憎悪の炎(1)
時間を少し巻き戻す。頃は夕刻、場所は険しきソルティア山脈の一角にある山の中である。
ソルティアッガ地方は大陸の東端にありながら海の恩恵をあまり受けていない。その原因がそのソルティア山脈であった。巨大な山脈がソルティアッガ地方の東を海に沿って広がっているためだ。もちろん山越えの方法はいくつかあり、越えた先には港町もあったりするのだけど、何しろ山越え自体が大変なうえに海岸線側にはろくな平野がない。輸送の拠点にするにも不便すぎるし独自に街として繁栄するにも広さが足りない。そんなわけで、よく言えば平穏、悪く言えば寂れているのがこのソルティア山脈以東の地域である。
ただ、ある界渡りの者はこう言ったという。「大型船と冷凍庫があれば」と。
実はこのあたりの海、あちこちに良い漁場があるのだ。いい魚が採れ放題なのに消費地が遠いわけで、そのための大型船と冷凍庫だったようだ。実際、その界渡りの言葉を受けて大きな漁船と冷凍魔法による郵送船ができてはいるらしい。が、冷凍魔法で魚を輸送するというのは言葉で言うほど簡単ではないらしく、なかなかコストが下げられずに四苦八苦しているとか。現状、王侯貴族用などごく一部の高級魚の輸送に使われているにすぎない。
閑話休題。
「うーん、いい湯だねえ」
にこにこと楽しげに温泉に入る少女。頬は上気していてほんのり赤く、素肌も瑞々しい。
少女がいるのは石造りの露天風呂の中だった。いささか雑にも見えるが周囲の深山幽谷ぶりに違和感なく溶け込んでおり、なかなか風情がある。また少し高台になっている湯船からの見晴らしは格別で、西に広がるソルティアッガの平原が夕陽に染まり、はるか西方の大森林までもがよく見えている。
ちなみに湯船のまわりには特になんの施設もない。石の脱衣場には少女のものらしい衣服が簡単に畳んで置かれているが逆にいうとそれだけ。ただ、もし土属性の精霊を見る事のできる者がいるとすれば、何やら小さな土人形のようなものがあちこちを右往左往しているのが見えるだろう。その『土の精』たちは時折気がついたように設備を改造したりしており、ここの施設が彼らによって管理されているのが伺える。
さらに脱衣場の向こうには広場があり、そこにはまるで意味のわからない石像のようなオブジェクトがたくさん並んでいる。さらにその脇には道があり、石造りの綺麗な街道が南に向かって伸びている。それを目が追っていくと、はるか彼方に白いライン。街道だ。東に向かえば山脈を越えるケフティック隧道につながり、西に向かえば山脈を降りてはるばるソルティアッガの大平原を横切る道に出るようになっている。
要するに少女は旅の途中。ここの温泉に立ち寄りまったりしていたわけだが。
たった一枚しかないタオルは頭に巻かれているのでもちろん少女は全裸である。また、まるで人形のように均整のとれたプロポーションなのがお湯と湯気ごしにもはっきりとわかった。もしここに彼女を見る人間がいたとしたら、どうしてこんな人里遥かに離れた場所に、こんな王都の離宮にいそうな娘がたったひとりで入浴しているのかと目を剥いたかもしれないが、もちろんそんな狼藉者はここにはいない。だから少女はリラックスしきっており、髪を温泉の湯で傷めないよう注意はしていたものの、どこを隠すでもなく自然体でくつろいでいた。
「なぜこんなところで夜を待つのかな?隧道を越えた方が景色は美しいとおもうが」
「それはダメよアルコ。お風呂が好き、いいじゃない?女の子はそうでなくちゃね」
少しだけ不満がありそうな青年の声と、まったりとくつろいでいる艶かしい女の声。
そう、もしここに風の精霊と水の精霊を見られる者がいるとすれば、自分の目を疑うだろう。少女の左右にはそれぞれ、水の上位精霊たる妖艶な美女と、風の上位精霊たる涼やかな美青年が、文字通りこの世のものとは思えない美しい姿を隠すこともなく堂々と入浴しているのだから。しかも水の精霊の方は少女の頭に巻いてあるタオルを楽しそうに時々いじったり、少女を随分と気に入っている事がうかがえた。
それにしても少女のご満悦ぶりは半端ではない。その笑顔は今にも幸せに蕩けそうであったが、これは無理もない。なんといっても彼女、実に16年ぶりにお湯のお風呂に入ったのだから。彼女の『前身』を考えれば、それは死にも勝る地獄だったろう。
