鈿女・後編
吐息は荒く、汗は弧を描く腕と髪の先から周囲に飛び散り、乙女の体臭を撒き散らす。
夜と朝の狭間にあるその場所は、停まるはずも無い時を進めるでも無く、仄暗い暁のまま確かにそこに在った。
陣太郎は何が起きているのか、何が起ころうとしているのか理解出来ぬまま、しかし確信をして辺りを伺い続ける。
確信とはその時、その瞬間から神威が顕現している、というものだ。
「せっ……せん、ぱ、い」
か細く苦しげな声に陣太郎は我に返る。
声の主は変わらず踊り続ける須々木のものだ。
くるくると回り、細かく跳躍を繰り返し、喉を見せるように体を逸らし、あるいはうなじを露わにする程体を丸めて踊る為か、視線を合わすことすら至難である。
が、一瞬交えた瞳が訴えかけていたのは、助けを乞うもので、そこで陣太郎は初めて須々木の身に異変が起きていると気がつくのであった。
「須々木?!」
「せ、ん……い、あた、し……止まら……ない」
「止まらない?! 体が勝手に動いているのか?!」
激しく艶めかしく踊り続ける須々木は、陣太郎の呼びかけに肯定の意思を示した。
既に息使いは荒くなっており、絶えず動き続ける為か会話もままならない有様である。
――なんだ?!
何が起きている?
“祟り”が俺じゃ無く、須々木に降りかかっているのか?!
刹那に焦りと後悔と、そして決意を噛んだ陣太郎は、踊り続ける須々木にこれから飛びついて止める旨を伝える為、声を掛けた。
異性に抱きつかれる事に抵抗があってしかるべき年頃ではあるが、状況が状況だけに当然、須々木はこれを了承して早く実行に移すよう陣太郎を急かす。
が。
「おやめくださいまし」
突如、今にも須々木に飛びかかろうとしていた陣太郎を、聞き覚えのある声が制止した。
声の方へ振り向くとそこに、先日天之麻家の墓参りの時に出遭った、和装の女が立って居たのである。
岐神の使いとし、名を百合と名乗った女は海がある方角を背に立っており、驚く陣太郎と苦しげに踊り続ける須々木の方へゆっくりと近寄ってきたのだった。
――いや、彼女だけではない。
何時から視界の届く位置まで来ていたのか、百合の背後にはいくつかの白い人影。
その、彼らの全身を確認した瞬間、陣太郎はえもいわれぬ怖気を背に走らせてしまう。
それから慌てて竹刀ケースの方へと走り、鬼目一“蜈蚣”を取り出して、改めて須々木の前に立ち百合を睨みつけた。
果たして陣太郎が見た物とは、人型の“なにか”である。
背丈は人のそれと変わらず、しかしまちまちで、太っている者、痩せている者、背の高い者、低い者と様々だ。
しかし、それ以外に何も――そう、何も特徴と呼べるモノなどは見当たらず、逆にそれこそがおぞましき特徴であると言えた。
つまりは、“なにか”は白い肌をした人の形をとれど、他に何も“無い”のである。
目も、口も、耳も髪おろか体毛の一本も無く、指の数もまちまちで、両の手足の長さすら一律に左右で揃っては居ない。
筋肉がどう付いているのか、体を象る肉はやはり不均等についており、遠目にも近目にも出来の悪いラクガキのような姿であった。
そんな、異形の者が百合の背後に広がる木々の間から一つ、二つと増えて行き、その数はやがて十を越えてこちらにゆっくりと近寄ってくるのだ。
“彼ら”は一体何者であろうか。
無論人では無いと言えようが、かといって当てはめられそうな怪異のモノなど陣太郎に見当が付くはずも無く、強いて言うなれば顔の無い妖怪、のっぺらぼうと表現出来るのかも知れない。
迷い、惑う陣太郎。
手にした鬼目一“蜈蚣”を抜き、彼らを斬り伏せるべきか。
異形達の先頭を進むソレは、すでに百合を追い越して陣太郎の目と鼻の先まで迫って来ている。
陣太郎は視線を眼前の百合から外し、悠然と自身の脇を通り過ぎる異形を睨むも、“それ”からは不気味であるが敵意や脅威は感じられなかった。
また、異形達は数こそ次第に増えさえすれど、動きは相変わらず緩慢で、踊り続ける須々木を遠巻きに囲むだけのようだ。
だからか、白い肉の異形達を“危険な敵”と断じ、ともすれば己の命を喰らう祟り刀を抜くには少々の躊躇を抱く陣太郎であった。
