猿候・前編
時節は矢の如く過ぎて、春となった。
陣太郎と甘菜は停学を受けた影響から、冬休みと春休みを返上しての補習を受けての進級となり、高校二年生の春を無事迎える事ができたのである。
また、昨年の晩秋に山神の神威に出遭った陣太郎は、以降これといった怪異には遭遇しておらず、平穏だが厳しい修練が続く日々を過ごしていた。
学校ではどうかと言えば、相も変わらず祟り刀を納めた竹刀ケースを持ち歩いていたが、最早奇異の目で見る者は居なくなっていた。
どういう事か説明を行うと、修行という家庭の事情から甘菜と同じ美術部を早々に退部した折での事。
珍しく山を降り学校を訪れた祖父・陣八によって、陣太郎は臼木流の古剣術を継ぐ為に古のしきたりに則り、常に模造刀を持ち歩く必要がある、という説明が公に成されたからである。
それまでも甘菜の父の“ツテ”から、教職員の一部には同様の説明が成されてはいた。
が、『一度入部した部活動を辞める場合、親もしくは家族からその理由を説明しなければならない』という、わけのわからない校則により、計らずして竹刀ケースを堂々と持ち歩けるようになった陣太郎であった。
更には美術部を辞めた事により、甘菜との仲について様々な憶測が再び飛び交い、それが陣太郎にとって良い方へと転がったのである。
曰く、不釣り合いな見た目も相まって噂の中の陣太郎と甘菜は破局、もしくは始めから陣太郎の一方的な恋慕にすぎなかったという結論に落ち着いていたのだ。
その為か校内で陣太郎と甘菜が会話を交わせる位には周囲の目も緩み、一見陣太郎にとっては良い方向へと物事が進んでいるように見えたのだが。
祟られているという現実はやはりそう甘くは無い。
「すまんなぁ、臼木氏。後は狭いが、生憎俺がもってる奴で三人以上乗れそうなモンはコレしか無かったんだ」
言って千早神社の生き神である『おとね』はたった一つしか残ってはいない瞳で、車のバックミラーごしに陣太郎の体の一部を見やった。
その運転は荒く、スピードもかなり出ており傍目には非常に危険な行為である。
彼女が運転するオートマチック仕様のスポーツカー、ポルシェ911カレラの後部座席は非常に狭い。
と、いうか運転席の後ろにある座席は後部座席と言えるような代物では無く、どうみても小さな子供がなんとか乗れる広さであるか、そうでなければ精々、女性のハンドバッグを置く位しかできそうにない広さだ。
そんな猫の額程の空間に陣太郎は体をねじ込み、寝そべるようにして“乗車”していたのであった。
対照的に前の二つの座席には花のような乙女が二輪、優雅に鎮座する。
運転している千早神社の生き神と、陣太郎の幼馴染みである天之麻甘菜であった。
「……なあ、甘。俺、こんなの聞いてないぞ?」
「……私だって今日『おとね』さんが来るなんて知らなかったわよ」
「あんだよ、二人とも。ノリが悪ぃな。ばあちゃん悲しいぞ?」
「それ、こっちの台詞ですよ『おとね』さん。こんな派手な車で学校に迎えに来て、一体なんの用なんですか?」
陣太郎は苦しげに、覚えたばかりの千早神社の生き神の本名を口にした。
何から何まで真紅の車内を見渡しながら発したその声色は、不機嫌そのものである。
勿論、狭苦しい体勢での乗車を余儀なくされた事が原因ではない。
折角甘菜と恋仲であるという噂がデマカセであると知れ渡り、持ち歩く竹刀ケースに大義名分が付随してやっと平穏な日常を送っていた矢先に。
ある週末の日、突如学校の校門の前に矢鱈目立つ、ボディどころか室内まで真紅のスポーツカーを乗り付けた美女が、陣太郎と甘菜を待ち構えて居たからだ。
