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山彦




 臼木家の現当主である臼木陣八は、齢七十を越える老人である。


 陣太郎の父とは違って頑固かつ剛胆な性格で、現在では只一人の、古より臼木家に伝わる臼木流剣術の使い手であった。

 臼木流の古剣術、と言えば聞こえは良いが、その実は精神修養や自己鍛錬に重きが置かれた程度のものだ。

 これは剣術の研究が盛んになる戦国時代の終わりから江戸期にかけ、臼木家が頑なに外部との交流を拒みやがては時代に取り残された事が衰退の遠因といえよう。

 一応は時代も飛び飛びに剣才ある者を輩出してきた臼木家ではあったが、口伝による多くの術理や奥義を失ったのが明治に入る少し前である。

 天之麻の最後の祟り刀を当時の臼木家嫡男、臼木陣十郎の手によって封じられた事により、時代の流れと共に臼木の剣は急速に失われて行き、今日ではその一部だけが伝わるのみであった。

 それでも臼木家は陣八の代までは幼少期より過酷な訓練が施され、古より連なる武門の家らしい家風であったのだが。

 夜を照らす電灯がそこかしこに溢れ、一月もかけずに世界を一廻りできる時代となり、いよいよもって臼木家は腰の大小だけでなく僅かな剣技さえ捨て去る決意をしていたのである。

 ――陣太郎の父の、一方的な独断によって。

 現当主は勿論これに反対したのだったが、彼も又、現代の人でもある。

 故にこれを黙認せざるを得ない事情があった。

 つまり朝毎に腹を切り、死にながら生きるもののふの時代ではなく、嫌がる者を打ち据えれば例え肉親であっても警察に捕まる時代。

 如何に陣八であっても、放埒な我が子に臼木家のしきたりを強制させる事が出来なかったのだ。

 当然そんな父子の間には確執が生まれ、いまだ陣八が家督を陣太郎の父に譲ってない事がその深さを示していた。

 そういった事情のある臼木家であったが、ある出来事によって父子は一時和解せざるをえない状況となる。

 陣八の孫である陣太郎がひょんな事から天之麻の祟り刀・鬼目一“蜈蚣”に祟られてしまったのだ。

 流石の陣八とて、我が孫に御先祖様のようにもののふらしく、海に出て死ねとは言えない。

 自らが臼木家の裏手にある山の中、かつて山籠もりに使われた庵に引き篭もってより二十と数年。

 陣太郎が生まれた時にしか顔を見せなかった息子が、恥も外聞も無く自分を頼って来た時。

 その話を聞き息子の表情を見てすぐに状況を理解した甚八が、柄に無く数ヶ月も悩んだ末に出した結論とは。


「ひぃ、ふう、な……なんで俺が……」


 天之麻神社の脇から伸びる、臼木家裏手の山に登る獣道を三十分程登った、名ばかりの山道にて。

 陣太郎は祟り刀を納めた竹刀ケースを担いだまま、日も暮れた時刻にもかかわらず、道無き道を進んでいたのであった。

 あともう三十分も草をかき分け、崖とも思える山道を進めば祖父の住む庵にたどり着くだろう。


「くそ、くそくそ、クソ親父。なんだって、急に、『明日から毎日、朝と晩におじいちゃんの所に通いなさい』、だよ! マジ、わけわかんねえ!」


 憎悪が篭められた絶叫は力無く、そこら中で鳴くホトトギスの声ばかりがわびしく陣太郎の耳に届いていた。

 時節は十月も終わろうかという頃。

 秋は一層深まり、日も暮れれば冬の気配がありありと伝わってくる。

 しかし陣太郎は汗だくになって、首にタオルをかけたまま、渋々ながらに山登りを再開するのであった。

 遠くに見える街の明かりがやけに綺麗で、我が身の不幸――この場合は若い身空に突然降って湧いた“修行”の強制である――がより一層引き立てられたように感じられる。

 なにせこの後、山小屋のようにみすぼらしい陣八の庵にたどり着くと庵のどこに隠し持っていたのか真剣を握らされ、怪我をしない為の“型”の反復と素振りをさせられる陣太郎であるのだ。


「じいちゃんもじいちゃんだよ。くそ、ひぃ、ふぅ、真剣を素振りして祟りが祓えれば苦労しねえっつぅ、の! 何が、御先祖様の一人は、新撰組の隊士より強かった、だ! みぃんな、結局祟られて死んでるじゃない、か!」