「ああ……お久しゅうございます、陣十郎様」
もう一度、百合の声。
取るべき行動を見出せずにいた陣太郎に掛けられたのは、感極まったかのような百合の台詞。
二人は既に面識があるはずであったが、明らかに目の前の百合は陣太郎を別の誰かと間違えて親しげに、愛しげに語りかけてきた百合を見て、陣太郎の思考は更に混乱した。
――姿形は先日助けて貰った女のそれであったが、彼女も又、既に人ではない。
中身は別の“もの”である事も十分あり得るのではないか。
そう考えて陣太郎は頭を一つ振り、天之麻家の墓参りの時に出遭った百合の事を一旦忘れて応じる事にしたのである。
「……あなたは、“誰だ?”」
「まぁ、陣十郎様ったら。いやですわ、私です。百合でございます」
「“それ”は知っている。俺が聞いているのは、あなたが何故、ここに居るんだ、ということだ」
「陣十郎様?」
「この前あなたと遭ったのは、天之麻家の墓がある墓地の、少し下った所にある“辻”だった。そこで俺とあなたは一度遭い、言葉を交わしている」
「……どうやら……そのようでございますわね」
「ああ。なのに、何故あなたは俺を『陣十郎』と呼ぶんだ?」
果たして、陣太郎の判断は正しかったのであろうか。
白い肉塊のような異形達は陣太郎と須々木に近寄るでもなく、しかし遠ざかるでも無く、ゆっくりと二人を車座に囲んで一人、又一人と腰を下ろし始めていた。
だが陣太郎はそんな異形達はとりあえず脇に置いて、意思の疎通が可能でありそうな目の前の百合と言葉を交わす事を優先させていた。
背後では相変わらず須々木が踊り続けて居るらしく、はっ、あっ、はっはっ、と苦しげで、どこか官能的な嗚咽に近い息使い。
その視界にはおぞましき異形達が映り込んでいる筈ではあるが、悲鳴を上げないのは既に言葉を発するだけの余裕が無い為か。
須々木の身に起きた異変は長時間の放置は出来そうに無かったが、かといって止めるあてが陣太郎に有るわけではない。
また、流石に突如現れた異形や百合を無視して須々木を止める手立てを探す訳にもいかず、まず彼らに対して取るべき行動を模索するのは自然の成り行きで有ろう。
何より目の前の百合の様子はおかしいものの邪な様子も感じられなかった為、とりあえずは先程の制止の理由を聞き出し、須々木の異変と止める手立てを探るべきだと陣太郎は考え、百合を問いただしていた。
そんな陣太郎の判断がどのように作用したのか、百合は徐に下を向き、少しだけ眉根を寄せつつ顔を上げて陣太郎の問いに応える。
――哀しげな声色で。
「天之麻の墓がある、墓地の“辻”で“私”と出遭った、と仰りましたね?」
「……ああ」
「私が陣十郎――いえ、貴方様を覚えていないのは、常世の者だからです」
「常世?」
「常世とは現世とは違い、永久に変化の無い世界。恐らくは現世の者である貴方様との記憶は、常世の者である私にとって変化であり、非力な人の身であった故にその記憶を維持できなかったのでございましょう」
「……って、ことは、ここは今常世に成ってしまっているのか?!」
「いえ。半々、と言いましょうか、境界と言えばわかりやすいでしょう」
「境界? 入り口って事か?」
「ええ。常世と現世の境界は何処にでもございます。岐路は勿論、海と陸、山と里、今日と明日、昼と夜。勿論早々には境はほころびませぬが、ここのように幾重にも“境”が在り、神威を招く呼び水となる存在が在ればこのように――」
言って百合は辺りを見渡した。
釣られて陣太郎も辺りを見渡して、はっとする。
その場所は正に、林とその向こうにある駐車場の境目が、海と陸の境目がある海岸が、そして昼と夜の境目が重なって見えたからだ。
更には、陣太郎の手の内に神威の塊とも言える祟り刀・鬼目一“蜈蚣”。
そう、それは正に陣太郎へ降りかかった“祟り”であった。
背後で踊り続ける須々木は偶然、“それ”に巻き込まれたに過ぎない。
陣太郎を今更ながらに激しく焦りを募らせ、すぐさま取るべき行動を実行に移した。
「教えてくれ! 須々木はどうなる?! 強引に止めちゃいけないのか?!」
「須々木?」
「無理矢理に踊らされてるこの子の事だ!」
