橋姫・後編
「うう、シャレになんないよ」
呻くように言って、甘菜は頭を抱えた。
冬服に衣替えしたばかりの制服の、スカートから延びるすらりとした白い脚には、いくつか絆創膏が貼られている。
いや、脚だけでなく机の上で頭を抱えた手の甲と指にも数枚貼られており、生々しく血が滲んでいるのが見えた。
時刻は昼休み、美術部の部室兼美術準備室の片隅。
昼食も食べ終わらない内、突如やってきた甘菜は火急に話があると半ば強引に陣太郎を教室から連れ出し、向かった先である。
話は二人が抱える“祟り”についてであり、当然というか必然、陣太郎と二人きりであった。
「ほんと、陣ちゃん、昨日遭った“橋姫”に私の事話してないんだよね?」
「うん……ってか、俺、ビビってて会話らしい会話なんAて出来なかったし」
「うっわ、最悪」
「わ、悪かったなビビリで! 大体、“あんなの”間近に見たら足も竦むって」
「そう言う意味じゃ無いよ。最悪なのは、嫉妬深い“橋姫”」
陣太郎が“橋姫”と遭い恋文を貰った、次の日であった。
その日、甘菜は大なり小なりに様々な“不運”に見舞われて、そこかしこに生傷をこさえていたのだ。
例えば、朝自転車に跨がり漕ぎ始めにいきなりチェーンが外れ、空回りしたペダルにしこたま脛を打ち付けてしまったり。
例えば、じんじんと痛む脛を我慢しながらの通学路、田畑ばかりの見通しの良い十字路で突っ込んできた軽トラックと、あわやという所ですれ違い、避けた反動でこけてしまったり。
例えば、散々な目に遭いつつもやっと学校にたどり着くや否や、どこからともなくサッカーボールが飛んで来て頭に直撃してしまったり。
例えば、例えば、例えば。
「ボールは朝練に励んでたサッカー部のものだったんだけどね。お陰で頭がクラクラしちゃって、一限目は保健室で寝てたし」
「……偶然、じゃあないよなあ」
「当たり前でしょ。十中八九、“橋姫”の嫉妬から来る神威が起こした“祟り”よ。まあ、この程度で済んでる所を見ると、“橋姫”は荒魂にはなっては居ないようだけど」
「じゃ、最悪って程じゃないんじゃないか?」
「バカ。何時、どんな拍子で“橋姫”が荒魂になるかわかった物じゃ無いでしょうが。あ、それとも陣ちゃんは私が祟り殺されちゃったほうがいいんだ?」
「そ、そんなことあるか!」
「え~、あやしいなぁ? そうよ、きっとそうなんだよ。陣太郎さんは古女房の私を捨てて、見た目麗しい“橋姫”に乗り換えるつもりなのよ。だから、邪魔になった私の事なんてどうでもいいって思って居るんだわ」
甘菜はそう言って、少し大仰によよよと泣き崩れた。
勿論、陣太郎をからかっての事である。
先程までの様子から中々差し迫った状況であると思っていた陣太郎ではあったが、考えていたよりも結構余裕があるではないかと安堵を覚えた。
それから、甘菜が最近ご無沙汰であった恋人設定での冗談を口にした事に気がついて、なんとなくその冗談に乗ってみようという心地になる陣太郎だった。
しかし、その行為は思わぬ結果をもたらす事になる。
「――そんなこと、無いだろ。俺はずっと甘一筋だし」
「うぇ?! あ、え? ――え?」
甘菜の反応は予想外なもの。
陣太郎はてっきり、『ううん、きっとそうなんだわ!』と食い下がって来るものと考えていただけに、初々しくも半ば本気で狼狽える甘菜の姿は不意打ちに心を揺さぶった。
「……んだよ、冗談位でそこまで引かなくてもいいだろ?」
「え? あ、うん、冗談だよね? わー、ビックリした……。陣ちゃん、真顔で言うんだもの、焦ちゃうじゃない」
「焦ったってなんだよ。お前だって真顔で偶にひでぇ事言うし」
「陣ちゃんのは違うって。なんかこう、後がない感じだったし?」
「んなわけあるか」
あまりにあまりな甘菜の言いように、陣太郎は思わずむくれてしまう。
一方、甘菜はそんな陣太郎にどこか安堵したかのように、えへへとはにかんだ笑みを向けた。
