36日の午後
初めての2話目
2.36日の午後
アーロネスは気怠いまま、ベッドから身を起こした。
それを引き摺るのは、良くないとは思いつつ、憂鬱な気分を抱える。
何しろ昨日、知った家庭教師先というのが、ただの子爵ではなく帝国初期から続く名門という大物であったからだ。
帝国が興って千年が経つ。
子爵家のあらましの千年をさらうのは、殆ど徹夜に近い詰め込みでも追い付かない。累系を考えれば、膨大にすぎる。少なくとも、近年の百年は今夜、念入りに憶えねばならない。
千年続く家など、考えただけでもゾッとする量だ。
幸いにも、今日の天気は上々だ。
この気分を変えるには、気の利いたランチで昼をすませるとして、そのあと今日の行動をどうするか決めかねていた。本来、退官とあれば非番の連中を集めて呑むのが慣習といえばそうなのだが、皆は避暑地へと出払っている。
「アーロネス・ツイス・ワウターさま、いらっしゃいますか」
可憐な声がした。
個人官僚の集合住宅には、専属ではないもののハウスキーパーと秘書が何人かついている。
20人の忙しい公僕の私事を捌いてくれる有り難い存在だ。
「ああ、開いている。入ってくれ」
「まあ、ワウターさま」
入って、その一声を挙げたのは新米のハウスキーパー、ルーネット・スカルジャー。散らかった資料や服に眉を顰めて、子供を叱るように声を上げた。彼女は、ここの『堅い』住人たちにも人気が高い。その北龍島の在来犬のようなクリリとした愛くるしさは、疲れ果てた男達の癒やしとなっている。
彼女が人気なのは、愛くるしさだけではない。
何というか、彼女は勇敢なのだ。
もともと、貴族院の官舎という巣窟には、たちの悪い選民意識があるのだが、それでも彼女は誰彼なく容赦なく叱る。
『…、ああ、犬だな』
「なんです、その瞳は。また、何か悪いコトを考えていますね」
「なんでもない」
強面で、人相の決して良くない隻眼の彼の、本当にしようもない、その場限りのとり繕いを、腰に手を当てて嘆息する。
「もう…、」
「何か、急用か」
彼の王都での、主な知り合いや同僚は『夏の王宮』にて任務に励んでいる筈だ。
「はい、玉縁商会の方が…」
「ン」
喪った方の眼が引き攣る。
今の彼は、驚きや、戸惑いに反応して抑制が効かない。
かつて、鋼の顔貌と呼ばれたアーロネスは、こんな些細な事態にも反応してしまう有様になっている。
そして、その反応にルーネットはオロオロとする。
「わかった、着替えて行くので、暫く待たせておいてくれ」
「あの、気分が悪いのでしたら出直して貰えば」
「そうも、いかない。…だろ?」
「あっ」
ルーネットの大きな瞳が、サッと曇る。
どうしたって、夏の終わりには、アーロネスはここを離れてしまう。限られた時間は有効に使うべきだと、彼はハウスキーパーを追い出した。
「お待たせしました」
「いえいえ、ワウターさまに、先触れもなく面会を求めたのは、こちらで」
そこにいたのは、アーロネスの主観で25,6の美女。相貌は硬く、無理矢理な笑顔を作っている。そんな印象は否めないが、こうして会えば、本質的には爽やかな感じをさせる為人。
玉縁商会といえば、商いは小さいものの、宮中の古い御用達。北方の漢禄王朝が、帝国と並び立つほど大きかった時代から、一個人の商いで信用を為す。従って、血縁たるその奉公人は、漢禄の血筋であるべきなのだが、彼女はどうにも帝国の血が濃い。
「どうぞ、お座りください」
「失礼します」
彼女からは、少し南方の訛りが漏れる。
ごく僅かなものだが、近衛は、これを聞き分ける必要がある。アーロネスのように、訓練を受けると、逆に判断の処置に困ることがある。
この場合がそうだ。
だがしかし、彼女は、受付の秘書の審査を抜けているので、身分を偽っている可能性は低い。
「まず、私の名前から」
彼女の目は真っ直ぐアーロネスを視た。
これは、古い帝国貴族がよくやる、相手に"信"を与える遣り方だ。
貴族というものは、たとえ凡てを喪ったとしても、揺らがぬ芯を持ち続ける"血脈"だ。普通なら挫け、逃避する事態だとしても、そうは出来ないというのが、特に古い貴族というものだ。
「ミーネェアス・雪・カノンと申します」
「カノン家のご息女でしたか、玉縁商会にお勤めになっているのですね」
すると、ミーネェアスは顔を赤らめて俯き加減に。
「えっ、あ、その、じつは、わたし、柳家に嫁ぎまして、」
「おめでとうございます」
「その、正式には未だなのですが、柳家では花嫁修業と云うものが必須であるらしくて、それが玉縁商会の新たな仕事の起ち上げに尽力することに…」
「玉縁商会の決まり事については存じております」
「さすが、ワウターさま。噂はホントでしたの。貴族大学院からの頃から、どんなことも知らないことはないと評判でした」
少し、夢見がちな頃の口調に、彼女は戻っていたが、さすがに社会人としての嗜みを思い出して居住まいを正した。
「このたびは、婚約の儀、お慶び申し上げます」
「はっ?」
アーロネスは、予想外の彼女の発言に、大変珍しいコトに狼狽で表情を取り繕いそこねた。
巧くは書けないもんです。世界観を構成するのが優先なので、話の構成は酷い自覚はあります。