しかもその美女は今時珍しい和装で松葉杖をつき、目立つ白髪と閉じたままの片目は彼女の神秘的な魅力を更に引き立てて、下校を急ぐ生徒達の注目を集めるには十二分であった。
そんな彼女が下校しようと駐輪場へ急ぐ陣太郎を、次いで校舎から出て来た甘菜を認め、よりにもよって校門から運動場を挟み、大声でその名を呼んだのだ。
土日の連休が明け、月曜になる頃には如何なる噂が誕生しているかわかった物では無い。
陣太郎が近い将来に想像の翼を広げ、時を経るごとに凹むのは当然であろう。
「つれねぇなあ、臼木氏。これから楽しい楽しいお泊まり旅行だっつーのに」
「へ?」
「へ?」
おとねの台詞に二人は思わず疑問符を吐き出した。
声は普段の二人からは想像も出来ない程ピッタリと重なっている。
「んだよ、甘っちまで。そもそも俺にメールで相談してきたの、そっちからだぜ?」
「え? メール? なに? 甘、お前おとねさんとメールしてたの? 何時の間に……」
「あ! もしかして、エンコウの話ですか?!」
「なぬ?! エンコウ!?」
「そ、エンコウ。これからヤりに行くぞ」
「そんな突然すぎますよ! まだ陣ちゃんにも話してないのに!」
「あ、甘?! お前、何時の間にそんな事を?!」
「ありゃ。俺ぁてっきりもうナシがついてるもんだとばかり……。だけどなぁ、甘っち。こっちの都合もあんだよ。もう、これ以上待てねぇんだわ」
「え? どういう事です?」
「それは俺の台詞だ! 二人とも、な、なに平気な顔して援交の話なんてしてんだよ! おとねさんは兎も角、見損なったぞ甘!」
車内を沈黙が支配する。
響くのはポルシェのエンジン音だけである。
おとねの性格がそうさせるのか、それとも片足が原因であるのか、荒めの運転によってエンジンは遠雷のごとく唸り三人それぞれに沈黙を加速させていった。
やがて口を開いたのは、甘菜であった。
「……陣ちゃん。なんか、勘違いしてるでしょ?」
「臼木氏ぃ、俺ぁ悲しいぞ。俺はともかくってなんだよ。臼木氏が俺をそんな風に見ていたとは、ばぁちゃんびっくりだ」
「か、勘違いも何もエンコウって……」
「エンコウはエンコウでも、援助交際じゃないよ? サルに侯爵のコウと書いて“猿候”。おとねさんはね、鬼目一“蜈蚣”で斬る荒魂を見つけて来てくれたの」
「え?」
「まあ、事の始まりは“俺”ん所に相談に来た娘っこからなんだがな。しかし、若ぇっていいねぇ。なんでもソッチ方面に考えちまう。いや、うらやましい」
「ごめんなさい、おとねさん。こいつ、バカで助平でロリコンなんです」
「いいっていいって、可愛げがあるじゃねえか。男の子はコレ位で丁度いいんだよ」
おとねはそう言って、可可と笑った。
対照的に、頬が押し着けられた座席の背もたれの向こうに座る甘菜からは、不機嫌な雰囲気が伝わってくる。
当然といえば当然であろう。
よくよく考えてみれば、毎日朝な夕なに通学路で顔を合わせているのである。
まともな思考の持ち主であれば、甘菜がそのようなふしだらなアルバイトを行う暇などない事に気がつくはずだ。
陣太郎はエンコウという言葉のインパクトに我を忘れ、ついソッチ方面の会話をしていると勘違いしてしまった己の迂闊さが恥ずかしくなり肩を更に縮めるのであった。
「……おとねさん、とりあえずコイツに事情を説明するのは後にするとして、どうして急に? もう待てないって言ってましたけど」
「ああ、それな。ほら、事の始まりの娘っこ。こいつがな……猿候にヤられちまったんだ」
「な?!」
車内の空気がにわかに冷たくなる。
