灰被りすぎ姫
「身分のさほど高くないお金持ちと結婚してぐうたら暮らした~い」
むかしむかしあるところにアシュリーという娘がおり、日夜このような世迷言を口にしてはひたすら主人公に都合の良い物語を読みふけっておりました。
アシュリーの父は冒険野郎でした。
冒険野郎の性として大冒険の末にやんごとない血筋の女性と契りを結び、その結果アシュリーが生まれたのですが、母の血筋があまりにもやんごとないため、結局アシュリーの父母は結婚しないままで、アシュリーは父の下で育つことになりました。
そのうち「そろそろ身を落ち着けるか」の言葉とともに父は別の女性と結婚しました。結婚して、三ヶ月くらいで冒険の旅に出ました。アシュリーはそれを「なんつー落ち着かない男だ」「私はぜぇーったいにこんな男とは結婚しないぞい」と見送りました。
しかしこの再婚相手、アシュリーにとって継母に当たる人物は、とても彼女につらく当たるのだから大変です。
たとえば、こんな風に。
「アシュリー!」
「はーい」
バン、とアシュリーの部屋の扉が勢いよく開きました。アシュリーはそれに驚いて、ベッドの上で膝をパタパタ折ったり伸ばしたりしながらクッキーを食べます。
「ベッドの上で物を食べるんじゃないよっ」
「大丈夫です、あとでコロコロかけますから」
「そう言ってあんたが一度でもコロコロかけたことがあるのかいっ」
「一回くらいはありますよ」
一回くらいはありました。
ゆえにアシュリーは非常に正当な正答を返しているのですが、継母は納得しません。
「大体あんたそんなゴロゴロしてっ、宿題はやったのかいっ」
「やりましたよ」
「そ、そうかい……。偉いじゃないか」
「今週はじゃんけんに勝ちましたから」
「仲間内で宿題当番回してるんじゃないよっ、しかも週単位でっ」
憤懣やるかたない様子の継母でしたが、アシュリーは決して動じません。なぜなら彼女は先学期の通信簿に「良い意味でも悪い意味でも非常に心の強い生徒です」と書かれたほどのメンタリティの持ち主であるからです。
しかし突然の来訪には困った様子で、さすがに笑顔のなかに若干の戸惑いを見せながら、こう聞きました。
「ところで今日はどうしたんですか? 冷蔵庫にあった三連プリンを食べた犯人探しながら、私ではなく二人のお義姉さま方ですけど」
「そんなみみっちい話じゃなくてね……。いや待ちな。あれはあの子たちだったんだね。教えてくれてありがとうよ、アシュリー。ちなみにどっちが二つ食べたんだい?」
「いえ、どちらも一つずつです。余った一個は私が口止め料にもらいました」
「やっぱりあんたも犯人じゃないかいっ! しかも口止めされておいてぺらぺらとっ」
アシュリーは二人の義姉が三連プリンに手をつけた時点で所有権の移転が発生しており、その後それを譲り受けた自分には窃盗の罪は発生しないはずである、と主張しましたが、残念ながら無償譲受に関する話を持ち出されて論破されてしまい、普通に怒られてしまいました。しかし発見した悪事を黙っていることの正当性や、四人暮らしの家で三連プリンを購入するという行為の孕む破滅的性質ついては論議が複雑をきわめたので、最終的にはうやむやのまま話が進みました。
「ごほんっ、ってこんなこと話すために来たんじゃないよっ。ほんっとに元気のいい子だねお前は」
「そうですか? でも普段はちょっとインドア派っていうか、大人しい子だよねってよく言われて……。もう少し自己主張した方がいいって友達にもよく言われるんですけど」
「婚活パーティの猫被りみたいなこと言ってんじゃないよっ。いい加減話が進まないから言うけどね、これからあんた以外は出かけてくるから留守番してなっ」
「はい。居留守なら任せてください」
「ちゃんと出なっ」
なんという無理難題でしょう。アシュリーを訪ねて実家に突撃してくる友達なんて滅多にいません。となると来客は十中八九アシュリーの知らない中年であり、対応しても何一つとしていいことなどありません。
「ちなみにどちらへ行かれるのですか? 温泉とか?」
「温泉だったらあんたもちゃんと連れてくよっ。聞いて驚きな。今日は王城で王子様の結婚相手選びがあるんだよっ」
「ほへー」
「もっと驚きなっ」
「うわー! びっくりだー! どんな人がお姫様になるんだろー!」
「あんたのそういうところ、賛否両論あるだろうけどあたしは好きだよ」
何という卑劣な不意打ちでしょう。アシュリーはちょっと照れてしまいました。
その隙に新たに二人の娘がアシュリーの部屋に押し入ります。
一人は真っ白でふわふわの髪になんかありえないくらいキラキラした緑の瞳の少女です。びっくりするようなファンシードレスを着ていました。
もう一人は黒髪黒目の中性的な少女です。服装も中性的で、謎の異国語や鎖や十字架がこれでもかというくらいでかでかと描かれていました。
「そして王子様と結婚するのは、あたしの自慢の娘のうちの誰かに決まってるのさ」
「私は?」
「あんたはこの間礼儀作法の単位落としてただろうっ。大変なことになるからしばらくパーティーに出るのはやめておきなっ」
「心配いりませんよ。あれは替え玉受験がバレて単位を剥奪されただけです」
「より悪いじゃないかいっ」
継母は目頭を押さえて、溜息をつきました。それから、ポン、ポン、と二人の義姉の肩を叩いて言います。
「あんたらも頑張るんだよ。この不良な妹にちゃんと正しい背中を見せてやりな」
言われて、ふわふわした義姉は答えました。
「えっ、無理ですわお母さま。わたしね、恋愛とかそういうのはよくわからないしできないの。特に王子さまが相手とか、本気で好きになられて嫉妬されたり痴情のもつれとかに巻き込まれたりしたくないし……。パン屋さんやお花屋さんをしながらのんびり暮らせればそれでいいのですわ」
「甘っちょろいこと言うんじゃないっ。パン屋さんやお花屋さんだって大変なんだよっ」
そこかなあ?と思いながらアシュリーはそれを聞きました。
次に、じゃきーん、とした義姉が答えます。
「イケメンはごめんだね。信用できない。どうせ気立ての良くて真面目な女の子と心を通わせるうちに地位やお金で他人を判断することに疑問を覚え始め、最終的にボクとの結婚の約束をなかったことにするんだ」
「人を顔で判断するんじゃないよっ」
そこかなあ?と思いながらアシュリーはそれを聞きました。
しゅどっ、どすっ、とそれぞれ頭に手刀を叩きこまれた二人の義姉は、「いったぁ~い」「狂おしく、懐かしい痛みだ……」と涙目になり、継母の腕に引きずられるように部屋から退散していきました。アシュリーはそれを手を振りながら見送りました。
しかし、その直後ひょい、と継母がまた顔を見せました。
「あんたね、この間学校の成績メッタメタだったろう。いい機会だから反省のために家の掃除でもしておきなっ」
「ええっそんなぁ」
なんたる極悪非道でしょう。
「帰りにケーキを買ってきてくれるなら考えないこともないですけど」
「なんで交換条件出してるんだいっ。買ってきてやるからちゃんと真面目にやっておきなっ」
今度こそ継母と二人の義姉は部屋をでていきました。
そしてアシュリーはちゃんと約束通り、ケーキを買ってきてくれるなら、と掃除をすることを考えて。
考えた末に面倒くさいからやめておくことにしました。
*
「おぎゃあっ」
とアシュリーが声を上げたのは、何も転生してもう一度赤ん坊から人生をやり直し始めたからではありません。
キッチンから水を持ってきて部屋に持ち込んだところ、もう片方の手に持っていた読みさしの本と間違えてコップをベッドに投げてしまったのです。
「おねしょしたって言ったら誤魔化せないかな……」
アシュリーは常識に捉われない自由な魂の持ち主だったので、咄嗟にそんな天才的な案を思いついてしまいましたが、同時に良識を兼ね備えた優しい少女だったので、シーツをベッドから剥ぎ取って、リビングの暖炉で乾かすことにしました。
しかしいざ暖炉に火を入れようとすると、マッチが見つかりません。代わりに暖炉の前のテーブルに、こんな書置きを見つけました。
『アシュリーへ
ここに来たということは、あんたのことだから何かに水でも零したんだろうっ。ちゃんとしなっ。
どうせ掃除も全然してないんだろうから、せめて暖炉の掃除だけでもしておきなっ。そこに汝の宿命が待つだろう』
「脱出ゲームかな?」
ここまでバレバレでは仕方がありません。アシュリーは悲しい運命に諦めを抱いて、「どうせ暖炉の灰の中にマッチを隠してるんでしょ」と適当に薪を使って灰を叩き始めました。
『がこん』
すると、突然何やら重大なスイッチが押されたかのような音がしました。
アシュリーは自分が何やら重大なスイッチを押してしまったのではないか、と焦りましたがすぐにその結果は目に見えるようになりました。
どっさー、と大きな音がして、灰が暖炉の下に流れ始めたのです。
長々流れる様子をアシュリーは見ていましたが、最後にはぽっかりと、暖炉の中に、穴があることがわかりました。
暖炉は大きく、人一人くらいなら余裕で入れそうです。
「脱出ゲームかな?」
アシュリーは意を決して、その穴の下に降りていくことにしました。
ぴょーん、ざっ、しゅたっ、とアシュリーが華麗に落下ダメージを殺しながら、灰をクッションに地下に降り立つと、驚いたことにそこには広大な地下空間が広がっていました。
そしていかなる魔法か、ぼやーっ、とアシュリーの視界に文字が浮かび上がってきます。
『The Last Dungeon 1/300』
「えぇええええええ!?」
なんということでしょう! ここは屋敷に隠されていた300階層の地下迷宮だったのです!
