妻のことも、知っていてくれた」
「そんな、詳しいってほどじゃ……。っくしゅん」
濡れた制服はやはり冷たく、ぼくはくしゃみをしてしまった。だが同じようにぐっしょり濡れているオルフェウスさんは、平然としていた。
そんなぼくを見かねて、オルフェウスさんが竪琴を鳴らす。ごく短いが美しい演奏に水が従い、一瞬にして服が乾いてしまった。
「しかたがないですね。少年、あと星集めの子供も、こちらへ来なさい」
カロンさんの先導で岸に舟をつけ、近くにあった小屋へと入る。ベガちゃんの作業小屋よりさらに小さく、必要最低限の物しかない。
そこには暖炉があって、カロンさんがおこした火がパチパチと音をたてる。
「エット、カロン……さん。なんでオルフェウスさんがココに?」
「ああ。彼は時折、嘆きの川を氾濫させるんですよ。普段は夜空の世界にいるからか、天の川から水が流れ込むんです」
「あの、さっきも聞いたけど嘆きの川って? 名前はなんとなく知ってるんだけど……」
ぼくとベガちゃんがそろって首をかしげると、カロンさんが説明をしてくれた。
嘆きの川は憎悪の川の支流である。二つの川は、日本で言う三途の川だ。こちらにも、渡し守のカロンがいる。彼に渡り賃を支払うと、無事に川を渡ってあの世へ行ける。
そして嘆きの川はその名の通り、誰かの嘆きによって増水する。その感情が強いほど、川は荒れる。
「特にオルフェウスです。彼が亡き妻を想うと、ひどく川が荒れるんですよ。気持ちに理解は示しますが。あやまって冥府にいかれても困るので、毎回俺が保護してます」
そうして物思いをする時のオルフェウスさんは、よく天の川に落ちる。彼の嘆きと属する世界に呼応して、天の川からアケローンへと彼ごと水が流れるのだ。
「その、オルフェウスさんが冥府に行けない理由って……?」
ひどい質問だと、ぼくはわかっていた。オルフェウスさんがエウリディケさんに会えない理由を、突きつけることになるから。
それには、オルフェウスさんが答えてくれた。問いかけるようにベガちゃんを見て、彼女がこくんとうなずいたのを確認してから口を開いた。
「それは、私たちが概念の存在だからだ。君とは、まったく違う。人々の記憶や伝承に残る間だけ、その存在を保てる」
逆に言えば、人々から忘れ去られたその時には、彼らの存在はなくなってしまう。
「それは消滅だ。概念の存在は『死ぬ』ことがない」
「つまり、死者にはならない。だからカロンさんは、オルフェウスさんを冥府に行かせない……ってこと?」
「そうです。俺の役割は、渡り賃を支払った死者を冥府まで送り届けることですから」
だからこと座の物語で、カロンがオルフェウスを舟に乗せたのは特別なことなのだ。それだけ彼の演奏はすばらしく、暗い冥府にいた者たちの心を動かした。
「さて、オルフェウス。今日の渡り賃をいただきましょうか」
「ああ、そうだったな。今日は何の物語がいいんだ?」
金銭としての渡り賃を持っていないオルフェウスさんは、いつも演奏を対価にしてもらっているそうだ。カロンさんは彼の演奏を、今でも気に入っているのだという。
「そうですね。こと座の、あなたの物語を」
「待てカロン。それは、本気で言っているのか?」
「ええ。俺が無意味に冗談を言ったことが、これまでありましたか? これまで何かと、あの物語は語らなかったでしょう。改めて、聴きたくなりました」
「また嘆きの川を氾濫させることになるぞ。あの物語は、私は……」
オルフェウスさんは、竪琴を持つ手に力を込めた。
「そう。あなたはいつまでたっても、彼女を忘れない。あの想いによる嘆きを繰り返す」
「…………」
「俺はずっと見てきたんですよ。数千年も、痛々しいまでに彼女を想い、後悔し続けるあなたを」
「カロン……」
「あの日、確かに俺はあなたの演奏に魅了されました。ですが、今はもう、それだけでないあなたを知っている。俺があなたの演奏だけを目当てに、数千年も付き合ってきたのだと思っているなら、それは大間違いですよ」
ぼくもベガちゃんも、何も言えなかった。数千年の後悔なんて、どれほど苦しいものだろう。それをそばで見ていることしかできないのは、どんなに辛いだろう。