急に声を低くしたおとねの台詞と甘菜の反応は、ソレが尋常ならざる事態である事を現して、言外に伝わって来たからか。
時節は春も半ばではあったが夏にはまだ遠く、車内はエアコンを使わずとも快適な温度であった。
しかし陣太郎はたしかに温度が下がるのを感じて、生唾を呑み込むのである。
「驚いたぜ。始めはどこで聞きつけたか知らねえが、“俺”の“占い”を聞きつけてよ。俺だって、そこらの占い師とはワケが違う。子供の小遣い程度じゃ相手にしねえ」
心なしか、荒い運転を更に荒くしながらおとねは最初から声を低くして話し始めた。
先程までの会話を聞くに、ある程度は甘菜も事の経緯を知っているはずである。
したがって、おとねは陣太郎にも話がわかるよう、最初から説明をするつもりなのであろう。
「案の定、その娘っこは親が金持ちでな。前に“俺”が温泉の出る場所を教えてやった爺のツテかなにかで知ったらしい。で、この娘、親の金で恋占いをしろときたもんだ」
「そういやおとねさん、今でもそれ位は出来るって前に言ってましたけど……おとねさんの“占い”って正直な所、どれくらいの確立で当たるんですか?」
「そりゃあ臼木氏、俺みたいなのでも神の端くれだからな。ほぼ確実に当たるぜ? なんなら臼木氏と甘っちの相性、この場でみてやろうか?」
「ちょ、ヤメテください!」
「いっ、いや! いいです! ほんと、いいです!」
再び二人の声が重なる。
どちらも焦ったようではあったが、より必死に感じられた甘菜の否定は陣太郎を内心に凹ませてしまうのであった。
「わはは、若いってのはいいねぇ、ほんと」
「はは……勘弁してくださいよ……」
「でな? こっちも商売だ。金を積まれちゃあ占わないわけにはいかねえ。結局この娘っこと娘っこの意中の彼を占う事になったんだが……妙な結果が出た」
「妙な結果?」
「ああ。“二人の仲は良く進む。しかしながら通明川の水神がソレを阻むであろう”って感じだ」
「通明川の水神て……」
「通明川ってのはその娘っこの住んでいる某県K市に流れる、結構でかい川の名前さ。で、俺はその結果を伝え、娘っこはどう解釈したのか川に近寄らなければ良いと思い込んで帰った訳だ」
「え? そうじゃないんですか?」
「ああ、そうじゃない。俺の“占い”は半ば予言だからな。言葉通りの意味として事が成る。ほれ、言魂と言う奴だ。言魂は即ち、時に和魂、時に荒魂と成り神威を顕現させる。あの娘っこの場合は荒魂になっちまったんだ」
「うげ! それじゃあ」
「そ。娘っこは無事意中の彼とお付き合いできるんだが、通明川の水神に引き裂かれる運命を持つ羽目になっちまったわけだ」
ここでおとねは沈黙した。
車に疎い陣太郎でさえ聞き惚れる、蠱惑的なポルシェのエンジン音だけが室内に響き渡っている。
どうやら先程甘菜が見せた必死の否定は、ここに原因があるらしい。
もし、おとねの占いで“二人はいずれ結ばれるも蜈蚣がこれを引き裂くであろう”などと出たとしたら。
考えて陣太郎は身震いを一つした。
勿論、“二人は結ばれず男はいずれ蜈蚣に食い殺されるだろう”と出る可能性もあるが、そちらは無意識に“でないもの”として考えもしなかった陣太郎である。
「で、こっからが本題だな。俺、通明川の水神って奴が妙にひっかかってよ。悟郎さんになんか知らないかと相談したんだわ。今年の二月位の話な?」
「ビックリしましたよ。急におとねさんから私の携帯にメールがくるんですもの」
「悟郎さんが教えてくれたんだ。そういうのは甘っちの方がいいだろうって言ってな」