さすがのアシュリーも、つー、と一筋、こめかみに冷や汗を流しました。
継母は暖炉の掃除をしておけ、と書き残しました。
当然、暖炉の掃除とは暖炉の地下に存在する広大かつ未知の、果てしなく深遠たる迷宮を攻略せよという含意を持っています。
嗚呼、如何にしてかくたる苦難に立ち向かわんや。
慟哭、渡り鳥の断末。
悲嘆の宿命に立ち向かう力を、今ここに。
アシュリーは、一歩を踏み出しました。
冒険の始まりです。
内心うっきうきでした。
*
『The Last Dungeon 100/300』
潜り始めて数時間。アシュリーは違和感に気付きました。
「ぬるすぎる……?」
アシュリーも成績表はボロボロとはいえ、学園では数多の事件を解決してきた少女です。だから、これほどにあからさまな奇妙さには、簡単に感づきます。
「よっ、と」
アシュリーは手に持った細剣(ダンジョン内の宝箱で拾った業物です)で、前方からやってきた狼をなで斬りにしました。
そして直後、その狼はさらさらと灰となって、跡形もなく消えてしまいます。
弱いのです。
「やっぱり、なにかおかしい……」
何もアシュリーが、ダンジョンのモンスターなら何が相手でも苦戦するほど弱い、ということではないのです。むしろ逆です。強いからわかるのです。
「ダンジョンの魔力濃度に対して、モンスターが脆すぎる」
『The Last Dungeon』と目の前に文字が見えたとき、アシュリーは納得していました。それほどの強い魔力の存在を感じていたのです。
ダンジョンのモンスターの強さは、通常魔力の高低に直接影響を受けます。だから、どうあっても苦戦は間違いないと、アシュリーはそう確信していました。
だというのに。
「やっ、てやぁっ!」
二閃。
それだけで五頭の狼をアシュリーは屠りました。またもそれらは灰となって消えてしまいます。
「このダンジョン、やっぱり何かあるんだ……」
ここで油断しないところが、アシュリーの強みです。
慎重に、警戒しながら、それでも危うげなくアシュリーは迷宮を進みました。
そして、重厚な扉の前に辿り着きました。
「なるほどね……」
アシュリーは、ポケットからクッキーを一枚取り出して、かじりました。甘いものを食べておくと、いざというとき力が出やすいのです。
覚えがありました。ダンジョン内にある仰々しい入り口には、大抵の場合番人が居座っているのです。それを倒さなければ、先へと進むことはできません。
きっと厳しい戦いになるだろう。アシュリーは確信にも近い予感を覚えていました。
「よしっ、頑張るぞ!」
それでも彼女は、力強くそう言って、扉をぐーっと押しました。
ゴゴゴ、と大きな音を立てて扉は開いていきます。
そして、その先には。
「ぴょえっ」
思わず口から半濁音が出てしまいました。
アシュリーの予感は外れていませんでした。
確かに、その部屋には番人がいたのです。
けれど。
「こ、こんなに大きいなんて聞いてないよ~~~」
予感していてもなお、予想できなかったのです。
まさか、いくら天井の高い迷宮だからといって、お城みたいな大きさの白馬が立ち塞がっているなんて、まさかまさか。
これにはとっても勝てそうにないぞ、とアシュリーは思いました。
だから、一旦引き返すことにしました。
学園の友達を頼れば、こういう超大型の魔物を倒すための武器やアイテム、あるいはアイディアが手に入るかもしれません。勝ち目のない相手を前に逃げることは、決して恥ずかしいことではないと、アシュリーは知っていました。
だから、ここは尻尾を巻いて逃げ帰ろうとして。
『フぼス…………』
「……………」
荒い息を吐く白馬と、うっかり目が合ってしまいました。
あれだけ大きな扉を開けて気付かれないわけがないのです。それはそうです。当たり前です。
目線をがっちり合わせながら、アシュリーはこう言いました。
「……さ、さくせんタイム」
どがぁあああん!とものすごい音がして、あの大きな扉が吹き飛びました。
「ぴょえっ」
しかしアシュリーもさすがのもの。咄嗟のとうに横っ飛びをして、その扉を避けました。
恐る恐る、吹き飛ばされた扉を見ました。なんとなんと、馬の蹄の形そのままに、大きく凹んでいます。
『ブルル…………』
鼻息に、目線を上げると、アシュリーはまた、白馬と目が合いました。
とても勝ち目はありません。
これまでたくさんの大ピンチを潜り抜けてきたアシュリーですが、今回ばかりはひとっつも、欠片も、微塵も勝てるビジョンが思い浮かびませんでした。
前足の蹴りであの威力です。とてもじゃありませんが、後ろ蹴りなんて食らってしまえば木っ端微塵です。
前もダメなら後ろもダメ。それなら横に回り込んでチクチクと――、これもダメです。さすがのアシュリーだって、お城を吹き飛ばすような魔法は耳にしたことだってありません。途方もないような時間がかかってしまうに決まっています。
ならとにかく逃げる――。アシュリーが馬より速く走れるんだったら、きっと有効な手段だったでしょう。
「だ、ダメだ……」
アシュリーは、たった一瞬の間に追い詰められてしまいました。
そして追い詰められた人は、二つの行動のうち、どちらかを取ります。
怯え、立ちすくむか。
それとも、立ち向かうか。
「でやぁああああ!」
アシュリーは、後者でした。
敵わないことは、誰に言われずともアシュリー自身が、この世で一番、よくわかっていました。
だけどアシュリーは、それでも一歩踏み出さずにはいられませんでした。
許容の限界まで、全身の速度を、力を強化しました。
細剣に乗せられる限りの魔力を、限界まで圧縮して、剣先に宿しました。
狙いすましたのは、白馬のその瞳です。角であれば通らないだろうとアシュリーは思いました。皮が相手でも止められるに違いないと思いました。
彼女は信じました。
自分の渾身の一撃を。
たとえそれが億分の一にも満たない可能性だったとしても、自らの手で道を切り開くことができると。
激しい力が嵐のように渦巻いて、螺旋は鋭く一点を刺し貫かんとして放たれました。
その切っ先が、今まさに、白馬の瞳に届かんとする瞬間。
声が響きました。
《――汝、勇気を示したり》
「えっ!?」
ぽん、と間抜けな音がしました。
そして、どういうわけか、アシュリーが今まさに貫かんとした白馬の姿が、視界から消え去ったのです。
アシュリーは荒れ狂う自身の力をどうにか制御し、くるりと身体を回して、跳び上がるように宙に身体を投げました。
重力に従って下降しながら、アシュリーは白馬の姿を探します。けれど、
「あれ? あれあれ?」
見つからないのです。
着地して、天井を見てもそうでした。
ついさっきまで対峙していた、あれほど大きな白馬の姿が、どこにもなくなってしまったのです。
アシュリーは首を傾げます。
ひょっとして今のは幻だったのかしらん。そんな疑いまで湧いてくると、白馬の代わりに、そこに居座っている動物に気が付きました。
その動物とは、
「カピバラ……?」
「ヂュッ」
「あ、ネズミ。……ネズミ……? 大きくない……?」
大きなげっ歯類でした。中型犬くらいの大きさがあります。
これはこれで不思議な動物でした。
一体どういうことなのだろう、とアシュリーが考えていると、もう一度暫定ネズミがヂュッ、と鳴いて、顎で何かを示すような仕草をしました。
アシュリーはつられてそちらを見ます。
そこには、ついさっきまでなかったはずの階段がありました。
「…………ま、いっか!」
アシュリーはとりあえず納得することにしました。
