4、襲撃
山頂の堂にいたのは童子であった。
赤い中華系の服を着た、どこにでもいそうな普通の少年である。
堂の中は質素な木造建築であり、木でできた棚に竹簡や布製の巻物がいくつも並んでおり、書斎のようになっている。
「やあ、君が旅人の使いか」
少年はどうみても翼たちより年下にしか見えないが、その口調は至って落ち着いており、老人と話しているような不思議な安心感を翼に与えた。
「初めまして、私の名前は香流。世捨て人だよ。齢については、訊かないでくれるとありがたいね」
香流、と名乗った少年はさらりと言った。
根拠はないが、見た目通りの年齢ではないのだろうなということだけは翼にもわかった。
「ああ、旅人に頼まれていた書簡だったね。暫し待ってくれよ」
香流はそう言って棚の中を探しはじめた。
その間、翼はぼんやりと部屋の中を眺めて待っていたが、一緒に来た少女は香流の許可もなく勝手に竹簡を読んでいた。
「なあ、それわかるの?」
「まあなんとなくね」
彼女の読んでいるそれは漢字が羅列されており、おそらく漢文なのだろうということくらいしか翼にはわからないでいた。
「何て書いてあるの?」
「これは曹植の漢詩だね。『七歩詩』ってのなら聞いたことあるんじゃない?」
「三国志の?」
「そう、それだよ。まあ曹植の詩はそれが有名なだけで、この竹簡に書かれてるのは別のものだけどね」
始めは涼し気な顔をしていたが、話しているうちに少女の弁に熱がこもり始めてきた。
もっとも翼にはその内容はあまりわからなかったのだが、楽しそうに漢詩や三国志の話をしている彼女を見ているだけで翼は不思議と幸せな気分になった。
彼女の話はまだ尽きぬようだが、それよりも先に奥から香流が書簡を持ってやってきたので話はそこで終わった。
「ほら、これを渡してくれ。それと……これは君への駄賃だ」
そう言って香流は竹簡とは別に一つの、翡翠色に輝く宝玉を手渡した。
それは翼が持っている「鋼」の玉と同じ大きさで、その中には「波」という字が刻まれている。
「これは?」
「これが何かは私よりも君のほうがよく知っているんじゃないかな?」
「それは……知ってはいますけど…………でも、どうして俺に?」
「この力は君が持っているべきだから――いや、君の元にあるのが定めだから、というほうが正しいかもしれないね。君には何のことかはわからないだろうがね」
香流は穏やかな口調で言ったが、翼には香流の言わんとすることがまったく伝わらずに首をかしげていた。
そんな反応をわかった上で香流は淡々と言葉を続ける。
「かつて一人の男が私の下にやってきてこの宝玉を私に預けた。彼曰く、いずれ私の知己がここへやってくるから、その時にこの石を手渡して欲しい、と言うんだ。その時の私は意味がわからなかったから、何故あなたが直々に渡さないのかと訊いたさ。そしたら彼は、私が知己にこれを渡すのをよく思わないものがいるのだと言った」
「はぁ……。なんか回りくどいですね」
「ああ、そうだろう。私もそう思うよ。だけど今はこうして私の手元にこれがあり、渡すべき君がここにいる。いらないというのであれば引き下げるけれど、そうでないなら大人しくもらっておいてくれないかな?」
翼は少し考えたが、香流の勧めに従ってそれを手にした。
無論、これから戦い続けるためにも力が必要だという考えもあっただろう。しかしそれ以上に、「鋼」の宝玉を受け継いだ時と同じように、これは自分が持っているべきだと強く思ったのだ。
■■
「何か困ったことがあればまた来るといい。どうせ私は隠棲の身だからね」
帰り際、香流は翼にそう言った。
翼はどこか現実離れした表情で渡された「波」の宝玉を見つめながら歩き、気が付けば隣にいる少女と一言も会話をせずに町へと降りてきてしまった。
少女はというと、やはり翼と同じようにその手にある宝玉を見つめていたが、郭縦の鍛冶屋へ行こうとすると、そこで足を止めた。
