蜈蚣・一
陣太郎が父親に、親戚の女の子がアメリカからやって来るという話を聞いたのは、実に彼女が来日する前日であった。
季節は秋の残滓もすっかり消え失せた、十二月も半ば程。
その年は比較的暖かい冬であるらしいが朝夕の冷え込みは刺すようで、暖房の効いた車や職場を利用する事の無い陣太郎にとっては、紛れもなく寒い冬である。
甘菜の厳しい指導の甲斐もあり、いつもより良い成績で期末テストを乗り越えて、後は冬休みを待つばかりとなっていた矢先での事。
陣太郎はその夜、夕餉の食卓で父親に突如 「明日親戚のエミリィちゃんがやって来るから、駅まで迎えに行け」 とだけ伝えられたのだ。
唐突な話である。
いや、それどころか陣太郎にとっては根本的におかしいとさえ思える話であった。
まず、エミリィなどという親戚の存在など、今の今まで知らなかったし、知らされてもいなかった。
それから、そのエミリィという親戚がどのような姿なのか、年齢が幾つなのか、何故来日するのかなんて当たり前だが知らないし、聞いても答えては貰えない。
もしかしたら、その辺りの事情は父親にとって重要な事では無いのかも知れないが、最低限の質問さえ受け付けて貰えないとはおかしいではないか。
――それはまあ、いい。
何か言い出しにくい事情が大人にはあるのだろう。
家族なのだから、妥協すべき部分の一つや二つ、あるのも確かだ。
しかし。
しかし、である。
前置きも簡単な説明も一切無く、食卓の中央に据えられた、母謹製のとんかつが山盛り乗せられた大皿をつついている時に、いきなり 「明日親戚のエミリィちゃんがやって来るから、駅まで迎えに行け」 とはどういった了見だろうか。
もう少し、回りくどい言い方というか、事情を説明出来ないまでも 「実はな、陣太郎。父さんと母さん、この前アメリカに行っただろう? ――そうだ、遠い親戚の家にだ。そこの家に、エミリィちゃんという女の子が居てな。その子が今度、遊びに来るんだ」 位の説明を、数日前に出来なかったのだろうか?
テスト明けの、最初の休日である土曜日の昼頃。
陣太郎はそんな風に苛立ちながら、某市を走る鉄道で中心的な役割を担う某駅にて、そのエミリィちゃんの到着を待っていた。
駅のホームは遮蔽物が少ないためか一際寒く、また設えられた座席にも風防板などといった気の利いた物は無い。
某駅といえば、陣太郎の住む某市の中心である。
近くには某市でもっとも背の高い建築物であるビジネスホテルがあるし、少し前までは四階建てのデパートも営業を行っていた。
ただ最近では郊外型店舗の出店が増え、前述のデパートなどはアッサリと廃業してしまい、今では経済の中心とは言えなかったが、それでも某駅は某市の交通の要で在る事は間違いない。
が、やはり某駅は所詮地方の一駅でしかなく、プラットホームも三番までしか無い小さな駅だ。
にもかかわらず陣太郎が駅員に入場料を払いホームにまで出ていたのは、エミリィちゃんが無事この駅で降りて来られるか心配だったからである。
何せ父親からは“親戚のエミリィちゃん”としか教えられていない。
他に彼女に関する情報は“会えばわかる”しかなく、どの程度日本語が出来るのか、それともまったく出来ないのか、ちゃんと日本の交通網を使えるのかという情報は一切与えられていなかったからだ。
「うぁあ! ああ、寒。時間ぎりぎりまで待合室に居りゃよかったよクソ」
吹きすさむ冷風に体を震わせ、愚痴と共に白い息を吐く陣太郎。
首を引っ込め背を丸めながら時計を見ると、もうそろそろ列車が到着する時刻である。
都会の駅とは違い電子掲示板式の列車予定表などホームに無いため、時計だけが頼りの駅であった。
――少し遅れる、かな?