その、花のような笑顔は陣太郎の心を更に激しくざわつかせ、咳払いとなって外に出る。
なんとももどかしく、言いようのない空気が美術準備室に満ちた。
そんな空気にいたたまれなくなったのはやはり陣太郎で、曖昧な気持ちをハッキリさせる事から逃げるように、話題を元に戻すのであった。
「……そんなことより、“橋姫”はどうすんだ?」
「ん~、どうしよう。神威と違って祓うわけにもいかないし」
「そうなの?」
「当たり前よ。相手は正真正銘、神様なんだし。顕現した神威ですら手に余る人間に、太刀打ちできるわけないじゃない」
「だからって――」
「そこなのよねぇ、だからって、このまま放置すうるわけにもいかないし」
ため息とともにそう言って、甘菜は頭を抱え込んでしまった。
どうも、いつもと勝手が違うらしい。
それもそのはずで、鬼目一“蜈蚣”を始め神々が力の一端を顕現させる神威を相手にする事が多かった彼女であったが、神その物を相手にするなどこれまで無かった。
付喪神のように長い年月をかけて宿る神威と神の境界がはっきりしない存在ならばいざ知らず、“橋姫”は人柱を経て明確に神となった存在だ。
そもそも、祈祷やお祓いなどは神に『お願い』するのであって、命令したり力で脅したりするようなものではない。
従って神と対峙するにあたり、人の身で出来うる事などたかがしれていると言えよう。
たとえそれが人々に害成す荒ぶる神であっても、だ。
「ううむ……いや、でもなあ」
「甘?」
「むぅ、でもやっぱり背に腹はかえられない、か……」
「なんの事だよ?」
「あのね、一つ、方法は思い当たるんだけど……」
「おお! 良い方法あるの?!」
「良い方法ってか、それしかないってか……うーん、すこし躊躇う、かなあ?」
「……危ない?」
「神威と対峙するのに、いままで危なくなかった事、あった?」
「……なかったよ、ちくしょう」
「ま、今回は私を見捨てれば陣ちゃん的には被害は起きないと思うけど」
そう甘菜は言って、先程とは違い表情に影を落としながら引きつった笑みを浮かべ、へ、へへ、と自虐的に笑った。
勿論、陣太郎には甘菜を見捨てるような選択をする事など出来ないだろう。
必然、答えは決まっており、やがて陣太郎は甘菜に“橋姫”に対してどう対処すべきか教えを請うのであった。
だが甘菜が提示した方法は意外なものであり、甚だ陣太郎を困惑させてしまう。
内容は陣太郎が何度も「本当にそれでいいのか?」と確認し、首をかしげるような物であったからだ。
やがて陣太郎が一応の納得を示した時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
二人は慌てて美術準備室を後にしたのだったが、その際甘菜は無造作に置かれた机の脚に脚を引っかけて無様に転倒してしまった。
勉学のみならず、運動神経も優秀な普段の甘菜からは決して想像もつかない姿だ。
転倒は派手に転げるもので、生地の厚い、冬用のセーラー服のスカートではあったが、あられも無くめくり上がって、愛らしいピンクの下着が丸出しとなり陣太郎の視線を捕らえて離さない。
陣太郎にしてみれば眼福であったろうが、甘菜にしてみれば強い羞恥と屈辱しか得られぬ転倒だ。
これも“橋姫”の祟りであろうか。
甘菜は急いで立ち上がると、一瞬陣太郎を強く睨みつけ、しかし無言でそのまま走り去ってゆく。
一人残された陣太郎は、暗に「見たな?!」「後でコロス!」と脅してきた甘菜の表情を反芻し、一刻も早く“橋姫”をなんとかせねばと決意を固めていた。
それから、甘菜に教えて貰った“対処方法”に想いを馳せ、暗澹とした表情を浮かべてしまうのである。
ちなみに、陣太郎は午後の授業に間に合わず、ひどく教諭に説教をされる事となったのだが。
こちらは鬼目一“蜈蚣”の祟りなのであろうが、先程見たものがものだけに、さして気にならなかった陣太郎であった。
◆
――夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の
