02
「こちら、ご注文のメロンパンになります」
今朝買ったパンを、机に並べる。
二年の教室だ。自分の席に着いた渡真利颯介は、目の前のメロンパンをやけに遠い目で見つめていた。
「このスタンダードなメロンパンと、期間限定デラックス男爵メロンパンはコンビニで購入しました。その隣が駅ビルのパン屋で七時二十分に焼き上がったもので、人気商品だそうです。それからこちらはうちの近所で創業三十年、パンのはやかわ自慢のメロンパンでこだわりのクッキー生地がふんだんに……」
「だから! 話長いよ武谷!」
各種取り揃えたメロンパンの説明をしていると、イケメンが急に怒り始めた。
「て言うか一個でいいんだけど! 何でこんなに買っちゃうの? 何で二個ずつ買っちゃうの? 僕が食べるの? 一人で食べるの? デラックスって何? いや、デラックスはまだいいよ! 男爵って何? メロンなの? じゃがいもなの? もはや北の大地感しか伝わってこないよ!」
「はあ、すいません」
そうなのか。男子高校生の食事は、大量に必要なのだと思い込んでいた。
同級生が昼休みになると空腹を訴えながら教室を飛び出して行くせいかも知れないし、昔、お向かいに住んでいたお兄ちゃんが袋買いしたコロッケをむさぼりながら帰宅する姿を見ていたからかも知れない。
「おはよ、颯介。今日は元気だねえ」
なかなかの長文で渡真利先輩が叫び、私が思い込みの原因を追及している間に周囲には人だかりができていた。そこからひょいっと顔を出した男子生徒に、先輩はすがるような声を上げる。友達のようだ。
「基也! 見てこれ。パン頼んだらこんなに買ってくるって、あり得なくない?」
「ほんとだ。颯介、金あんの?」
その受け答えはどこかのんきで、的を外していたらしい。そこじゃなくて! と渡真利先輩は頭を抱える。基也と呼ばれた人はパンの袋を一つ手に取り、私を見た。
「きみ、一年? 颯介のファンとか?」
「一年です。ファンではありませんが、ファンでないと問題ですか?」
「ううん。一個もらっていい? お腹空いちゃった。オレが食べた分は払うからさ」
「渡真利先輩が構わないなら、どうぞ。お金も大丈夫です。私は渡真利先輩の奴隷になったらしいので、代金をいただけるとは思っていません」
つるり、と。言葉は滑り出るものだと、この時知った。口を滑らすって本当だ。日本語は、実によくできている。
教室の中が沈黙に支配され、ほとんど全ての視線が渡真利颯介に注がれている。ただ本人だけが例外で、大きく見開いた目を私に向けて動かない。
ガサガサとメロンパンの袋を開けながら、基也先輩がボソリと言った。
「ひとでなし」
「奴隷は……ないよね」
誰かが誘われるように呟いて、同意の波がざわざわと広がる。最終的にはひとでなしの大合唱になったようだが、私はそうなる前にこっそり輪の中から抜け出していた。
どきどきと騒ぐ胸を押さえ付け、二年の教室から急いで離れる。廊下の端まで早足で歩き、階段を下りる頃には少し息が乱れていた。
どうしよう。変な事言っちゃった。
自分でも、変だとは分かってはいた。それでも止まらないんだから仕方ない。先輩の教室を訪ねるだけで、一年には軽いパニック案件だ。緊張くらいする。私だって。
次の休み時間、同じクラスの女子が話題にしているのが聞こえた。超絶イケメン渡真利颯介の、新しい愛称が決定したそうだ。
北のメロンパン男爵、と。
盛り込み過ぎてさっぱり意味が分からない。が、何となく本人をバカにしている感じと、私のせいだと言う事だけは理解した。
なるほど、また一つ勉強になった。ざまあ、と言う言葉はこう言う時に使うんだな。
「ねえ」
と、声を掛けられたのは昼休みになってすぐだった。顔を上げると、私の机の真横に立って女の子がこちらを見下ろしていた。
完璧な比率で整えた彼女の眉の間には縦ジワが入り、気に入らない、と全身で訴えているかのようだ。
「タケタニってアンタでしょ? アンタ呼んでって、センパイからメールきたんだけど。なんで? イミわかんない」
「はあ、すいません」
確かにそれは、私も意味が分からない。なぜあの人は、この瞬間まで話した事もないクラスメイトを窓口にしようとしているのか。携帯か。私が携帯を持っていないからか。