陣太郎は時計を見てそう判断し、寒さを忘れるべく暖かい缶コーヒーを求めて自動販売機を探そうとした時。
けたたましい電子音が駅に鳴り響き、続いて駅員のアナウンスが独特な発音でスピーカーから流れた。
放送は勿論、陣太郎が待っていた特急列車の到着を知らせるものである。
そして数分後。
待っていた列車は駅に入って来て、幾人かの乗客を降ろし、数分後には去って行く。
しかし陣太郎は呆然として、到着を待っていた時と同じ場所に立ち続けていた。
ただ、視線は列車が去って行った方向へと向けられ、一点を見詰め続ける。
「……アノ。穴多、ジンタロウ、参デスか?」
非常に聞き取りにくい日本語で話しかけられ、そこで陣太郎は我に返った。
話しかけて来た相手は外国人であろう、白人の女の子である。
勿論、彼女こそが陣太郎が待っていたエミリィちゃんなのであろう。
陣太郎は思わず自失してしまっていた事を恥じながらも、混乱した思考を胸に押し込めながら役割を果たすべく口を開いた。
「ぇう? あ、い、イエス。えーっと、まいねーむ、いず、ジンタロウ、うすき?」
「ああ、余暇っタ。ワタシ、二本語、少しデキ増す。勉強、しま下。名前、Emilyと良い増す」
そう言って、エミリィはにっこりと笑顔を作る。
彼女は年の頃十五、六といった風体で、しかし陣太郎の想像とはまったく違う姿で現れたのであった。
何よりまず、背が低い。
見たところ、身長は陣太郎よりも更に低く、一五〇センチメートル前後といった位か。
背にしたリュックサックは登山用であろう、小さな体とは不釣り合いなほど大きく見え、また手にしていたジュラルミン製の手提げケースは幅二メートル近くあり、よくそんな大荷物を持てるものだと思わせた。
見た目も想像していた姿とはまったくちがう。
自分の親戚、ということであったので、陣太郎はエミリィちゃんはアジア系だと思っていた。
が、実物は金毛碧眼の白人であり、何処からどう見てもアジア系の血が流れているとは思えない外見だ。
短くボブにカットされた髪は明るい金髪で、ホームを抜ける寒風になびきキラキラと光る。
寒いのが苦手なのか服装は今の季節にしてみても厚着で、しかし驚くほど小さな顔は、彼女が決してふくよかでは無いと見て取れた。
肌は白い、というよりも皮膚の内が透けて見えるのではと錯覚を覚えるような白さで、寒いからであろう、頬はほんのりと赤い。
陽光に光る金髪は染めていない証拠に眉毛は目立たず、それ故に青く大きな瞳が一層映えて陣太郎の目を引いた。
「胴か、シマ下のか?」
「――あ、いや。その、エミリィ、さんがその、随分と想像と違ったので、驚いて、いました」
「マァ。出も、ジンタロウ、驚き杉、よ」
たどたどしく聞き取りにくい日本語で答え、笑顔を更に歪めて笑うエミリィ。
しかし整ったその顔は、些かも輝きを失わない。
芸能人のトップアイドルを一度生で見た事がある上、日頃それに匹敵する美少女を見慣れていた陣太郎であるのだが。
エミリィの美しさは日本人のそれとはまた別のものであり、それまでに知らず培っていた免疫がまったく働かなかったのである。
例えるならば、人形のような美。
いや、美術館に置かれた彫刻のような、別世界の美と例えられるか。
そう、陣太郎が初めて会う親戚の女の子は、驚くほど綺麗な顔立ちをしていたのである。
◆
夕刻、天之麻神社の拝殿。
エミリィはそこで胡座をかき、巫女服に着替えた天之麻甘菜と対峙していた。
エキゾチックな建物にひとしお感動を現した後での事だ。
彼女の隣には陣太郎が正座をして座り、どこか居心地の悪そうな面持ちで目を泳がせている。
そんな二人に対峙し本殿を背にする甘菜はやはり正座をして、少し不機嫌そうに目の前に置かれたジュラルミンの手提げケースを見ていた。
ケースはエミリィが持参した品で、既に開かれ中身が外に現れている。
ジュラルミン製ケースの中は中身を保護する為、発泡スチロールで型を取り柔布で保護する内装で、その中には一振りの刀と、二つ折りにされた古めかしい紙が収められていた。
「これが“百合”、ですか」
