天彦
陣太郎と甘菜が通う高校の一年生である須々木潮は、何かと水に縁のある少女であった。
父親は今時珍しい、外航船の航海士。
母親は沖縄の出身で、実家は漁師を営んでいる。
幼い頃より最近までスイミングスクールに通わされてもいたし、雨が降って欲しいと思った次の日は大概は雨が振り、逆に降って欲しくないと思えば降らない事が多かったりもする。
いや、スイミングスクールに通うようになったキッカケは、物心も付かぬ頃、家族で訪れた浜辺で波に攫われ溺れかけた事が原因であるが、これも水に端を発する出来事であると言えよう。
他にも家でには母親が趣味とするアクアリウムの巨大な水槽があるし、何より“潮”という少々男っぽい名は、海に因んで両親から貰ったものである。
そんな、すこし男の子のような名が体を表してか、須々木潮はどこかボーイッシュな印象を抱かせる外見をしていた。
長い睫毛と低い背、僅かに膨らんだ胸がそれを否定する要素であったが、キビキビとした身のこなしと短めの髪、少しあどけない顔が彼女を少年のように見せていたのであろう。
本人もそれに気付いており、所作のそこかしこに女の子らしさを滲ませていたのだが、機敏な身のこなしのお陰でどちらかと言えば小動物的な愛らしさが先に立ち、思うように“女の子”が出来ずに居る事が悩みの種である。
そんな彼女がこの夏に見舞われた奇妙なトラブルは、やはり水に近い場所であった。
「臼木センパイ、絶対嘘をついているよね」
呟いて、ノートに整理した情報を眺める須々木。
数学用のノートには、ゆり、うずめ、しんい、わだつみ、おにのま? ナントカ・ムカデ、じんじゅうろう、等という単語が羅列されていた。
彼女は他に疑問点をきちんとまとめた手帳を持っていたが、流石に授業中に開いて本格的に思考に耽るわけにもいかない。
だからか、手持ちぶさたになるとこうして特に重要そうなキーワードをその場で並べ、なにか共通点が無いかと考える事が最近の日課となっていた。
勿論授業中に他の事を考えられる程、須々木潮は成績が良いわけでは無い。
授業は嫌いな科目である数学で、本来ならばむしろ真剣に教諭の書く黒板と向き合う必要性があるだろう。
が、大多数の生徒にとっては嫌いな授業は“内職”や“思索”にあてられるべき時間であり、ましてや午後の気怠い時間帯。
須々木もまた“そう”であって、意識は黒板では無く、彼女に刻み込まれたとある過去へと向けられていたのだった。
思い出されるのは夏休みも終わり、日も昇りきらぬ朝での事。
所属する演劇部の伝統として行われた合宿に参加した彼女は、生まれて初めて“祟り”を目の当たりにしたのである。
いや、実際には陣太郎の“祟り”に巻き込まれ神威の顕現を支える羽目に陥った、というのが正確な所であるが、きちんと事情を知らされていない彼女にしてみれば抱いていた誤解を真実と錯覚してしまうのも無理からぬ話なのかも知れない。
その、須々木潮が抱いた誤解とは――
「センパイ、一体何と戦っているんだろう」
音にならぬ程小さな声で呟いた独り言は、憧憬と羨望が薄く混じっていた。
須々木潮はとりわけ夢見がちな少女である、というわけではない。
かといって、ある日突然何かしらの非日常的なトラブルに巻き込まれ、物語のヒロインよろしく屈強な男の子に守られる毎日を過ごすようになる、というありきたりな妄想を抱いた事が無いとも言えなかった。
つまり彼女の誤解はある種必然と言え、陣太郎が何かしらナゾの存在と戦い続ける男の子と誤解していたのである。
その裏付けとして見聞きしたのは、彼にまつわる噂話の数々。
曰く、学校一の美人と名高い、天之麻甘菜との“奇妙な”交際の話。
曰く、謎の和装美人が高級車で迎えに来た話。
曰く、生活指導の教諭ですら咎めぬ、あの刀が収められた、いつも持ち歩いている竹刀ケースの真相。
「んー、やっぱり、天之麻センパイが鍵、なのかな」
授業中の為、台詞は唇でなぞっただけで、本人の耳にも届かない。
代わりにカカカ、と心地よく音を立てて動いたシャープペンシルは、ノートに『重要人物・天之麻センパイ』と書き加えていた。
奇天烈な誤解を抱いていた須々木であったが、先日の怪異の正体を求めるに、『臼木陣太郎の噂話には全て天之麻甘菜がなんらかの形で関わっており、彼女こそが真相に深く関わる者ではないか』という推理を立てて、偶然にも真実に近付いていたのである。
加えて、部活の朝練が終わった後、事の真相を問い詰めようと臼木陣太郎の登校を待った、始業式の朝。
やはり一緒に登校してきていた天之麻甘菜によって、いいようにはぐらかされ(間近で見る“本物の美人”の迫力に気後れしたのもあるが)、それがかえって彼女の推理に真実味を与えていたのだ。
――大体、言い訳が苦しすぎるのよねぇ。
『妙な心霊現象だったよね-、俺もスズキさんも取り憑かれてたみたいだし! もしかしたら俺達、妙な霊に目をつけられているのかも! 臼木家伝来のお祓い方法あるから、協力してくれない?』とか、バカにしてるって。
あの妙な、のっぺらぼうみたいなモノや和服の女の人の説明もしてくれなかったし。
まあ、問い詰めようにも美術部の部長さんが臼木センパイをボコってたから、それどころじゃなかったんだけど。
……天之麻センパイもあれよね。
『ごめんねー、巻き込んじゃったみたいで。こいつ、昔から色々取り憑かれる所あってさ、“うち”で面倒みてるのよ。スズキさん、だっけ? もし変な心霊現象に遭うようになったら、遠慮無く相談してね』って、辻褄あわせちゃってさ。
優しい台詞とは裏腹に、目が笑ってないもん。
あれ、余計な事は聞くな、詮索するなって目だよね。
うう、どうしよ。
わたし、あからさまに避けられてるし。
なんとか、ちゃんと話して貰える方法って、無いかなあ。
……いや、いやいや、そりゃ、ね?