「……ここは今、常世と現世の境目とも言える場所になっております。この二つを繋げ、再び別つ事こそ“鈿女”の役割。――この場ではその須々木という娘御が当てはまりましょう」
「うずめ?! なんだよそれ!」
「岩戸隠れの伝説は知っておいでに?」
問いに問いで返された陣太郎は、すぐさま頷いた。
岩戸隠れや天の岩戸伝説は『古事記』などに代表される有名な日本神話の一節である。
日本神話において三柱の最高神とされるのは天照大神、月讀命、建速須佐之男命の三貴神であり、その内天照大神と建速須佐之男命の“誓約”(うけひ・占いの意)から始まる神話だ。
その内容は以下の通りである。
――死んだ母に会いたいと泣き叫び、イザナギによって追放されたスサノヲは姉であるアマテラスの元へ向かった。
しかし誤解からアマテラスに疑われ、身の潔白を証明する為に“誓約”を行う運びとなる。
果たして身の潔白を証明できたスサノヲは、そのままアマテラスのもとで暮らし始め、やがて乱暴狼藉を働くようになった。
始めは弟であるスサノヲを庇っていたアマテラスであったが、生皮を剥いだ馬を機屋に投げ入れられるに至ってとうとう怒り、天の岩戸に閉じこもってしまったのである。
昼の世界と司るアマテラスは太陽神でもあったが、その彼女が岩戸に閉じこもった為、世界は闇に包まれた。
八百万の神々はこれに困り果て、説得を試みたり、力自慢の神が岩戸をこじ開けようとしたりしたが岩戸は一向に開かない。
そして神々は一計を案じた後、ある神が岩戸の前で楽しげに踊り周囲を湧かせて、やがて何事かとアマテラスに岩戸を開かせる。
その、神こそ――
「天宇受賣命のような芸能の神なれば、それこそ常世と現世の時を分かち、この世に有らざるモノを在るべき場所へ導く事も自在でしょう。ですが、そこな娘御は二つの世を混じらぬよう、天宇受賣命の神威を体現するには要となることで精一杯なのです」
「ワケがわからねぇよ! わかりやすく言ってくれ!」
「つまり、二つの世を結びつける神威の呼び水はその祟り刀なれど、完全に混じらぬよう常世と現世の境界に楔として在るのはその娘御なのです。この楔を“鈿女”と呼び、動かしてはならぬ理由でも在ります」
「まだだ! そんなので踊り続けなければならない理由になるのか?!」
「神威は降りかかる者に必ずその形を表します。狐憑きには獣の心を。常世と現世の楔となる者には事が終わるまで“鈿女”のように踊る定めを。――蜈蚣の祟り刀を手にする者には、天之麻の業と鬼の怨念を」
やはり哀しげな、百合の声。
陣太郎はその視線が左手に持つ鬼目一“蜈蚣”に向けられている事を知り、奥歯を噛む。
そして、悟るのだ。
早朝、夜と昼が混じりあうこの時。
海と陸、林と平地の境が重なるこの場所。
たまたまそこに“祟り刀”を持つ者が居て、たまたま“鈿女”となり得る乙女が舞い始め、結果世界を重ねてしまった。
全てが偶然のようでいて、しかしその実は神威の塊とも言える鬼目一“蜈蚣”によって引き起こされた、必然であるという事を。
ここへ来る前、甘菜は確かに大丈夫であろうと予測していた。
しかしよくよく考えてみれば、幾星霜の年月を経た蜈蚣の神威が、たかが一度や二度の神威の後に休息を必要とするものか。
「――どうすればいい?」
「どうすれば、とは?」
「俺は……須々木を助けたいんだ。俺はともかく、こいつだけは無事に現世へ戻してやりたい。今は原因よりも、どうやったら解決できるかを知りたいんだ」
「……“要”となる“鈿女”次第でございましょう」
「須々木次第ってことか?」
「はい。“鈿女”が舞うのを辞めてしまえば、常世と現世を繋ぎ止める事ができず二つの世界は切り離されてしまいます」
「それでいいんだ! それが何か問題あるって言うんだ?」
「その場合、この場に居る者は皆常世の方へ引き込まれます。しかし貴方様方は現世に帰りたいのでしょう? なれば……」
そこまで説明して、百合は突如台詞を切り、背後の海の方へ振り返った。
彼女の視線の先、木々の幹の間からは海水浴場にも使われる浜辺が見えている。
陣太郎もつられて身を乗り出し様子を伺ったが、なんの姿も見えなかった。
