七
アミヤの姿が、丘の向こうの稜線に消えた。橙の光を吸い込んでいた草地が、今では夜霧に濡れようかという。そんな時刻だった。冷え込んだ空気が膚をなぞるのに、あたしは身震いしつつ扉を閉める。湿った風を冬の足音と変えて、そろそろ冬支度しなければ、なんて――あんなことを聞かされたあとで、そんな庶民じみたところに思考が及ぶ。笑ってしまう、どれだけ凄いこと聞かされたって、近いことしか考えないのだから。最初に浮かぶことが、それなんだから。
「金麗、お客さんだったの?」
燕玲が奥の部屋から、眠い目を擦りながら出てきた。燕玲はもう、誰の手も借りずに歩き回ることができるぐらいには成長している。ついひと月前までは、何も出来ない赤ん坊だったのに。その姿と、目の前の子供は、どうしても一致しない。現象に思考が、現実に認識が追いつかないのだ。内と外の決定的なズレが、何をしても埋まる気が、しない。
「あの人って、前も来ていた?」
「な、何が……別にそんなこと、どうでもいいでしょ」
極めて冷静に、平静に、装う。アミヤの時よりも、ずっと難しいことのように、思えた。けど、あたしの思惑なんか最初から無かったかのように、この子はじっと見透かしたような視線を向けてくる。
「でも、なんかおかしいんだ、あの人。僕のことをじろじろ見てくるし、それに金麗がいつも注射するあれって、あの人からもらっているんでしょ? ねえ、金麗あれって何?」
「何でもないって」
近づいてくる燕玲の、伸ばす手を払いのけた。意外に強い力だったらしい、燕玲はびっくりしたように手を引っ込めた。払われた痛みよりも、あたしがそんな風に、強い態度に出たことに対する驚きのようだった。
「あんたの知ることなんか何にもない。だから疑問に思うことなんかない、思うわけもない」
自分で何を言っているか分からない、熱にうなされた感覚――そんな曖昧な感覚のまま、脅えた目で見上げる燕玲の肩を掴んだ。薄い膚の層を圧迫し、細い骨にまで指が食い込みそうだった。燕玲は脅えから苦痛を、やがて恐怖を覚える目に変わる。
「あんたは黙ってなよ。黙って従えよ。あたしがそうしろと言えば、そうするんだ。分かったか?」
燕玲は何も言わない。言わないで、痛みにだけ、堪えている。
肩を掴んだ手に、力が篭った。
「返事は」
反射的に、燕玲は頷いた。か細く、分かった、と。恐怖すら飛び超えて、生気を失った青ざめた顔をして。
あたしは燕玲の肩を離した。殆ど突き放すように。
「あと、あんたの背中の」
燕玲は、まだ肩を竦ませて、脅えに満ちた目で見上げる。どうしてそんな風に見ている。あたしに対しての、何を恐れて。あたしが何かしたというのか。
「絶対人に見せるなよ。誰にも、アミヤにも」
「あ、あの背中のって……」
「分かったかって聞いてんだよ!」
衝き上げたものが、そのまま口から出てきた。胸につかえた苛立ちが、止めようも無く溢れ、それでも少しも苛立ちは収まらない。駄目だった、燕玲がいる限りは。
「ごめんなさい、金麗……あの……」
少しだけ赤み掛かった燕玲の目に、大粒の涙が浮かんでいた。一瞬、その瞳が何かを訴えるように揺らぎ、透明な雫がこぼれるのに言葉を失った。
「とにかく、もう寝なよ」
努めて、あたしは心を落ち着けようとした。たかが子供だ、子供にムキになってどうする、と。
だからあたしは無視しようとした。燕玲が何を言おうと、関係無い。何をしようと、どうでもいい。存在ごと、あたしの頭の中から閉め出してしまえばいいのだ。少なくとも、今だけでも。
燕玲が寝室に行ったのを、気配で確認した。扉が閉まったのと同時にどっと疲れが出てきて、あたしは椅子に座りこむと、重力のまま机に突っ伏した。支えを、失ったような感じだった。身体的にも、精神的にも。