知らえぬ恋は 苦しきものそ――
夏の野の草の繁みに咲いている姫百合の花は、人に知られる事は無いのです。
そんな姫百合のように、心に秘めた恋はなんと苦しいものでしょう。
“橋姫”が陣太郎に宛てた恋文にしたためられていた和歌の内容である。
姫百合のヒメと“橋姫”のヒメを、「秘める」とかけているのであろう。
なんとも瑞々しく、弾むような乙女の恋心を詠った和歌であるが、その日の夕刻は対照的に風が強くどんよりとした空がやけに重くのしかかってきた。
「……雨、ふりそうだね」
「う、うん。季節外れの台風が近付いてきているからその影響なんだろう、ね?」
「台風?」
「えっと、強い風が吹いて雨が沢山降る嵐の事。上陸は明日の夜って話みたいだった」
「……ああ、野分の事ね」
「へぇ、のわきとも言うんだ、ね」
「わたし、野分は嫌いよ。何もかも、流してしまうもの」
言って、女は隣に座る陣太郎の肩に頭を預け、もたれかかった。
直ぐ側に見える女の髪からは、甘い花のような香りが立ち上ってきて陣太郎の鼻腔をくすぐる。
いや、香りは髪ではなく、女の体全体から香っているのかもしれない。
二人がいるのは欄干もない世良橋の中央で、脚を川に投げ出すようにして腰掛けていた。
本来ならば夕暮れは赤く空を染め、一面に広がる稲穂とあいまって美しい景色がみえていただろう。
しかし今は黒く厚い雲が空を覆って奔っている為、そのようなロマンチックな光景は望めるべくも無い。
時は甘菜に祟りが顕現し始めてから、四日目での事だ。
その間陣太郎は甘菜の提案通りあししげく世良橋へと通い、女――“橋姫”と親睦を深めていたのである。
ちなみに下着を見られ怒りが収まらないのか、あれ以来甘菜は陣太郎と一言も口を訊こうとはしない。
だが、甘菜が提示した“対処方法”は、至極単純なもので物覚えが悪い陣太郎が改めて確認を要するものでもなかった。
つまりは、陣太郎が“橋姫”と仲良くなり、とりあえず和魂の状態を維持してもらいつつ、甘菜への祟りを鎮めようという内容であったのだ。
陣太郎にしてみればその後どうするかなど気にかかる要素はいくつか思い浮かんでいたが、さしあたっては甘菜に降りかかる神威を鎮める事が最優先であるとも理解していた。
“橋姫”にどのような対応を行って陣太郎を諦めてもらうかは、仲良くなった後にじっくり調べれば良い、というのが甘菜が考えた“対処方法”である。
果たして“橋姫”は陣太郎が世良橋に訪れる度にどこからともなく姿を現し、短い時間ながらも他愛も無い会話を交わすようになる。
最初こそおっかなびっくりで接していた陣太郎であったが、相手が元々好意をもって接してきていた事もあり、打ち解けるにはさほど時間は掛からなかった。
いや、それどころか文字通り神々しいまでの美貌は、思春期の少年の心を徐々に魅了して行き、気が付けば会話を楽しむ程、陣太郎は“橋姫”に対して心を開いていたのである。
「静かね」
「うん。こういうのって嵐の前の静けさって言うのかな」
「ふふ、そうなのかも。いつも飛んでる秋茜が今日はみかけないものね」
「あきあかね?」
「ほら、赤い蜻蛉の事」
「う……ごめん。アキツとかアキアカネって、何?」
「もう。いつもこの辺りに飛んでいる、赤いカゲロウの事よ」
「カゲ……ああ! 赤トンボの事か!」
「赤とんぼ?」
「うん、俺はそう呼んでるんだ」
「まぁ。“今”はそう呼ぶのね」
どうも要領を得ないような会話であったが、“橋姫”は楽しげに笑みを浮かべた。
唯一ハッキリとしていた事は、互いに相手の正体や身の上を深く詮索しないという暗黙のルールである。
これは事前に甘菜が『鶴の恩返し』や『雪女』などを例に挙げ、陣太郎に注意するよう言い含めての事もあった。
古来、人と交わりたがる神というものは、えてして己の正体を知られる事を嫌うものである。
この“橋姫”もそうであるようで、初めて遭った時のような凶悪な神威の気配はそこには無い。