が、遅れて海の方から嫌な気配が感じ取れ、気が付くと背にじっとりと冷たい汗が吹き出ていたのである。
「なにか……くる?!」
「綿津見の荒魂……いけない!」
「なんだよそれ!」
「この場におわす方々と同じ海の神です!」
「海の神って……ええ?! “これ”、海の神なのか?!」
陣太郎は驚きの声をあげ、周囲に車座になって座っている白い肉塊を指差した。
行為は仮にも神に対して不敬であるのだろうが、気にしないのか、それとも意識と呼べるものが無いのか、海神達は無反応である。
百合も陣太郎の問いにゆっくりと頷き、その反応を咎めるわけでもなく少し急ぐようにして話を続けた。
その態度が陣太郎に並ならぬ事態へと移りつつある事を示して、他にも口から漏れそうになっていた雑念を思わず呑み込ませる。
「はい。この方々は和魂となった神威ですが、これからやって来る綿津見の荒魂はとても危険です。恐らくは“鈿女”に惹かれて彼方より参じたのでしょう」
「どうすりゃいいんだ?!」
「陣十郎様……こうなっては、猶予はございませぬ。お帰りになるつもりならば、鬼目一“蜈蚣”にて彼らを迎え撃つより他はないでしょう」
「お、おれが、か?!」
「どうかお急ぎを。現世の日輪が完全に登らば混じった“境”は消え、全ては在るべき所に帰ります。それまで要となった“鈿女”を動かさず、また力尽きねばおのずと陣十郎様もその娘御も現世に戻れましょう」
焦りも露わにした百合の説明に、陣太郎は慌てて竹刀ケースの所まで走り、携帯電話を拾いあげて時計表示を確認する。
時刻は午前六時十分。
日の出は終え、本来ならば太陽が完全に姿を現している時間のはずだ。
「おい! “あっち”じゃもう日の出は終わってる時間だぞ?!」
「恐らくは綿津見の荒魂がその神威でもって貴方様方を引き留めているのでしょう」
「なんでそんなことするんだよ!」
「変化の無い常世にあって、“変化”とは神々の娯楽。ここに綿津見の和魂が集まったのも、一時繋がった現世からの“変化”を楽しむ為。そしてその変化を己の元に留める為、綿津見の荒魂が現れたのもまた然り」
「じゃあ、その綿津見の荒魂をなんとかしなくちゃいけないのか?!」
「強い神威の塊でもある鬼目一“蜈蚣”ならば、斬る事も可能でしょう。――お急ぎを。海の底より来たる荒魂もまた、複数ですので時が経てば経つ程不利になります」
「躊躇してる時間は無いって事か」
「全て斬る必要はありませぬ。彼らも又、神威が形を成しているだけで神その物ではございませぬ故、いくらか斬り伏せればその神威も弱まり、二つの世は正しく別たれることでしょう」
「わかった。――須々木! 聞こえてたか?! もう少しだけ持ち堪えてくれ!」
陣太郎は逸る気を押さえながらも、振り返り背後でいまだ踊り続ける乙女に声をかけた。
返ってくる反応は声にならぬ嗚咽と先程よりも更に激しい息使い。
しかし動きに呼応するようにチリン、リン、と鈴の音が鳴る中、陣太郎は確かに『はい』という返事を聞き取っていた。
――まってろ、すぐに助けてやるから。
呟いて陣太郎は踵を返し、浜辺の方へ走り出そうとする。
が、突如背後からにゅっと出現した細く白い腕が陣太郎の胸を抱き止め、それを阻んだ。
腕は百合のものである。
「え……あ、あの?」
「ご容赦を。どうか、どうかしばしのご容赦を……陣十郎様」
「……俺、何度も言ってるけど」
「わかっております。百合はわかっております。貴方様が陣十郎様ではないことを」
「じゃあ……」
「それでも、それでも今だけはどうか。今だけは、陣十郎様でいてださいまし」
それまでの凛とした佇まいからは想像も付かない程の、女の哀願であった。
背後から回された腕に力が籠められる。
陣太郎は焦りが募る心地であったが、女の必死の声に言葉を見失い、不覚にも立ち尽くしてしまった。
思い出されたのはあの墓地で見た甘菜にうり二つの、しかし似ても似つかぬ寂しげな笑みである。
「陣十郎様、陣十郎様、陣十郎様」
「百合……」
「ああ、陣十郎様。百合は、百合はお慕いしておりました。叶うならば、このまま常世に居て欲しゅうございました。例え本物の陣十郎様でなくとも、百合はそのお姿があれば永遠の時を生きてゆけるでしょう。ああ、でも――」