これからどうすればいいのか――誰も明確な答えは用意してくれない。けれど、自分でも用意できる気はしない。母さんとあたしを捨ててまで、あの男が打ち込んだ研究。それが、よりによって"夜叉"と人とを交配した混合体。そして、燕玲には"夜叉"と同じ血が流れているということ――何もかも、整理しきれることではなかった。ひとつひとつ解いていかなければまず消化しきれることではない。けど、対象はあまりにも大きくて、抱え込むには途轍もなく漠然としすぎていて――。
考えのまとまらないうちに、あたしはそのまま、眠りに引きずり込まれた。
三週間、経った。
あたしは燕玲の観測を続けていた。追加された計測ツールを元に、成育状態と血液検査、細胞を採取して検査薬に浸す。計測自体は、素人でも出来るものだった。もう少し詳しく調べるとアミヤは言っていたけど、何の事は無い、一つ二つするべき操作が増えただけだった。技術とは、万人がいついかなる状況でも等しく使うことのできる普遍性にこそ価値がある――たとえ、その意味を知らないままに行っているのだとしても。そういう意味では近代は人々を子供にした、とアミヤは言った。
「哲学なの? あんたの」
これは慰安所にいる前からそうなのだが――あたしはいつも、そんなわけの分からない文句の一つ一つまで拾っていない。大抵はそういう戯言の類は聞き流す。訊いてみたのは、気まぐれだった。
「大したことではない」
アミヤは相変わらず、感慨も無いように言う。
「ただし、近代の歴史がそのまま当てはまることでもある。薪炭を用い、自らの手足を駆使していた手工業時代よりも、燃料が木炭に変わり化石燃料と原子力に頼るようになってからの人類では、どちらが確固たる思想を持っていたのか」
「どっちが頭いいかってこと? 生物燃料を使うまでになっておいて、木炭時代の人間と比べるのはちょっと違うでしょ」
あたしが喋るのに、アミヤは少しだけ感心したような顔になった。まさか、元慰安所の商売女の口から生物燃料なんて言葉が出るとは思っていなかったのだろう。もっとも、あたしが語れる知識なんてたかが知れている。科学史や基本的な物理法則の類――母さんの家にあった、あの男が残してきた本の知識を越えるものは無い。
「だが、人類は失敗を続けた」
アミヤは空を見ていた。
「技術は加速度的だ。昨日の技術が、明日には何の役にも立たない無用の長物と化す。また新たな技術を求める……それほどまでに巨大に膨れ上がった技術を、人はしばしば持て余した。技術の進歩に、理解が追いつかないから」
「理解しているから生まれるんでしょ、技術が」
「そうとばかりも言えない。それが証拠に現在もまだ失敗を続けている」
「何の?」
するとアミヤは、急に何か途轍もない馬鹿をした、というような顔になった。
「……どうも、余計なことを言ったな」
まるで悔いるかのように、そんな独り言を洩らす。今のは無し、というよう咳払いをし、向き直った。
「とりあえず、観察は続けることだ。いいな」
それだけ言ってアミヤは帰った――それが、三週間前だ。たかだか計測ツールを届けるためにだけに出向き、良く分からない話をしていったアミヤは、その間一度も顔を見せなかった。
それ自体はどうということはない。けれど、アミヤが来ないことは、否が応にも燕玲と二人きりになるということを示していた。
燕玲が閉ざされた扉を見上げていた。物欲しげに見つめ、次に何かを訴えるようにあたしの方を見る。扉と、あたしの方と、交互に見つめるのだが、あたしはそれを見ない振りをした。燕玲はあきらめたようにうなだれる。が、あきらめきれないようで、つま先立ちになって扉のノブに手を伸ばした。燕玲の成長は著しく、まだ一年も経たないのに身長は三歳児と同じぐらいにまでなっていた。けど、それだけではまだ、ドアノブに手をかけられるはずもなく、もし手をかけられたとしても鍵を解除することは絶対にできないはずだ。
「ねえ、金麗……」
燕玲が言った。背伸びしながらだったので、苦しそうな声を出す。
「外には出さないよ」
その先の要求を見越して、あたしは答えた。燕玲は不満そうな顔をして、けど何とかしてドアノブに手をかけようとしている。