ダンジョンで何かを疑うことは大切です。しかし同時に、疑いすぎないことも大切なのです。
アシュリーは細剣を一振りして、力の残滓を拭い去ると、とてて、と駆けて階段へと向かいます。
その後ろを、大きなネズミがついていきました。
*
『The Last Dungeon 200/300』
ふーっ、とアシュリーは息をつきました。垂れ下がった髪の房をつたって、ぽたん、と汗が一滴、落ちました。
『驚くべき』『力です』『私の』『六重奏を』『これほどまでに』『しのぐとは』
「強い……!」
アシュリーが鋭く見つめる先にいるのは、六人の男の姿でした。
あの白馬の間を抜けてからどのくらいの時間が経ったでしょうか。アシュリーはとうとう二つ目の扉を見つけ、その先へと進みました。そしてそこには番人として、この六人が立っていたのです。
それはただの六人ではありませんでした。彼らは六人が六人とも、まったく同じ顔をして、まったく同じ形の燕尾服を着ていたのです。
違うところはふたつありました。ひとつは、髪や服の色。それぞれ赤、青、黄、緑、それから白と黒。もうひとつは、その手に持つ武器の形でした。赤は大剣を、青は曲刀を、黄は槌を、緑は槍を、白は棍を、黒は鎌を、それぞれ持っています。
驚くべきコンビネーションでした。
部屋に入った途端、六色の魔法光線がアシュリーに降りかかりました。アシュリーはそれを本能とも言うべき直感で躱しました。直後、相手の姿かたちも見極められぬままに近接・遠隔問わぬ乱戦の始まりです。ようやくこうしてアシュリーが息をついたのは、すでに戦闘が始まってから、五分も経つ頃でした。
魔法も、格闘も、負けてはいない――。
それがアシュリーの感触でした。ひとりひとりの能力を見れば、先ほどの白馬と違い、打倒できない相手ではありません。しかしそれが未だに成されていないのは、まさしく集団戦の妙によるところでした。
六人が六人とも、ひとつの身体を操るように動くのです。魔法、格闘、格闘、魔法――。隙を生じぬ連撃に、反撃の糸口がつかめないでいました。
しかし。
「……よし、決めた」
アシュリーはゆうらり、と細剣を揺らし、構え直します。
『ほう』『何を』『決め』『たと』『いう』『のです?』
呼応するように、六人も身構えました。キャラ的に分け合うべき一文が短かったために、ぶつ切りで聞き取りにくい台詞になっていました。アシュリーはそれに答えないまま、
「――行きます」
『――――!』
高速の刺突を繰り出しました。狙いは赤です。
咄嗟に赤は大剣を振り下ろして迎撃しようと試みましたが、剣技で勝るのはアシュリーです。その断頭の刃が肌に触れるよりも先に、懐に飛び込んでいました。
これには赤も堪りません。あわやその喉頸がアシュリーの剣先に刺し貫かれんとする瞬間、しかし反対に、アシュリーの頭めがけて青の光が飛んできます。
氷塊です。
青の男が、サポートにまわり、攻撃をしかけてきたのです。
「ふッ!」
それでもアシュリーは怯みませんでした。上体を深く沈みこませ、燕のように低く、床を抉るような一撃を、さらに繰り出します。
『させま』『せんよッ!』
今度は白と黒のコンビです。横合いから刈り取るように差し出された黒の大鎌を、しかしアシュリーはさらに膝から滑り込むようにして潜り抜けます。そのとき赤の背後から白が飛び上がり、棍の一撃でもってアシュリーの頭蓋を砕かんと突き下ろします。アシュリーは細剣の腹をその棍に擦り当て、軌道を逸らして躱しました。
そして驚嘆すべきは、そこからのアシュリーの立て直しです。
崩れに崩れた姿勢から、アシュリーは二足、回るように、踊るように踏み込んで、さらなる追撃を試みます。その手に宿るのは青の魔法光。炎の魔法を操る赤の、弱点となるだろう氷の属性魔法の発動兆候です。
『ひとり狙いですかッ!』
赤が叫びました。
執拗なる追撃に、アシュリーの意図を見たのです。とにかく六人から五人に頭数を減らす。シンプルながら、連携を断ち切るには有効な手段です。
『――――かかりましたね』
口の端が、悪魔のように釣り上がったのは、六人ともでした。
赤は大剣を、その場に捨てました。
そして、これまでとは比べものにならない速度で、近接の間合いの外に出ます。
位置関係は、アシュリーの正面に赤。背面に青。
右方後方に黒。左方後方に白。攻防に参加していなかった黄と緑も、それぞれ右方前方と左方前方に陣取っています。
アシュリーは、囲まれていました。
『逃げ場は』『どこにも』『ありません』『これで』『終わり』『ですッ!』
罠だったのです。
連携を断ち切るための手段を、それを得意とする六人が認識していないわけがなかったのです。一角を崩そうとして突出し、ほかの五人から意識が逸れたところ、必殺の一撃を打ち込もうと、無防備になったところを、一斉放火で仕留める心づもりだったのです。
炎・氷・雷・嵐・光・闇。
六色の砲口が、最大火力でもって、アシュリーに向かい、解き放たれました。
「――――かかりましたね」
そしてここに、口の端を釣り上げる、七人目。
アシュリーでした。
アシュリーは、今まさに解き放たれようとしていた、そしてそのために無防備となり終幕を導こうとしていた青の光を、掌のうちに握り込みました。
そして飛び上がります。ついさっきまでアシュリーが立っていた場所では、六色の光が混ざり合います。
『ま』『さ』『か』『チャ』『ー』『ジ!?』
「そのまさかです!」
アシュリーの魔法光はフェイントだったのです。
必殺の一撃を打ち込もうとした瞬間を狙い、逆に必殺の一撃を打ち込む――。六人の策略を、アシュリーはさらに上回る形で完成させたのです。
空中に浮かび上がったアシュリー。
しかし六人は誰も手を出せません。なぜならば、
『相』『殺』『クー』『ルタ』『イム』『がッ』
相殺クールタイム。
相反する属性魔法をぶつけたとき、魔力の反作用によって使用者に余剰魔力が逆流し、一時的に次の魔法が使えなくなる時間のことです。
六色の魔法が同時に激突した今、六人のうちの誰一人として追撃の魔法を放てません。
「これで終わりです!」
アシュリーの手の内に、青以外に、五色の光が宿ります。そしてアシュリーは、それらを混ぜ合わせないままに、六方向に向け、一斉に解き放ちました。
完全分離型・六属性魔法連撃。
A級魔法使いにしか使えない妙技でもって、アシュリーは六人にその魔法を命中させました。
どう、と大気を震わす衝撃音。
ダンジョンの床に降り積もる灰がもうもうと、煙幕のように立ち上りました。
「やったかな?」
『…………お見事』
アシュリーはさらに身構えます。
手ごたえはありました。しかしそれでも声には芯が通っています。
細剣に銀の光を込めて、一振り。
それから緑の光でもって風を起こし、灰の霧を晴らしました。
『あなたは強い、認めましょう。私の真の力を見せるに値する』
現れたのは金色の髪の男でした。六人ではありません。たった一人です。
燕尾服はボロボロで、破れた隙間からは龍の入れ墨が見えました。
「なるほど。合体してパワーアップ、ってところですか」
『ええ。難しいことは言いません』
アシュリーは構えます。金も構えました。武器はありません。しかし、徒手でありながらもその堂に入った立ち姿は、それだけで大気をびりびりと怯えさせるような迫力でした。
『我が奥義、受けてみよ』
「受けて立ちます」
金の男は、踏み込みました。
たったの一歩です。たったの一歩で、しかし間合いのすべてが縮まったように、距離を操る魔法でも扱ったかのように、アシュリーの懐に飛び込んでいました。
