九
霞んでゆく風景の中にいる。朝夕にかかる、原子分解によって生まれた靄が陽光を弾き、反射して曖昧な色を作り出していた。遠くのロケット台と戦車の群が、同じ色の中に埋没して全てが金色の波に呑み込まれる。橙の光の中に、ほんの少し血の紅を流した細かい霧。沈みこむ、夕陽の渦の中、金色の光と風景は記憶から零れ落ちた残滓で、あたしは何の抵抗もなくその中を行き来できる。光の中に飛び込んで、蓋をした記憶をこじ開けて、いつも行き着くのはあの家の扉の前だった。
あたしは家にいた。
木戸の隙間に、まだ小さかった弟が、ほっぺたをくっつけて笑っていた。小さなこの子にも分かる、風の流れを膚に感じてそれを楽しんでいるようだった。閉め切った箱の中に、ガラス窓から差し込む明黄の迷光が食卓と暖炉の影を浮かび上がらせて、あとは何ひとつとして記憶の中に残らない、いわば雑音だった。その家の中のことは、殆ど覚えていない。
夕陽が作り出す、埋没した暗がり。影をわざわざ選んでいるかのように、母さんはいつも影の中にいる。母さんはいつも台所の椅子に座りこんで、頬杖をついて、窓の外から空ばかり見つめていた。別にそのこと自体いつもと変わることではない。まだ小さい弟は、母さんのその行為が何の意味があってのことか、理解していないようだった。
「ねえ、お母さんどうしたの?」
時々、弟が呼びかけても何の反応もない。彫像めいて――あるいは、本当にそうかもしれないと思わせる――心ここにあらずといった様子で、空を眺める。何度か呼びかけた後、母さんは我に返り、取り繕ったような笑みを見せるのだった。
「ああ、御免ね。ちょっと、ぼうっとしちゃったね」
そう言って食事の支度に取りかかる。
母さんは何かにつけて空を見上げ、何一つとして思い浮かべることの無いように呆けたままになるときがある。弟はその意味を知るには、あまりに幼すぎていた。ただ幼いながらに、母さんがそうする時間が年々増えていくことには気づいていた。内職も手つかずで、あたしが学校から帰ってくるときまでずっと何も考えず、呆けていた。日ごと、食事も手につかず、あたしが何度も呼びかけても、身体を揺すっても、反応しないことすらあった。
そして、口癖のように言っていた。
「あの人が帰ってくる」
母さんはあたしたちを見ようともせず、どこか違うところを思っていた。空の果てか、あるいは海の向こうにいる父親のことを思っていた。顔も見たことのない父親。
「お父さんは立派な人なのよ。皆のために、皆の未来を守るためのお仕事をしているの。あなた達は、お父さんのような人になりなさい」
母さんは、あたしたちにとって理想の母親だったけど、それは母さんがそうしようと努めていたからだ。母さんは、あたしたちを愛していたけど、ただ愛していているように振舞っていたように見えた。父親の――あの男の話をされるときに感じていたのは、子供らしい尊敬ではなかった。母さんは、あの男ばかりを見ている。その間、あたしや弟のことを、どう思っていたのだろうか。それだけだった。あたしが、あの家で感じていたのは親が子に向ける慈愛に満ちた眼差しではなかった。窮屈で苦しい、母さんの紡ぎ出す昔話が始まれば、耳を塞ぎ逃げ出したくなるほどの圧迫だった。母さんは、あたしたち姉弟を排除したりはしなかったけど、母さんがあの男の方を向いている限りあたしたちの方は決して見てくれない。見てくれないと、分かる。積極的に排斥もしないけど、存在を受け容れることでもなく、ともすればどこかで拒絶されている。そんな空気があって、いつの間にかあの家に帰ることが怖くなって、あたしはあまり寄り付かなくなった。家に帰れば、また抜け殻みたいになった母さんと対峙しなければならない。 そこであたしは否定されるのだ。
扉の前に、あたしはいた。いつかこの扉を、何の憂いもなく開けられる日が来る。そう、例えばこれを開ければ家族が皆であたしを出迎えて、例えばこの家あの人が帰ってきて、例えば母さんがちゃんとあたしの目を見て話をしてくれる――そういう日が来るのだと。それまであたしは、いい子にしていて、あたしはあの人の傍で一番大人しいお人形になっていなければならない。