わたしの推理が正しいとして、臼木センパイや天之麻センパイにどーこーして欲しいってワケじゃあないんだけど。
一緒に戦いたいとか、そーゆーんじゃないけどさ。
でも、ほら。
得体の知れないモノと戦う高校生って、マジだったらスゴイし。
そーゆーの、関わるだけで絶対いい経験になると思うし、演技にも繋がるンだよね。
この前の“アレ”だって、死ぬかと思ったけど結果後日に仕切り直した試験で無事一年生の出演枠をゲットできたんだし?
……うん、けっして、興味本位で調べてるんじゃないんだよ。
わたしはただ、本当の事を知りたいってだけで。
ついでに、仲良くなって、面白い話もきけたらなーって考えてるけれど、ね。
愚痴と誰かに対する言い訳混じりに回想した須々木潮は、最後に天之麻甘菜と対峙した折に見たとても綺麗で、しかし威圧的に“踏み込むな”と訴える目を思い出し、身震いを一つしてしまう。
同時に授業の終わりを示す予鈴が鳴り響き、須々木を現実へと引き戻した。
それからもいくつかのカリキュラムが続き、これらの授業はキチンと受けた須々木は、やがて放課後を向かえる。
もっとも、放課後からこそが須々木にとっては緊張感が連続する時間で、ホームルームもそこそこに入部以来一度も休まずに勤しんでいる部活に没頭し、その後再び陣太郎との一件に思索を巡らせたのは、帰宅してからであった。
「ただいまー、ガー君。元気にしてた?」
自宅の父親の部屋にデンと置かれた、巨大なアクアリウムの水槽に話しかける須々木潮。
母親自慢の畳一枚ほどもある水槽の中には、一匹のガーパイクという大きな熱帯魚が悠然と泳いでいた。
ガーパイクとはワニの様に付きだした口と鋭い歯を持ち、小さな種類でも六十センチメートル、大きなものだと二メートルを越える淡水魚である。
成魚はコミカルな見かけによらず獰猛であるが、体は丈夫で何でも食べ比較的飼いやすい熱帯魚であり、まるで子供のラクガキのような愛らしい外見も相まってアクアリウム愛好家の中では人気のある魚だ。
しかしそれ故にか、経験の浅いアクアリウム愛好家が手を出し、大きく育ちすぎて近年密放流が相次いだ為、温暖な西日本では野生化する問題も抱えていた魚でもあった。
ちなみに、この問題は愛好家のみならずモラルの無いペットショップも一因であり、成魚は二メートルを越える最大クラスのガーパイクである、アリゲーター・ガーを小さなガーパイクの稚魚と偽り売りつける店もあって、一概に愛好者のみを責め立てられる問題でも無かったりする。
そんな、近年では何かと肩身の狭いガーパイクではあるが、ここ須々木家では愛情を注がれのびのびと飼育されており、小さな種類であるショートノーズ・ガーにも関わらず体長六十センチメートルを越え、未だにスクスクと育って可愛がられていたのであった。
そんな少々特殊なペットであったが、ガーパイクに限らず、一般にはイメージが薄いが魚にも歴とした知能が備わる。
ガー君と名付けられた須々木家のガーパイクもそうで、幼い頃より面倒を見て来た須々木潮の事を覚えてか、彼女が差し出すエサは何でも喜んで食べるようになっていた。
この日も薄暗い部屋の中に入ってきた須々木潮の姿を確認し、巨大な水槽の中でじっとしていたガー君は忙しなく泳ぎ始める。
強請るようにガラス面に尖った口を接触させるその姿は、なんでも噛みつくその恐ろしげな生態とは裏腹に中々の愛嬌だ。
須々木潮はそんなガー君に話しかけながら、日課となっていた大粒の人工飼料を投げ入れ、しばしウットリと愛するペットの食事の風景を眺めた。
それから、なにやら思索に更け入ってしまう。
考える事は勿論、陣太郎と甘菜についてである。
部屋は暗く、しかしガー君が泳ぐ水槽の照明が澄んだ水とガラス越しに煌々と輝いて、なんとも幻想的な光が漏れ出ていた。
また、他にも母親が飼育している幾つかの水槽の、濾過装置やらのモーター音とコポコポという水音は、彼女に落ち着いた心地を覚えさせた。
滅多に帰宅しない父の部屋は母親が趣味とするアクアリウム部屋と化しており、今では須々木潮にとってはお気に入りのリラックスルームである。
彼女は悩み事や考え事があるときまって、ガー君にエサを与えた後、その水槽の前に佇みぼんやりと泳ぐ姿を眺めた。
ただ、部屋に満ちる心地よい音はリラックスと引き替えに眠気ももたらす事が多く、そのままうたた寝をしてしまう事も少なくない。
今回もそうで、須々木潮はそのままうとうととしてしまい、気が付くと寝息をたててしまっていた。
そんな彼女に眠りから覚ます声が掛けられたのは、どれ程の時間が経ってからであろうか。
――ろ
「ん……」
――、起きろ。起きて、我の話を聞き届けよ。
「ん、ママ?」
――明日。いつもの帰り道は避けるように。そこは常世へと繋がる死路となる。