「あんたにその鍵は開けられない」
燕玲はついに諦めた。バランスを崩して床に座り込み、
果てしない頂でも眺めるように、ドアノブを見上げる。
「遊ぶのなら、ここでも遊べるでしょう。勝手な真似は許さないよ」
あたしが言うのに、燕玲は泣きそうな顔になった。
「何で外に出ちゃいけないの?」
ほとんど懇願に近いその言葉と視線を、あたしは全身で見ないように努める。そうしなければ、きっと耐えられないと思った。
計測は、日に二回、行う。朝と夕、それ以外は基本的に燕玲の自由にさせるようにと、指示されてた。なるべく自然な状態にしておく。狭い施設に閉じこめることで、脳の発達が遅れたと考えられているらしく、従って後発グループは好きなようにさせてやるというコンセプトらしい。また、彼らはゆくゆくは仮性体に対抗する存在。そのためには、人の社会にとけ込み、人の側に立つようにし向ける必要がある。だからこその民間委託である――そんな説明を受けていた。
そうはいっても、燕玲を「好きに」させておくことなどできるはずもない。燕玲はすでに、三歳ぐらいの体格にまで成長していた。あたしがこの地に移り住んで以来、近所づきあいなんて数えるほどしかしたことがないけど、それでも悪い評判ほど早く広まってしまうものだ。あたしの子――ということに世間ではなっている――が、まだ一年も経たないうちにもう三歳児の姿にまで成長した、という事が町のものに広まるのはそう長い時間は掛からなかった。買い物にいけば、少なくとも奇異の視線にさらされることは覚悟しなければならなかった。
絶対に外に出してはいけない――外に出せば、どんなことを言われるか分からなかった。この後も、同じように成長していくのであれば、尚更。
外に出してはならない――。
わざわざ鍵を換えたのもそのためだった。アミヤは、燕玲が成年すれば引き取ると言ってきた。このペースであれば、その「成年」はそう遠くないうちに来る。だから、それまでの辛抱だった。
時計の針が正午を指した。時間だ。
「計測するよ」
あたしが計測メジャーを掴むと、燕玲ももう分かっているのか、上着を脱ぎ始める。華奢な胸板、細い腕と首筋の白い膚が、まるでそこだけ別個の存在であるかのように浮かび上がっていた。薄暗闇が満ちた部屋の中で、何も纏わない膚が、ひときわ目立つ。
けれど、背中を向ければそこには、機械じみた金属片。翼の形状を描いたそれは、燕玲の膚と一体となっていた。肩胛骨から腰骨にかけて隆起した、異形の翼は、かつてあたしの故郷を消した奴らと同じ色をしている。
あたしは計測を始めた。筋肉の量を調べるために計測テープを腕に巻き付け、髪の毛を抜き取って試薬に浸す。身長、腰回り、首周り――とにかく、計測した結果を記録することに努めた。できるだけ背中を見ないようにして。燕玲はくすぐったいのか、それともメジャーが当たるのが冷たいのか知らないが、時折居心地悪そうに体を揺すったりした。
「動くなよ」
だが、あたしがそう言えば、大抵は体を揺するのを止める。止めて、おびえた視線をよこして、最後に目を伏せる。あたしの反応ひとつで、どうとでも変わるようだった。あたしの一挙手一投足に気を払い、顔色を常に伺う――ほとんど、天敵に出会ったときの天竺鼠や鶯のような態度をとる。
怖いのだろうか。計測される身に対して、圧倒的に優位に立っているのはあたしの方だ。あたしの出方次第で、どうにでもなると、思っている――だから、異常なまでに脅えている。それがよけいに癪にさわった。あたしが何か危害を加えると、最初っから決めつけている態度だった。
――そんな態度とるから、あたしだって言いたくなるんだ――
言葉にしかけた科白を喉元でせき止めた。言っても栓のないことだし、そんなことを言えば燕玲の苛つく反応に、拍車をかけるだけだ。