父さんが帰ってくるまでの我慢だよ。
だから、あたしは待たなければならなかった。あの扉を、自分の意思で開けることが出来る日まで。
あたしがここに来てから最初の冬を迎えた。燕玲を預かってからは、四ヶ月。不規則な成長が少し収まり、けれど着実にデータの数字を上書きしつつあった。身長と体重の推移はやはり普通の子供とは違っていて、今では五歳ほどの体格に成長していた。基本的に家にいるのだが、脳の発達には外の刺激も必要らしく、あたしは毎夜人の目を忍んで、燕玲をロケット台の跡地に連れて行った。古い、朝鮮系企業のガス燃料駆動車を走らせて、家から二十分ほどの所にある、鉄の塔とコンクリートの廃墟群。一種異様な、草原から突き出る発射台の間を走り回る燕玲の姿を、あたしは何度でも重ねあわせていた。あの家で安らげる時間といえば、小さかった弟と一緒に遊んでいたときぐらいのものだった。弟は何も知らず、父親がいたことも分からず、母さんのあの目の意味も理解せず。けれど今ここにいる自分こそが幸せなのだと、本能で知っているような。そういう顔していたし、心底そう思っていたのだろう。だから、弟と一緒にいるときは、あたしも少しの間だけ、忘れることができた。全部忘れて、あたしも一緒になって駆け回る。
それで良かったんだ。それだけで、あそこには意味があったんだ。"夜叉"たちが来なければ、せめてもの意味を見出して、その意味の枠組みの中であたしは生きていられた。全て、あの連中が来たせいだ。
「金麗」
そう、大して長い時間でもなかった。けれど物思いに耽るには、少々掛かりすぎた。燕玲が不安じみた表情で、あたしの顔を眺めている。
「どうしたの?」
「終ったか」
あたしは腰を上げて、燕玲に車に乗るように促した。もうすっかり、夜も更けていた。湿った空気が草原を駆け、雑草が波打つのに、少し早い冬の気配が膚をなぞる。少し薄着で来てしまったので肌寒く、もうそろそろ冬の支度が必要なのかもしれないって思った。四川の冬は、冷え込むという。雪が降れば、この辺りの様子も一辺するらしい。ロケット台も、ロケットの残骸も、全て白銀に染まる、と。
燕玲が、立ち止まり、天を仰ぎ見ていた。あたしもつられて、空を見る。直上には、満月からはやや欠けた、不完全な月が掛かっている。あの月の裏側から"夜叉"たちが来るという。月は、古から崇拝の対象とされていたものが、今では仮性体と同様に嫌悪される対象となっている。
「仲間が懐かしいのかよ」
あたしが言うのに、燕玲は意外そうな、それこそ思いがけないという顔をした。自分に向かうはずのない矛先が向いたときの、脅えよりも驚きが先行しているというような。
「あそこから来た連中に、あたしの故郷は消されたんだ。今更元に戻せなんて言わないけど、あんただってあそこの奴らと変わらないんだろう」
自分でもおかしなことを言っている、とは思っていた。燕玲に流れる血は”夜叉”のものであっても、生まれた場所は違う。"夜叉"たちとは、違うのだと。理解はしている。けど。
「立派な翼があるんなら、今すぐにでも飛んで行けばいい。あたしは止めやしないよ、別に」
燕玲は、俯き、何も尽くせる言葉がないというように立ち竦んだ。その横顔に、悲哀めいたものが浮かぶのに、あたしは少し目線を逸らす。目を合わせると、言いようのない不安に駆られる。
「あんたじゃ無理か」
燕玲はすごすごと後部座席に乗り込んで、あたしはあたしで運転席に乗り込んだ。LPガスが着火してエンジンの振動が車内に満ちる間、月を眺める。連中は月からやってくる――天から舞い降りるから"天使"、人を食い殺すから"夜叉"。けれど、それは脆い命に裏打ちされた能力、だからこその"蜉蝣"。
燕玲は、どれに当てはまるのだろうか。
「あの、金麗」
後部座席の燕玲が、慌てたように言った。
「何だよ」
あたしとしてはすぐにでも車を出してやりたかったが、一応聞いてやる。