「ハイ。最初、ミスタ・ウスキに渡し田カタナのほうが、“原因”だったと思われたのデスが、ミスタ・ウスキが二本へ返った後、今度は女性のゴーストが出るように、鳴りま下」
「女性の?」
「ハイ。女性の、二本の民族衣装を着たゴースト、デス」
「……この紙に触っても?」
「ドウゾ。カタナも、触ってもカマイマセん」
エミリィの返答を得て、甘菜はケースの中に収められている紙を摘み上げゆっくりと開いた。
紙には拙い英文が書かれており、その内容を何とか読めた甘菜は内心大いに驚かせる。
一方陣太郎は紙に書かれた文字を読み進め、みるみる内に表情を変える甘菜に何事かと思い、声をかけるタイミングを計り始めた時。
ふと目に入った、ジュラルミン製ケースの中の刀に目を奪われ、何故か胸がざわついた。
ざわつきは、予感である。
それが嫌な予感であるのか、それとも何か“大きな変化”が起きるという類の予感なのかはハッキリとしない。
しかし予感は無意識に陣太郎を動かし、傍らに置いていた、鬼目一“蜈蚣”が収められた竹刀ケースのジッパーを開かせていた。
「陣ちゃん!」
「うぇ? え? なん、なんだ甘?」
思いがけず甘菜の方から名を呼ばれ、意味もわからず慌てる陣太郎。
しかし甘菜はそんな陣太郎の様子などお構いなしに少し興奮したように言葉を続けた。
「これ、凄いよ」
「凄い、って?」
「これ、その鬼目一“蜈蚣”の持ち主だった人の――陣ちゃんのご先祖様の書き残したメモみたいなんだけどさ」
「おお、そうなの? じゃ、エミリィちゃんと俺、ホントに血がつながってんのか……」
「うん、神様ってほんと不公平よね、って違う! 今そんな冗談いいあってる所の騒ぎじゃ無いよ。これ、ほんと凄い事書いてるんだって!」
「キッチリ俺を貶めた後でそりゃねぇよ……」
「……? 胴いう、意味、デスカ、ジンタロウ?」
「ああ、気にしないでエミリィちゃん。俺と君の姿があまりに違うもんで、血が繋がってるのか疑ってたって話」
「うーん、そういう、会話、だった野デスか? 難しい。それと、名前の後に突く“ちゃん”て、何?」
「えーと……愛称?」
「わぉ。じゃ、ワタシも、ジンタロウの事、ジンタロウ“ちゃん”と、読んでも酔い?」
「うぇ?! あ、うん、いい、よ?」
「ふふ、ありが糖、ジンタロウちゃん」
「い、いや……、はは……」
「……ほっこりしてる所悪いけれど、説明を続けてもいいかしら? ジンタロウ“ちゃん”?」
ちゃん、の所がやけに強い発音の、甘菜の台詞。
照れてしまい頭を掻いていた陣太郎であったが、はっとして甘菜に向き直り姿勢を正した。
見ると彼女には珍しくすこし唇を尖らせ、冷たい視線をジットリと送ってきている。
見慣れた、しかしつい見とれてしまいそうな表情は一応笑顔ではあったが、なぜか更に不機嫌になっているとも読み取れた陣太郎であった。
「……ごめん」
「……続けるね。あ、その前に、エミリィ……ミス・エミリィはこれをもう読まれてるのですよね?」
「エミリィ“ちゃん”で酔いデス。はい、それを読んで、そこに書かレテ板場所からミスタ・ウスキの家を探し堕し、連絡、取りま下。その後、スタンピード(百足)の剣、引き取ってモラッタのデス」
「経緯はうちの父から聞いているわ」
「え? 甘、詳しい経緯を知ってたの?」
「うん。エミリィ……ちゃんの連絡を陣ちゃんちのおじさんに取り持ったの、父さんなのよ。向こうのナントカっていう大学の教授経由で連絡がきたっぽい。……私も後から聞いたんだけどね」
「ソウ、です。ワタシの叔父、Americaの大学で教授、してイマス」
「……知らなかった。ってか、その辺の事、まったく教えてくれねぇんだもんな、父ちゃん」
「あまり関わらせたくないのかもね」
「何に」
「そういう、得体の知れない代物に、よ」
言って甘菜が顎で指したのは、陣太郎の脇に置いてある竹刀ケースである。
無論、中に収められた鬼目一“蜈蚣”を指しての事だ。
「……でもさ、だからって詳しい内容話してくれてもいいと思わないか? 俺、もう巻き込まれてるし」
「その辺はわからないけど……あ、じゃあ、おじさん達がアメリカに“祟り刀”を受け取りに行った時の詳細も知らないんだ?」