彼女なりにより陣太郎と親しくなれるよう、工夫しているのであろう。
コロコロと上品に笑う笑顔は、つい見とれてしまうほど美しく、相手の正体を知らなければ確実に恋に落ちてしまっていただろうと陣太郎に思わせるに足るものだ。
「でもさ、アキツとか言われても、ちょっとトンボのイメージ湧かないよ」
「そう? 蜻蛉って、秋津州(あきづしま・日本列島の意)の元にもなった程の名だし、わたしはこっちの呼び名が好き、かな」
「……あの、ごめん。その、あきずしまって……」
「ふふ、この国の呼び名よ。あなた、古い言葉はどうにも苦手のようね」
「はは、まあ……」
「でも、わたしも同じ。新しい言葉はどうも、受け付けないみたい」
“橋姫”は世良橋の外に投げ出した脚をぶらつかせながら、少し寂しそうにそう言って、持たれかかっていた陣太郎から離れ黙り込んでしまった。
会話は楽しかったが、その内容は差し障りないものばかり。
故にか、どうにも持続しない。
陣太郎は兎も角、“橋姫”にとってはそこがもどかしいのかもしれない。
もっと話したい、という気持ちは伝わってはくるものの、こうした沈黙で時間を浪費する事はままあった。
夏とは違い、あれほど明るかった周囲は僅かな時間の間に暗くなりはじめている。
――そろそろ帰らないと。
陣太郎はそう判断を下しながら立ち上がって、いつものように止めていた自転車に立てかけていた、重い竹刀ケースを担ぎ上げた。
最近は楽しくなってきた“橋姫”との会話であったが、切り上げて帰路につくには頃合いである。
しかしこの日はいつもと違い、帰路につこうとする陣太郎を引き留めるように“橋姫”は意外な言葉を紡いだ。
「……それ、重くない?」
「ん?」
「それ」
白くしなやかな指で優雅に差したのは、鬼目一“蜈蚣”が収められた竹刀ケースである。
「……重いっちゃ、重い、かな」
「わたしが“なんとか”してあげようか?」
明らかに重量の大小を言っているわけではない。
陣太郎もその意図を正確に読み取って、目を開き跨がりかけていた自転車から身を離した。
あまりに唐突で、思いがけぬ展開に気が回らなくなっていたのだろう。
ハンドルから手を離した拍子に自転車はガシャンと音を立てて倒れてしまい、折角買い出しで購入した品の数々が、前籠から袋ごと投げ出されてしまった。
「で、できるの?! 本当に“これ”をなんとかできるの?!」
「多分、ね。“それ”、恐ろしい程強い念を感じるけれど、長い時が経ってるから弱っているみたいだし。それになにかおかしなものも纏わり付いてるから、そう苦労はしないと思う」
「おかしなもの?」
「うまく言えない。ごめんね」
「い、いやいやいや! あやまらなくてもいいよ! これを何とかして貰えるだけで十分だよ!」
満面に笑みを浮かべて“橋姫”に詰め寄る陣太郎。
そんな彼に“橋姫”はやはり、優しげに、愛おしげに笑う。
笑顔は恐ろしい神威を放つ神のイメージとは対極のものだ。
結局陣太郎は“橋姫”に二つ返事で申し出を受け、急いで荷物を自転車の籠に放り込み、その日は彼女と別れたのである。
そして次の日。
かねてより接近していた台風の影響もあってか、学校は臨時休校となった。
思わぬ休暇に陣太郎は大いに喜んだが、やがて外は強い雨と風が吹き荒れ出し、外出などままならぬ状況へと変わった為、結局は退屈な一日となる。
そんな、勉強をするでもなくぼんやりとゲームをしたり携帯電話を弄ったりして自堕落な一日を過ごしていた陣太郎の元に、ここの所口も訊いてくれなくなっていた甘菜からメールが届いた。
夜の十二時を回った頃である。
その時刻は丁度台風が某市の真上を通過中であり、危うく着信音を聞き逃してしまいそうな程、激しく音を立てて雨と風が窓を叩いていた。
メールの内容は謝罪ではなく、かといって謝罪を求めるものでもなく、ただ一言。
件名:なし
本文:ちょっと、こっちにこれる?