「ごめん、忘れ物しちゃった」
「何を? 別にあんた、何も持ってこなかったでしょう」
「いや、あの実は……」
燕玲ははっきりと言うことなく、下を向いて、何かを言い出そうとタイミングを計っているようにも見える。
「あの、探しに」
「冗談。こんなところでも、誰かに見つかったらコトなんだから。本当はこっちにだって来たくないんだから、ぐずぐずしてらんないよ」
まだ燕玲は、何か言いたげだったけど、そんなのにもう構っていられるはずもなく。
あたしは、アクセルを踏み込んだ。
"夜叉"たちの動向を観察していたヒマラヤの天文台が、このほど"夜叉"の出現地域を特定したという。ラジオの報道が実に勇ましく、そのことを報じた。
中東とインドの軍が、アフリカに向けて移動を開始したと告げる内容を、連日耳にする。けど北面部隊が動くということはなく――そもそも、あの基地は拠点防衛のためにあるらしい。いくらムジャヒディンが動こうとも、一番身近な部隊が動かないのだから、やはり緊迫感はラジオの向こう側にしか存在せず、相変わらず街は静かだった。せいぜい中東の情勢とか、兵士たちの安否だとかが話題に上る程度で、積極的に仮性体を潰せだとかこの世の終わりを嘆くような声もなく、粛々と日々の生活をこなしている。噂になるのは寧ろ、本当に些細なことだった。野菜の値上がりやら税額負担の増加、男衆は嗜好品や、または北面部隊用に作られた慰安所が民間人にも解放されるかもしれないか、とかいう。そういう、たわいもないことばかりだった。そこに、戦争の空気はない。
だけど、本当はそうではないかもしれない。そういう空気を作り出しているのは、日々の生活に没しいていれば、少なくともいつ来るか分からない破滅から目を背けることができる。もし、少しでもそちらの――仮性体の方に目を向ければ、漠然と不安に駆られてしまう。絶望を味わってしまう。だから、目を背けた方が楽なのだ、誰だって。ラジオの電波で戦意高揚のために流れる勇猛果敢な歌と、街中の人々の反応は、奇妙なギャップがあった。
あたしはあたしで、そんな空々しい街の雰囲気にも慣れつつあったけど、やっぱり家に帰れば果てしなく重苦しい気分にさせられる。燕玲の計測、それ以外にあの子に触れることが苦痛で、あたしは会合に顔を出すようになった。
会合といっても、大したことをするわけではなかった。互いの情報交換、という名の世間話。それがどれほどの重要な意味を帯びるというわけではなく、そうやって顔をつきあわせていることが大切なのだと――李夫人はそういっていた。
「それに、あなたのことを知らない人も多いでしょう」
所詮、余所者にすぎないあたしが、この地方で受け入れられるようになるかもしれない。そういう意味では意味があることなのだと――あたしが、ここでとけ込むためには、確かに良いことなのかもしれない。ここにとけ込んで、ここの人間になって。一瞬でも、そんな風に思ったりもする。
あたしの居場所が、ここに用意されているような気になる。あの家にもなかった、あたしの居場所が。
それが錯覚だということは知っていた。余所者を極端に嫌う土地柄だから、あたしが完全にこの土地の人間に慣れる訳がない。元々、台湾と大陸では言葉に少し壁がある。大陸の、さらに地方に行けば独自の発音に変わり、たとえ文字が同じでも言語自体が違うとさえ言える。あたしの言葉づかいは、ここの土地の人間ではないということを宣伝して回るようなものだった。元々台湾という土地が大陸からはよく思われていないことも相まって、あたし自身もよく思われていないという気はしていた。街に出れば、複数の視線があたしを監視するようにつきまとった。嘘に固められた慈悲深い視線に晒されたあの家よりはマシとは言え、やはり居心地の良いものではない。せめて会合の時は見知った顔がある分、まだ落ち着ける。
燕玲のいる家も、街中も、どこにもあたしが入り込む余地はない。けど、この会合だって、あたしをすべて受け入れてくれるとは限らないのだ。この地にいる限り。