「……父さんにメアド、教えてないんだけど……」
「わはは、悟郎さん、メアドを得るのに随分と金を使ったとか言ってたが、娘に小遣いを積んだわけじゃあ無かったみたいだな」
「あの、クソ親父」
「ま、ま、ま、そう怒るなよ甘っち。これからもっと怒る事になると思うしな」
「え? どういう事ですか?」
「いや、甘っちと臼木氏を迎えに来る前にな、悟郎さん所に寄ったんだ」
「家に? あ、そういえば昨日の夜父さんが帰ってきてたんだっけ」
「で、事情を説明して外泊の許可を取ったんだけど……その時に甘っちの着替えとか受け取ったんだ」
静寂。
陣太郎がみるみる内に車内の空気が張り詰めて行くのを判ったのは、日頃の鍛錬の成果では無い。
甘菜の怒気が恐ろしい勢いで膨れ、誰にでも感じられる濃度の殺気となって吹きだしているのだ。
「――はぁ?!」
「俺はさ。いきなり連れ出す羽目になっちまったから、着替えは道中に買っていくつもりだったんだぜ? 勿論、俺のオゴリでな」
「なにそれ?! なんで父さんが私の着替えを出してきてるの?!」
「だからよぅ、俺、ビックリして。悪ぃが渡されたバッグの中身見たんだけどよ? ……下着までバッチリ、入ってた。ついでに生理用品も。いや、ばぁちゃんドン引きしたね」
「はあああああ?! ちょ、はああああ?! 信じられない! 超、信じられない! あのクソ親父、何私の部屋に入ってるわけ?! し、しかも、服……下着まで漁って……犯罪じゃない!」
「あ、甘! 落ち着け!」
「うっさい! もー、信じられない! 父さんが触った下着とか使えるわけないじゃない!」
甘菜はそう絶叫し、徐に両手で顔を覆ってその場で嗚咽を漏らし始めた。
マジ泣き、という奴である。
余程父親に部屋……というか、自分の下着や生理用品を用意された事が嫌であったのだろう。
年頃の娘ならば殆どがそうであろうが、甘菜の場合は父子の関係が悪い事も加味される。
――それにしても泣く事はねぇだろう、と思う陣太郎ではあったが、同時に計り知れない亀裂があるのだろうと納得して、これ以上甘菜を刺激せぬよう口をつぐむのであった。
「まあ、泣くなよ、甘っち。あとでばあちゃんが服買ってやるから。ほら、このまえ欲しいけど高くて買えないって言ってたチチバンドも好きなだけ買ってやるから。な?」
「う、うう、最悪ぅ、最悪よぅ」
「悟郎さんも悪気があったワケじゃ無いんだ、許し」
「いや! 絶対許さない!! う、う、う、ひーん」
「……だめだこりゃ。落ち着くまで待つか。臼木氏、俺達だけで話を進めんぞ?」
「わかりました。甘、えっと、親父さん許さなくてもいいから、話だけは聞いとこうな?」
前の座席の背もたれに押しつけた頬に、僅かに頷く気配が伝わってくる。
激情のあまり号泣してはいるが、冷静な部分は残っているらしい。
「えっと、どこまで説明したっけ?」
「通明川の水神が引っかかって、甘の親父さんから甘のメアドを貰った所までです」
「ああ、そうだったな。でな? 悟郎さん曰く、甘菜に調べて貰った方がいいかもって事でメアドを貰ったんだ。そこで早速世間話がてらにメールしてよう、まあ、打ち解けて」
「うぐ、ひっぐ」
「甘っちはまあ、見ての……通り優しい子だ。通明川の水神について調べてもらう間、俺にイロイロと教えてくれたんだ。今時のファッションとかな? な?」
「う、う、う、うぐ」
おとねは甘菜が絡む箇所をやたらと強調し、あやすように優しい声で甘菜に同調を求めた。
勿論、甘菜にはこれに応える事ができる精神状態では無い。
ただただ嗚咽を漏らし、辛うじて頷くのが精一杯である。