 陣太郎はあまりの辛さに、小声でブチブチと愚痴を吐き山道を登り続けていた。

 勿論、陣八の前で言おう物ならば鉄拳どころか木刀や鉈が飛んでくる為、今の内に腹の底にわだかまったものを吐き捨てて行く算段である。

 道は険しい。

 それはもう、非常に険しい。

 舗装されていないとか、急な上り坂であるとか、そういった次元の話では無い。

 昼間であっても地面が見えぬほど、鬱蒼と雑草が生い茂り、辛うじて木に巻き付けられた青い紐が道がある事を示すのみなのだ。

 ちなみに、赤い紐は“この先崖、もしくはトラバサミ有り”という意味である。

 トラバサミの使用は違法であるが、臼木家の私有地にあって滅多に山を降りぬ祖父には関係無く、日々の栄養を得る為に活用されているようだ。

 ――ああ、くそ。きつい! きついきついきつい! いっそ、あの赤い紐の先に進んで怪我でもすりゃ、楽になるか。

 ……そりゃ、笹山の一件で大怪我をしたのが不味かったのかも知れないけどさぁ。

 だからってなんだよこれ。

 昔の文献を一緒に調べてくれるとか、色々あるじゃんか。

 なにも、こんなイノシシやシカが出る(らしい)山の中を朝と夜に登らなくても。

 呟くように出す愚痴は、とめどなく溢れてくる。

 日頃運動らしい運動をしていなかった陣太郎にとって、それは正に拷問に近い苦行であった。

 千早神社から帰ってより数週間。

 両親は話を甘菜の父親から聞いていたらしく、二本の足で帰って来た陣太郎を涙ながらに向かえ、しかし深刻な面持ちで毎夜遅くまで話し合った結果の“修行”である。

 律儀にも毎日祖父の元に通っていた為、疲労は早くもピークを迎えて精神をも摩耗してきていたのだった。

 陣太郎としても不満はあれど、死を覚悟する大怪我の後に足を失うかも知れぬ旅の後である。

 これ以上は両親を心配させるような事は本意で無く、大人しく言いつけを守る心境でもあったのだ。

 そんな陣太郎を追い込む山の宵闇は、予め祖父より注意されていた、山の危険な生物の話を思い出させる。

 基本的に山で出会う生物には、危険な存在が数多く存在する。

 陣太郎自身、町の外れで山に囲まれ生活していた為よくわかっており、その最たる存在はイノシシとマムシやヤマカガシといった毒蛇がポピュラーと言えよう。

 もうすこし山奥の地方ならばクマも加わるだろうが、生憎陣太郎が暮らす地域ではクマが出たという話はまず聞かない。

 しかし陣太郎が陣八の庵に通うにあたり、祖父が念を押すようにまず注意を促したのは“山犬”の存在であった。


「大体、なんだよ山犬って。この辺に野犬なんていねえっての。ゴミ捨て場も漁られた事も無いし。甘も甘だ。この辺りで野犬なんて見た事あるか? って聞いたらあいつ、それって“山彦”のことじゃない? だってよ! 妖怪ヲタクじゃねえんだから」


 暗い獣道のような山道。

 一人寂しくなったのか、それともあまりの辛さに誰彼構わずここには居ない幼馴染みに八つ当たりをする気になったのか。

 脳裏に浮かぶ幼馴染みは、社務所の窓の向こうで陣太郎の方を見向きもせず、一心に買ってきたばかりのファッション誌に見入っていた。

 勿論、自転車で一時間程の距離にある市内唯一の、駐車場の矢鱈広いレンタルビデオショップ兼本屋兼CDショップ兼ゲーム店で陣太郎が買ってきた書物だ。

 陣太郎としては高圧的だが愛らしい笑みで頼まれたら断れぬ男の悲しい性故、せめてもう一度笑顔で労い、愚痴の一つでもニコニコと聞いて欲しかったわけであるのだが。

 最近仲がそこそこに良くなったと思えた幼馴染みは、気まぐれにもにべもない態度のまま、早く陣八さんの所に行かないと怒られるよと陣太郎を追い払ってしまうのだった。

 ――蜈蚣ムカデの神威が降りかかっている陣ちゃんだから、マムシとかは心配ないと思うよ。蛇は古来、蜈蚣が苦手だしね

 その折に唯一かけられた優しい言葉がこれである。


「――普通はさあ、頑張って、とか応援してるよ、とか言うよな? いや、甘菜が好きとかじゃねえけどさ。でも、あいつ、一応は美少女じゃん? 可愛くニッコリ笑って『これ使ってね』なんつって、良い匂いがするタオルの一つでもさあ、くれたら俺、どんだけ救われるか」