震脚は灰の床を貫かんがごとく響き、金剛のごとき拳は唸りを上げてアシュリーに迫ります。
『六身合一 龍の――』
受け技が無駄なことは、見て取れました。
生半可な逸らし技は通用しないでしょう。アシュリーの細腕は、迫る剛腕の前ではそよ風のようなものです。
挟み技は通用しないでしょう。膝と肘で骨を砕くようにその拳を捉えたとしても、それを意に介さずして、金の腕がアシュリーの胴に風穴をあけるに違いありません。
ならばいっそ、前に踏み込むか。策ともつかぬ愚策でした。その一撃は、たとえ密着した状態から放たれたとしても、鋼鉄を打ち貫くに十分の威力でした。
だから、アシュリーが取るのは、たったひとつ。
「あ、あ、ア――――!」
回避です。
全身全霊で、身体の筋の、神経の、魔力の、すべてを励起させて彼女はその身を逃がします。
見切りなどと、そんな大層なものではありませんでした。それはほとんど逃走と肉薄するほどの身も蓋もなさ。けれど、それは間違いなくこの場では最善手で、
「や、った」
金の男の拳を、見事アシュリーはかいくぐり、
『――――顎』
その背後から、銀の男が襲い掛かりました。
幻術だったのです。
六人になれる男が、二人になれぬ道理がなかったのです。
男は六人だった身体を二人にまとめ、そして片方を今このときまで、必殺のこの瞬間まで、隠し身の幻術で潜ませていたのです。
六の身体をブラフにして、この瞬間、合体の、必殺の一撃を決める――。
それはまさに、龍の顎のごとき、挟み撃ち。
牙は無慈悲にアシュリーを刺し貫き、
そして、その銀の男を、横合いからもう一人のアシュリーの細剣が刺し貫きました。
『ガ、な――!?』
「残念でしたね」
もう一人のアシュリーは刺突の剣を素早く引き抜くと、返す刀で金の男も貫きました。意表を突かれた金の男は、これもまた呆気なく細剣の餌食となりました。
『な、なぜ……』
「読んでましたよ、それくらい」
もう一人の、いえ、元のアシュリーが細剣を払うと、しゅう、と小さく音を立て、銀の男が貫いていたはずの別のアシュリーの姿が靄と消えてしまいました。
そう、アシュリーは読んでいたのです。
初めから、そう。あの煙幕を晴らす前から、最後には騙し討ちが来ると読んでいて、だからその前に、銀の光の幻術でもって偽りの自分を作り出し、罠を張っていたのです。
「分身使いの戦い方はふたつです。ひとつは、数の有利で圧倒すること。もうひとつは、数の有利を悟らせないこと。そして戦法が読まれていることに気付かない相手ほど、御するに容易いものはありません」
『容易い』『容易いか』
金と銀は、ははは、と声を上げて笑いました。そこには後ろ暗さも、恨みつらみもなく、ただ純粋な、清々しさを感じさせるような笑い声でした。
『私の』『負けだ』
《――汝、知性を示したり》
「わ」
頭の中に声が響いたかと思えば、また、ぽん、と間抜けな音がして、二人の男の姿が消えました。
今度はアシュリーも男たちの姿を探したりはせず、すぐに、そこに代わりに現れたものの姿を見つめます。
「トカゲ……? いや、サンショウウオ……?」
アシュリーはそれが爬虫類なのか両生類なのかについて考えを巡らしながら、灰色の生き物を見つめました。
すると、これまでどこに隠れていたのか、とっとこネズミがやってきて、トカゲはその背に乗りました。
まるで馬にまたがる御者のように。
「……どっきり動物園?」
アシュリーが呟くと、はよいけ、と言わんばかりにネズミがアシュリーのふくらはぎに体当たりをしました。
*
『The Last Dungeon 299/300』
「あれ?」
とアシュリーは首を傾げて立ち止まりました。目の前にはあの、強敵の待つ重厚な扉があります。
「珍しい~。てっきり区切りよく300階で大ボスが来て終わりだと思ってたんだけど。こんなに直前で中ボスかあ」
言いながら、アシュリーはぴょんぴょん跳ねたり、軽く伸ばしたり、身体のメンテナンスをします。
これまで二回の経験からの警戒です。ポケットにはクッキーが一枚残っていましたが、ここでは食べませんでした。300階にも扉があったときのための保険です。
「よし、いくぞっ」
勢い込んでアシュリーは扉を開けました。
前回の即時集中砲火の例もあります。いかなる状況にも対応できるよう、臨戦態勢でもって踏み入ったのですが、
「ん?」
そこには、巨大な白馬もいなければ、六人の武器持ちもいませんでした。
それどころか、生き物がいなかったのです。
広い部屋の真ん中には、ただひとつぽつんと、顔の形にくり抜かれた大きなカボチャが居座るばかりでありました。
アシュリーはそれを警戒して、回り込むようにしながら、奥の壁まで進みます。
階段はありませんでした。つまり、進む先がないということです。しかしこのダンジョンは300階あって、今はまだ299階。必ずどこかに、下に降りる道があるはずです。
となればこれまでのように――、アシュリーはカボチャに近付きました。そして細剣を振り上げて、
「……待てよ?」
そこで、手を止めて考えました。
「白馬にも龍の人にも立ち向かって道を開いたわけだけど……、でもカボチャ?」
簡単すぎない?とアシュリーは不審がります。カボチャを叩き潰してはい終了、で済むとは思えなかったのです。
「引っかかるのといえば、やっぱり……」
アシュリーは考えました。
そして、一つの推理が頭に浮かびます。
勇気と知性。
ネズミとトカゲを倒したときに聞こえたあの声のことです。
「ひょっとして、私を試してる――。私に何かをさせたがってる?」
だとしたら、ここで試されているのは何か。
敵わない相手に立ち向かう勇気はすでに示しました。
策略を巡らす同等の相手をやりこめる知性はすでに示しました。
だとしたら、残っているのは――。
カラーン、と音がしました。
アシュリーが、剣を捨てたのです。
アシュリーは徒手で、無防備のままカボチャの前に屈み込みました。それから、ポケットに残っていた残り一つのクッキーを取り出します。
「I treat you」
言って、クッキーをカボチャの口に差し入れました。
《――汝、優しさを示したり》
頭の中に声が響くと同時に、また階段が現れました。
「……なんか、やけにあっさり?」
拍子抜けしたような様子のアシュリーは、しかしここまで来て帰る手もない、と歩みを進めます。
その後ろを、ネズミと、それに跨るトカゲと、トカゲによってネズミの身体と糸で結びつけられたカボチャが、追っていきました。
*
『The Last Dungeon 300/300』
最後の扉は、あっさりと見つかりました。
一本道だったのです。アシュリーは逸る心を抑えながら、最後の道を行きました。
扉は重厚でありながら、しかしこれまでの扉とは意匠が違います。
関門というよりも、玉座へ続く聖門のような、そんな印象を受けました。
ふう、とアシュリーは息を吐き、ぐぐーっ、と扉を開きました。
がこん。
開ききった扉の先。
アシュリーは瞠目しました。
灰だらけだったのです。
それは汚れた、とかそうした優しげな言葉では表現できませんでした。
色のない荒野。
すべてが終わってしまった後のような。
思わず息が詰まります。
この世にこんなに寂しい光景があったなんて――。
「あなたは、誰……?」
アシュリーは呟きました。
その声は、灰の中に佇む、一人の少女に向けられていました。
一面の灰。