という、素っ気ないものであった。
――まったく、あいつ何考えてんだ?
陣太郎は窓の外、季節外れの嵐を眺めながらも不機嫌に愚痴を吐く。
しかし、裏を返せば幼馴染みからの常識外れな要求に応えるつもりであるが故に、愚痴が口をついたとも言えよう。
程なく、陣太郎は傘を用意して激しい風雨の中、すぐ隣りの天之麻神社へと向かった。
いつもならば歩いて数分、走って数十秒の距離にある幼馴染みの家ではあるが、台風の雨はその僅かな時間で陣太郎を濡れ鼠にしてしまう。
果たして傘を破壊され、ズブ濡れになった事を除けば無事に天之麻の家にたどり着いた陣太郎は、流石に風雨が降り注ぐ外では無く、玄関の中に勝手に入り込みワガママな幼馴染みの名を呼んだのである。
「おーい、甘? 勝手に玄関に入らせてもらったぞ。外はすっげえ雨だからな」
返事は無い。
外の激しい風雨の為、聞こえていないのだろうか?
陣太郎はもう一度同じ台詞を、今度は声を大きくして言った。
だが、やはり甘菜が出迎えてくる気配はない。
「おーい、甘! 聞こえないのか? できたらタオル、貸して欲しいんだけど! きこえるー?!」
やっぱり、返事は無い。
困ったのは陣太郎である。
常識的に考えるならば、勝手に上がり込むよりもこのまま帰った方が無難であろう。
しかし考えてもみれば、現在甘菜はほぼ一人暮らしだ。
いや、父親はいるには居るが、あまり家に寄り付いておらず、その事は陣太郎も知っている。
それに、先程のメール。
――もしかしたら、なにかトラブルが起きているのかも知れない。
陣太郎はそう考えて、急にそのまま帰る事に不安を覚えた。
それからしばし悩んだ末、結局勝手に上がり込む事にした陣太郎が見た物は、台所でうつ伏せに倒れた甘菜の姿であった。
「甘!」
思わず叫びながら駆け寄る陣太郎。
抱き起こした幼馴染みの体は軽く、寝間着姿ではあったが外傷は見当たらない。
その手には彼女愛用のスマートフォンが握られていたが、抱き起こした拍子に力無く手から滑り落ちて、ゴトリと音を立て床に転がった。
どうやら先程のメールは最後の力を振り絞って送ってきたらしい。
それならばそうと、何故素直に助けを求める内容にしないのか。
陣太郎はどこか強情でいじっぱりな甘菜に怒りを覚えつつも、とりあえずはそれらを脇に置いて、心配げに声を掛け続けたのである。
「甘! おい、しっかりしろ!」
「う……、陣、ちゃん?」
「どうした!? 具合でも悪いのか?!」
言いながら、甘菜の額に手を当て、それから首筋にも手の平を当てる。
乙女の柔肌から伝わってくるのは、驚くほど熱い感触であった。
「凄い熱じゃねえか! 医者に行ったのか?!」
「ううん、行って、無い」
「なんで!」
「……これ、たぶ……ん、神……威、だから」
甘菜の途切れがちな台詞に、陣太郎は愕然としてしまった。
日頃頭が回らない彼であったが、この時ばかりはその一言で全ての状況が飲み込めたからである。
思い当たるのは、“橋姫”の事。
思い起こされるのは、あの台詞。
――わたしが“なんとか”してあげようか?