実は彼女たち、最初はここいらを素通りするはずだったのだ。それが空気中の硫黄の臭気を嗅ぎつけた途端に目の色を変えた。近くに温泉があるのかと二人に詰め寄り、あるわよと返されたら毒性や成分について聞き始め、入浴可能と聞くや問答無用で全速力ですっとんできたのだ。その勢いたるや、まるで生死でもかかっているかのような騒ぎだったという。
そんな彼らであったのだが、
「それにしてもナツメ。土の精霊とさっき初めて出会ったというのは本当かい?」
「もちろん。だいたい前から契約してたらアルコ様もメルサ様もご存知のはずですよね?」
「それは確かにそうなんだが……納得いかん」
眉をしかめたのは、アルコと呼ばれた風精霊。
メルサと呼ばれた水精霊がウフフと笑い、少女ナツメも苦笑した。
とはいえアルコの困惑は無理もない。
ナツメが自分たちと精霊魔法の純潔契約を果たしてまだ二十日とたっていない。界渡りであるナツメの魔力は確かに莫大なのだが、小さい頃から魔法に触れ合っているわけではないので才能自体は凡庸のはずだ。少なくとも、手とり足取り魔法の扱いを教えている限りはそんな印象だし、まだ精霊魔力をうまく扱えない彼女のため、その柔らかい人の体内深くに精霊力を流し込んでいる時にも特別なものは感じていない。
にもかかわらず、彼女はこの温泉に浸かりつつ「脱衣場がないねえ。作っていいですか?」と唐突にふたりに尋ねてきたのだ。首をかしげながらも許可してみたところ、いきなりそこいらにいた土の精たちに指示を送りはじめ、練習と称して何やら妙な像などをいくつか作った後にいきなり湯船の補強工事、そして脱衣場を作成した。さらに湯にひたりつつもここに至る街道を整備したり、何やら色々やらかしている。
既にふたつの属性を持っているのに普通に土精霊とコミュニケーションがとれ、さらに上手とは言わないまでもいきなり扱う事までできる存在。さすがに二人は驚いた。界渡りといっても単に魂的な理由で魔力が強いだけで特殊能力があるわけではないのに、どうして?
さらにいうと、いくら魔法使用とはいえ石造りの温泉施設工事なんて地味すぎる『作業』を嬉々として進め、創意工夫をこらし階段やら手すりやら配置していくこの異様な情熱は何なのか。たかが風呂なのに。彼女の前世はドワーフか何かなのか?
まぁ、確かに属性うんぬんの問題もあるのだが、それ以前に二人は知るべきなのだろう。彼女の出自である民族が、いかに、一見するとつまらないようなもの、目立たないようなものに信じられないほどの手間暇かけてモノづくりするのが大好きかという事を。モノづくりニッポン万歳という奴である。
あともうひとつ。ナツメの心情を代弁すればこうだろう。『風呂好き日本人なめんな』。
「ねえナツメちゃん?」
「はい」
「それで、あの大きなぬいぐるみみたいな置物って何か名前がついてるの?」
「ああ、あれはキ○ィちゃんです」
「えっと、なに?」
「キ○ィちゃん。元の世界にあったキャラクター商品のデザイン、みたいなものかな?たぶん子猫がモチーフになってて、観光地にいけばキュー○ーちゃんとならんでおみやげの定番だったので」
「そうなの?」
「はい。箱根の彫刻の森とか、山の中の温泉にはこういうオブジェがよく似合うかな?と思って」
「ふうん、よくわからないけど何か凄いのねえ」
とりあえず意味のわかる者がいたら、パブロ・ピカソとサン○オに謝れと呆れたかもしれない。ちなみに彼女がもし男だったら「この斜面いいっすね。島じゃないけどモアイかなやっぱり」などと意味不明の事を言いながら不気味な人面像をこしらえただろう。もちろんこの世界の精霊種であるアルコ・メルサ両名には意味が全くわからないが、何か異世界の娯楽に関するものなのだろうと勝手に納得したようだ。風の気配が濃くなった事からすると、口さがない風の精たちがこの突然できた温泉施設の噂をバラまきはじめているに違いなかった。
「まぁアルコの悩みはわかるわ。けど、私にはわかるような気がするの」
「ほう、わかるのか水の?いや、推測なのかなそれは?」
うんうんと精霊女は笑うとナツメのあごに手をやり、ごく自然にくいっと持ち上げて接吻した。ナツメは一瞬驚いた目をしたが逆らわず、ただされるまま。しばらくすると女は唇を離し、
「ん、よしよし。これで、このお湯の中で不埒なことをしても簡単にのぼせたりはしないでしょう」
「ここでするんですか?」
何をされるのかは承知ずみなのだろう。お湯で上気していたナツメの顔が、お風呂とは別の期待に淫蕩に潤む。人間離れした清楚な美少女のナツメがその瞬間、王宮の離宮深く閉じ込められ、上から下まで性の遊戯を仕込まれた女の妖艶さを帯びた。