胴に回された腕の力が抜ける。
猶予は無い。
今すぐにでも浜辺の方へ駆けだすべきだとわかっていたが、だが陣太郎はそれをしなかった。
「――お急ぎくださいませ、陣十郎様に、愛おしいあの方にうり二つな方。そして現世に戻るのです」
「百合、さん」
「境が消え去れば思い出してしまった胸の痛みも、涙も、そして今新たに抱いた情もすべて常世の理の中へ消え去るでしょう。さぁ、お急ぎ下さい。“鈿女”の舞いがあるうちに」
声はやはり哀しく、そして優しげであった。
陣太郎は背後から回された腕が完全に視界から消えるのと同時に、弾かれたように振り向き走り始める。
百合とすれ違いざまにその顔を確認することは無く、陣太郎は一目散に木々の間を駆け抜けていった。
あるいは心だけはその場に残していたのかも知れない。
故にか陣太郎は不思議と恐怖は感じず、やがて林はすぐに途切れ砂浜が目の前に広がった。
潮騒の音が漂う波打ち際には、あの異形と同じ姿をしたモノ達が数体立っており、しかし彼らは背後の海と同じような深く黒っぽい肌で、ゆっくりとこちらへ近寄って来る。
「……くそ。コレはお前が喚んだのか? 俺に斬らせる為か? それとも俺を祟り殺す為なのか?」
陣太郎は少し前屈みに腰を落として、鬼目一“蜈蚣”の柄に手をかける。
問いかけは半ば愚痴に近かったが、当然祟り刀は応えたりはしない。
迫り来る黒い綿津見はやはり異形と呼ぶに相応しく、ゆらりゆらりと体を揺らしこちらへ近寄ってきていた。
――ひとつ、ふたつ、みっつ、……全部で六体か。
……いや、むこうの海からちらほらと浜に上がってきている。
こりゃ、百合さんの言うとおり早く何とかしないと手に負えなくなるかも知れない。
考えながら陣太郎はゆっくりと鐔にかけた左手の親指に力を籠めた。
――キン、という清廉な音が辺りに響く。
日頃祖父から『音を立てるな』と散々どやされ、抜刀から納刀までの所作を無音で行うよう訓練してきた陣太郎であるが、鬼目一“蜈蚣”を抜くにあたりその音はどうしても出てしまう。
それは、あるいは鬼目一“蜈蚣”自身の意思を伝える為の音であるのかもしれない。
なぜならば、祟り刀を抜く度に陣太郎はその声を聞いていたからだ。
――お前が憎い、と。
――決して天之麻の姫は渡さぬ、と。
怨嗟のような声は同時に神威の顕現として封じられた、陣太郎の左目を開く。
その眼にとぐろを巻くのは、赤い百足。
そして、ゆっくりと青眼に構えた刀は刃長2尺6寸(約79cm)、重ねは厚めで反りは古刀であるらしく浅い。
「まずは、ひとつ」
声になるかならぬかという程の呟きと共に、陣太郎は眼前にまで近寄って来ていた異形へ斬りかかった。
切っ先は人で言う所の肩口に最短で奔り、刃先が僅かにかすめる。
これが真剣であれば致命傷になるはずもなかったが、祟り刀であればそれで十分致命傷となりえた。
次の瞬間、黒い異形は深紅の蜈蚣の群れに覆われて、塵も残さず喰い殺されてしまう。
――良し。
これなら――
手応えを感じとりつつ、次の相手を見定めようとした時。
衝撃が陣太郎の頭部を襲った。
「がっ!」
思わず出た苦悶の声すら置き去りに、気が付けば数メートル程吹き飛んでしこたま砂浜に体を打ち付ける陣太郎。
――何が――
突然の事に混乱しつつも、思考が走ろうとした瞬間。
砂浜に横たえる体の、腹の所に再び衝撃が走って、陣太郎は激痛と共に今度は宙に舞うのであった。
腹への衝撃は余程大きかったのか、宙に浮き痛みのあまりに出てくる涙の向こうに見えた景色は辺りを見下ろす程の高さであり、それによって皮肉にも状況を呑み込む事ができた陣太郎である。
「こ、の!」
地に落ちた直後、全身に走る衝撃と痛みを堪えて陣太郎は手にした祟り刀を振るう。
落下前にちらりと見た位置関係から、敵が迫ってくる方角はわかっていた。
果たして陣太郎の読み通り、凄まじい疾さで襲いかかって来ていた黒い綿津見の体に刃が食い込み、数瞬後にはすべて蜈蚣によって喰い殺されたのであった。
――こいつら、恐ろしく疾い。
最初のゆっくりとした動きにすっかり騙されてた!