「んん、だれ……?」
――忘れるな。明日、お前がいつも歩む帰路は常世との岐路となるのだ。道を違えよ。
「だ……れ?!」
すっかり寝入ってしまって居た為か覚醒は浅く、寝ぼけたまま、開かない目を薄暗い部屋にこらす須々木である。
最初は母親かと思った彼女でだが、声は男の物であることに気が付き、慌てて上体を起こしたのであった。
その仕草は寝ている所を叩き起こされ、目を閉じたままふんふん、と辺りに鼻先を向けるハムスターのようだ。
しかし彼女が抱えていた動揺は見かけ以上に切実で、得体の知れない恐怖に鼓動を早め、警戒心だけが強く発揮している事が動きの素早さから伺える。
須々木潮に兄弟はおらず、そもそも家に出入りする男といえば父親だけで、その父の帰国まではまだ日が一月以上もある。
では、先程の男の声は一体誰であるのか?
しばしの警戒は妙齢の乙女ならば誰しもが持つもので、全神経をうすら明るい室内の、そこかしこに張り付く闇に向けられていた。
が、闇からは人の気配はせず、徐々に覚醒してくる思考は須々木潮へ冷静な判断能力を与える。
「う……誰も、いない? 寝ぼけてたかな」
誰と無く口にした言葉は、どこか“いや、確かにおれはお前に話しかけた”という返事を期待した物。
勿論返事など返ってこようはずも無く、須々木潮はすっかり寝癖のついた頭を掻きながら部屋を後にした。
部屋を出る瞬間、後ろ髪を引くような余韻は確かに以前感じた事のある“ソレ”であったが、この時の彼女は眠気が残る頭を二度振って、意識から振り払ってしまう。
“ソレ”があの夏の朝、陣太郎と共に出遭った神威の気配であると気が付いたのは、随分後になってからである。
◆
「アマビコの予言……ってなんでスか?」
不機嫌そうな甘菜の台詞を、須々木潮は復唱した。
場所は某市に唯一ある、ファミリーレストランの店内。
ファミリーレストランはチェーン店であったが、TV番組等で特集されるような規模では無く、所謂地方限定で展開する店舗である。
そのメニューは世辞にも洗練されているとは言えず、値段は手頃ながら、不味くも旨くも無い無難な味付けは近年増えて来たこだわりのラーメン店と比較すると、あえて足を運ぶ理由にするにはやや物足りない。
もし、某市にハンバーガーなどを扱う大手のファストフード販売店が進出して来たら間違いなくつぶれてしまうだろう、というのが利用者達の共通した認識であるが、幸か不幸かそのような話が立つ気配すら無いのが某市だ。
こういった田舎の、この手の店のアドバンテージはその営業時間で、某市のような田舎の地方都市には珍しい二十四時間営業は、遊び場の乏しい若者達にとって貴重な場所となり得ていた。
特に遊びたい盛りの高校生にとっては、学校帰りに立ち寄れる格安の飲食店の存在はかなり重要であると言えよう。
これが日も暮れた後のゲームセンターやコンビニの入り口ともなると、とこからともなく学校の生活指導の教諭が見回りに訪れるのであるが、彼らはなぜかこういったオープンな雰囲気のレストランの利用には寛大であったりもした。
一説によれば、遅くまで部活に勤しむ運動部の男子学生達の為に、その腹を満たす役目を担っているこの場所にはお目こぼしを行っているとも、経営者から学校に何かしらのリベートが手渡されているとも言われていたが、真偽の程は定かでは無い。
そんなファミリーレストランであったが、近年ではデザートやドリンクに力を入れており、須々木潮の前にはレアチーズケーキと紅茶が、反対側に座る甘菜の前には大きなチョコレート・パフェが据えられて、テーブルの上を華やかに彩っていたのであった。
ちなみに、甘菜のとなりに座る陣太郎の前には、メロンソーダが注がれたドリンクバーの小さなカップがちょこん、と置かれているのみ。
他の二人と比べ随分とみすぼらしいのは、虫の居所の悪い甘菜を宥める為、ご機嫌取りにこの場の会計を一身に背負う可能性を考慮したからだ。
たかが千円と数百円の会計であるが、それでも田舎の高校生にはきつい出費なのである。
「アマビコっていうのは、一言で言えば“神威”ね。天井の天に日中の日に、子供の子と書いて“天日子”(アマビコ)。ヒコを人名の彦と書いて天彦とも言うけど。わかる?」
「“はい”、すいません、わからないです……」
「むぅ、じゃ、妖怪あまびえ、とかは?」
「それも……」
「じゃあ……ん、ちょっとまって」
甘菜は変わらず少し不機嫌にそう言って、徐に手帳を取り出しサラサラと何かを書き始めた。
それから、手帳からなにやらを書いたページをビリと破り、そっとテーブルの上に置いて、目の前のパフェを細長いスプーンでひとすくい、口に運ぶ。