あれは“こういう事”であったのだ。
鬼目一“蜈蚣”の神威は、元を辿れば天之麻の姫に固執する鬼の情念に行き着く。
なれば、その情念を断ち切れば祟りは消え去るだろう。
ではその情念を生み出す元となる存在は何か。
それこそが天之麻の姫であり、陣太郎の場合は甘菜であった。
「くそ、甘! しっかりしろ! お前、そうなったのは何時からだ?!」
「う、え、と……今日、の、お昼前、くらいからか、な」
「なんでもっと早くいわねぇんだよ!」
「最初は、風邪だと……思ってたの、よ」
苦しそうに息を吐き、質問に答える甘菜。
陣太郎は慌てながらも甘菜を抱きかかえ、急いで彼女の部屋に向かった。
部屋は幼い頃頻繁に訪れていた頃と比べ随分と様変わりしていたが、感慨にふける間も無く、甘菜をベッドに横たえさせる。
それから、部屋を飛び出した陣太郎は甘菜を看病するでも無く、そのまま天之麻の家を飛び出したのであった。
外は季節外れの激しい雨と風が絶え間なく吹き荒れ、鍛えている陣太郎ですらふらつかせる。
しかし陣太郎は意に介さずそのまま一端自宅へ戻り、いつも乗っている自転車に跨がるや躊躇無く嵐の中ペダルを漕ぎ始めたのであった。
――ぼやぼやしている暇は無い。
急がねば、甘菜は死ぬ。
想いは強く陣太郎を駆り立てた。
向かう先は勿論世良橋である。
必死で漕ぐ自転車は暴風により時折押し戻しなぎ倒したが、お構いなしに陣太郎はペダルをこぎ続けた。
無論、雨具などは身に付けては居ない。
全身に打ち付けてくる雨は冷たく、また幾度か転んだせいか泥の臭いが鼻に纏わり付いた。
やがて世良橋にたどり着いた陣太郎は、遠目に橋の上に立つ“橋姫”を認めて、竹刀ケースから鬼目一“蜈蚣”を取り出しながら自転車を降り声を張り上げた。
「おい!」
「……まあ。こんな嵐の中、どうしたの?」
「とぼけるな! 今すぐ、甘菜を元に戻せ!」
「……甘菜、という名なのね、あの娘」
「そんなこと、どうでもいいだろ! 早く元に戻すんだ! さもないと――」
「さもないと? どうするの?」
「……斬る」
意外なほどあっさりと出たその台詞は、陣太郎自身をも驚かせる。
嘘や虚勢などでは無い。
その証拠に、手の内にあった妖刀に籠める力は強く、刀身はゆっくりと鞘から抜き放たれた。
同時に、日頃閉じている左目が開く。
開かれた目には瞳孔は無く、代わりに赤い百足が丸く蠢き、陣太郎に憎悪と使命を囁いて来る。
抜き放たれた鬼目一“蜈蚣”は、刃長二尺六寸(約七十九センチメートル)、重ねは厚めで反りは古刀であるらしく浅い。
だがしかし。
剣を向けた相手は、それまでのような神威では無く神そのものであった。
戦って勝てる保証ところか、勝ち目すら端から存在しない。
辺りには何時の間にか強い風雨に混じってあの猛烈な神威の気配が立ちこめており、早くも陣太郎の心を砕かんと恐怖が蝕んできた。
かろうじて食いしばった歯が鳴る事は無かったが、恐怖から来る震えは全身に及び切っ先を揺らす。
そんな陣太郎をみてどう思ってか、“橋姫”は圧倒的な威圧感を放つまま、先日までと同じたおやかな、優しげな声で語りかけてきた。
「……それを望んだのは、貴方よ」
「いや。俺はこの刀からの解放を望みはしたけれど、誰かの死を望んだりはしていない」
「……あの女、邪魔だったもの。丁度よかったじゃない」
「やめろよ」
「わたし、気付いていたのよ? 貴方が、何かにつけてあの娘の事、気に掛けていた事を」
「早く甘菜を元に戻せ」
「……さあ、刀を収めて。大丈夫、飢えた蜈蚣なんかに、貴方を襲わせはしないわ」
「いいから! はやく、甘を元に戻してくれよ!」
刀を青眼に構え、叫ぶ陣太郎。
余裕が全くないためか、“橋姫”に投げかける言葉はすべて我が儘な子供のような、要求のみである。
これでは例え交渉の余地があろうとも、平和裏に事が運ばないだろう。
一方、陣太郎におぞましい刃を向けられた“橋姫”は、それ以上何も語らなかった。
その表情ははっきりと確認できない。