 今して思えばこれが彼女の、毎日山歩きを強制させられた陣太郎に対する励ましの言葉なのだろう。

 なんと色気の欠片も無い言葉であろうか。


「くそ! また腹立ってきた! なんで俺、パシらされた上に『毒蛇は心配ないよ、あんた蜈蚣に祟られてるから』とか言われてるんだよ! ……一応、笑顔だったけど、チラと俺の方みただけだし。笑い方もカッコ笑いカッコ閉じる、みたいな感じだったし。……そりゃ、ちっと、可愛いって思っちゃったけど、でもさあ」


 年頃の男子高校生には女の子の励ましは効果が絶大であるはずなのだが、甘菜の言葉は心の糧にするには陣太郎は些か堅すぎた。

 陣太郎としてはもうちょと、年頃の女の子が言うような、華やいだ言葉が欲しかったのだ。

 それが恋心などではなく、ただただ純粋に、せめてもの潤いを見た目麗しい幼馴染みに無意識の内求めただけではあったが、それ故に落胆は簡単に理不尽な怒りへと変わりやすい。

 現実はやはり厳しく、何事も思い通りには行かない陣太郎である。

 兎に角、口を突いて出る愚痴の量が更に多くなってきた頃か。

 不意に、近くで何か大きなものが蠢く気配がした。

 陣太郎はドキリとして歩みを止め、ガサリと派手に動いた茂みを凝視する。

 茂みはやはり同じ場所でガサガサと音を立て、その向こうに居るのは少なくとも人間と同じか、それよりも大きな存在が潜んでいる事を表していた。

 ――イノシシか?