甘味により一瞬表情から険が消えたが、直ぐに険しい表情が戻り、しかしその行き先は対面する須々木で無く隣の幼馴染みに向けられた。
「先に言っとくけど、私の絵がヘタなんじゃないからね? “天日子”はこういうモノなの」
「お、俺まだ何も言ってないし!」
「嘘。目で“ヘタクソ”って言ってたし」
「……なんだか、可愛らしい姿なんですねえ」
二人の感想は当然であるのかも知れない。
甘菜が書いた絵は下半身は魚の鱗に覆われ、上半身はずんぐりとしたもので、髪の毛は柳のように垂れその合間から丸い目とくちばしが突き出たファンシーな物であったからだ。
勿論、甘菜の絵が下手であるというわけではない。
文献などに記された“天日子”の姿が、本当にこのような姿で描かれており、甘菜の言葉の通り正確に模写をすればする程ラクガキのような絵となってしまうのである。
「これが“天日子”なんですか?」
「そ。伝承によれば、海から突然現れて一方的に豊作や疫病の予言を口にして去って行く、ってのが多いかな」
「へぇ」
「話を聞くと悪さをしてるようでは無いから、和魂の神威みたいだけど……?」
「はい。その、明確に被害に遭ってる、とかじゃないんです」
言って須々木潮はテーブルの下でぎゅっと拳を握る。
彼女が天之麻甘菜や臼木陣太郎とファミリーレストランのテーブルに並ぶまでには、始業式の日から二週間の時を要していた。
その間、毎日父親の部屋で不思議な声を聞き、その都度様々な予言を受けて悉く的中していたのである。
――はじめは、身の危険を知らせるものからであった。
曰く、いつもの帰り道を避けるよう言われ、それが頭に残っていた為か何となく違う道から帰ると、その日の夕食時、地方版のニュース番組で大きな事故の報道があり、それが丁度須々木が帰路に就く時間、帰り道であった事。
次に下された予言は、他愛も無い抜き打ちテストの内容。
その次は体育の時間、具合が悪くなる生徒の数。
他にもいくつか須々木に関係する、または関係の無い予言が一日一つ下され、その全てが的中していたのである。
「なぁ、横からで悪いんだけど、それのどこが問題なんだ? テストの事とか羨ましいくらいだけど」
「はい、わたしも最初はそう思ってたんですけど……最近は段々とその……人が不幸になるものばかりになってきていて」
「例えば?」
「部活中、先輩が怪我するとか、どこどこで交通事故を目撃するとか……」
「……荒魂になりつつあるのかもね」
「あらみたま?」
「良くない状態って事。神威にも状態があって、イイコトが続けば問題無いけれど悪い事も同じ位起こりうるの。人間の感情と一緒ね。笑う日もあれば怒る日もある、みたいな」
「なるほど」
「ま、前に私が言った事を真に受けて相談したのは正解だったかもね。どうする? 須々木さん。“お祓い”、する?」
「え?! あ、いやいやいや! 違います! お祓いをして欲しいって事でセンパイ方に相談をしたんじゃないんですよ!」
「え?!」
「なぬ?!」
陣太郎と甘菜の反応は同時であった。
下校を待ち伏せされ、深刻な表情で“助けて欲しい”と縋られての同席である。
てっきり、陣太郎の祟りの余波か何かの影響で神威に遭い、悩んでいる物と考えていた二人は予想外の台詞に驚いてしまった。
須々木潮はそんな二人を尻目にすこしモジモジとして、改めて本題に入る。
「実は、その……何となくですけども、奇妙な予言をしてくる“存在”の正体はわかっているんです。えと、……“天日子”っていうしんい? は今知ったんですけども」
「はぁ?! どゆこと?!」
「はい、うちにその、ガー君っていう、大きな魚を飼っていまして。あ、ガーパイクっていう淡水魚でとっても可愛いんですよ?」
「うぇあ? ああ、うん?」
妙な発音の返事をしてしまったのは、甘菜の方。
年が一つしか離れていないにもかかわらず、両者には随分と精神構造に差異があるらしい。
つい先程までは深刻な表情であった須々木潮が愛するペットの事を話しはじめると、いきなり明るくにこやかに表情を変え、嬉々と語り始めた。
その為か深刻な事態を予測していた甘菜は肩すかしを食った形となり、張っていた緊張が脱力を伴って口から出たのである。
神威の恐ろしさを身に沁みて知っている甘菜だからこその反応ではあったが、一方で神威に今現在さらされている陣太郎の反応はというと、至って平静であった。
こちらは肝が据わっているというよりも、どこか麻痺しているのか、それとも事の重大さに気が付いて居ないのかといった所であろうか。
「落ち着けって、甘」
「む……わかってるって。で? 須々木さんはそのガーパイクって魚が“天日子”って見当をつけているのね?」
「あ、はい。その、予言を受ける時はいつもガー君の前で眠りこけてる時で。何日かした頃、何となくそうなんだろうなあ、って感じていた程度なんですが……ここ最近、急にその……変になっていってるのがわかるようになって」
