3、悪夢の中で掴んだものは
郭縦と呼ばれた鍛冶は旅人に声をかけると鉄を打つ手を止めて振り返った。
真正面から見るとその体はやはりしっかりとしており、全身が岩でできているように翼には思えた。
(棟梁もだいぶがっしりしてるけどそれ以上だよな。テレビとかで見るボディビルダーとかのじゃなくて、仕事で叩きあげて引き締めた筋肉っつう感じがする)
翼はぼんやりと郭縦のほうを見ていたが、その間に郭縦はすっくと立ちあがって翼のほうに寄ってきた。
近くに来られるとますます巨岩と接しているようで、翼にはそれだけで威圧されているような気分である。
「この孺子が客か」
茫然と立ちすくむ翼を郭縦は品定めするように眺めまわす。職人気質のようで、子供からの依頼をあっさりと受けようという気は起きないらしい。
翼は変に緊張してしまい、自然と背筋が伸びていた。
郭縦は暫くしてから、
「まあいいだろう。何を打ってほしいんだ?」
と言って改めて翼のほうを見た。
翼は自分が客として認めてもらえたことに安堵の息を吐きながら、折れた剣を差しだした。
その剣を見た途端、郭縦の目の色が変わった。がしっと両手で翼の肩を掴んで、
「その剣は――いったいどうした?」
と訊いてきたのである。郭縦はどうやら何かこの剣のことを知っているようであるが、翼には郭縦に思い切り掴まれた肩に走る激痛でそれどころではなかった。翼の表情を見た旅人が察して郭縦を抑えてくれたが、翼は話しを戻す前に、まず肩の痛みが引くのを待たなければならなかった。
「えっと、それで……カクショウさんでしたっけ? この剣のこと、何かご存じなのですか?」
「この剣を私は前にも見たことがある。どれほど前であったかわからぬが……古く錆びた剣を持ちこまれて、打ち直してほしいと請われたことがある」
「それは……この町に来てからのことですか?」
「ああ。しかしその時にこの剣を持ちこんだ女性曰く、この剣は元々私が鍛えたものだ、というのだ」
つまり郭縦が元の世界にいた時に打った剣が、時代を経て誰かの手に渡って唐国町にもたらされ、郭縦が再び鍛えた後に時代を経て翼の手に渡り、そしてまた翼の手によって今この場にやってきたのである。
「これであれば、勝手はわかる。よかろう。ただし、暫し時間がかかるぞ」
話はまとまった。しかしそこで翼はもう一つの懸念を思い出し、恐る恐る手をあげながら訊いた。
「その……お代って、いくらぐらいなんですか? というか、この町の通貨って何ですか? 和同開珎?」
中学生の身の翼にとって小遣いに対して余裕はない。
まして古銭となれば、そもそもどうやって入手すればいいのかさえわからないので、せっかくまとまった話が水泡に帰してしまうかもしれない。しかし、普段は行き当たりばったりだがズルいことのできない性格の翼は、どうしても先にその話をせずにはいられなかったのである。
困り顔をしている翼に、旅人が助け船を出した。
「では一つ、私の依頼を受けていただけないでしょうか」
「依頼?」
「ええ。最近、唐国の薬学に凝っていましてね。それで、ここから東に行ったところにある山の頂上のお堂にある文献を譲り受けてきていただきたいのです。受けていただければ対価を払いますので、その銭で郭縦どのへの支払いをすればよろしいでしょう」
「それはいいけど……そんな簡単なことでいいのか?」
翼にすれば願ったりかなったりであるが、使い走りのようで、逆に申し訳なさに恐縮してしまった。
しかし旅人はやんわりと笑った。
「大丈夫ですよ。郭縦どのの腕を買えるだけの銭を払うだけの価値のある仕事ですので」
その言葉には含みがあり、何故だか翼はぞっとした。
しかし翼には他に道がないのも事実であり、旅人の依頼を受けることにした。
「これを渡せば譲っていただける手はずになっていますので」
そう言って旅人は竹簡と、地図のかかれた布を手渡した。
翼は二つを手にすると早速走り出した。
郭縦はあまりにとんとん拍子に進む二人のやりとりを、複雑そうな表情で眺めていた。
「なあ、旅人。私にはわからないが、おぬしの依頼はあの孺子に任せても大丈夫なものなのであろうな?」
「ええ、それはもちろん」