「まあ、な」
「んー、じゃあ、そっから説明しとかないと悪いかな?」
「ジンタロウちゃん、知らない、かったのデスか?」
「うん」
「じゃあ、ワタシ、説明します、させて管さい」
エミリィはそう宣言するや、やおら座り方を正座に直して説明を始めた。
どうやら、積極的に人の輪に入り、会話に参加したがる口であるらしい。
説明は聞き取りにくい日本語と相まってすこしわかりにくかったが、所々で甘菜の注釈が入り、なんとか理解できた陣太郎であった。
その内容は以下の通りである。
ある時、アメリカにあるエミリィの家の納屋で、奇妙なものが見つかった。
彼女の家の歴史は古く、また裕福な家である為か管理の行き届いていない先祖伝来の品が数多くあるらしい。
見つかった品は厳重に布で巻かれた二振りの日本刀であり、巻かれた布にメモが書き込まれていた。
メモは拙い文字で、“これはインディアンの魔神を封じた呪いの剣であるから、絶対に抜かない事。特に長い方は絶対に抜いてはならない”と書かれていたとの事。
見つけたのは、使わなくなったブーツを仕舞う為の靴箱を探していたエミリィだ。
幸運にも、彼女は好奇心に駆られ巻かれていた布を解きはしたものの、中から出て来た刀の内、“長い方”から得体の知れないおぞましさを感じ取り、抜く所か手に取るような真似はしなかったのではあるが。
しかし布の中から刀と共に出て来た、今度は紙に書かれたメモを読み慌てて二振りの刀を納屋の奥にしまい込んだ後日、次々と彼女の家に“不運”が訪れ始めたのである。
「その日から、“不運”はツギツギと、怒りま下。ダ……父、事故に巻き込マレ、入院しま下し、母が経営して板、幾つかの会社の取引銀行ガ破綻下ので、資金繰りに行き詰マリ、危機に陥ったノデス」
「……きついな、それ」
「はい……。他にも色々と。経営していた牧場ノ牛が大量にシんだり、愛犬が死んダリ。幸い、母の経営する会社はホカにも多くアルの出、生活に困りはシマ戦が、流石にこう続くと……」
「で、心当たりがあったエミリィ……ちゃんはダメもとで、刀の事を大学教授の叔父さんと相談したってわけね?」
「ソウ、です。そして、ヤッテ北、ミスタ・ウスキに“長い方”のカタナ、渡しま下」
「……なあ、エミリィちゃん。なんで両方じゃなくて、長い方だけ渡したの?」
「そレは……」
陣太郎の何気ない問いに、エミリィはうっと俯いて言葉を濁した。
あまり触れて欲しくはない部分らしい。
その理由を話す決断に至るまで、約一分。
その間無言で続きを待つ陣太郎と甘菜の前で、エミリィは意を決したように顔を上げ、言葉を続けたのである。
「実は、ワタシ、二本のニンジャに憧れて今して」
「うぇあ?」
「ほえ?」
「カタナ、二本あるでしょう? で、嫌な感覚に陥るの、注意書きにアッタ“長い方”だけでしたし」
「まさか……」
「アメリカじゃ、“ホンモノ”なんて滅多に手に入ラ内し、ダディも危な以下らと、買ってくれ中ったし、ソノ……」
「自分のモノにシチャッタんだ?」
「はぃ……」
消え入りそうな声で返事をしてシュン、としてしまうエミリィ。
呆気にとられたのは陣太郎と甘菜である。
エミリィの説明の内容からして、二本ともいわく付きの品である。
刀身が長く、絶対に抜かない事とされていたのは鬼目一“蜈蚣”の事であろうが、だからといってもう一振りの方が何も関係が無いとは普通思わないだろう。
特に家に不運が次々とふりかかり、その原因をおぞましさを感じる古い刀に見ていたならば尚更である。
にも関わらずエミリィは――
「その……その時はほんと、欲しかったんデス」
「……そ、そう。まあ、とりあえず、その辺は置いときましょうか。それで?」
「いいのか? そこ、スルーしていいのか?」
「するしかないでしょ。今エミリィ、ちゃんにツッコミ入れてどうすんのよ」
「うう、ごめん、ナサイ、ジンタロウちゃん。キライになった?」
「い、いやそういうんじゃなくて! あは、はは……流石、ストレートだな、エミリィちゃんは」
「? ナニが、まっすぐ、なんデスか?」