「変?」
「はい。……なんていうか、最近特にガー君の予言を聞いた後、臼木センパイと“妙な心霊体験”した時と同じ感覚に陥るんですよ」
あちゃあ、と顔に手を当て、ジロリと横に座る陣太郎を睨む甘菜。
その視線から逃れるように顔を背け、ドリンクバーのコップに注がれたメロンソーダを飲み干す、陣太郎。
両者は無言のまま雄弁に言葉を交わし、須々木も尋常ならぬ雰囲気に飲まれてか、しばし場は気まずい沈黙が横たわるのであった。
時刻は夜の八時を回っている。
学生が利用するには遅い時間帯と言えたが、別に三人がかなり長い事話し込んでいたわけではない。
文化祭を控えたこの時期、陣太郎達が通う高校では放課後に居残る生徒はかなり多い。
ましてや甘菜は美術部、須々木は演劇部であり、出し物の為の“追い込み”で時計の針が夜の七時を回っても下校しない事はままあった。
――陣太郎の場合は帰宅後の山登りをしたくないが為に、なにかと理由をつけて学校に居残っていただけであるが。
ファミリーレストランは利用客が増えるピーク時間を過ぎてはいたものの、客足は途切れず、同じようにして学校に居残っていた他の生徒もちらほらと見うけられた。
どこの席に座る人々は皆笑顔で、その時間帯では他に営業している店も無い為か意外と騒がしい。
それだけに余計自分達の席のきまずい沈黙が痛く感じられ、須々木潮は勇気を振り絞り口を開いた。
「その、率直に聞きますとね? もしかして、わたしのガー君、臼木センパイが“戦っている”相手みたいになっちゃってるんでしょうか?」
「は?」
「センパイ、正直に教えて下さい! ガー君、センパイにやっつけられちゃうんでしょうか?!」
ずい、とテーブルごしに陣太郎へ詰め寄る須々木潮。
短めの髪は相変わらずうなじの所で纏められ、真剣な眼差しを彩る長い睫毛と化粧気のない顔は、甘菜ほどではないが中々どうして、悪く無いと陣太郎に思わせる造りである。
なにより部活上がりの為か着ていたジャージは夏服で、襟元からチラリと鎖骨が見えてつい、そこへ目が行き顔を引きつらせる陣太郎。
幸い鼻の下が伸びる前に隣から浴びせられる、冷や水のような甘菜の視線に気が付いて、陣太郎は取り繕うように咳払いを一つ行うと、我を取り戻し、会話を再開させる事に成功したのであった。
「……えっと、なにそれ?」
「わたし、気が付いて居るんです! 臼木センパイが、みょうなモノと戦っているのを! センパイ、妖怪か何かを狩る裏の仕事をしているんでしょう!? それで、色々と複雑だから秘密なんですよね?! でも、お願い! ガー君を殺さないで欲しいんです!」
「うぇあ? あぅ、え? えと、――ええ?!」
今度は陣太郎が妙な発音で返事をしてしまう。
何がドウなって、ソウなったのか、見当も付かなかったからだ。
しかし須々木潮の台詞は思春期の少年少女特有の妄想のようで、どこか的を射ており、陣太郎にしてみればどう反応した物かと非常に戸惑う代物であった。
そして再び、沈黙が場を支配する。
陣太郎に詰め寄っていた須々木は体を元の位置に戻し、半分程残ったチーズケーキとすっかり醒めた紅茶を前にして、思い詰めたように俯いてしまった。
一方陣太郎はと言うと、どうしたものかと判断が付かず、こちらも腕を組み考え込んでしまう。
いや、そもそもこの場をどう誤魔化すのか、それとも誤魔化さずに済むのか、それすら判断がつかない、というのが正直な所であろう。
他人を謀ったり隠し事をするには、陣太郎の性根はあまりに愚直で単純過ぎるのだ。
そんな彼であると知っているが故に、となりに座る幼馴染みは得体の知れぬ怒りを抑えながらもつい、助け船を出すのである。
「……話は……何となくだけど、わかったわ。えっと、須々木さん?」
「はい……」
「まず、確認ね。陣――臼木君はそういうのじゃないから」
「え? でも……」
「詳しくは言えない。臼木君の命に関わるから。まだ“普通”の生活をしている須々木さんにはオカルトに見えるでしょうけども……神威の恐ろしさはもう知ってるよね?」
「はい……」
「他に言えるのは臼木君も私も、やっかいな代物に祟られてて、そのお陰で稀に、シャレにならない神威を呼び寄せてしまう事があるってこと。これ以上は言えない」
「じゃあ、ガー君も!?」
「ガー君のは多分、大丈夫。それよりも、夏休みの合宿の時の奴。あれ、結構危なかったのはわかってる?」
「なんとなく、ですが……」
「一歩間違えば須々木さんも臼木君も、この世に帰って来られなかった状況よそれ。そして、それを引き起こしたのが臼木くんや私が抱えている神威なの。……ここまで話せばもう、わかるでしょう?」