無礼な人間に怒っているのか、それとも嫉妬を更に膨らませているのか。
元々神が人のように表情を作るのかは不明であるが、ある種の感情は在るようだ。
――勝ち目は、無い。
陣太郎がそう確信するほど、神威の気配は更に濃くなり、彼女の心を如実に表して居たのである。
だが、かといってここで逃げ出すわけにも、許しを請うわけにも行かない。
そうしてしまえば、確実にあの愛らしい幼馴染みは命を落としてしまうだろう。
また、足下の世良橋の更に下、流れる世良川は濁って流れも速く、水位は今にもあふれでそうなほど高い。
時を置けば濁流のような川の水は世良橋の上にまで及び、立つ事すらままならなくなる。
時間は無い。
なれば、どうするか。
残された選択肢は前に出る他なかった。
そして両者は動く。
傍目には刃物を構えた陣太郎の方が圧倒的に有利に見えるだろうが、現実は違う。
その猛烈な圧力は、素手で祟り刀をへし折り、いとも容易く陣太郎の四肢をもぎ取るだろうと容易に想像がついた。
「なん、で……」
呻くような、陣太郎の声。
果たして祟り刀の刀身は、“橋姫”の胸を貫いていたのだった。
「どうしようも、なかったの」
「え?」
「貴方を想うと、私の中であの娘への憎悪が膨らんでいって。ふふ、おかしなものね。きっかけは、何気なく橋を通ったあなたを見た時、話し相手が欲しくなった程度だったのに」
「何を――」
「あの和歌を贈ったのも、貴方の関心をただ引くため。でも、どこからか本気になってしまって。気が付いた時にはもう、手遅れだったわ。勿論、それを押さえ込もうと、していたのだけども。すっかり弱っていたわたしの力では、うまく力を、操れなくて」
嵐の中、不思議と女の声はよく聞き取れた。
左右の乳房の間に深くめり込んだ刀身からは血が滴るわけで無く、代わりに赤い百足が何匹もじわりと這い出てくる。
「どうして、なん、でこんな……」
「仕方無いのよ、こうでもしないと、わたしは……穏やかな心を留めておけない、もの。……ううん、一昨日、この刀をどうにかしてあげるって言った時。わたしはもう、荒ぶっていたのかもしれないわね」
「わけがわからねぇよ! なんで、こんな……」
「……助けたいのでしょう? あの娘を」
「そうだけど! でも、こんな事する位なら、祟るのを辞めればいいじゃないか!」
「無理よ。わたしの力は、私自身、もう、制御できなくなっているもの。死期が近い神は皆そうなの、よ」
「なんだよ、それ!」
「わたしには、不思議と、わかるの。自分の死期が。だからこそ、最後くらい、誰か側に居て欲しかったのかも、しれないわね」
そう言って、“橋姫”はあの笑みを浮かべた。
同時にゾロリ、とおぞましい音を立てて赤い百足が胸から噴き出し、彼女の全身を覆う。
しかし“橋姫”はお構いなしにそのまま後へ数歩下がり、ゆっくりと体から刃を抜いて、そのまま増水した世良川へと身を投げた。
最後に「さようなら」と言い残して。
陣太郎はただ呆然と“橋姫”が消えた世良川を眺め、暫くはそこに立ち尽くしていた。
両の目から流れ出る涙は、誰のためか、叩きつけられる豪雨に洗われつつも枯れる事は無かったのである。
後日、台風一過。
甘菜の具合は嘘のように良くなり、二人は日常を取り戻す。
ただ、文化祭の前日での事。
久々に買い出し任務を言い渡された陣太郎は、しばし考えた末、世良川を渡る道をゆくことにしたのだが。
重い気をかかえたままの陣太郎が目の当たりにしたのは、台風による増水ですっかり流されてしまった世良橋であった。
世良橋は所謂『流れ橋』であったが、激しい老朽化が祟ってか肝心要の橋脚すら押し流されてしまったらしい。
結局川を渡れなかった陣太郎は、急いで買い出しを終わらせ学校に戻る必要もあり、様々な未練を残しながらも来た道を引き返す事にした。
そんな世良川に新たなコンクリート製の小さな橋が架けられたのは、年も明けて春になってからである。
しかし、陣太郎の前にあの美しい女性が姿を現す事は二度と無かった。