目で追うのは――
「わ!」
思考の途中で左目の視界に黒い影が映った気がして、陣太郎は慌てて屈む。
その頭上を唸りを上げ、一瞬で距離を詰めてきていた異形の腕が通過した。
屈み様に異形の足を斬りつけながら、陣太郎は闇雲に背後に向けて剣を薙ぐ。
なぜか、背後に誰かが立つ姿を見えようはずも無い左目が見た気がしたからだ。
その刃は偶然か必然か、やはり何時の間にそこに立っていたのか黒い綿津見の腹をかすめ、陣太郎自身を驚かせた。
――もしかして。
何を得たのか、陣太郎は右目を瞑りながら意識を左目に向けてゆっくりと立ち上がる。
視界の先には三体、ゆっくりと陣太郎に迫ってくる綿津見と、新たに海から上がってきた綿津見が数体見えた。
その内、もっとも陣太郎に近かった二体がゆらりと動いた気がして――
意識よりも先に体が動く。
刹那に奔る剣閃は幾度も反芻したもの。
同時に、陣太郎の両脇で二体の綿津見が赤い蜈蚣の群れに覆われる。
――やっぱり。
得心は陣太郎の足を前へと進めた。
日頃陣太郎が繰り返していた“型”は、基本的には誤って己を斬ってしまわないようにするためのものであった。
故に剣技の為の“形”でなく、“型”なのである。
それは無理も無い話であり、そもそもは剣を習い始めて半年も経っていない陣太郎など、竹刀を握る小学生の剣士にすら勝てぬ腕前であろう。
そんな陣太郎がかくのごとき達人のような真似事が出来たのは、ひとえに鬼目一“蜈蚣”による所が大きい。
神威として顕現しているその左目は人のそれで無く、いわば神、あるいは鬼と繋がっていた。
故に人の反射神経を遥かに凌駕する動きを捕らえ、おぞましい刃の振るう先を確実に探し出すのであった。
何より恐ろしいのはかすめるだけで死に至るその刃であろう。
鬼目一“蜈蚣”を振るう者は通常の剣技における“間合い”が恐ろしく広く、そして繰り出す攻撃の全てが“必殺”となるのである。
皮膚の薄皮一枚に刃がかするだけで確実な死がすぐにでも訪れるその力こそ、本来剣を扱う者として弱者であるはずの陣太郎を強者たらしめていた。
つまり陣太郎は、開いた左目に意識を集中する事により相手の姿を“視界の外であっても”捕らえられるのだとこの瞬間に気が付き、剣を振るっていたのであった。
「やっと、勝てる気がしてきたのは良いけど……“見える”ってのはアレだな。相手の数までわかるのかよ、畜生。なんだこれ、二十はまだ後にいるじゃねえか?」
己を蝕む神威の理解は心に余裕を生み、余裕は愚痴へと変わり声となって砂浜へ落ちた。
ある種の興奮をしているのだろう。
先の攻撃による痛みは僅かな痺れのようにしか感じられない。
陣太郎は再び祟り刀を青眼に構え、呼吸を整えた。
そして、蜈蚣が渦巻く左目で黒い綿津見の姿をした神威を睨みつける。
静かなる数瞬の後、陣太郎は再び刃を奔らせた。
周囲に出現するのは、赤い蜈蚣に覆われゆく異形の姿。
「……こっちから近寄らなくていいのは、楽かもな」
左目が捕らえる綿津見の姿が二十を超え、三十を超え始めている。
勝敗は既に決しているように見えたが、数で押し寄せられれば流石の陣太郎とて危うい。
かといってその場を後にすることも出来ぬ状況でもあり、だからであろう。
陣太郎は吐き出したその愚痴を最後に、意識を全て左目と切っ先に向ける事にした。
その後、どれ程の時が流れたのか。
果たして陣太郎と須々木は無事、現世に帰還することが出来たのであった。
◆
神世の時代。
とある漁師が豊漁を願い、海神に娘を捧げると誓った。
海神はこれに応えその年は豊漁となったが、いざ娘を捧げる段となった時。
漁師は後悔し、娘でなく妻を捧げたのである。
海神は怒り狂い、巨大な毒蛇を差し向け娘を奪わせようとした。
娘は逃げ惑い、神に助けを請う。
これに応えたのが天宇受賣命で、娘をある時は白い鷹に、ある時は白い鳩に、ある時は虫に姿を変えて逃亡の手助けを行った。
「――で、娘が逃げ失せた後八百万の神々がこの毒蛇を八つ裂きにするってわけ。伊豆かどこかの話だったと思う」
「しるかよそんなの……。俺がそんな、民話に詳しいわけないし」
「そりゃ、そうかも知れないけどさ、危ない目に遭うのは陣ちゃんだよ?」
甘菜の正論に陣太郎はうぐ、と呻いた。
時は二日後、場所は天之麻神社の社務所である。
一つの机に二人は並び、陣太郎の前には教科書とノートが、甘菜の前には菓子と紅茶が並べられていた。
「そうは言っても、さあ? その話だと白い鷹だったり、でっかい毒蛇だったりするんじゃん? 知ってても気がつかねぇって」
「今代に伝わる話をそのまま鵜呑みにする方がどうかと思うわよ? 大事なのは象徴的な出来事って事ね。白い鷹は他の、たとえばフクロウみたいな猛禽類でも良いのかも知れない。巨大な毒蛇は、海から来るほかのモノに言い換えられるかも知れないでしょ?」