その中に大きく聳える鉄柱があります。それは遠目に見ればこそ、鳥籠のようだとわかりました。少女はその籠の中に一人、夢見るように、瞼を下ろして座っていました。
「私は……、シンデレラ」
「シン、デレラ?」
アシュリーの背後から、ネズミとトカゲと、それからカボチャがやってきます。その足音は灰に埋もれてきっと聞こえなかったでしょうに、シンデレラと名乗ったその少女は、彼らに向けて瞳を開きました。
灰色の髪、灰色の瞳。
彼女の声は囁くようで、しかしはっきりとアシュリーの耳に響きます。
「よくぞ遠く、長き旅路をおいでになりました。
この『The Last Dungeon』――。
万物が最後に行き着く――、死と灰の地下牢の最奥へ」
シンデレラはゆっくりと、忘れてしまった表情を思い出すかのように時間をかけて、ささやかに微笑みました。
こんなにも、悲しみに彩られた笑みを、アシュリーは生まれて初めて目にしました。
「そして私がこの地下牢の主――
――灰被り《シンデレラ》 と申します」
「ちか、ろう」
アシュリーは意味を確かめるように、オウム返しにそう呟きました。
「そう、ここは最後の地下牢――。アシュリーよ、ここに汝を連れてきたのは、このためだ」
男の人の声がしました。
アシュリーがびっくりして声の主を探すと、すぐにそれらしきものが見つかります。
「ね、ネズミさん……。ちょくちょく頭に響いていたのってあなたの声だったんですか」
足元に四足で立つ、大柄のネズミでした。ネズミが喋る、なんてなかなかなさそうなことにも思えますが、今さらになって気にするようなことではありません。
アシュリーの問いかけに、ネズミは小さくうなずきました。
「その通りだ」
「そう、そうなんですか。それなら、ええと、何から聞いたらいいのかな。ここは一体?」
「言葉のとおりだ。ここは神の御業とも人の至宝とも、はたまた魔の気まぐれとも知れぬ最後のダンジョン。万物が、死したものが行き着く、この世のすべての場所から繋がるダンジョンだ」
「死したものが……」
アシュリーの頭の中に、ひとつ思い当たるものがありました。
「それって、すべてのお墓、ってことですか?」
「墓場よりも、冥府の方が近い。ああなに、案ずるな。汝は死んではおらんさ。ただ灰を媒介に、このダンジョンに招いただけだ。汝の義母の書置きに文を加えたのは我だ。この身体では難儀したがな」
「ああ……。道理でなんか途中でお義母さんの口調が変わってると思いました」
現実から逃避するかのように、どうでもいい部分での納得をしてしまうアシュリーでした。頭の中にはせっせとインクと格闘するカピバラさんの姿が浮かんでいました。
「あの、招いた、って。私に何をさせたかったんですか?」
この問いかけへの答えは、一拍遅れました。
ふ、とネズミが笑ったように聞こえたのは、きっとアシュリーの気のせいではないでしょう。
「聡いな……。さすが、ここまで歩を進める者は違う」
そしてその声に、自嘲の色が混ざっていたことも。
「もう、我らは疲れた」
それは、諦めの言葉によく似ていました。
「死と灰の地下牢。ここにおいて行われるは死の収容だ」
「……?」
「わからんか。無理もない。わからせぬために我らが主がいるのだから。
死の収容というのは、逆を考えてみればよい。死が解き放たれた状態を」
アシュリーは、口に手を当てて考えます。
「それってつまり――、病原菌のように?」
「汝の理解力は驚嘆に値するよ。その通りだ。
本来、死とは伝染する。それも、信じられぬような速度で。一滴の汚水が、ワイン樽を汚染するよりも、ずっと速くだ」
アシュリーは言葉を失いました。
死が、伝染る? これまでの人生で、一度だってそんな考えが頭を過ったことはありませんでした。
「この地下牢は、その死を閉じ込めるための場所なのだ」
「……でも! たとえ閉じ込めたって、それで終わるわけじゃありません。入るものがあるなら、出ていくものだってあるはず。それに今は私だって――、」
言葉は途切れました。
私だって? アシュリーは自分が何を言おうとしたのか、考えました。
そうです。
アシュリーだって、この死の地下牢の中で、今現在生きているではありませんか。
「それが、主の魔法だ」
ネズミが言いました。
「変質魔法――、灰色の光によってもたらされる、物を異なる形質へと転換する魔法だ。主はそれを用いて、この世のどこかで新たに生まれた死が誰かに伝染する前に、ダンジョンへと回収して灰の形に変えることでこの場所に封印している」
「そんな魔法、聞いたことも……」
「だろうな。汝がいくら優れた使い手とあっても、古代の魔法を知るすべはあるまい」
古代の魔法。
確かにアシュリーはそれを知りません。しかし、その言葉に引っかかりを覚えました。
「なら主……、シンデレラさんは、どうしてその魔法を知っているんですか?」
「簡単なことよ。古代より、主は存在しているからだ」
「――え?」
アシュリーがその意味を理解するより、ネズミが言葉を継ぐ方が先でした。
「主がこの地下牢の主となってから、千年の時が過ぎた」
「せ――」
アシュリーは絶句しました。
千年。まだ二十年も生きていないアシュリーには、とても想像がつきません。ネズミは、悲しげに目を伏せています。それはその背に乗るトカゲも、あるいは表情が変わらないはずのカボチャだって、同じでした。
「十年ごとに、交代するはずだったのだ。稀有な魔法である変質魔法の使い手が現れるのが、およそ十年に一度。短き生のうちの十年を、世界のために捧ぐ。それが灰被りの魔法使いとして生まれた者の、悲しく、重々しい使命だった。
しかし我らが主――シンデレラ様がこのダンジョンに籠られてより、その変質魔法の使い手はふっつり生まれなくなった。
本当は、いたのかもしれない。
ただ、生を十年、世界に捧ぐことを恐れて名乗り出なかっただけなのかもしれない。
真相はわからん。だが、事実はこうだ。
我らが主は最後の灰被りとなり――、その使命を、今や伝承の中にすら失われた役目を果たすため、千年の時を生き続けている。その、灰被りとしても卓越した魔法使いとしての腕で、絶えず己を変質させ続け、生きながらえているのだ。
悠久の死と比べれば些細な、取るに足らん時間かもしれん。だが、これ以上……、これ以上、我らの主が擦り切れていく様は、見られるものではない」
決してネズミの声は荒々しいものではありませんでした。
だけどアシュリーにはわかりました。その声の温度。それは、大切な誰かのための慟哭でした。
「解き放っては、くれないだろうか」
「――――」
その言葉は、きっと、アシュリーが今、一番聞きたくなかったものでした。
だけど同時に、どこかで予想していたものでもあったのです。
「主は使命ある限り、己を殺すことができん。そして我も、トカゲも、カボチャも、主より生まれたしもべ。主にできぬことを、しもべができる道理はない。
だから、こうして頼む。卑怯な頼みとわかっている。それでも、頼む。
勇気と、知性と、優しさを持つ者よ。汝のその手で、主に安らぎを――、永遠の安らぎを、与えてはくれないだろうか」
ネズミは、そう言って哀願しました。アシュリーの腰に差した、細剣を見つめながら。
こうして今、アシュリーに選択は委ねられました。
シンデレラに死の安らぎを与え、この世に死を解き放つか。
それとも、世界のため、何も見なかったことにして立ち去るか。
つまりは、シンデレラを救うか、世界を救うかの選択が。
シンデレラは、風化していく人形のように微笑んで、アシュリーを見つめていました。