「巻き込むからこれ以上詮索するな……って事ですか?」
「うん、そ。近寄るなって言っているんじゃないよ? 普通は余程の事でも無い限り……そうね、一生に一度、神威に遭うかどうかってモノだから。ただ、興味本位に詮索されてると、どんなキッカケで巻き込むかわからないのよ」
「そう、なんですか……」
「お願い。今はこれで納得してくれないかな?」
諭すような台詞は優しげで、しかし強い。
須々木は再び俯いて、甘菜の言葉の意味をよく噛みしめた。
――確かに、“鈿女”の役割を与えられ、強制的に踊らされ続けたあの時は死を意識した。
当時の恐怖が今更ながらにありありと蘇って怖気となり、須々木の背を走る。
その恐怖をキッカケとして、須々木潮は己の中にあったある感情に気がついてしまう。
不思議な怪異を目の当たりにし、今も尚、超常の出来事の中に身を置いていた自分は、何時の間にか非現実的な日常に憧れていたのではないか、と。
そして恐らくは、同じように非日常の中に身を置く目の前の二人と仲間になりたかったのではないか、とも。
確かにそれは普通の人間では到底味わえないスリルと興奮をもたらすであろう。
しかし実の所、二人が経験してきた神威は、スリルなどという生易しい物では無く、文字通り命に関わる事柄なのだとも須々木はこの時理解した。
果たして自分は、きちんと命とスリルを天秤に掛けて居たのだろうか。
――確かに、どうかしている。
須々木はそう考えて、己の浅慮を恥じた。
「……わかりました。でも、でもですよ? 天之麻センパイ。その、それだとガー君の予言とかの相談は……」
「それ位なら大丈夫よ。でも、もし次があれば臼木君じゃなくて私にお願いできる? 危ない神威を抱えてる臼木君に直接相談するのは自殺行為だと思ってね」
「うぇ……マジっすか? 臼木センパイ」
「……多分、マジ。俺、甘……之麻さんと違ってその手の知識なくてさ。……その、この前はごめんな、巻き込んじゃって。誤魔化したのも、あれ以上俺の祟りに巻き込みたくなかったんだ」
「い、いえ! わたしこそ、うまいこと説明しなかったばかりにセンパイ、本田先輩にボコられる結果になっちゃって……申し訳ないです」
「はは……あれは地獄だったよ……」
「わたしもその、本田先輩の迫力に負けてオロオロしちゃって……」
「止めてくれよう」
「えへへ、すんまセン、センパイ……」
両者共に後ろめたさがある為か、どことなく遠慮がちで、しかしぽわんとした空気が漂った。
一人取り残された甘菜は、先程憎まれ役を買って出て陣太郎を助けただけに、どこか面白くない。
必然、その口調には小さなトゲが混じり、二人の間にぴしゃりと釘をうつ事になる。
「仲良くなるのは良いけども、話の途中なんじゃない?」
「ああ、そうでした! ……あの、わたしが臼木センパイや天之麻センパイの事、誤解していたのは理解出来ました」
「そ、よかった」
「それとその……、ガー君の“予言”なんですが……」
「それも多分大丈夫よ。たまたま、須々木さんの周りで起こるであろう、悪い出来事をあてているだけだから。別にその、ガー君が悪い事を起こしているわけじゃ無いんだと思う。今は、ね」
「はぁ、“今は”、ですか」
「うん。これがあからさまに……たとえば、名指しで誰々の不幸を願えば叶えてやる、みたいになったら危ないんだけど。そうなったらまた相談してね」
「え?! じゃあ、これからもガー君の“予言”でおかしな所があったら、相談に乗ってくれるんですか?」
「ん、まあ、ね。だけど、この手の話をするなら基本的には私達だけにしといてね?」
「はい。えと、神威というのは良い時も悪い時もあるから、他の人に広げないようにする為、ですよね?」
「そうそう」
「わかりました。今日はほんと、相談に乗ってくれてありがとうございました。わたし、そろそろ……わ! もう八時だ!」
「うお?! ほんとだ」
「うわあ! 怒られる! ごめんなさい、センパイ。わたしもう帰ります! 伝票は……」
「ああ、ここは俺が驕っとくよ。口止め料代わりにな」
「え?! いいんですか?」
「ん、いいよ」
「あら。すごく気前がいいのねぇ、臼木君。くそ、もうちょっといい奴頼んどけばよかった」
「まあな」
甘菜に褒められ、むふん、と胸を張る陣太郎。
行為は甘菜と共に須々木の相談に乗ったにも関わらず、自分だけ力になってやれなかった事への後ろめたさからである。
しかし先程から甘菜の言葉尻に含まれていた、僅かな苛立ちには気が付かない。
鈍感、というよりも相手に対する気の許し方が、小さな機微を読み取れなくしているのだろう。
そんな陣太郎と甘菜を見て、須々木潮は席を立ちながら目を白黒とさせてしまった。
――へぇ。あの、天之麻センパイが、ねえ?