「でしょ、って言われても……」
「大体さぁ、常世と現世の考え方くらい、押さえときなよ」
「うっせ。それを言うなら、甘が大丈夫っていうから合宿に参加したんだぞ?」
「う……。でも、私だってね? まさか昼と夜の狭間に、神威を呼ぶ代物を手に海岸に行って、“煽る”ように神代の出来事を再現する程陣ちゃんがバカだと思ってなかったもの」
「ば、バカいうなよ!」
「それに“兆し”は見てるじゃない。一日目、白い鳩。私言ったよね? 変なモノ見たらメールしてって。その時にメールしとけば、そんな風に顔を腫らすことも無かったと思うよ?」
「う……」
「何か言うことは?」
「……ごめん」
「え? 聞こえない」
「ごめんな、さい」
「わんもあ・ぷりぃず?」
「すいませんでした」
「うふ、わかれば良いの。あ、この前のシュークリーム、あとで食べたいな、かっこはあとかっこ閉じる」
「……いくつ?」
「みっつ」
「太るぞ?」
「アタァ!」
「あで! いっ、いってぇ!」
不意打ちに甘菜から青く腫れあがった右瞼をつつかれ、思わず悶絶する陣太郎である。
腫れは黒い綿津見によって作られた物では無く、美術部部長である本田によって作られた物であった。
何故か。
その理由を説明するに、一日程時を遡る。
陣太郎達が通う高校の、美術部と演劇部による合同合宿の二日目の朝にちょっとした騒ぎが起きていた。
合宿を行って居たキャンプ場に併設された駐車場の脇、広がる防風林の中から演劇部の一年生である須々木があられも無い格好で発見されたのだ。
着衣を乱し、全身を汗と泥だらけにして林の中から出て来た彼女を発見したのは、雑用を言い渡す為に陣太郎を探していた、美術部部長である本田翠子である。
本田は虚ろな表情でヨロヨロと歩く須々木を見て、つい悪漢に乱暴を働かれたのだと勘違いをしてしまう。
更に間の悪いことに、須々木の後から現れた陣太郎は本田を見て狼狽え、その行為が本田に勘違いを重ねさせてしまったのだ。
結果、本田は陣太郎が須々木を乱暴したのだと決めつけ、陣太郎の弁解を聞くまでも無くその顔面に鉄拳をたたき込んでいたのである。
それから陣太郎への本田の暴行は、騒ぎを聞きつけやって来た教諭に制止されるまで続いたのであるが。
やがてやって来た野次馬の人だかりの輪の中で、厳かに開廷された簡易裁判は、陣太郎にとって文字通り針のむしろであった。
幸い、やっと発言の機会を与えられた須々木の証言によって陣太郎の無実が明らかとなり、私設裁判は無事閉廷したのである。
「いっつ、いきなりさわんなよ」
「すっごい腫れてるよね、それ。なあに? 腕にまで大仰な包帯まいちゃってさ」
「仕方無いだろ、怪我したんだし。でも本田先輩、あんなに凶暴だとは思っても見なかった」
「部長、中学まで空手してたからね。たしか、県大会とかでも入賞してたらしいよ」
「うそ?! マジ?!」
「マジ。で、そのおかげで男っぽくなっててさ。中三の時に失恋して以来、辞めたんだって」
「へぇ……。道理でこう、サバけてる性格だと思った」
「それ、部長の前で言っちゃだめだよ? 気にしてるんだから」
「誰が言うか。綿津見の荒魂並のパンチだったし。むしろ部長にしばかれてる時の方が痛かったとか、何の冗談だよ」
「知らないわよ。そんな事より、はい、次の問題。それ、絶対出る上に配点が五点はある筈だから、しっかり覚えて貰うよ?」
「……な、甘。ちょっと、休憩しない?」
「しない」
「……うう、喉渇いた」
「それ理解出来たらね」
「お腹も、減った」
「とっとと問題を解く!」
甘菜に強く窘められ、しゅんとして問題に取りかかる陣太郎。
そんな幼馴染みを、甘菜は呆れたように睨みながら近く新学期が始まる学校に想いを馳せた。
恐らくは、陣太郎にとって不快な噂話が発生しているはずだ。
それは“当事者”にとって、過日の出来事を繰り返し思い出させることになる。
陣太郎は気が付いては居なかったが、今回の神威は明確に何も知らぬ他者を巻き込んでおり、その事実が甘菜にとって心配の種となっていた。
つまり――
「その須々木って子、大丈夫かな」
「ん? 何が? 須々木がどうかしたのか?」
「手を止めちゃだめ。思考も」
「できるかよ、そんな器用なこと」
「出来る訳無いでしょ。いいから問題を解きなって言う意味よ」
「……あい」
カリカリ、とぎこちなくノートを奔るシャープペンシルの音を耳にしながら、甘菜は思考を戻す。
――その、須々木って子に注意する必要があるのかもしれない。
昨日の体験から、陣ちゃんを避けるようになればそれでいいけれど。
でも、往々にして超常の神威を目にした者は、忌避感よりも興味を膨らませるものなのよね……。
下手に陣ちゃんにつきまとわれたりしたら、また巻き込みかねないだろうし。
む、む、む、これ、結構デリケートな問題?