「私はここで帰るよ」
「あ……」
そう言われて翼は、ようやく彼女の存在を思い出したらしく少し申し訳なさそうな表情を見せた。
結局、名前すら聞かずじまいだったなと思っていると、少女はそんな翼の名残惜しそうな表情を察したのか、にこりと笑みを浮かべた。
「西姫だよ。燈心西姫。トウシン草の燈心に西の姫って書いて西姫」
少女、西姫はそう言って自分の姓名の漢字を説明したが、名前のほうはともかく名字のほうは言われてもまるで理解できず、翼は頭を抱えた。
そんな翼など意にも介さずに西姫は鍛冶屋とは反対の方向へと歩いていく。
「大丈夫だよ。私と君は、絶対にまた会うから。だから――またね、翼くん」
そう言って手を振る西姫はとても無邪気で、初めて見た時の凛として大人びたたたずまいなどどこにもなかったが、しかし翼には今の西姫のほうがとても魅力的に映った。
翼は西姫の姿が完全に見えなくなるまでそちらの方向を見つめていたが、やがて我に返って鍛冶屋へと走った。
「すいません、遅くなりました!!」
香流から受け取った書簡を持って翼が郭縦の鍛冶屋へ駆け込むと、そこには翼の剣が折れる前の状態で打ちあがっていた。机の上に白い上質な布で巻かれたそれは、刀身を見ずともそれが完全に元に戻っていたことを翼にわからせてくれた。
「遅かったな孺子。何かあったかと案じていたぞ」
郭縦は仏頂面で言った。
「お代なら旅人にもらってある。それをもってとっとと帰れ」
「……ありがとうございました」
翼は郭縦に深々と頭を下げた。
そして次に旅人のほうを向くと、書簡を渡して、やはり頭を下げた。
「君は律儀だね。その性格は君の美徳だ。いつまでもその心がけを忘れないようにしてくれたまえ」
「わかりました」
翼はそう言って剣を手に取って鍛冶屋を出ようとしたが、入り口のところでぴたりと足を止めた。
「そういえば……俺、結局この町からの出方がわかんないんすけど」
旅人の説明は大まかなものでしかなく、翼はいまいち要領を得ていなかった。
結局翼は旅人に案内され、はいってきたところまで戻ってどうにかもとの世界へと戻ったのである。
■■
「夢みたいな時間だったな」
元の世界。鍛冶町の一角に戻った翼はぼんやりと空へ呟いた。
夕暮れに照らされて茜色に輝く街並はどこにでもあるもので、先ほどまでのことはすべて幻だったかのように思えた。
しかし翼が懐に手を伸ばすとそこには確かに「波」と刻まれた宝玉がある。それが翼がここならぬどこかへ行ったという証左であった。
とりあえず家へ帰ろうとした翼は、そこでポケットの中にいれていたスマートフォンの振動に気付いて足を止める。電話がかかってきた。相手は奏水である。
「はーい、どしたんすか奏水さん?」
何の気なしに電話を取ると、スマートフォン越しに怒声が響いた。
「どうした、じゃないでしょ翼ーッ!!」
「な、なんか怒ってます?」
「怒ってるとかじゃないでしょう!? あなた、東沙ちゃんの病室に来る約束はどうしたのよ!!」
「あ……。まあその、病室までは行ったんすよ? でもほら、そっちは奏水さんがいるからいいかなって思って」
「そういう問題じゃないでしょ!! せめて連絡くらいしなさい!! 私、何度もラインとか電話したんだからね?」
言われて翼はスマートフォンを操作すると、確かに通知が山のように来ていた。
しかし唐国町には当然ながら電波が通じないらしく、翼がそれを知ることもなかったということだ。
「あなた本当に自由よね。とりあえず東沙ちゃんも心配してるんだから、今からでいいから顔だしなさい!!」
「え、今からっすか? でももう夕方……」
「いいから来なさい」
「はい」
奏水に強く言われると翼は逆らえなかった。
自分に非があるのも事実なので大人しく翼は自転車を飛ばして病院へと向かった。