「けれど、あなたがこの少年を助けようと、川に飛び込んだあの時。アケローンの氾濫が、かなりおさまったんですよ」
「え、ぼく?」
「そうです。だから彼の後悔を少しであれ軽くできるのは、君だと。現在ここで、君にしかできないことがある」
フードから覗く黒い瞳が、まっすぐにぼくを見据えた。
ぼくに、何かできることがあるのだろうか。後悔し続けたオルフェウスさんと、彼を嘆きから救いたいカロンさんのために。
すがるように動かした手が掴んだのは、ポケットに入れた小さな竪琴だった。
ベガちゃんとオルフェウスさんからの贈り物。かすかな光を、小さな流れ星が反射してキラリと煌めく。
「……お願い」
ぼくは慎重に、願いの言葉を紡いだ。
「伝えたいんだ。オルフェウスさんの幸せを、願っている人がいるよ、って」
それはカロンさんに、ぼくやベガちゃんもだ。ぼくが知らない人もいるだろう。もしかしたら、エウリディケさんだって。
まぶしいほどに、流れ星が強い光を放った。
目を開けたぼくの前には、綺麗な女性がいた。ゆるやかに波打つ陽光のような金髪、真昼の青空と同じ色の瞳。
オルフェウスさんが、呆然と呟いた。
「エウリディケ……」
この人が、エウリディケさん。オルフェウスさんが想い続けた、大切な人。
エウリディケさんが、オルフェウスさんに歩み寄った。春風のように、ふんわりした笑顔を浮かべて。
彼女とオルフェウスさんが一緒にいるのが、とても自然なものに見えた。二人がまとう雰囲気は、似ていないからこそぴったりで、バランスがいい。
オルフェウスさんが竪琴を弾いて歌い、エウリディケさんが楽しげに踊る。ふと、そんな景色が目に浮かんだ。
「わたしは『本物』じゃないのよ、オルフェウス。その子のお願いと概念、あなたの記憶から姿を借りた、今この場だけのかりそめの存在よ」
「それでも私は……君に、会いたかった」
「わたしは、あなたにお説教しにきたの。あなたってば、まだハデス様との約束を破っているんですもの」
うるんだ目で、オルフェウスさんはエウリディケさんを見た。問いかけるようでいて、どこか甘えてもいる。エウリディケさんの方がしっかり者らしい。
「私が? ハデス様との約束を?」
「ええ、そうよ。覚えているでしょう。『振り返ってはいけない』って」
「もちろんだ。だがそれは、君を連れ戻す時の約束だ」
うつむいて、遠慮がちに一歩下がるオルフェウスさんに、エウリディケさんは二歩近づいて距離を詰めた。
そのまま彼の頬に手をそえて、自分に向かせる。晴れ渡った青空に、オルフェウスさんを映す。
「変わらないわよ。あなた、死者のことばかり振り返って。現在にだって、大切にしたい人ができたんでしょう?」
「……そうだ。文弥やベガと、星集めを通して親しくなった。カロンとはもう、長い付き合いだ。彼と過ごす時間は、居心地がいい」
「その人たちは、後ろを振り向いた先にいるの? 違うでしょう。あなたの大切な人たちは、前やとなりにいてくれてるのよ」
エウリディケさんが美しくほほえむと、オルフェウスさんは泣きそうな顔になった。
「だが、私は君のことも大切なんだ」
「わかっているわ。優しいあなたが、わたしを忘れられないことは。でもね、オルフェウス。過去にとらわれて、本当に大切なものを見失ってはだめよ」
ゆらり、エウリディケさんの姿が揺らぐ。下の方からゆっくりと、彼女の姿は消えていく。
「あなたが後悔して苦しむと、あなたの大切な人たちも辛いの。だからもっと、自分を大切にしてね。そうしたら、あなたの大切な人たちも幸せよ」
「それは、君もか?」
「ええ、わたしもよ」
竪琴の流れ星の光は、少しずつ弱まっていく。同じスピードでエウリディケさんの姿も透けて、外の夜空が見える。
「エウリディケ。最後に一つ、聞かせてくれ。君は、私を……」
続く言葉を、エウリディケさんはさえぎった。暗い表情のオルフェウスさんの唇にそっと指をあて、日だまりのように暖かい笑顔で。
「愛しているわ、オルフェウス。今までもこれからも、ずっと。あなたが、わたしを想い続けている限り」