燕玲が背中を向けた。金属の翼が浮かぶ様を、眼前に突きつけられた。ラジオやニュースペーパー、限られた情報によって遠ざけれた現実を、まざまざと見せつけられる瞬間だった。”夜叉”たちが、実際に飛び回り、どこか遠い世界で行われていたことが、一気に自覚させられる――否応なしに。あたしの故郷と、弟と。母のいたあの家、その家を捨てた父親である男。そして父が携わった、研究の結晶が今目の前にあるという事実を。
「金麗、痛いよ……」
燕玲が悲痛な声を漏らした。はっと我に返ると、あたしの手が燕玲の肩を強く握りしめている。爪が食い込み、つかんだ箇所が赤くなって、いる。
手を離した。燕玲が、肩を押さえて、小さく吐息のような声を出した。けれど、燕玲は決して恨めしそうな視線をくれることはない。やはり目を伏せて、痛みに堪えるように唇を噛み――気に食わない面だ。自分が弱いとでも、思っている者の表情だ。脆弱なわけはない、あの仮性体たちの血が流れ、あたしの国を消し飛ばした連中と同じ翼を持ちながら。
あんたには、何もかもが、理解できないのに。わかったような、わかっていてなおかつ、そんな顔をする。人の気も知らず、察しようともせず。どうして平気で、そんな顔を出来るのか――。
思考の螺旋を、無理矢理断ち切った。注射器を燕玲の首に押しつけ、引き金を引き、同時にあたしの中で生まれたすべてを忘れようとした。考えてはいけない、考えないようにしなければ、ならなかった。
「終わりだよ」
注射器を置いた。あまり感触のない、引き金の重みすらない、玩具みたいなちゃちな銃を。燕玲はほっと安堵の表情すら浮かべ、いそいそと上着を羽織る。薄い肩と首が完全に覆い隠されたときには、あたしは注射器から、親指大の容器を取り外していた。中を満たしていたナノマシン溶液が、一度のショットですべて注入される――このナノマシンは、燕玲の"夜叉"――仮性体の部分に作用するらしい。有機体のDNAボットが、金属の肉体を修復し、また仮性体の血脈に必要となる炭素と窒素を行きわたらせる、ドラッグデリバリーの役目を果たすらしい。人間で言うところの血球であり、生命維持のために欠かせない。
これを渡したとき、アミヤは知っていたはずだ。あの男、藩金隆の研究にいくらブラックボックスが多いからといって、すでに何百人と同じような子供をみてきたはず。この注射器と、中のナノマシンが、仮性体に作用するものであることは周知の通りだったのだ、最初から。それを知っておきながら、けどそれを言わないまま。どうして――。
そのとき、扉の外に、気配を感じた。
「誰か来た」
あたしは燕玲の方を向いた。視界の端で燕玲は、まだシャツを着るのにもたついている。六桁以上の計算だって誰に教わるでもなしに出来てしまうのに、なぜか生活面、ちょっとした所作は覚えが遅い。特別遅いのではなく、年齢相応なのだが。
「燕玲、聞こえなかったの?」
あたしが言うのに、燕玲は少し驚いたような表情で、顔を上げる。もう一度、一字一句を確認するように言った。
「誰か来た、って言ってんの」
燕玲の表情が、またすぐに脅えの色を帯びる。狼狽し、あたりをきょろきょろと見渡してから早足で台所の方に駆けていく。あたしは燕玲の姿が見えなくなったのを確認してから、扉を開けた。
一瞬、まぶしい陽光が瞼に刺さった。目を眇め、光を手で遮る。逆光の中で、影が不思議そうに訊いてきた。
「どうしたの? 金麗」
親しげにあたしのことを下の名のみで呼ぶ夫人の姿を、ようやく瞳の中にとらえた。怪訝な目でのぞき込む夫人の、その視線の先が家の中に向いていないことを確認しつつ、
「あ……ああ、李夫人。お久しぶりです……」
「久しぶりって程久しぶりってわけでもないけどね」
くすりと、夫人は品の良い笑みをもらした。
「どうしたの? 最近、会合に出ていないみたいじゃない。心配しちゃったわよ」
「すみません、あまり外に出ていないので」
この発言は、かえって不審感をあおってしまったらしいい。訝しむ夫人の表情が、疑念に変わる。