「……気にしないで、エミリィ、ちゃん。それよりも、話続けて? その、家に残した方のこの刀、やっぱり“変”だったんでしょ?」
「ハイ……。えっと、ミスタ・ウスキが“長い方”を持って二本に返って、二日後くらいデス。ワタシ、その、この剣を抜いたのですが……」
「で、ゴーストが出るようになった、と」
「ハイ……。ゴーストは、YURIと名乗り、そしてこの剣もYURIという名ダと、教えて暮れ増し田」
エミリィの説明に、陣太郎と甘菜は顔を見合わせた。
ユリ、という和装の女性に覚えがあったからである。
恐らくは陣太郎が幾度か会った、鬼目一“蜈蚣”を陣十郎という臼木家の男に与え、契った天之麻の姫の名であろう。
「カノジョが現れ始めたのは、今年の夏ゴロからデス。毎夜、ワタシの枕元に立ち良い増した。“早く、YURIを二本に送るように”と。さもないと、魔神が蘇る、と」
「魔神? あ、さっき行ってたインディアンの魔神ってやつか?」
「みたいね。このメモ書きにも、書かれてるし」
「あ、そういや甘、お前それ見て興奮してたよな」
「当たり前よ。なんたって、陣ちゃんのご先祖様がどうやって鬼目一“蜈蚣”の祟りから逃れたか書かれていたもの」
「まじで?!」
衝撃的な発言である。
陣太郎は思わず立ち上がり、甘菜に詰め寄った。
無理も無い。
あの、恐ろしい“祟り刀”の神威から解放される術が書かれていたと言うのだ。
知らず力が篭もり、つい掴んでいた幼馴染みの肩は小さく、また薄絹の内は何も身に付けて居ないせいかやけに生暖かく感じる。
ちょ、やぁ、やめなって! と抗議の声を上げる甘菜などお構いなしに、陣太郎はそのまま、本当に祟りを祓えるのか?! と甘菜に詰めよりながら体を揺すり続けたのだが。
次の瞬間、ゴン、と鈍い音と共に甘菜の肘が陣太郎の顎にヒットして引きはがされてしまうのである。
思いがけぬ衝撃に後へ倒れ込む陣太郎と、はだけかけた胸元を押さえ、耳まで赤くした甘菜をエミリィは驚いた表情で見ていた。
「お、落ち着きなって言ってるでしょうが! 私、この下何も着てないのよ?! そんな揺らしたら着崩れて見えちゃうじゃないの、このエロ太郎!」
「いっ、痛ぅ……、す、すまん、甘……」
「もう、信じらんない!」
「Oh! ミス・アマナ! ユー、あなた? むー、あ、そう、アマナちゃん! アマナちゃん、ジンタロウちゃんと仲良し? これが“ツンデレ”という奴デスね?」
何かを勘違いした、あるいは核心に触れたエミリィは目を輝かせ甘菜にそう言い放った。
先程のニンジャの件と言い、どうやら“そういった”日本の文化を好む人物であるらしい。
甘菜はエミリィの指摘に更に顔を赤らめながら、ちがいます! と強く否定して襟を直しその場で姿勢を正した。
一方、陣太郎の方も元いた場所へ戻り、再び正座をしてバツが悪そうにうつむくのである。
そのまま、気まずい沈黙が五分程続いた後。
わざとらしい咳払いと共に話を再開させたのは、甘菜の方であった。
「と、とりあえず。陣ちゃんの“ソレ”をどうにかする方の話は置いといて、エミリィちゃんの話が先よ。それで? この“百合”をただ持って来ただけじゃ、ないよね?」
「ハイ。その、YURIが言うには、魔神は幾つカノ、満月を越えて読みガエルと毎夜出て来ては訴えルのデス」
「それで耐えきれなくなって、日本に?」
「ハイ。ダディには正直に話して、怒られましたが……お陰で二本に来て、アキハバラ、行く事がデキま下」
エミリィは言って、ペロンと下を出し悪戯っぽく笑う。
どうやらここへ来るまでに、東京の秋葉原に寄って遊んでいたらしい。
なんとも緊張感の無い話である。
甘菜はなかば呆れながらも、手にしていたメモを置き、ジュラルミン製のケースに収まった“百合”を手に取った。
瞬間。
「アウチ!」
「うわ! あ、甘?!」
例えるならば、つむじ風。
“百合”を手にした甘菜が突如、陣太郎に飛びかかり押し倒すや馬乗りになっていたのだった。
下から見上げる優しい膨らみの向こう、甘菜の表情は見たことも無い程冷たくしかし無表情で、左手に鞘を、右手は“百合”の柄が握られている。