 背中の毛が逆立つような感覚の中、陣太郎は一瞬そう考えた。

 しかし、イノシシにしてはどうも様子が変である。

 そもそも、陣太郎がここまで愚痴を外に出してきたのは、自分の位置を人ならざる動物達に教える為でもあった。

 また、子連れのイノシシと鉢合わせてしまうような時節でもない。

 よって恐らくは茂みに潜むのはイノシシでは無い――と思いたい陣太郎である。

 そんな茂みの手前に立つ樹木の幹には赤い紐が結ばれており、どうやらなにかの動物が祖父の罠にかかっているらしいと判断が及んだ時。

 ふと、その茂みの向こうから声がした。


「……もし。そこに誰かいるのでしょうか?」

「あぅ、え?! あ、はい」

「ああ、良かった。よろしければ、助けていただけませんか?」


 声は若く艶っぽい女の声である。

 陣太郎は安堵に体温を取り戻しながらも、すこし慌てて声のする方、茂みをかき分けた。

 何かの拍子で迷い込んでしまった一般の人が、祖父が仕掛けたトラバサミにかかってしまっているのかもしれないと考えたからだ。

 果たして、茂みをかき分け確認した声の主は無事であった。

 現れた女性は二十代程で特に目立った外傷もなく、その場に座り込むようにして蹲っている。

 山登りにしては軽装で、スニーカーを履き、上下ともよく量販店で売っているような緑のジャージを着込んだ出で立ちだ。

 街灯所か家々の灯火すら無い山の道であったが、うっすらと照らし出される星明かりの下、闇に浮かぶ女性の顔は、ゾクリと背に何かが走る程綺麗に見えた。


「ごめんなさい、呼び止めてしまって」

「あ……あ、えっと、かまいませんよ。でも、なんでこんな所に?」

「その、足を挫いてしまって……」


 女性はそう言って、恥ずかしそうに目を伏せた。

 陣太郎としては『何故私有地の山の中に、それもこんな時間に居るのか』と問うたつもりであったが、なんとなくもう一度問いただすには気が引けて曖昧な答えを返してしまう。

 らしくない反応は急に恥ずかしさを覚えてしまい、つい意味も無く胸を高鳴らせてしまったせいでもあるが、女性の仕草と容姿が原因と言えよう。

 目の前で蹲る女性は意識してか、それとも意識してないのか、完成された大人の色香を纏い、艶めかしく挫いたであろう右足をさすって。

 加えてライトグリーンのジャージは彼女のしなやかな、しかし同年代の少女達には持ちようのない体のラインを強調し、青い春を送る少年には多少刺激的であった。


「あの……?」

「あ、ごめんなさい。その、驚いたもので」

「こちらこそ、驚かせてしまってごめんなさいね」

「足、挫いてしまったんですよね? 何時からここに?」

「四時位から、かな? あたし、酒屋の配達をしているんですけど、この先に臼木さんっていうお宅があって、そこにコレを届ける途中だったんです」


 言って女性は左手を持ち上げた。

 持ち上げられた左手にはビニール袋が握られており、中には六本パックの缶ビールが入れられているようだ。

 何でわざわざこんな所に――

 陣太郎はそう言いかけて、女性が配達の為にここへ来たと言っていた事を思い起こし、ドギマギとした思考の中で状況を理解するに至った。

 つまり女性は、わざわざ祖父の家に酒の配達をしに来ての道中で足を挫き、日が暮れるに至る今に至るまで、ここで立ち往生していたと言うのである。


「すいません、その臼木って家、俺のじいちゃんの家です」

「あら。じゃあ、君が陣八さんのお孫さん? 世間話で聞いた事があるわ」

「ええ。その、ごめんなさい。こんな山奥にまで配達させてしまって……」

「え? ああ、いいのよ。仕事だし」

「まっててください。今助けを呼んできます」

「まって!」


 踵を返す陣太郎を制止する声は、少しだけ焦りが込められていた。

 慌てて振った陣太郎が見た物は、すこしモジモジとした仕草のやはり艶めかしい女性である。


「あの、非常に厚かましいのだけど……」

「はい?」

「よかったらいいんだけど、ね? その、あたしを背負って陣八さんの家まで送って行ってくれませんか?」

「――はい?」


 二度目の返事には、すこし違うニュアンスが混じる陣太郎であった。

 女性は羞恥に肩を振るわせんばかりに俯いて、あのね、と言葉を続ける。

 その雰囲気はやはり大人の女性だけが纏える色香が漂って、やけに艶めかしい。


「あたし、何度かここに配達に来た事があって、陣八さんに注意するよう言われてたんだけど、ほら、この辺りってイロイロと出るでしょう?」

「はぁ。イノシシとかマムシとか、ですか?」

「そう。夜も更けてきてるし、せめて陣八さんの家まで連れて行ってくれるとありがたいんですが……ダメ、ですか?」


 夜の山道。

 妙齢の、どこか強い色気が漂う女性が伏し目がちにそう、懇願するのである。

 断れる男など、いよう筈があろうか。

 少なくとも陣太郎は、これを承諾するだけの下心と義侠心を持ち合わせていた。

 それに、後十分もあれば陣八が暮らす庵にたどり着ける距離である。

 彼女を抱えて山を下るという判断もあったが、登る方が楽な距離だ。

 きつい獣道同然の山道とはいえ、一時の“非日常”を堪能するには苦にならないであろう。


「い、いいですよ。ど、どうぞ?」

「ごめんなさい。本当にたすかります。しょ、っと」


 陣太郎は早速屈んで女性に背を差しだした。

 悲しい男の性と言うべきか、その姿は少し情けない。

 不思議と、こういった時の男性には妙な間抜けさが見て取れるものであった。

 しかし女性は本当に困っていたのか、それとも余程心細かったのか、そんな陣太郎の背に躊躇無く身を預け首に優しく腕まで回す。

 瞬間、ふわりと鼻に甘い女性の香りが届き、背にはふくよかな双丘と意外な重さが感じられた。

 失礼な話だが、女性はどうやら着やせするタイプであるらしい。

 その意外な重さに戸惑いを覚えるもしかし先程までの愚痴など何処へやら、気合い一閃、力強く立ち上がる陣太郎であった。


「じゃ、いきますよ?」

「お手数をおかけします」

「いいんで、すよ。元はと言えば、家のじいちゃんがこんな山奥に、ふぅ、配達を頼んだのがわるいんだし」

「いえ、うちも仕事ですから。それに、最近はディスカウント店が増えてきたでしょう?」

「ええ、はぁ、ふぅ、今度又、大橋の川沿いの、パチンコ屋の跡地に、出来る、はっ、みたいですよね」

「ええ。だから、こういう近所にお店が無い所に配達をして利益をすこしでも上げないと、うちも厳しいので……」

「あの、はぁ、ふぅ、次からは、下の本宅に、ひぃ、ふぅ、置いて行ってくれれば、いいです、から」


 只でさえきつい山の道。

 女性一人――それも以外と重い女性を背負い、会話をしながら登るのである。

 息は直ぐに切れて、徐々に背の感触よりも体のきつさが目立つようになってきた。


「そんな、悪いです」

「いいん、ですよ。ふぅ、俺、毎日、じいちゃんの家に、通っているので」

「そうなんですか?」

「ええ。それに、ここらは、結構、はぁ、ひぃ、危ないですし。じいちゃんに注意、されました、でしょう?」

「はい。マムシとイノシシに気を付けろ、と言われました」


 ――はて。

 俺には野犬で、この人にはマムシやイノシシに気を付けろとな?

