O-2
長いです
そんな状況から逃げ出したかった私は中学受験というものがあることを親から聞かされた。
当時の私の夢はアナウンサーで頭もまあいいほうだった。それに母親は学歴で結婚に反対されたこともあって私を高学歴にしたかったらしい。
そんなこともあって進学校と言われていた中学なら受けてもいいと言われた。
イジメから逃れたかった私は絶対にそこに行こうと決意した。
受験の為に塾に通った。同じころ部活が始まった。
参加は自由と言われたから塾に行くために参加しなかったけれど実質強制で。
前期の一週間の最後の授業は部活だった。
片田舎では中学受験なんて聞いたことしかない人も多くて。
でもだからこそ評価稼ぎなのか妥協案としてその時間私は夏休みのポスターを書いたり、漢検の勉強をほぼマンツーマンでしていた。
そんなふうにほかの人と違う生活をしていれば余計にイジメられるのは当然だった。
そして私が余計に勉強、読書に引きこもるのも、男子とばかり話すようになったのもあたりまえだった。
一人っ子であり、もともと体が丈夫でなかったために親が過保護だったこともイジメを助長したんだろう。
それと同じ理由で私は親を心配させないため(心配した親が行動を起こすとイジメが余計ひどくなる可能性もあったから)イジメのことなど言えず、心細くて甘えたかった時にも思う存分甘えられなかった。
今思えばここで甘えられなかったからこそ私はここまで彼女に依存するようになったのだろう。
そんな生活をしていたある日、
塾での成績を見て親も行かせたい学校に行けると安心したのか、その学校の名前を教えられた。
女子校だった
女子よりも男子に慣れていた私には衝撃の事実だった。
内容は変わらないもののあからさまになってきていたイジメの為に女子不信になりかけてもいた。なりかけで済んでいたのは片手で足りるほどだけれど態度の変わらない女子の友人がいてくれたからだった。
彼女たちのおかげで女子校でも新顔同士なら何とかやっていけると希望をもった。
それ以上にもうイジメに耐え切れなかったのもあったが。
6年の時耐え切れず一度だけ登校拒否をした。
案の定親は抗議の電話をし、イジメについての話し合いがその日クラスで行われたらしい。
でもその日家に届けられた連絡用紙には、首謀者たちの反省の色もない、無駄に明るい「明日は元気に学校に来てね」という文字が右半分に列挙されていた。先生は親にみんな反省してますと言ったらしいのだが…。どこが反省なのか、謝罪なんて一言もない。疑問に思うあまり捨てられず、その紙はいまだに本棚の中にある。個別に後で謝ってくれた友達からの手紙と共に。
受験は特に問題もなく受かり、私は片道電車で一時間半かけて中高一貫の女子校に通うことになった。
当初は不安ばかりだったけれど、今となってはこの学校に通って、そして彼女に会えてほんとうによかったと心から思っている。