彼がはっきりしないわけ
「──だから、もう、いい加減にしてよ!」
痺れを切らした若菜はとうとう怒鳴った。
「どうしてはっきりしないの! いつもいつもいつも!」
怒鳴り散らす若菜に対し、その原因である章哉はいつもと同じような、困ったような、泣きそうなような、何とも言えない表情をしていた。
そう、いつものことなのだ。章哉が煮え切らない態度を繰り返し、それに対して若菜が激昂するのは。
もう何度目かもわからない。
「私だって怒鳴りたくなんかないよ。でも章哉がいつまでもそんな態度だから、怒りたくもなるんだよ」
「……御免」
「謝るくらいならはっきり言って!」
この繰り返しだ。
万事優柔不断な章哉だが、極めつけに曖昧な態度をとることがある。ここしばらくの喧嘩の原因は決まって、若菜がその話題に触れることだ。
交際して七年になる、ふたりの将来について。
三十代も見えている。若菜はそろそろ結婚したい。けれどその話題になると、途端に章哉は例のあの表情になり言葉を濁す。
「もういい! 今日はもう帰る。それじゃあね!」
一方的に言い捨て、章哉が何か言うのを待つことなく若菜は身を翻した。
これもまた、いつものように。
「──で、また私のところに来るわけだ」
行きつけの居酒屋で、悠花は呆れ顔でグラスを傾けた。対座しているのは若菜だ。
「いつものことだけれど、それだけに私もいい加減に飽きてきたね」
「酷い。こっちは真剣に悩んでるのに」
「こっちだって真剣にうんざりしているんだよ若菜。喧嘩だろうが何だろうが、他人の惚気話なんて聞いていて楽しいものじゃない」
言って、悠花は鶏の唐揚げを摘まむ。若菜は唇を尖らせるが、それ以上は強く言えずに黙る。若菜と章哉の喧嘩の後は、決まってこの居酒屋で悠花に愚痴る。勿論、若菜の奢りだ。
「全く飽きないよね君たちは。そうやっていつも同じことで喧嘩して……いっそ別れちゃえば?」
「それは……ないよ」若菜は緩く首を振る。「別れるのは嫌。章哉から言ってきたならともかく、私は章哉好きだし」
けっ、と悠花はあからさまに吐き捨てた。
「お熱いことで」
「でも喧嘩して楽しいわけじゃないよ。章哉がはっきりしないのが悪いんだもん。大事なことになるといつもいつも……」
「……あのね若菜」
盛大にため息をついて、悠花は行儀悪く箸で若菜を指してくる。なに、と返すと悠花はまたため息をついた。
「ご存知の通り、私と章哉は小学校以来の仲で、私は奴の癖なんかも知っているわけだ。しかし若菜。あんたももうあれと付き合って五年だろう?」
「七年だよ」
「けっ、リア充が……もとい、それならなおのこと、あんただってそろそろわかってもいいはずだ」
「わかってもって……何を」
「章哉が優柔不断になる癖だよ」
烏賊ゲソの唐揚げを乱暴に噛みながら悠花は言う。
「あいつの優柔不断は筋金入りだ。一択の問題でもそれを選んだものか迷う。そしてこれは、ことが大事なことがらになればなるほど、酷くなる」
「……つまり?」
「それだけ大切なことだってわけだよ。あいつにとって、結婚というのは」
もうわかるだろ、と悠花は言う。
「何せ人生の墓場だからな」
「ちょっと」
「冗談だ」
とにかく、と悠花はハイボールを呷った。
「気長に待ってやれ。あいつが決めるのをさ──すいません、ハイボールもう一杯」
気長に、か。若菜は小さく吐息した。
待つのはいいんだけど。
いつまで待てばいいんだろう。
悠花に愚痴ってから、数日。
章哉のアパートを訪ねると、どうやら章哉は外出中のようだった。とはいえ忘れ物を取りに来ただけなので構わない、合い鍵を使って入る。
軽く探しただけで目当てのものは見つかり、帰るかと視線を上げたところで、テーブルの上のものに気がついた。
「……ん?」
見慣れない、しかし見たことのある手のひらサイズの箱。何気なく手にとって開いてみると、それは、
「……指輪」
婚約指輪だった。見ただけで値段などわからないが、少なくとも安価なものではない。
そして、指輪の箱の下には、一式の書類。
婚姻届。
「…………」
それの意味するところは一発でわかったのだが、見なかったことにすることにした。折角見つけた忘れ物も、もとの位置に戻しさえした。
彼の決意に水を差したくない、というのもある。
けれど、まだ自分の中で落ち着いていない、ということもあった。
さらに数日。
今までにないくらいに高級なレストランに誘われて、何でもないような顔をしてついていって、自然な調子で食事をして。
「──若菜、その」
食べ終える頃になって、彼が神妙な顔で切り出した。
「大事な話が、ある……というか」
相変わらずの煮え切らない態度。けれど若菜はいつものように激昂したりはしない。それどころかにこやかに見返す。
若菜は章哉が今日持ってきた鞄に、あの小さな箱が入っていることを知っている。
「さんざん待たせて御免、なんだけれど……」
その通りだ。それはもう、随分と待たされた。けれど、それももういい。
彼が鞄から腕を引き抜いてテーブルの上に置いたのは、まさしくあの小さな箱。
それが意味するところは、もうこれ以上なくわかっている。
けれど、さんざん待たされた仕返しついでに、ちょっとだけ意地悪を。
「うん、なにかな?」
わざと呑み込みの悪い振りの笑顔で。
そわそわと視線をさまよわせ、パクパクと口をせわしなく動かす彼を見て、いよいよ笑みを深めていく。
待ち望んだ幸せまで、あと少し。
時空モノガタリ投稿前の2000字越えです。