それから、白衣の袖がめくり上がり露わになっていた肘から先、両の腕が僅かに盛り上がり、抜刀しようとしているのだと感じた刹那。
再び甘菜はつむじ風のように陣太郎の体から飛び退いて、獣のように四肢で床に降り立ち、忌々しげに唸ったのである。
「あ……甘?! お前……いや、“お前”は何だ?!」
「ぐ、ぐぐ、ぐぅ!」
「アマナちゃん?!」
明らかにおかしい。
“祟り刀”を初めて抜いてより、一年以上神威と向き合ってきた陣太郎は、即座に甘菜が“何者か”に憑かれてしまったのだと判断して、傍らの鬼目一“蜈蚣”を素早く取り出し躊躇無く抜こうとした。
――しかし。
あの、おぞましい神威の塊である筈の、天之麻の姫を守る憎悪の塊である筈の“祟り刀”は、ビクともしない。
予想外の事態に陣太郎は焦りを募らせ、強く歯の根を噛みながらケダモノのように四つん這いになって唸る甘菜を睨む。
「くそ、どうなってんだ?! 甘! おい、甘! しっかりしろ!」
「う、ぐ――、うううう、ココ、デハムリ――、セイチニ――」
「おい、甘!」
言葉は、甘菜が取り戻した理性によるものか、それとも甘菜の中に入り込んだ何者かの物であるのか。
確かなのは、疑問を残したまま甘菜は人の域を遥かに越えた跳躍力でもって広い拝殿の中を跳び、そのまま空中に履き消えてしまったのである。
そして静寂が天之麻神社に戻る。
ただ、先程とは違い、“百合”という刀と天之麻神社の巫女の姿は何処にも無かった。
代わりに、“祟り刀”に魅入られた少年の肩に重い無力感がのしかかり、押し潰して行く。
「甘菜……一体、何が……俺……」
問いに答えられる者は既に居ない。
隣で突然の出来事に目を丸くしているエミリィも、事態をある程度飲み込めているのか陣太郎に語りかける事が出来ずに居た。
それからしばらくは言葉も無く、ただ拝殿で座り込んでいた二人であったが。
ふと気が付くと、なにかのうめき声が聞こえて来る事にエミリィは気がついた。
声は、隣から。
蹲り、強く拳を握る陣太郎から発せられているようである。
それがすすり泣く声だと気が付くのにさほど時は掛からず、エミリィはどうした物かと考えた後、優しくその背を撫でてやる事にした。
――情けない。
最初に湧いたのは、自身に対する怒りである。
今まで、何度も、何度も守り続けて来た相手を、こうもアッサリと奪われたのだ。
そこで初めて、己の底で燻っていた驕りや根拠の無い自信に気が付き、自身への憎悪に変わる。
――情けない。
次いで湧いた物は、無力感。
宙に消えた甘菜が何処へ行ったのか、何故あのようになったのか、そもそも甘菜に憑いたものは何なのか全く見当が付かなかった。
どう調べれば良いのか。
何処を探せば良いのか。
何を知れば良いのか。
今まではそれらをすべて甘菜がしてくれていた。
凹んだ時も、迷った時も、狼狽えた時も、すべてあの気立ての良い、美しい幼馴染みが道を示して暮れていたのである。
――情けない。
対して、自分は何をしていたか。
修行に精を出すわけでは無く、神威の事を詳しく知ろうとしていたわけでは無く。
否、果たして自分はこんな事態になった時の事を考えていたのであろうか。
彼女を失う恐怖はあれど、それは別の、甘い男女の関係になる可能性が失う事を怖れての物で、もっと切実に考えていたのだろうか。
――情けない。
無力感の中、湧き出てきたのは後悔と涙である。
もっと、祖父の修行を真面目にしていれば良かった。
もっと、神威について勉強をしていれば良かった。
もっと、甘菜と話をして、仲良くしていれば良かった。
せめて、甘菜で無く自分が“百合”に触れていたら。
せめて、鬼目一“蜈蚣”を抜く事ができたなら。
せめて――
――せめて、もっと以前に曖昧な心を固めて、打ち明けていれば。
無数の後悔は陣太郎に嗚咽すらもたらし、それから背に暖かい物が触れる。
すぐにそれがエミリィの手の平だと悟った陣太郎は、恥ずかしさと情けなさから更に涙と嗚咽を漏らした。
そのまま小一時間程経った頃か。
甘菜の父・悟郎が天之麻神社に帰ってきたのは、すっかり日も暮れた後であった。