 女性の話にどこか腑に落ちない所を見つけた陣太郎は、胸にもやをかけながらも早くも辛くなった体を忘れる為、全神経を背の双子山に集中させるのである。

 一方、女性の方も支える陣太郎の腕が心元無くなったからか、首に回した腕の力を強めるのであった。

 当然、その行為は陣太郎にとって思わぬ“ご褒美”となり、下半身に込める力を取り戻す結果となる。


「……しっかし、よく、ふぅ、仕事とはいえ、お姉さんが、この、獣道を行けますよね」

「流石に最初はきつかったですよ」

「イヤになりません? とくに、ここらへん、じいちゃんの、はぁ、小屋に近付くにつれて、険しく、なるし」

「慣れたらどうって事、ないですよ。何度も来てますし。それに、陣八さんとお話をするんですが、とても楽しいものばかりで」

「嘘?! じいちゃん、俺には、ふぅ、結、構、きび、しくて……偏屈だし」

「そうなんですか? 結構気さくにこの山の成り立ちとか話してくれましたよ?」

「この山の?」

「ええ。あたし、山登りとか山のお話が好きなんです。霊山とか言われる場所もあちこち行くんですよ? そうねえ、たとえば山神って知ってます?」

「……いえ、はぁ、ふぅ」

「日本の神話に出てくる山の神様って大山積神オオヤマツミっていう神様なんだけど、この神様は海の神様でもあるえらい神様でね」


 徐々に返事をする余裕を失う陣太郎。

 対照的に女性は興味のある話題となったからか、すこし声を弾ませて陣太郎に話しかけ続けた。

 彼女なりに少しでもきつそうな陣太郎の気を紛らわせようとしているのだろう。

 実際の所、陣太郎の気を紛らわせているのは背に押しつけた大きな膨らみであったが、その事実には気付いていないらしい。


「はぁ、ふぅ、ひぃ」

「でも、今で言う所の山の神様って基本女神じゃないですか。ほら、女人禁制の山とかあちこちにあるし。面白いよね」

「はっ、はっ、ふ」

「あたし、そういうの好きで調べたんですけど、大山積神には二人の娘がいて。どうやらその二人が今の山神の原型じゃないかなって思うんです。知ってます? 磐長姫イワナガヒメ木花之開耶姫コノハナノサクヤビメ

「は、ひぃ」


 陣太郎が入れる相の手は、返事ともあえぎとも言える物であった。

 獣道同然の山道を女性を背負って進むのである。

 気が利く者ならば、すぐに会話所で無くなると気がつくだろう。

 すくなくとも、妙な下心で思考を濁らせなければ、だが。

 陣太郎はこの時、早くも己の見立ての甘さを呪い始めながらも愚痴を外に出さぬよう、思考を停止する事にした。

 何も考えず、ただ足下だけを見て進むのだ。

 そうすれば体のきつさなどすぐに忘れる事が出来る。

 足下は鬱蒼と茂る草が生え、最近陣太郎が作った足跡が轍のようになっていた。

 そこでふと、停止した思考の中に胸のもやが流れ込んでくる。

 ――はて。

 この人、何度かここに配達に来ていると言っていたよな?

 でも、俺がじいちゃんの所に通い始めた時、人が通った形跡なかったぞ?

 ……じいちゃんが殆ど下山してないってことにもなるんだけど。

 そういや、じいちゃんもどんな移動の仕方をしてたんだ?

