テウンタ(五月)35日のこと
取り敢えず、開幕となります。
1.テウンタ(五月)35日のこと
1035帝国歴、テウンタの35日。
テウンタも、あと五日となり真夏の最盛期を終えようとしていた。
今年の夏は暑く厳しいものだったが、その中で起きた不穏な事件も解決して、秋へ向けて帝都は緩やかに解れている。
儀官庁の1階の奥、近衛官長室に彼はいた。
「よく来た、アーロネス・ツイス・ワウター」
「は、」
「さっそくだが、君に辞令だ」
アーロネスは、怪訝な表情を浮かべた。
本来ならば、今日は最後の挨拶だけの筈だったからだ。
左眼を失った以上、ここにいることは出来ない。残念ではあるが、負傷したこと事態に彼の悔いは無いし、近衛の職とはそういうものだと知って職にについたのだから。
とはいえ、未練が無いわけではない。
「聞きましょう」
「君には、特別休暇と特別任務をこなして貰いたい」
「長官、それは・・」
「これは、近衛官の正規任務には出来ない極秘の任務となる」
極秘任務と聞いてアーロネスの表情が曇る。
密偵紛いの任務は、近衛官の資質とは相容れないからだ。喩えてみるなら、密偵は懐に呑む柔らかな布であり、近衛は華やかだが壊れない箱とされている。
「治癒魔法について、どんな認識がある?」
「治癒魔法ですか」
厭な予感に思わず、探査の魔法を掛けそうになる。
たとえ、ここが秘密の奥底で、防術の極みにあるとしても、習慣とは恐ろしいものだ。近衛の常として、周りの状況と状態は確認事項、それを条件反射にしている。
それほどに、この治癒魔法というものには、秘密と憶測が絡み合う。魔法学のなかでも『必要』と『重要』であるにも係わらず『高度』となれば、眉を顰める人が多くなる。
「あまり、いい印象はありませんね、…」
「そうではない」
長官は鋭い眼光で、アーロネスの言葉を遮った。
「魔法とは、一般的には理屈がままならないものだ。だが、それ以上に治癒魔法には不可解で不合理が付きまとう。擦り傷ぐらいならば素人でも直せるが、それ以上の治癒は、知識が必要だ」
「それは、・・・理解しています」
「質問の仕方を変えよう。認識ではなく、どこまでの治癒魔法を『使える』か?」
「第一階梯ぐらいならば、問題なく。それ以降になりますと、習熟に大きな差があります。骨折は、予防処置の階梯が高く、非常時には使えません」
「最高階梯の技術は何だ」
「脳内出血の止血を何度か」
「宜しい、君は、今回の任務に意外と適任かもしれないな」
長官の機嫌は、少し良くなったようだ。
「君には、ナクター子爵家の家庭教師として、入って貰う」
そう言ったテーブルには、本来在るべき辞令書がない。
これは、おかしい。
いくら秘密の辞令とはいえ、近衛官職が辞令もなく行動すれば、逆に人目に付いてしまう。
「これは、極秘の任務だ。何も残せないし、何も有りはしない」
長官は、静かな笑みを浮かべて、続けた。
「正式な辞令では無いし、いつ辞めてもらっても構わない。手続き上は正式な退官で、我々の退官に当たっての就職先の斡旋が、偶々、今回の子爵家であるだけだ」
「報告は?」
「私も、暫くすれば退官だ。君の勤め先になる子爵家には、私も縁がある、会うこともあるだろう」
「子爵家での防術はどうすれば宜しいか」
「ふむ」
防術は、取り扱いが非常に難しい。
それを認識出来る者にとっては、秘密が有る無しの旗が立っているようなものだからだ。王宮などでは、最新の防術が常に使われているが、子爵家の防術などよほどの資産家でもなければ、最低限の防術で済ませているのが、殆どだ。
「多分、問題ない。ここの帰りに人事院に職令を貰ってくれ。紋章科に行って先の家の情報を確りと記憶するように」
「…と、どこかの系族ですか?」
「話は、以上だ」
長官は、話の済んだ顔をして、さりげなく退室を促した。
これ以上の情報は、ここでは得られないとアーロネスは判断した。退官の挨拶に来たものが、長官室に長居をすれば、それだけで多分、注意事項に分類されるだろう。
良くも、悪くも、近衛官というものの存在は、理由を問わず関心事の的だ。
静かに退室の扉を開けたときに、長官から
「退官の休日は今月いっぱい取ってある。習熟と挨拶に廻るのなら充分だろう」
「ありがとうございます。そうですね、定食屋に随分と世話になりました。失礼します」
これは、近衛の符牒。
聴かせても云い内容であり、漏れない情報というものを、代々近衛官職は信用していない。
情報とは流れていくモノであり、どこで欠落し、劣化をするのか、それは承知しておかなくてはならない。
近衛の本分ではないとはいえ、間諜のイロハは押さえて於かねばならない。
この、扉を開けた会話を誰が聞いているかは、それにあたる。
情報には、色が混ざる。
その色が、王宮近侍のものか、諜報科のものか、それ以外か?
それは、退官するアーロネスが考えるものではないが、『五日』あるのだ。
最後の奉公になるかな、と彼は考えていたのだった。
このくらいのボリュームで、揃えていきます。