甘菜は陣太郎から須々木を遠ざける事を考えて、ふとそれが嫉妬に近いのではなかろうかと考えてしまい、思わず呻いた。
その様子を横に座る陣太郎は身逃さず視線を投げかけたのだったが、ギロリと甘菜に睨みつけられ、あわててペンを奔らせたのである。
――嫉妬、とは違うよね、これ。
そりゃ、陣ちゃんが他の子と仲良くしてるのみると寂しくなる感覚は、あるけど。
今回は良いけど、他の子を巻き込んで落ち込まれるのもイヤだし。
むー、でも、こうやって自分に言い訳してるみたいに理由を“探す”のも、なーんか嫉妬っぽくてイヤ。
事実よ?
須々木さんがどんな子かは知らないけど、陣ちゃんと仲良くなるのは――ま、いいけどさ。
巻き込むのはやっぱり、良くないし。
う、う、う、私、なんでこんなので悩んでるんだろ。
呻いて、思わず頭を抱え込む甘菜。
しかし今度は眼前の問題に集中し、振り向きもしない陣太郎であった。
その、真剣に問題に取り込む横顔がどことなく、澄ましているようで腹が立った甘菜は。
「くの!」
「痛ぁ!」
「くの! くの! くの! この、エロ太郎!」
「甘、痛い! 痛いって! なに?! 急に!」
「ごめん、なんか急にムカついちゃって、なんとなく?」
「なんとなく? って非道い!」
「っていうか、私、気付いちゃった」
「何が!」
「陣ちゃん、昨日鬼目一“蜈蚣”を抜いたんでしょ?」
「おう? そうだけど?」
「あれ、鞘に納めた後、神威の余韻を鎮める為に女の唾が必要なのよね」
「お、おう?」
「天之麻の女の唾が無ければ、だれか他の女の唾を刃に乗せて斬る儀式が必要なのも、しってるよね?」
「うん、まあ……」
「見たところ、その腕。殴られて出来た傷、じゃないよね。包帯グルグルだし。斬り傷? 見せてみ? ん?」
迫力のある笑顔で迫る甘菜に、陣太郎は顔を引きつらせた。
甘菜の予想通り陣太郎は事が終わった後、息も絶え絶えに倒れこんでいた須々木に頼み込み、練習用の真剣に唾を吐きかけて貰い自傷していたのだ。
行為自体には特にやましい所は無かったが、暗黙の内に祟り刀の事を他人に口外しないと決めて居ただけに、どこか甘菜には話し辛かったのも事実である。
「……黙っててすんませんでした」
「うわあ! 陣ちゃん、やっぱりその須々木さんに鬼目一“蜈蚣”の事、話しちゃったの?!」
「は、話してない!」
「嘘! きっと可愛かったものだから、気を引こうとしたんだわ!」
「するかそんなこと! ホント、話してないって! その、誤魔化したんだよ!」
「一緒に異世界に行って、私のご先祖様との会話も聞かれてんのに、どこをどう誤魔化すのよ!」
「そりゃ、お前、“戻って来た後”呆然とする須々木に『はっ、なんだ今のは!』ってとぼけて、何を聞かれても『覚えてない』と答えつつ、『もしかしたら俺、妙な霊に憑かれているのかも! 臼木家伝来のお祓い方法あるから、協力してくれない?』と須々木に頼んで、陣八じいちゃんの刀に唾をふきかけてもらって、腕に切っ先を刺したって感じ?」
「うっわぁ……、それ、女の子はドン引きだわ……どこにそんなの信じるバカがいるのよ」
「だからって、常世での事を誰かに喋るのもアレだぞ? 信じるのって、オカルトマニアだけだろうし」
「そこじゃない! その、須々木って子が陣ちゃんに興味持って、周りをウロつかれたらどうすんのよ!」
「へ? その位、どってことなくないか?」
「なくない」
「まさか。……あ」
「なに?」
「……お前、もしかして、妬いてるとか? ……なんちゃって」
誤魔化すような陣太郎の冗談に、ガタン、と椅子を倒しながら立ち上がる甘菜。
その肩は怒りに震えている。
甘菜にしてみれば『須々木を巻き込むわけにはいかないだろう』と言っていたつもりであったが、陣太郎の冗談は的を射ているようで外しており、それが逆鱗に触れてしまったのだ。
「この、バカァ!」
ゴ、という鈍い音。
陣太郎の腫れた右瞼にめり込んだのは、激高した幼馴染みの鉄拳である。
甘菜はそのまま足早に社務所を立ち去り、後には床に蹲り、声も出せぬ程悶絶する陣太郎だけが残されていた。
それから半日程時を置き、落ち着いた甘菜に陣太郎が謝罪したのをキッカケに、二人の誤解は無事解けたのではあるが。
しかし甘菜の危惧は見事に的中して、新学期早々に二人をげんなりとさせる事となる。
新学期の朝、登校した二人は校門の前で待ち構えて居た須々木の姿を見た為だ。
手を振る“鈿女”の表情は、満面の笑みであった。