「……で、メールしてから一月位経ってからか。通明川の水神が“猿候”であるらしいって判ったんだ」
「“猿候”ってなんですか?」
「平たく言えば河童だな。もっとも、頭に皿が載って背に甲羅を背負う、緑のアレじゃねえぞ?」
――気まずい。
陣太郎とおとねの、共通した想いである。
泣きじゃくる甘菜に気を使いつつ交わす会話は、どこかよそよそしいものであった。
「“猿候”ってのはデカい猿のような姿でな。甘っちの受け売りだが有名なのが中国の“通臂猿侯”って奴だな。左右の肩が体内で繋がってて、片方の腕の分だけもう片方の腕を伸ばす事ができる水神だ」
「水神って……なんで水の神が猿の妖怪なんです?」
「しらね。中国じゃあ水神じゃないようだが、こっちじゃ水神なんだよな」
「ひっ、あくま、でも、うぐ、人の認識、ひっく、の話。ぐず、“通臂猿侯”と河童が人々、のイメージが、うう、結びついて、荒魂となった水神の神威を象る、うう、ぐず、こともあるの」
そこで甘菜の解説が入る。
気を抜くとむせび泣いてしまう為か、言葉は嗚咽混じりであった。
甘菜は甘菜なりに、いきなり陣太郎を巻き込む形となった現状に引け目を感じているのだろう。
いじらしくも陣太郎に状況を伝える為、おとねの説明ではわかりにくい部分をなんとか伝えようとしたのであった。
「……甘、解説ありがとうな。だけど、無理すんな。落ち着いてからでいいよ。わかんない事、あとで甘に聞くから」
「うう、ぐじゅ、うん。」
「それでおとねさん?」
「んあ? ああ、続きか。でな? 臼木氏、あの祟り刀の事なんだが……最後に神威を喰わせたのは何時だ?」
「え? えっと、笹山の犬神を斬ったのが最後だから……半年位前の事ですね」
「そうか。長いな……」
「何がです?」
「甘っちの見立てだと、そろそろ腹を空かせた祟り刀の神威が出てくるんじゃないかって事らしい」
いきなり、話題が身近なものとなった。
陣太郎は己が抱える祟りを思いだし、改めてゾッとする。
考えようによっては、おとねは神威のような存在で有り、その突然の来訪は正に彼が抱える祟りの発現であるとも言えたからだ。
「ま……マジですか? 俺、そんなにヤバい状況だったんですか?」
「さあ? ともかく、そういう事でこの“猿候”を次のエサにしようかって話になってたんだわ」
「しかし、いきなりの話ですね」
「ああ、いきなりだ」
「でも、相手は河童というか水神でしょう? そんな簡単に殺すような事してもいいんですかね」
もっともな話である。
人外の存在を相手にする場合、一筋縄には行かぬ事は陣太郎自身よくわかっていた。
正直な所、己が抱える祟りでさえ人の身ではどうにもならないのでは無いか、とさえ偶に考える事さえあるのだ。
加えて水神を祟り刀で斬るという事は、何となく禁忌を犯すような気がして尻込む陣太郎である。
「甘っちの言う所、荒魂ってのは神の神威でもあるだろう? それ自体が生き物ってワケじゃあねえし、“猿候”を斬った所で神威が消えるだけであり、神が死ぬわけじゃあねぇんだよ」
「うーん……よく、わかりません」
「ま、その辺は復活した甘っちから聞きな。でよ? 話を続けるぜ?」
「はい」
「臼木氏の祟り刀に“猿候”を喰わせるのはいいとして、流石に相手は荒魂となった神だ。やっぱり出来るだけ、先延ばしにしたいってのが甘っちの意見だったんだが……」
「――はい」
「で、先に出て来た例の娘っこな。めでたくカレシとなった意中の男の子と夜のデート中、通明川の河川敷で“猿候”に襲われたんだわ。……“俺”の占い通りにな」