「ああ。私もだ」
「知っているわ。あなたが後悔しているのは嫌だったけれど、うれしくもあったの。まだ、愛してくれてるんだって。ありがとう、オルフェウス。だけどこの先はどうか、前を向いていってね」
小さな願いの言葉を残し、エウリディケさんの姿ははかない光のかけらとなって消える。それを追うように、オルフェウスさんの目から涙が一粒落ちた。
「エウリディケ、愛している。これからは、前を向いていく。だからこの先も君を想い続けることを、どうか許してくれ」
アケローンはすっかり落ち着き、さきほどまで氾濫していたとは思えない。そんな穏やかに流れる川を、カロンさんが先導して天の川まで送ってくれた。
「カロンさん、アリガト。川がつながった先に、こんな大先輩がいるなんて思わなかったよ」
「いろいろと、お世話になりました。ぼくも、カロンさんに会えて良かったです」
「ご縁があれば、また。まあ特に君の場合は、俺とまた会う機会などない方が良いのでしょうが。……君の行く道が光差す方であることを、こちらから祈っていますよ。文弥君」
冷たい印象でその姿を描かれることの多いカロンさんだけど、ぼくはそうじゃないことを知った。情け深い渡し守に、ぼくは深く頭を下げた。
「カロン」
「あなたも、もうここには来ない方が良い。せっかく彼女に、背を押してもらったんですから。数千年もそばにいたのに、俺は結局、何も出来ませんでしたね」
「いいや、そんなことは絶対にない」
目をそらすカロンさんに、オルフェウスさんは詰め寄った。二人はカロンさんの舟に乗っているので、ぼくもベガちゃんもあわてつつ見ているしかない。
「君こそ間違っている。君がいてくれたことで、私がどれほど救われたかわかっていない。だから、また来る」
「俺の話、ちゃんと聞いてましたか。来るなと言ったんです」
「違う。嘆くためではなく、古くからの友に会うためだ」
「……友?」
オルフェウスさんを見つめ返したまま、カロンさんはきょとんとした。フードがずれて、顔がしっかり見える。そんな彼がぱちぱちとまばたきする様子は、どこか幼げだった。
「改めて口にしたことはなかったな。私はずっと、君を得がたい友であると、そう思っていたんだ」
「俺とあなたが、友人関係であると?」
「そうだ。嫌か……?」
「そんな、ことは……。……俺とあなたが友人、ですか。そんな対等な関係になれるなんて、思ってもみませんでしたよ」
噛みしめるようにカロンさんは友人、と繰り返した。幸せそうな泣き笑いの顔は、そっとフードの下に隠して。
「友人に会いに来る者を追い返すのは、俺の役割ではないですね。来たい時に来たらいいんじゃないですか。もちろん、ほどほどに」
オルフェウスさんがこちらの舟に移り、カロンさんの舟は向きを変える。煌めく星が流れる天の川から、暗いアケローンへと。
「では、俺はここで」
渡し守が櫂を動かすと、その舟はあっという間に見えなくなる。暗闇の中に去っていくせいだけではないだろう。カロンは、夜と闇の間に生まれたとされているから。
ベガちゃんもまた、舟を操る。アケローンは後ろへ去り、水中に沈む星が見えてくる。ぼくは、振り返ることはできなかった。
天の川を上るごとに夜空の星は輝きを増し、水面を星が流れていく。
そんな小さな輝きたちを瞳に映し、オルフェウスさんは竪琴を奏でた。切なくも美しく、けれど優しい旋律だった。
時おり途切れるのは、今まさにこの曲が紡がれているかららしい。それとも、オルフェウスさんの今の心を、竪琴が音楽として響かせているのだろうか。
オルフェウスさんのアメシストの瞳が、深く煌めく。
その曲は失ったものを惜しむようでいて、楽しかった思い出の気配がある。後悔しながらも、前を向くことへの希望を奥底に秘めている。
その感情も記憶も、全体的にただよう哀しささえも、何もかも愛おしい。
それがぼくにも伝わってきた。まだ本当には知らない、この感情が『愛』なのだろうか。今夜のエウリディケさんを想った歌だとわかる。
星空の下、吟遊詩人は竪琴を奏で続ける。静かな夜に、『愛』の音色は優しく溶けていくのだった。