確証は無い。
が、疑いを持つには十分な甘菜の態度は、須々木に新たな興味を抱かせた。
年頃の娘にとって、恋とは自分の物であろうと、他人の物であろうと、最大の娯楽になのである。
それが度々噂になるほど“お似合いでない”カップルならば、尚更だ。
――これは、面白い事になるかもしれない。
そんな須々木の心情が顔に出てか、甘菜は彼女の視線に気が付き、先程の陣太郎のようにわざとらしい咳払いをして誤魔化すように立ち上がった。
「さあて、私らも帰ろっか、臼木君」
「だなあ。うう、いまからチャリで四十分は漕がなきゃ。田舎暮らしは辛ぇなあ」
「あはは、仕方ないですよ。某市って名ばかりで、人口減り続けてますし」
「だなあ。ウチの近くなんて、バスが来るの一日に四本だぜ? 一日に四本ってあり得ないよな」
「うん、そうだよね。バスが午前に二本、午後に二本、日が暮れたら走らないってありえないよね」
「え? わたしの家の近くは八本で、八時位までの便はありますよ?」
「……都会ッ子だ」
「都会ッ子ね」
「え? だ、だってセンパイ、同じ市内じゃ――」
「こいつ、きっと俺達の事、田舎もんだと思ってるんだぜ?」
「そ、そんなことないです! 私の家がちょっと町側なだけですよ!」
「あら。自慢? ねー、臼木君、私思うんだ。あんな子、ブヨの群れの中に口を開けて突っ込めばいいって」
「同感だな」
「え? え? あの、センパイ?! そんな違わないと思うんですけど――ええ?!」
つい先程まではわだかまりがあるように見えた二人であったが、突如息の合った台詞で意味不明に責められ、須々木は困惑した。
原因はたかがバスの本数である。
思春期の少年少女は、基本的には田舎住まいであるほど住んで居る土地を他と比べたがるものだ。
勿論皆が皆そうであるとはいえないが田舎の中高校生の間では、よくドコドコがウチより“街”であり、ソコソコがウチより“田舎”である、という会話は割とポピュラーな話題となる。
バスの本数などはその最たる指標となり、須々木はそれ程気にしないタイプであったが故に、某市でも“より”田舎住まいである二人を刺激したらしい。
こういう時ばかりは非常に息の合う陣太郎と甘菜である。
それから暫く、ファミリーレストランの駐輪所でどちらの住む場所がより“都会であるか”という話題で盛り上がってしまい(もっとも最初から勝負にもならなかったが)、結局須々木が家に帰り着いたのは夜の九時を回った頃だった。
「ただいまー、ガー君。遅くなってごめんね」
着替えと母親の小言もそこそこに、いつものように薄暗い父の部屋で愛魚に話しかける須々木潮。
ガー君は巨大の水槽の中、いつもと同じように悠然と泳いでいる。
ただ、いつもと違う事もあった。
どのようなキッカケでそうなったのか、ガー君の背ビレの所が少しだけ欠けてしまっていたのだ。
須々木はその痛々しい姿を見つけるや大いに驚き、部屋を飛び出して母親に自分が学校へ行っている間一体何があったのか問い詰めた。
しかし母親もガー君の異変に気が付いていたものの、その理由には心当たりが無いようで、首を傾げるばかりである。
須々木潮はしばしの興奮から我を取り戻すと、中断してしまっていたエサやりを思い出し、慌ててガー君の所へと戻った。
「うう、ガー君、痛いよねえ。一体何があったの?」
腹を空かせていたのであろう。
水面近くまで浮きあがりエサを一飲みするガー君は、須々木の問いかけには答えない。
その動きはいつもよりも緩慢で、内心穏やかで無い須々木の心をさらにざわつかせた。
――もしかしたら、水槽内にあるナニカがガー君を傷つけたのかもしれない。
そう考えて須々木はガー君にエサを与えた後、踏み台を持ち出して巨大な水槽を上からのぞき込んだ。
いくらガーパイクが丈夫な種であるとはいえ、生き物である以上なんらかの原因で体を傷つけてしまう事は珍しくない。
故に日頃からある程度の注意を払ってきた須々木であったが、流石に目に見えるダメージを発見しては凹んでしまう。
だからこそその原因となったナニカを見つけ出す為、注意深く水槽の中を観察したのであった。
「……あ。これ」
水槽の隅、水面に浮いていたソレを発見したのは、ガー君が傷ついた理由を見つけられず、不本意ながらしばらくは様子見する事を決定した時だ。
拾いあげてみるとどうやらソレは、ガー君の欠けた背ビレの一部のようであった。