鍛冶町から東沙の入院している病院まではそれなりに距離があり、翼が到着した頃にはもう日は暮れて当たりは薄暗くなっていた。面会時間ぎりぎりに滑り込んで病室へ向かっていた翼は、不意に足を止める。
嫌な気配がした。
何か、異なるものが混ざりこんでいる。そんな感覚である。
それはかつて三度、翼が体験したもの――正体も目的もわからぬあの怪人たちが近くにいるという感じだ。
「やめてくれよ、本当にさ」
翼はここが病院だということを忘れて走り出す。
今までと違い目の前に現れたわけではないが、不思議と翼にはソレがどこにいるかという大まかな場所がわかった。そして最悪なことにその場所は、東沙の病室のあたりだったのだ。階段までたどり着きそれを駆けあがろうとしたところで、翼は目の前を灰色の壁に阻まれた。
土砂、というよりも文字通り灰を積み上げただけのもろいものに見えるが、少し近づくだけで肌がひりひりと焦がされるような熱さを含んでいる。生身の人間が触れればただでは済まないだろう。
「なんか知らないけど――邪魔だ!!」
胸のペンダントに手をやり変身した。
郭縦に打ち直してもらった剣で袈裟懸けに壁を斬りつけるが、元が柔らかい灰のため、豆腐に包丁をいれたような柔らかい感触があるだけで壁はびくともしない。舌打ちしながら、翼はその壁の中へ飛び込んだ。
一瞬、全身を火でかけられたような熱さに襲われたが、それさえ我慢してしまえば所詮はもろい壁である。灰にむせ、熱さに襲われはしたが超えること自体はた易いことであった。
変身していれば翼の身体能力は常人を遥かに超えている。一足で何十メートルも駆け、瞬く間に東沙の病室へとたどり着いた。
乱雑に引き戸を開け放つと、そこには倒れている奏水と、灰でできたヒト型の人形に拘束されている東沙がいた。東沙はこの状況に困惑しながらも、どうにか灰人形から逃げ出そうともがいている。しかし灰人形は東沙の手が触れてぐしゃりと一時的にへこみはしてもすぐに元の形に戻ってしまうため効果はなかった。
灰人形は病室の窓側に立っており、今まさにそこから飛び降りて逃げようとしているところである。
「くそ……」
剣を構えながら、翼はしかしそれ以上動けなかった。
囚われている東沙を外して灰人形だけに剣を届かせるほどの技量に自信はない。そもそも本質が灰である以上、攻撃を当てたところで先ほどの壁のようにただすり抜けるだけで終わってしまう可能性もあった。
(いや、たぶんアレが東沙ちゃんを掴んでいる以上、少なくとも腕はちゃんと実体があるはずだ。だけど……そんな針の穴に糸とおすような芸当、俺にはとてもできないぞ)
そう考えながらも翼はベッドを跳び越えて窓の前へと立った。
そして開け放たれている窓を体で覆うようにして逃げ道をふさぐ。
灰人形だけならば壁をすり抜けることもできるかもしれないが東沙がいる以上、逃げ道は病室の入り口か窓しかない。こういった状況に慣れておらず、すぐに対処法が思いつかない翼にとって、今は逃げられないことが何よりも大事であった。
(とはいえ……どうしたものかな?)
灰人形は顔がのっぺりとしていて表情というものがない。
そのためか翼は、逃げられないようにという点では集中していたが、それ以外の思考はいかにしてこの状況を打破するかを考えており、自分の身を守るという当たり前の考えが欠けていた。
灰人形の顔から灰が伸びる。
錐のような形となったそれがまっすぐ翼の心臓へと走った。
「しまっ……」
咄嗟に躱したため致命傷は避けたが、変わりに左の鎖骨のあたりを貫通する。刺されたという痛みとともに、体が中から燃えるような熱が翼の体を駆けめぐった。
一撃を与えても灰人形の攻撃は止まず、絶え間なく灰の錐が翼を襲う。
どうにか二撃目以降は剣で防いではいるが、連続してくるそれを前に翼は身を守るので手一杯であった。
どうにかこの状況を打破しなければ。そう考えた時である。
翼の懐から淡い青の光が漏れ出た。
それは香流から与えられた「波」の宝玉が光っていたのである。