*
「すなわち、論理的帰結として公爵令嬢は犯人ではありえない! このボク自ら告発してやろう、犯人は貴様だ! 右大臣、エンダーウッド!」
「ば、馬鹿な……、だが、証拠がない! 机上の空論でこの私を反逆者扱いするか!?」
「だったら、王子殿下本人の口からおっしゃっていただこうじゃないかいっ」
「はんっ、死人に口なしという言葉を――」
「残念だよ、エンダーウッド。こんなことになってしまうとはね」
「なッ、そんなッ。あのナイフに塗った死毒は未だに解毒方法がないはず――」
「いいえ。たった今、その方法は生まれましたのよ」
「こんな――、こんなことがッ! ありえないッ!」
一方そのころ、王城の婚活パーティーはクライマックスを迎えていました。じゃきーんとした義姉は見事王子様を暗殺しようとした犯人を見つけ出し、ふわふわした義姉は見事未知の毒を無力化する調合を成功させ、王子様は幼馴染の公爵令嬢と寄り添いながら、連行される右大臣を見ていました。
継母は娘らの肩を叩いて言います。
「あんたら、よく頑張ったね。あたしの自慢の娘よ」
珍しく、穏やかな声で言います。じゃきーんとした義姉は、気恥ずかしそうにこう言いました。
「ボクがやったのは単なる犯人当てだよ……人の命を救った姉さんの方が、ずっとすごい」
ふわふわした姉は、あら、と微笑んで言います。
「そんなことないわ。あなたが公爵令嬢の贈り物の真意を解き明かしたとき、うっすら意識を取り戻した王子殿下は泣いていたのよ。あなたは人の心を救ったのだわ」
「むう……」
「おや、真っ赤じゃないかいっ」
「可愛いわよ、愛しい妹ちゃん」
そんな調子でほのぼのと三人は会話していました。
今更になって王子様と結婚だとか、そんな野暮な話をする人は誰一人だっていませんでした。様々な紆余曲折があり、もっと大切なものがこの世にあるということをついさっき目にしたのですから。
そんな三人に、つかつかと歩み寄ってきた背の高い男性がいました。
王子様です。彼は三人の前で足を止めると、深々とお辞儀をしました。
慌てた三人が頭を上げてと頼むと、
「このくらいでは私の気も済まないさ」
と言って、爽やかに笑いました。
パーティーの始まりとはまるで別人のように、清々しい顔でした。
彼は言います。
「あなた方は私と彼女の、ひいてはこの国の恩人だ。礼をさせてもらえないか。なんだっていい。私が尽くせる限りの手を尽くそう」
この言葉を前にずがーん!と三人は衝撃を受けました。
なんでもです。
王子様から直々に、なんでも好きな褒美を取らすと言われたのです。
結婚こそできなかったものの、王子様には初めから心に決めた相手がいたことから考えれば、今回のパーティーで目一杯の成果でした。
三人は王子様に断りを入れて作戦タイムに入りました。
お金、お店、地位、名誉、優良物件等、考えうる限りのありとあらゆる欲望が漏れ聞こえていましたが、もはや愛の成就した王子様の心は海より広く、そんなことかけらだって気にしません。でも髪をひっつかんで取っ組み合いのケンカが始まりそうだったときは、流石に怖くなって止めました。
ついさっきこの世で一番美しい物語を見たはずなのにもう争い初めてしまった三人は、なんだかやるせないような気持ちになって、今一度自分の気持ちと向き合いました。それから家族の顔を眺めていると、偶然にも、三人の頭の中に同時に浮かんだ顔がありました。
あの図々しく、ふてぶてしい、けれどどこか憎めない、アシュリーの顔でした。
「それなら――」
三人が口を開いたのは同時でした。
そして、その言葉の続きがみんな同じであることを確信して、三人は、にやっと、瞳を合わせて笑いました。
「家族に食べさせる、美味しいケーキを!」
*
からん、と落ちたのは細剣で、ネズミは嗚呼、と嘆きの声を上げました。
アシュリーには選べませんでした。
この千年灰にまみれた少女を救いたいという気持ちは、もちろんあります。だけど、どうしても、それをしようとすると、家族の顔がちらつくのです。
アシュリーにはどうしても選べませんでした。
誰かを犠牲にして、誰かを救うこと。
そんな、世界中の、誰でもやっているようなことが、アシュリーにはできませんでした。
ネズミはそれを、仕方ないと諦めました。
主を救う人間を、彼は探していました――。勇気と知性、それから優しさ。自分が成すことによって何が起こるのかを理解して、それでも世界を犠牲にする勇気を備え、優しさをもって主に終わりを与えてくれる、そんな存在を。
アシュリーは、間違いなくそれを持っていました。勇気も、知性も、優しさも。だけど皮肉なことに、それゆえ、世界に死を与えることができなかったのです。
だけど、この結末を、ネズミは予感していました。
だって、勇気と知性と優しさを兼ね備えたもうひとり――、シンデレラは、世界を救い続けているのですから。
だから、アシュリーも、同じ選択をすると、そう、予感していたのです。
悲しくないと言えば。
悔しくないと言えば。
すべてが嘘になるでしょう。
でも、仕方のないことだと、ネズミは思いました。
「私は――」
アシュリーの声を聞きながら、ネズミは思い描いていました。
これから先の未来のこと。千年先の、二千年先の、これからもずっと続く、誰かの犠牲の上に成り立つ世界のこと。
でもね。
「どっちも嫌ですっ!!」
ネズミはひとつ、思い違いをしていました。
確かにアシュリーは勇気も知性も、優しさも持っています。だけど本当に重要なこと。ネズミが試さなかったから、知らなかったこと。
アシュリーは、常識に捉われない自由な魂すら持っていたのです。
「シンデレラさんと世界のどっちかを選べなんて、私はぜっっっったいに嫌です! 私の選択は私のものです! 他の誰かに与えられるようなものじゃありません!」
アシュリーには選べませんでした。
誰かを犠牲にして誰かを救うこと。
犠牲にするのが世界にしろシンデレラにしろ、そんなことは絶対に、絶対に嫌だったのです。
「ど、どういうことだ?」
ネズミが困惑して言いました。しかしアシュリーは答えず、大股で鳥籠の前までずんずん進んで、それから仁王立ちで問いかけました。
「シンデレラさん!」
「はい、なんでしょう」
「変質魔法ってどうやって使うんですか!」
質問というより、宣戦布告にも聞こえる言葉の調子でした。けれどシンデレラはそんなことを気にも留めず、答えます。
「ご期待に沿えず申し訳ございませんが、変質魔法とは直感的理解に基づく例外的な魔法です。生まれつきその感覚を知る方以外には残念ながら使用のメカニズムすら――」
「じゃあいいです! ちょっと使ってみてください!」
遮るようなアシュリーの口調に気を悪くした様子もなく、シンデレラは、小鳥が降り立つのを待つ少女のように、小さく両手を掲げました。
すると、薄灰色の光が部屋いっぱいに広がったのです。
驚くアシュリーに、ネズミが言います。
「主は常に魔法をお使いになられている。魔法光が目に見えぬのは、発動から終息までのあまりの速さに汝が知覚できぬからだ。今は意図的に速度を緩めておられる」
「だったらお願いします、もっと緩めてください! そうもっと!」
アシュリーは睨みつけるように宙の光に目を細めます。
「紙とペン!」
咄嗟にネズミが反応できずにいると、いつの間にやらネズミの背から降りたトカゲがそれらをアシュリーの下に運んでいました。「ありがと!」と大きくお礼をしたアシュリーは、一心不乱にノートに書き込み始めます。