「アンタ、颯介センパイのなんなの?」
「奴隷です」
言い切ってしまった。
クラスの人と話すとか、久しぶり過ぎて。思わずそうなった。二年の教室へ行った時より、今の方がパニックかも知れない。
「いっつもひとりのクセに」
耳より心臓が痛くなる。きれいな色のグロスで光った、かわいい唇から出た言葉。当たっているから、痛いのだろう。
「自分はアンタたちと違うって顔して、バカにしてるクセに。キョーミないんでしょ? 人のことなんか。だったら、なんで颯介センパイに取り入ったりすんの? ずるい。イミわかんない」
「……へえ」
「なによ」
意外だった。
「いえ、どちらが先なのかと思って。私が人に興味を持たなくなったのと、人が私に興味を持たなくなったのと」
どちらが先に、拒絶したのだったのか。
*
いい感じに木陰を作る背の高い木。絶妙に配されたベンチ。いちゃつくカップル。騒ぐ上級生。昼休みの中庭はリア充達の憩いの場だ。普段の自分なら、とりあえず避ける。
クラスメイトに届いた私宛ての呼び出しメールには、中庭までこいと指示があった。
ベンチの一つに、それらしい人影がある。
軽薄になり過ぎないダークブラウンの髪。嫌味のない整った顔立ち。長い手足に、しなやかな体。改めて見ても、渡真利颯介は非の打ちどころがない超絶級のイケメンだった。
レジ袋の中からメロンパンの袋をつまみ、その整った顔の前まで持ち上げて見せる。
「パンの持ち合わせがなかったもので、今回のところは購買のメロンパンでご勘弁下さい」
「持ち合わせって何? パンはもういいよ!」
わめくイケメンの隣で、基也先輩が体を折り曲げるようにして声も出ないほど笑っている。はひはひとあえぐ姿は軽い呼吸困難に酷似しているが、大丈夫だろうか。
「男爵がお呼びだと聞いたので、てっきりパンが切れたのかと。何か別のご用でも?」
「雪歩ちゃん、もうやめて。男爵とかフツーに言わないで! 腹筋死んじゃう」
一方は頭を抱え、一方は笑い転げ、目の前のベンチには男子高校生が二人並んで座っている。それを見下ろし、首をかしげた。
ふと、違和感に襲われたせいだ。
雪歩は、私の名前だった。基也先輩の笑った声で呼ばれた事に、恥ずかしいような居心地の悪さを覚える。それも違和感の一部だ。
しかし私は、自己紹介なんてしていない。
名字なら分かる。昨日、担任が武谷と呼んだから。渡真利先輩も名字で呼ぶし、友達なら情報が伝わる事もあるだろう。
でも、下の名前は違う。そもそも、誰がいる? クラスメイトでさえ、私の名前を正しくは知らない。そう思う。誰がいる? この学校で、私の名前を正しく知っている人間は。
――頭に浮かんだのは、生徒ではなかった。
「渡真利先輩。飯出先生と、どんな話をされたんですか?」
静かに問うと一拍置いて、頭を抱える手の中からゆっくり顔が上げられた。ぽっかり大きく目を開き、驚いたような表情で。
バカみたいだ。
渡真利颯介の顔を見て、そう思った。バカみたいだ、私は。本当に。
「いえ、どんな話かは決まってますね。監視役でも頼まれましたか? 飯出先生は担任だから、私が何かしたら困るでしょうし。分かります。……もう、分かりました」
「何が? ちょっと待ってよ、武谷!」
待つのはムリだ。
立ち上がった渡真利先輩の顔めがけ、購買のレジ袋を投げ付けて逃げる。
その場にうずくまった先輩を見捨て、走りながら思い出した。袋の中にはパンと一緒に、紙パックの飲み物を入れていた。ペットボトルじゃなくてよかった。あと、缶とか。
変に冷静に考えながら、とにかく走る。急いでいた。正直、自分でもいつ泣いてしまうか分からない。そんな気分だ。待つなんて、冗談じゃない。
こんなにショックを受けるなんて、意外だった。自覚はないが、知らない内に浮かれていたのか? がっかりだ。
イケメンにちょっと構われたくらいでテンション上がるとか、単純過ぎだろう。
……でも、少しだけ、嬉しいと思ってしまった。パン買ってこいなんて、ふざけた話だと分かっていても。
また明日、と言われてでもいるようで。
今日は、起きるのが少しだけ楽しみだった。