不安げな郭縦の問いかけに旅人は、口元を釣り上げて妙に自信に満ちた笑顔を浮かべた。
「彼ならば、きっと大丈夫ですよ」
郭縦に聞こえないように旅人は一人、呟いた。
その声はいびつな信頼に満ちていた。
■■
翼は山道をゆったりと走っていた。
山道といってもそう険しい道ではなく、ならされた緩い坂がひたすら続いているという程度のものだ。生え並ぶ木々のすき間から吹き抜ける風も穏やかで、心地よく翼の肌をなでてくれる。
気持ちのいい汗をかきながら、翼はのんびりと構えていた。
(これくらいの使い走りで剣が直るならラッキーじゃん。旅人さんに感謝しないとな)
それは楽観的ではあるが、年相応の思考だった。
実際、旅人が言っていたお堂らしき建物は既に翼のいる場所からぼんやりと見えていたのである。あと少しだと翼が思ったときだった。
「百里を行く者は九十里を半ばとす」
「え?」
声がした。
その声は初めて聞くはずなのに、翼には不思議と聞きおぼえがあった。違う声だが、しかしとても似たような声をどこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
澄んだ声だった。
難しい言葉のはずだが、滔々と流れてきた。
翼は声がしたほうを振り返る。そこにいたのは、鍛冶町にいたあの少女であった。
彼女は翼のほうを見てくすっとほほ笑んだ。ただそれだけの仕草なのに、翼は思わず見惚れてしまった。やはり美人だな、などとありきたりな感想をいだいていた。
「古人の例えだよ。物事を為すのにあたって肝要なのはあと少しというところだから、九割を終えたところでようやく半分終えた、という心掛けでいなさいってことだよ」
「あ……はい。ご忠告、ありがとうございます」
意識したわけではないが、翼の口調はぎこちないものになってしまった。
ぷっ、と彼女は思わず吹き出してしまった。
「あっははは、君おもしろいね。たぶん、私と君とじゃほとんど年齢かわんないよ? なんで敬語なのさ」
その顔は無邪気そのもので、一転して、年相応の表情になった。
「ちなみに君、いくつ?」
「じゅ、十二だけど……」
「なぁんだ、同い年じゃない。ため口でいいよ」
「同い年って、マジかよ」
翼はぼそりと呟いた。てっきり年上だと思っていたからだ。
老けて見える、というわけではない。大人びていて、自分と何かが違う気がしたのである。
「それで、君はこの山頂に行くんだよね?」
「あ、ああ。そうだけど」
「じゃあ、私もついていっていいかな? ここまでは一人で来たんだけど、途中から退屈になっちゃってさ。一人で歩くのがつまらなくなっちゃってさ」
「俺なんかでいいなら喜んで」
翼はつとめて素っ気なく言ったが、内心ではうきうきと心を躍らせていた。
「俺は光城翼だ。よろしく」
軽い調子で自己紹介をすると、スキップでもしながら再び山道を歩きだした。
その時、翼の頭にはすでに、つい今しがた少女からされた忠告を完全に忘れていたのである。
だから翼は「嵌って」しまった。
一歩踏み出した時、翼の周囲には霧がかかっていた。
先ほどまで隣にいた彼女の姿も見えない。
ぞぉぉ、とうなり声のような音がした。翼の足から、土を踏みしめているという感触が少しずつ消えていく。砂の上に立っているような、ざくざくと柔らかいそれへと変わっていったのである。翼が下を見ると、そこに先ほどまでの道はもうなかった。
あるのは、円錐状にくぼんだ渦。
そして、その中心に構える、巨大なアリジゴクだった。
翼は必死になってもがく。しかしどれだけ足に力を込めても何も変わらない。空しく砂を踏みしめて翼の体はアリジゴクへと確実に近づいていく。
今の翼に変身のための力はない。
もはやどうしようもなく、何がなんだかわからないままに死んでいくのかと思って、しかしその時――。
『歓喜に狂え、これでお前はもう死なない――』
そんな言葉が翼の脳裏に響いた。
それは翼が忘れてしまった言葉であった。その声の主が何者であるかもわからないが、しかし不思議とその声はおぞましさを与える、低い笑い声である。
『我がお前に与えた「ちから」はその程度のものではないぞ。今、お前が手にしているものなど、ほんの上澄み程度でしかない』
「ちから……?」