「なんだ、何をしている?」
「解析です!」
「一体何の?」
「変質魔法のですよ! 決まってるじゃないですか!」
「何を馬鹿な……、主の言う通り、それは元来素質のある魔法使いにしか――、あ?」
ネズミの言葉が途切れた理由は単純でした。
アシュリーの手のひらに、灰色の光が灯ったのです。
シンデレラのそれとは比べ物にならないほど微かなものでしたが、それは確かに、変質魔法の光でした。
「な、そんなわけがない!」
「あるんですよ!」
アシュリーは一分一秒だって惜しい、という調子で言いました。
「千年前と今とで人口がどのくらい違うと思ってるんですか! どこに誰が住んでたかもわからないような時代での十年に一人です。今の時代なら年に十人くらいいたって何もおかしいことはありません!」
「だが、それがお前である理由は――」
「私をここに呼んだのは誰ですか!?」
まさか。
ネズミは息を呑みました。まさか自分が、主と同じ灰被りの気配を見抜いて、アシュリーを選んだというのかと。
「だが――だが、解析が何になる!? 死が伝染する以上、ここにおいて封印するよりほかに術は――」
「ありますよ――今、できました!」
最後の一文字を紙に書きつけたアシュリーは、鳥籠に右手で触れました。
すると見る間に色褪せた鉄柱は色鮮やかな硝子に変わり、そして次の瞬間、砂糖菓子のように砕け散り、宙に消えました。
馬鹿な、とネズミは呟きます。
これほどの奇跡、変質魔法以外の何によってもできません。
アシュリーはもう一度、歩みを進めます。今度は、鳥籠の邪魔もありません。座り込むシンデレラの前で、膝をつきました。
「あなたには、伝染する生命を作ってもらいます」
シンデレラの目が、わずかに見開かれました。
ネズミも絶句しています。
「生命を……、作る……?」
「つまりは、属性魔法の相殺と同じ考え方です」
アシュリーの口調は、もはや気負いもなければ焦りもありませんでした。
ただ、やるべきことを知っている人間の話し方です。
「死が病原菌と同じ性質を持つ。これはわかりました。なら、ワクチンを作ってしまえばいいんです。シンデレラさんは死という概念を千年変質させ続けています。だとしたら、単純な話になるんですよ。
このダンジョンに堆積する灰を、死という概念に対抗する概念――生命に作り変えてしまえばいい。それが誰にでも行き渡るよう、死と同じく、伝染する形に変質させて。そしてこのダンジョンが世界のどこにでも繋がるという性質を利用して、世界中にばらまけばいいんです」
「か、可能なのか……。そんなことが」
ネズミは震える声で聞きました。アシュリーは頷きます。
「できます。私の技量ではできませんが……、千年を生きた灰被りであるシンデレラさんなら、確実に」
「それによって出る影響は?」
「私の考察範囲にはありません。見たところシンデレラさん以前の灰被りが変質させた死についても、現時点では変質魔法の効果は継続しているようですし」
「そうか……、そうか! これで主は、」
「あ、ちょっと待った。その前に確認したいことがあるんですよ」
飛び上がらんばかりに喜ぶネズミを遮って、アシュリーはシンデレラに向き合いました。
「あなたはどうしたいですか?」
もう一度、シンデレラの瞳が、ほんのわずかに開きました。
それから彼女は、凪いだ水のような声で言いました。
「私は、どちらでも構いません。みなさんのためになるのであれば、どちらでも……」
「な――!?」
驚きの声を上げたのはネズミでした。
「何をおっしゃる、主! これは――機会なのだ! 千年を、千年の苦難を越えた先に訪れた、今後二度と訪れるともしれない、奇跡なのだ! これを逃せばもはや永劫にこの地下牢に囚われるやも知れぬのだぞ!」
「私は、それでも構いません」
「な、そ、んな……」
アシュリーの眉間に、皺が寄りました。
「それが、みなさんのためになるのでしたら、それは良いことです。私はこの場所で、永劫を過ごしましょう。けれど、アシュリーさんの言う通りにするのがより良いことなのであれば、私はその通りにいたします」
淡々とした、言葉でした。
「私は、みなさんが幸せになるのが良いことだと思います」
最後まで紡がれたシンデレラの言葉を聞いて、ネズミは目を伏せました。もはや主に対して、何も言う気力がないようです。
だから、アシュリーが次に口を開くことになりました。
「シンデレラさん」
「はい」
「私は別に、無理にこの方法を取ろうとは思っていません」
「――ま、待ってくれッ!」
「ちょっとネズミさんはお口閉じててください。ごめんなさい、今は二人で話したいので」
慌てるネズミを手で制し、アシュリーは続けます。
「私は誰かを犠牲にする選択しかできないのが嫌でした。だからこうして別の方法を考えたんですけど、でも、その方法が選ばれないからって、人に強要するつもりはありません」
「そうですか」
「ええ。だから、あなたが選んでください。このまま居続けるか、それともここから出るために伝染する生命を作るのか」
「どちらが、よりみなさんを幸せにできますか?」
「さあ。私は神様ではないのでわかりませんね」
「でしたら、伝染する生命を作ることで、あなたに予測できない惨事が起こる可能性はどのくらいありますか?」
「さあ。でもあることは確かでしょうね。変化には不測がつきものですから」
「わかりました」
シンデレラはその答えに、頷きました。
「私は――」
「あ、ちょっと待った」
「はい」
アシュリーが制すると、シンデレラはそのままぴたり、と止まりました。
「答えを聞く前に、ふたつのごめんなさいとひとつのありがとうがあるんですけど、それを聞いてもらってもいいですか?」
「ええ、なんなりと」
「ありがとうございます。あ、今のはひとつのありがとうに含まれないです。じゃあ、ええっと、さっそく失礼しまして」
「はい、どうぞ」
すーっと、アシュリーは息を大きく吸いました。
そこでようやく嫌な予感を覚えたネズミは、飛び出そうと前足を出して、
「自分の命の責任なんてね、自分で取りゃせりゃいーんですよっ!!」
突然の大声と、ぱちんっ、とアシュリーが両手でシンデレラの頬を挟んだ音にびっくりして、立ち止まってしまいました。
「なっ、汝!」
「みんなが幸せになるのが良いことってね、そりゃそーですよ! 誰だってそー思いますよ! そーなりゃいいなって思いますよ!」
口から放たれる言葉は怒涛のようにシンデレラに襲い掛かります。大きく目を見開いて、彼女はそれを聞いていました。
「でもね、だからみんな努力してるんですよ! あーなりたいこーしたいって、そんなしょーもないことばっか考えて、幸せになろうってそれぞれ頑張って生きてるんですよ! シンデレラさんが一人でみんなを幸せにしようとしなくたって、みんな勝手に幸せになろうとするんですよ!」
「やめろおッ!」
突撃してきたのは、ネズミたちでした。小さな身体で、かすかな力で、アシュリーにぶつかってきます。
「馬鹿に……、馬鹿にするなあッ! 主がどんな思いで、千年間、どんな思いで……!」
「ひどいこと言ってるのはわかってます! わかってるからって理由じゃ済まされないのもわかってます! でも私は言います! 言いたいから言うんです!
あなたばっかりが誰かの幸せのために不幸に耐える必要なんかないって、何十回だって、何百回だって言ってやりますっ!
人間なんてね、勝手に不幸になればいいんです! 勝手に、幸せになればいいんです!
勝手に、幸せになっていいんですよ!