「襲われたって……その子、祟りか何かで怪我でもしたんですか?」
「……“猿候”ってのはな、臼木氏。人々に悪さをする荒魂だ。水神の荒魂は通常ならば大雨や洪水といった形で神威を現すが、“猿候”となった荒魂は――女を襲い、犯して子を孕ませるんだ」
ドクン、と心臓が跳ねた気がした。
陣太郎を一瞬で染め上げた強い感情は、義憤と言うべきか、それとも憐れな見ず知らずの少女に対しての同情であったのか。
次いで認識できたのは怒りである。
おとねはそんな陣太郎の様子を知ってか、一拍呼吸を置いて声も低く、話の先を口にする。
「先週の話さ。まだ神威が強く大きくなっていなかったからなんだろうな、不幸中の幸いか娘っこは孕みはしなかった。――どうして判るかは聞くなよ?」
「その子は……」
「可哀想に、以来家に引き篭もっちまっているらしい。カレシの方は重傷で入院だとよ」
「そんな……どうして……」
「神威に出くわすのに理由の有無はあまり関係ねぇよ。ともかく、その出来事は強姦……つぅか暴行事件として扱われる事になったんだが……臼木氏。この“猿候”を臼木氏は放っておけるかい?」
「……いえ」
「だろう? 俺だって同じだ。あの時気にいらねえっつって占わなければ、あの娘っこもひでぇ目に遭わずに済んだのかもしれねえ。後悔先に立たずってやつだ」
「つまり、待てないって事は……」
「エテ公が次の犠牲者を出すのを指をくわえて見てるのもヤだろう? なんの関わり合いもない場所と他人の事情ならどうだっていいが、俺はもう関わっちまってるしな」
「まあそうですけども……」
「甘っちと臼木氏には悪ぃけどよ、付き合ってくれよ。俺、他に頼りに出来そうな奴は悟郎さんしか居ないしさ。特に臼木氏、お前さんにはばあちゃん、頼りにしてんだぜ?」
おとねの言葉からおどけたものが何時の間にか消え失せている。
故にその台詞は本心からの物であると聞き取れた。
美女に頼りにされる。
それは男として非常に喜ばしい事であろう。
だが、おとねは生き神である。
そもそも陣太郎よりもはるかに力がある存在だ。
そんな彼女に頼りにされたとて、人である陣太郎に何が出来ようか。
「そんな……買いかぶり過ぎですよ。俺、なんの特技もない高校生ですし」
「ばっかお前、人が他人を頼るのにそいつの能力とかだけを見る訳ねえだろうが。俺はな、臼木氏。目先の幸運を蹴って、得体の知れねぇ鬼婆の自由を望んだ臼木氏の心を頼ってるんだ」
「はぁ……」
「頼むぜ本当に。なんだったら、事が終わった後筆おろしがてら、一晩たっぷりと付き合ってやっても良いからさ」
おとねの台詞に二つ、ぶっ、とむせる声。
一つは陣太郎。
もう一つはすんすんと鼻を啜っていた甘菜である。
「じょ、冗談よしてくださいよ!」
「あん? なんだ臼木氏、相変わらず朴念仁なんだなあ。こういう時は女に恥欠かせないよう、『楽しみにしておきますよ』って言うんだぜ?」
「いや、いやいやいや」
「嫌なんか? 俺、こう見えて補正下着無しで着物が着れる程ナイスなばでぃって奴だぞ? なあに、ばぁちゃんが全部教えてやるから心配すんな。“初めて”なんて目を閉じて十も数えている間に全部終わっちまうもんさ。ばあちゃん、五発までなら余裕で」
「ん! ん!」
咳払いにおとねと顔を引きつらせる陣太郎はハっとする。
甘菜が何時の間にか泣き顔を覆っていた手を下ろし、頬を染めながら眉根を寄せ口をへの字に結んでいたのだ。
どうやら涙を流す程の激情は収まったらしいが、おとねの下品な話が再び彼女を不機嫌にしてしまったようである。