その言葉を聞いて、翼の全身に悪寒が走った。
戦うためには力がいる。守るためにも力がいる。生き残るためにも力がいる。それがどんな類のものであれ、力とはなくてはならないものだと翼はわかっている。
しかし、脳裏に響くその言葉はとてもおぞましかった。
与えられたというそれを、叶うのであれば今すぐにでもかなぐり捨てたいと思わせるほどに、声の言う「ちから」とは、
(気味が悪くて……吐き気がする)
心の底からの拒絶感を与えてくるものだった。
しかし、現実としてそうは言っていられない。翼の体はこうして考え事をしている間にもアリジゴクへと近づいており、このままでは死ぬという現状はなんら変わっていないのだ。
『それでも、死にたくないと願ったのはお前だろう』
頭の中の声は淡々と語る。
その言葉には何の間違いもないが、しかし、正しいとも思えなかった。
何かが曲解されている。その声にとってのみ都合のいい部分だけくみ取られ、都合よく使われているようにしか思えないのだ。
しかし今は、この声に縋るほかにどうしようもないのもまた事実だった。
『手を伸ばせ。そして掴め。ただそれだけでいい』
言われるがままに翼は手を伸ばした。
翼の左手に何かを掴んだ感触がしたが、そこで翼の意識は闇の底へと消えていった。
翼の体は、もうほとんどアリジゴクの巣の底へと沈んでいる。
■■
それは、あの時の夢の続きだった。
幽閉されていた少年と、貴族らしい身なりをした少年との物語の続きだ。
「君のことを私はなんと呼べばいいのだろうか?」
訊かれて、幽閉されていた少年は言葉に詰まった。
きっと彼には、名前というものがなかったのだろう。生まれてきてから今まで、それすらも与えられなかったのだろうかと考えるとぞっとした。
「ふむ。とはいえ呼称がないというのは不便だね。ならば、とりあえず仲と呼ぼう」
「ちゅう?」
仲、と呼ばれた少年はその言葉を反芻するように何度も口に出していた。たぶん、今まで誰かに呼ばれるっていうことがなかったから嬉しいんだと思う。
二人がいるのは竹林の中だ。
それだけなら別に不思議ではないが、そこにいるモノはとても平安時代の光景とは思えなかった。
いや、現代でだってありえない。
「これが蔵の外……」
しかし仲は、そもそも今までが蔵の中だけで活きてきたからか、それに不自然さや違和感を感じてないようだった。
「私が君の味方になるからといって、君を取り巻くものがすぐに変わるわけではない。だから、私が持てる術を君に教えよう。差しあたって、ここにいる四体が君の従僕だ。まず彼らを従わせることから始めよう」
仲の前にいたのは、四匹の獣だった。しかしそのどれ一つとして、およそ現実の生き物とは思えない。
たてがみが炎でできた巨大な獅子。
野球のダイヤモンド一周分くらいの大きさでとぐろを巻いている緑色の……ドラゴンとしか形容できない生き物。
淡い水色の光を放っている羽根の生えた巨大な馬。
そして、顔が猿で胴体と手足が虎で尾が蛇という巨大な四つん這いの獣だった。
俺は特に根拠もなく平安時代とか、少なくとも中世以前の日本の話だと思ってるんだけど、もしかしたら全く違う異世界の話とかなのかもしれない。
とにかく、その四匹の獣は仲の前に近づいて、そしてその前にそれぞれ従うようにして雄たけびをあげた。
■■
「ねえ、翼くん? どうしたの、こんなところで寝てさ」
少女に名前を呼ばれて、翼は意識を取り戻した。
翼は地面の真ん中で大の字になって寝ていたのである。
「あれ、俺……どうなったんだっけ?」
「それはこっちの台詞だよ。一緒に歩き出したと思ったら急にどこかに行っちゃうしさ。それで探してみたら、なんかおっきい虫みたいなのが真っ二つになってるし」
「虫……?」
言われて翼がそのほうを見ると、そこにはアリジゴクが縦に両断されていた。
鋭利な何かに斬られたようだが、それが可能な得物はどこにも見当たらない。
「これ、翼くんがやったの?」
「さあ、どうなんだろ?」
二人して首をひねってはみたが、答えはついにでなかった。
釈然としないまま二人は山頂へと向かった。そして、特に何もなく、旅人に言われた通りの書簡を手に入れることが出来たのである。