ますます落ち込んでしまう、須々木潮である。
踏み台から降りた彼女は、背ビレの欠片を握りしめたまま、脱力して思わず蹲ってしまった。
時刻は夜の十時に近い頃か。
文化祭に向け部活に打ち込み、その後陣太郎達とファミリーレストランで話し込んだ末の、このトラブルである。
流石に肉体的、精神的に疲労が蓄積したと見えて、心地よい室内もあいまって、須々木潮は蹲り凹みながらもそのままうとうととしてしまうのであった。
そして、いつものようにあの声が聞こえて来るのであるが――
――ろ
「ん……」
――、起きろ。起きて、我の話を聞き届けよ。
「ん、ガー君?」
――我の一部を口にせよ。さすれば、お前に永遠の若さと尽きぬ命が与えられん。
「んん……」
――迷うな。無くならぬ命を持ってすれば、お前が望んだ二人の輪に入り込む事も可能であろう。
声はそこで途切れる。
須々木はいつものように神威の気配を感じながら、喘ぐように返事を返す。
視界はまどろみから覚醒するにつれ輪郭を作り出したが思考は中々戻らず、須々木潮はぼんやりと水槽の中で泳ぐガー君を見ながらもゆっくりと先程の“予言”を反芻した。
そこである事に気がつく。
反芻してみれば今回のそれは、“予言”ではない。
どちらかと言えば、“啓示”に近いだろう。
内容も『ガー君の一部を食べれば、永遠の命を得られる』というもので、予言とはかなりかけ離れたものだ。
この時須々木が連想していたものは、その肉を食せば不死となるという伝説がある“人魚”と、甘菜が書いた“甘日子”のイラストであった。
半人半魚のような“甘日子”のイラストは、見ようによっては人魚のようにも見える。
もしかしたら、“甘日子”となったガー君の体の一部でも食べると、人魚の肉を食べた者のように不死となる効果があるのかもしれない。
不死となればガー君の言うとおり、それこそあの二人の輪に入っていけるだろう。
考えて、手の平に乗るガーパイクの背ビレの一部を眺める。
――これを食べれば……
誘惑は甘く、少女の口を手の平に近付けさせた。
それまでの経緯から、その効果を疑う余地は無い。
食べない、という選択を積極的に選ぶ理由もまた無かった。
しかし、その舌が手の中の背ビレの破片に触れた時、須々木潮はその動きを止めた。
薄暗い父親の部屋の中、それまでに感じた事の無い程濃くなっていた神威の気配に、あの合宿での事を思い出したのだ。
記憶は、連鎖的に先程の甘菜との会話を思い起こさせ、須々木に今そこに在る天秤の存在を確認させた。
天秤の片方には神威を受け入れる、恐怖。
もう片方に乗るのは、常人では歩めない刺激的な未来である。
時の権力者達が求めて止まない不老不死が、そこに在るのかも知れない。
しかし、神威の力で不老不死となる事が何を意味するのか、須々木潮は慎重に考えていた。
――果たして自分は、きちんと神威に遭う恐怖と未来を天秤に掛けて居るのだろうか。
これを口に運べばきっと、臼木センパイのように色んな怪異に出遭うようになり、非日常が日常となるだろう。
でもそれは、本当に素敵な事なのだろうか?
興味は確かにある。
それに、臼木センパイや天之麻センパイと仲良くなって、不思議な出来事の話を聞かせて貰ったり、一緒に体験したいと最初は考えてもいた。
だけども、その為にわたしはコレを口にしていいのだろうか?
少女は惑う。
選択肢は二つ。
舌先が触れているガー君の背ビレを、食べるのか。食べないのか。
果たして、須々木潮が採った選択は――
「……ありがとうね、ガー君」
言いながら、背ビレの破片をガー君の水槽に戻す須々木潮であった。
彼女の愛魚は水面に浮かぶ己の背ビレをもエサに思えたのか、一度深く潜った後、一気に水面へ浮かび上がって破片を一飲みにしてしまう。
「よくよく考えたらね、わたし、あの奇妙な体験の真実が知りたかっただけなんだよね。別に、自分自身が神威とかの中心になりたいわけじゃないの。だからガー君が気を使う事はないんだよ」
語りかけた言葉は、どのように“甘日子”へと届いたのか。
この日を境にガー君の“予言”はピタリと止み、須々木潮は平凡な日常を取り戻したのであった。
ただ、食したりはしなかったものの、舌先でガー君の背ビレの破片を舐めた事がまずかったらしい。
以後、須々木潮は二十代、三十代となっても永らく十代のような若々しい姿を保ったのだが、背と胸もまた、それ以上は成長しなかったのである。