あなたはどうなりたくて、どうしたいんですか、シンデレラさん!」
アシュリーの言葉が終わると、しん、と静寂が降りました。
アシュリーはシンデレラの言葉を待っています。ネズミも、トカゲも、カボチャも、あざだらけになったアシュリーの足の横で、シンデレラの言葉を、待っていました。
「…………たい」
小さく、か細い声でした。ネズミが身を乗り出します。
「主、今、なんとっ」
シンデレラの、儚い両手が持ち上がります。
それはゆっくりと、シンデレラの頬に当てられたアシュリーの両手に添えられました。
そして、シンデレラはもう一度言うのです。
「痛い、わ」
シンデレラは、じっとアシュリーを見つめたまま、ぼろり、と大粒の涙を零しました。
乾ききった灰色の瞳が、その一粒に潤され、宝石のように輝きました。
「痛いのは、嫌だわ。
つらいのは、嫌。
寂しいのも、苦しいのも嫌。
暗いのは嫌。寒いのは嫌。一人でいるのは嫌。誰とも話せないのは嫌。何も食べられないのは嫌。眠れないのは嫌。ずっと同じところにいるのは嫌。同じ景色しか見られないのは嫌。誰も、誰も助けに来てくれないのは嫌。
楽しいことがしたいわ。
嬉しいことがしたい。
誰かと話がしたい。一人じゃないって感じたい。温かいところにいたい。明るいところにいたい。美味しいものが食べたい。柔らかいベッドで眠りたい。綺麗な景色を見に行きたい。誰か、誰か……」
強く、強くシンデレラがアシュリーの手を握りました。
子供が握るみたいに不器用で、遠慮がなくて、だけど本当に、心の底から、誰かを求める、そんな手つきで。
くしゃり、とシンデレラの顔が歪みました。
「誰かに助けてほしかった……っ!
生きたいよ、幸せに、
幸せになりたいよぉ……!」
その言葉を最後に、シンデレラはアシュリーに抱き着いて、堰を切ったように、わんわんと泣き始めました。
か細い身体を、アシュリーは優しく抱きしめます。それから耳元で穏やかに囁きました。
「ひとつ目のありがとうはね、今までみんなを守ってくれてありがとうってこと。ふたつ目の、ごめんなさいは……」
灰が、舞い上がるように宙に浮き始めました。
それは穏やかな灰色の光に包まれて、変質していきます。
伝染する生命。
千年灰被りの前に現れた、小さな灰被りが彼女に教えた魔法。
それはきっと。
「ごめんね。千年、遅刻しちゃって」
千年分の、花びらに似ていました。
*
「だあっ、こいつはすごいねっ。季節外れの花嵐さっ」
「ひ~ん、もう髪の毛に絡まって……、妹ちゃん取ってえ!」
「似合うと思うけどな。お花畑みたいで」
「え、そう?」
継母と二人の義姉は、馬車から降りると大急ぎで家の中に向かいました。それはもちろん今まさに、どこから降るとも知れない花吹雪に襲われているからでもあるのですが、それだけではなく。
「アシュリーのやつ、ボクらがこんなにすごい事件に遭遇したって聞いたら、きっと羨ましがるぞ。ふふ、どうやってからかってやろうかな」
「あらひどい。それより早くケーキにしましょうよ、ケーキ! 王国一のパティシエが作ったっていうんだもの。きっとほっぺたが落ちるほど美味しいわよお」
「こらっ、まずはちゃんと言いつけ通りに掃除をしたかチェックしてからだよっ」
「どうせやってないよ」
「どうせやってないわよねえ」
「そんなら説教からだよっ」
ようやく三人は家の前まで辿り着きました。扉を開いて急いで閉めます。それでも花の吹雪はどうにもならず、いくつもの花びらが玄関に入り込んでしまいました。
「ああっ、しまったよっ」
継母が思わず声に出すと、とてててて、と小さな足音が家の奥からやってきました。
そしてその足音の主が姿を見せたとき、三人は仰天しました。
「と、トカゲっ!?」
「さ、サンショウウオだわ」
「いや、あれはドラゴンだね。ボクにはわかる」
トカゲらしきものが小さな箒を持って現れたのです。
トカゲはさっさっ、と素早く花びらを玄関の隅にまとめると、これまた小さなちりとりでパッパッと回収して、またとてててて、と去っていきました。
三人は唖然としてその姿を見送りました。
「と、とにかく中の様子を見てみようじゃないか。一体今度は何をやったんだいっ、あの娘はっ」
「だ、大丈夫よ。なんだかんだ言って丸く収める子だもの」
「ボク、結構楽しみになってきたよ」
三人はとりあえず、とリビングに回りました。暖炉の傍で寝こけているかもしれない、と思ったのです。
「き、綺麗になってるじゃないかいっ」
「すごいわ、アシュリー。成長したのね」
「ボクはたぶんあのドラゴンが代わりに掃除してくれたんだと思うけどな」
「馬鹿言うんじゃないよっ。トカゲが掃除なんかするかいっ」
「してたじゃないか」
「またまた、妹ちゃんは変なことばっかり」
「え、ボクがおかしいの?」
じゃきーんとした義姉が不満げに口を尖らせると、ふわふわした義姉が「あ、そうだ!」と思いついて言いました。
「せっかくだから紅茶の準備もしていきましょう。腕によりをかけて淹れるわよ~」
そう言って、ご機嫌の調子で、るんたった、とキッチンに向かいました。そして案の定、ソファーの角に足をぶつけてつんのめりました。
しかし、転ぶには至りませんでした。
「ね、ネズミっ!?」
「か、カピバラだわ」
「いや、白馬だね。ボクにはわかる」
どでかいネズミらしき生き物が、ふわふわした義姉の身体を支えたからです。「あ、ありがとう」と彼女が身体を立て直すと、満足げに頷いて、すたたーっ、と去っていきました。
継母が重々しく言います。
「……アシュリーの部屋に行くよ」
「はーい」
「すごい……、こんな感情の高ぶりは、さっきぶりだ!」
三人はそれぞれのテンションで、アシュリーの部屋に向かいました。
そして部屋の前に、不思議なものを見つけたのです。
「か、カボチャっ!?」
「か、カボチャだわ」
「…………うん、カボチャだね」
満場一致でした。
継母はそれを不審に思いながらも、思い切って持ち上げてみました。その瞬間。
『Don't disturb.』
「うおゎっ!?」
突然カボチャが喋り出したのです!
びっくりした継母がカボチャを宙に放り出すと、不思議なことにカボチャは投げ出されたまま空中で停止しました。
『……This is my trick! 』
AHAHAHAHA、と陽気な笑い声を残して、カボチャはスーッと浮遊したままどこかへ去っていきました。
三人はそれを見届けて、
「…………」
「…………」
「……馬車かな?」
「……まあいいよっ。後から全部きかせてもらうさっ」
今の出来事をなかったことにして、継母はアシュリーの部屋の扉を開きました。だけど、豪快にじゃありません。もちろんそっとです。だって、カボチャが眠っていることを教えてくれたのですから。
アシュリーの部屋は、西向きの部屋でした。
だから、今みたいな時間になると、金色とも橙色ともつかない、不思議な色の夕陽がぱあっと差し込んで、部屋全体が驚くほど明るくなるのです。
目を細めながら三人が部屋の中に入ると、ベッドの上にはアシュリーと、それからもう一人、知らない女の子の姿がありました。
「まったく、この子は……」
「あ、あらあらどうしましょ。起こすのも可哀想だけど、ケーキも早く食べたいし……」
「やれやれ、これじゃボクらとアシュリー、どっちがすごい大冒険をしたか勝負するようだね。……楽しみかも」
三人は、これ以上ないくらい優しいまなざしで、お互いの手を握ったまま、幸せそうに光の中に眠る、二人の女の子を見つめていました。
きっと、彼女たちが起きてきた後には、美味しいケーキと紅茶とともに、ずっと、ずうっと話が続くのでしょう。
それこそ、十二時を過ぎてしまうくらいに、遅くまで。