 この道、俺が踏んで作った道しかないっぽいし。

 疑問は次々と湧いて、同時に折角忘れようとした体のきつさが強く陣太郎に襲いかかる。

 足は既に例えようも無い疲労感に支配され、気を抜くと膝を折ってしまいそうだ。

 背負う女性の重さもその辛さに拍車をかけ、陣太郎の歩みはすっかり力無いものとなっていた。

 が、女性は話に興が乗ってしまっているのか、陣太郎の異変になど気にも留めず言葉を続けのである。


「この姉妹、ニニギって神様に嫁ぐんだけど、お姉ちゃんの磐長姫は醜い容姿だったものだから大山積神の所に送り返されちゃうのね。その話が時を経て回り回って嫉妬深い山の女神になるらしいのよ」

「はぁ、はぁ、そ、なん、です、か、はぁ……」

「ね、この話っておかしいと思わない? だって、恨むべきは普通男でしょう?」

「はぁ、はぁ、く、うう」


 遂に苦悶の呻きをあげ、足を引きずるようにして前に進む陣太郎。

 背の女性はそんな彼に重くのしかかる。

 彼女と会話をする余裕はもはや陣太郎には無かった。

 勿論、女性はそんな陣太郎の事などお構いなしに、どこか艶っぽい声で話を続けるのである。


「どうして磐長姫は女に敵意を持つのか、不思議に思わない? だって各地で山の神を祭るのは巫女さんが多いのよ? でも、山に入る事を許されるのは男。これっておかしいよね?」

「――はっ、――はっ、――はぁ」

「ふふ、そこでね。こう解釈出来ないかしら。磐長姫は男が憎い。そんな彼女の怒りを鎮める為、人々は定期的に山に男を入れ生け贄を捧げる事にしたのよ。女人禁制を隠れ蓑にしてね。生け贄とされた男は磐長姫に心を抜かれ、何でも彼女の言いなりと成り果てた。語りかければ同じ言葉を返す“山彦”として、ね」


 ゾクリとするような、女の声。

 その声に陣太郎は既視感を覚えた。

 例えば、少女に抱きかかえられた雷獣。

 例えば、犬神に憑かれた笹山弘子。

 例えば、生き神となった千早神社の少女。

 思えば、どこからこの“違和感”を抱えていたのだろう?

 自分以外、誰も歩いた形跡の無い山道で人に遭った時からか。

 配達?

 そのような車が近所で見かけた事が果たしてあったろうか。

 今日だって、山に登る前それらしき車を見かけはしなかった。

 ――はぁ、はぁ、はぁ。

 荒い呼吸は肉体を酷使した為。

 だがそれは、蜈蚣の神威を目の当たりにした瞬間の呼吸にもどこか似ていた。


「ね、知ってる? “山彦”は夜の山で人を化かすとされる妖怪、というか精霊ね。山犬のように全身毛むくじゃらで、とっても悪戯が好きなの」


 陣太郎は遂に膝を折り、その場に蹲った。

 ――はぁ、はぁ、はぁ。

 呼吸はまるで自分の物では無いように聞こえる。

 背にした女性は何時の間にか岩のように重く、とてもでは無いが立ち上がれそうにない。

 ――はぁ、はぁ、はぁ。

 鼻を突いていた女の甘い香りは、何時の間にか獣臭に変わっていた。

 ――はぁ、はぁ、はぁ。

 荒い呼吸は背負った女性からのもの。

 それはまるで、犬のような息使い。

 ――これ、は!?

 異変が実感を伴った瞬間、陣太郎は思わず背にした女性を後へ振り落としていた。

 女性は悲鳴をあげることもなく、かといって陣太郎にしがみつくわっけでも無く、ただ背後でゴトリと鈍い音がしたのみである。

 振り向くとやはり女性の姿は無く、大きな石塊が薄闇の向こうにごろごろと転がっていく様が見えた。


「うふ、今代は随分軟弱よな。久々に見たもので嬉しゅうなって出て来たが、ちと軟弱すぎる。この位にしておいてやるから、精進せいよ」


 声はその、闇の向こうから。

 変わらず女の声であったが、陣太郎を惑わした艶っぽい色は何処にも無かった。

 陣太郎はしばらくそこで呆然として、自分が何をされたのか、何がおきたのかも理解せぬまま思考を澱ませる。

 辺りには夜の闇が一層濃く降りてきていたが、陣太郎に立ち上がる気力が戻ったのはそれから更に時を経てからであった。

 女性が山彦であったのか、それとも山神であったのかはわからない。

 ただ、その神威が山籠もりを行う臼木家の男が皆出会うモノであると陣八に説明をされたのは、ヘトヘトの体に鞭打ちいつもの鍛錬をさせられた後である。

 それからその日、結局山を降りる体力が残らなかった為に祖父の庵に泊まる事となった陣太郎は。


 夢に“それって山彦じゃない?”と言った甘菜を見て、暗に正解を提示してくれた彼女の優しい言葉をこの時、初めて理解するのである。





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