「全身とてもよくほぐれているし、ちょうどよくってよ?大事なとこにもお肉がついたし、体型も整ってきてるけど、女の美は常に研ぎ澄ませないとね」
「はい、メルサ様」
誤解のないようにいえば、これから彼らが行うのは精霊魔法の訓練だ。まだ精霊魔法使いとしては駆け出しのナツメのために、ナツメの体内に水の精と風の精を直接流し込んでいるのである。実はナツメの美少女っぷりはこのせいでもあった。そもそも水は人間の体内にもあるし治癒魔法など人体との関連は深い。食事を用意しているのも基本的にメルサの眷属であるため、栄養状態が悪く貧相もいいとこだったナツメの身体は、たちまち王宮育ちの如く磨き上げられてしまった。顔立ちまでも変貌しており、これだけでも世界の何割かの女が聞いたら嫉妬と羨望に狂うのは間違いない。
ただ問題があるとすればその方法だろう。ナツメと彼らは純潔の契約といって、つまりナツメが処女を捧げる形で絆を結んでいる。これは人間と精霊の結ぶ絆としては男の子の精通契約と並ぶ最高レベルのものだが、もちろん精霊という一種のエネルギー生命体である彼らには人間の生殖行為など意味も感慨もない。だから、契約する前はビクビクと怯えていたのに契約した途端に急速に落ち着いていった事といい、この方法はナツメの安定化にも非常に相性がよいのだなと彼らは思いっきり誤解してしまった。
結果、ナツメへの精の流し込みには必ずその形態をとる事にした。
本来それは週一程度、しかも二人の精霊のどちらかが行う程度のペースで構わないのだが、何故かナツメが困惑しつつも喜んだので慣れるにしたがって頻度もあがっていき、今では毎晩恒例と成り果てていた。もちろんそれはナツメのこの世界における経験不足を補うにあまるものだったが、問題はそこではない。
この多すぎる精の量は、ナツメの精霊魔法使いとしての方向性を完全に決定してしまう事になる。
そもそも純潔契約の果てに待つのは、どこぞの神官女の言うところの悪魔化、彼女たち的にいえば精霊化である。とはいえそれは普通はありえない。なぜなら精霊化なんて異常事態に陥る前に寿命が尽きてしまうからだ。事実上、その条件を満たせるのは界渡りかそれに類する高度魔力保持者である事、そして複数の上位精霊と濃密な交流を持つ必要がある。要するに非常なレアケースだった。
むろん経験を積んだ上位精霊ならその可能性に気づいたろう。だが、ふたりの精霊は旧ソルティアッガ王国滅亡の際に生まれた若い上位精霊でありそこまでは気づかなかった。厳密にはメルサは途中で気づいたが、すっかりお気に入りになってしまったナツメを手放すのがイヤだったので、後に水の精霊王に叱られるまで知らんぷりを決め込んだ。
そんな未来が待つとは知らず、事態は進んでいく。
「ちょっと待った二人とも」
「なぁに?アルコ」
ちなみにアルコ・メルサの名前はナツメがつけたもの。風の精霊様、水の精霊様といちいち言うのはやりにくいし名前が欲しいですとナツメが言ったからで、三人でいる時のみこうして呼び合う。まぁ今はどうでもいい話だが。
「少し気が早くないか?できればもう少し魔力を使ってからの方が通りもいいだろう。ナツメの魔力量も順調すぎるほどあがっている事だしな、無理はしないほうがいい」
「そうね。でもなぜかしら、何か胸がざわつかない?アルコ」
「あ、メルサ様もですか?わたしもです」
ちょっぴり眉をひそめたメルサにナツメもうなずいた。アルコも首肯した。
「どうも大地の底で動きがあるように思う。感じるだろう?土の精たちがやたらと活発なのもそのせいかもしれない」
「あら……そっか。まぁそのおかげでナツメが土の精を見つけられたのだから、一概に悪いとは言えないけど」
「だがちょっと気になる。何かの前兆かもしれないぞ。私は地の底には手が届かないが、水の、おまえはどうだ?」
「私も無理ですわね。まぁ地底のことは土の者に任せておけば、とは思いますけれど?」
「あいかわらずお気楽だなおまえは。何かあっても我らはいい、だが人間であるナツメは怪我などしてしまうかもしれないのだぞ?」
「うっふふふ」
「何がおかしい?」
「だ・か・ら・じゃないですか。ねえ」
そう言うとメルサは、するりと後ろからナツメを抱きしめた。
「え、あの、メルサ様?」
「何かあるかもしれないから、だから、夜でなく今からしましょって事。でしょうナツメ?」
「……は、はい」
「うふふ。素直でいい子ね」
にっこりと水の精霊は笑った。若い娘が子猫にするような幸せそうな笑みで。