「おとねさん! そういう旅行なら、私、ここで降ります」
「あ、すまん。甘っち。ちょっと悪ふざけが過ぎたようだ。いやあ、若い男の子と話すのは久々なモンで、堪忍してくれよ」
「もう……」
「はは……そうですよ、おとねさん。からかわないでくださいよ」
「臼木氏は満更でもないようだったけどな」
「そ、そんなこと!」
慌てて否定する陣太郎であったが、前の座席に座る甘菜がボソリと『ほんと、スケベなんだから』と呟いた為、それ以上は何も言えなかった。
車は既に高速道路を走行しているからか、気を紛らわせようと見た窓の外の景色は異常に早く流れて行く。
おとねの運転は相も変わらず荒い。
何時警察に止められるか冷や冷やとさせられる運転であったが、生き神である彼女が警察に捕まる事はないであろう。
そんな考えを裏付けるかように、おとねが操るポルシェは一切信号による停止を行っては居なかった。
恐ろしいまでの強運である。
――もっとも、単におとねが信号を無視して走っている可能性すら考えられる運転であったが。
狭苦しい後部座席にあって、陣太郎がそれを確認する術は無い。
そろそろ、体のあちこちが痛くなってきた。
向かう先が某県K市の為、高速道路を使用したとしてもあと一時間は今のままの体勢で居なくてはならないだろう。
辛い体勢を忘れる為、会話を続けたかったが、なんとなく今は喋らない方がいいだろうと陣太郎は判断した。
勿論、これ以上甘菜を刺激しない様にする為である。
故に選ぶ選択肢は、辛うじて見える窓の外を眺めるというものだ。
後部座席に寝そべるようにして身を置き、頭を甘菜が座る助手席側に置いているからか、陣太郎から見える窓は必然、運転席側である。
――ふと。
そこに座る白髪の女性の後頭部がチラチラと見えて、急に陣太郎は恥ずかしくなった。
口がきけねば思考を進めるしかない状況。
つい先程の話を思い起こし、実は今、目の前に本当に“そのような”報酬を得えられる選択肢があるのだと気がついたからである。
陣太郎とて年頃の男子高校生だ。
彼女が欲しいとか、恋愛がしたいとかとは別に、持てあます程の性欲が滾る年頃でもある。
そして、目の前にそのチャンスが確かにみえていた。
男としてどうであるかを問うより先に、やけにリアルな、イヤラシイ妄想が浮かんでしまうのは仕方無い事であろう。
――俺、こう見えて補正下着無しで着物が着れる程ナイスなばでぃって奴だぞ?
反芻するおとねの言葉は、陣太郎に淫蕩な想像を与える。
一糸纏わぬ女性の体を好きにするとは、如何なる心地か。
後から見えるおとねの後頭部と白い耳が、やけに艶めかしく感じられた。
そんな陣太郎の視界をいきなり覆ったのは、いまだ目を赤く腫らす幼馴染みの美貌である。
彼女はしばし、そのまま陣太郎の顔を見て、一言。
「……すけべ」
と繰り返した。
どうやら考えが顔に表れていたらしい。
いや、それよりも。
何故、陣太郎が“妙な事”を考えているとわかったのだろうか。
陣太郎は胸を高鳴らせながら、その理由に思い当たる物がないか必死に考えた。
が、結局甘菜がわざわざ陣太郎の顔をのぞき見た理由はわからず、混乱は深まるばかりとなってしまう。
だが甘菜の一言は陣太郎を現実に引き戻すには十分で、以後惑わぬよう陣太郎はおとねの“報酬”を得るという選択肢を、極力考えないよう努める結果となる。
結局の所、甘菜に嫌われそうな行為は慎みたい陣太郎であるのだ。
だがその日、おとねが予約を入れておいた宿に到着するまで、甘菜の機嫌が直る事はなかったのである。