「外に出ないって、どういうこと? あんまり不健康なことしてちゃ、ダメよ。燕玲だっているのに」
李夫人の口から燕玲のことが出るのに、一気に体温が下がったような心地がした。燕玲、という響きが、あたし以外の誰かから発せられる――夫人の思う燕玲、誰かが思う燕玲。実際の燕玲は、それら第三者の思う燕玲からはだいぶかけ離れている。そんな状態で、今ある燕玲を目の当たりにしたとき、夫人はどう思うのか。
容易に想像できる。けど、その先は考えないことにしている。
「とにかく、会合には出た方がいいわよ。情報が、伝わらなくなっちゃうでしょう。ラジオだけじゃ、わからないことが多いから、今は」
「そう、ですよね。ええ……」
ラジオや新聞以上の情報なんて、いくら会合を開いたところで補完できるとは思わない。だから、会合自体、出ようとは思わなかった。けど、それを今議論するつもりはない。あたしの気は、背後の台所、ダイニングテーブルの下にあった。
「それと、燕玲のことも。あなた一人で出来るって言うならいいけど、まだ分からないことが多いんじゃなくて?」
その通り。分からないことだらけだ、夜叉のことや、燕玲のこと。藩金隆が残した研究とやらも、それをなぜあたしに押しつけたのかも。何もかも、訳が分からない。
そんな風にぶちまけたくなったのを、こらえた。対象が誰であれ何であれ、手当たり次第にぶつけたくなった。そういう、わだかまりや苛立ちは、胸の奥に仕舞込まなければならない。
誰であれ。何であれ。
「あの、本当に何でもないですから。大丈夫ですから……」
ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように。あたしは努めて、平静であろうとした。あたしはただ、燕玲が隠れているテーブルの下と、李夫人を丁重に追い返して、扉を閉めること。それだけを考えていれば、良かった。そのはずだった。
けれど、李夫人はなかなか帰ろうとせず、あたしの肩越しに家の中を覗き、次にあたしの顔を見る。交互に見比べていた。その顔に疑念を滲ませて、恐らくはほとんど確信に近い念を抱いて。
「大丈夫って風じゃないわね。ねえ、燕玲はどこ? どこにいるの?」
夫人はもう、今にも家の中に踏み込もうという雰囲気だった。あたしを突き飛ばしてでも、家に踏み込むだろう。このままでは。
家の中に入られたら、燕玲がいる。たった三ヶ月足らずで、十分に成長した不自然な子供が一人。そうなれば、どうなるのか明らかだ。
「いや、あの本当に何でもないですから……」
これ以上は無理だった。強引にあたしは扉を引こうとした。
かたり。微かだが、確実に聞こえた。ほとんど死刑宣告に近いとも思える物音が、ダイニングテーブルの下から響いた。テーブルの下、燕玲が隠れている場所。
「ちょっと、失礼するわ」
李夫人はあたしの体を押し退け、家の中に押しかけた。表情は強ばり、もう如何なる理由を並べても納得しないといった面持ちで。あたしが止める間もなく、夫人は家の中に駆け込んだ。
「待っ……」
まっすぐ、物音のしたダイニングテーブルまで、早足で駆け、テーブルクロスをまくり上げる――その瞬間まであたしはろくな抵抗も出来ず、反論も出来ず。李夫人がテーブルの下を確認するまで、まともに何も発することが出来なかった。
夫人が、テーブルの下をのぞき込んだ。
テーブルの下から、口の欠けた湯呑みが一つ、転がり出てきた。上海にいた頃から使っていたもので、景徳鎮の陶磁器に似せた安物だ。原色で塗りつぶした色使いと粗い絵柄の、とても本家とは似ても似つかない作りをしている。
夫人は拍子抜けしたように息をもらした。よほどの確信があったにも関わらず、出てきたものは何でもないものだった――そのことを恥入るよりも、困惑した様に。
「いないのね」
それでもまだ疑念を拭いきれないようだった。夫人は、普段は柔和な光をたたえる瞳を、鋭くさせた。詰問する、尋問官めいた、追いつめるような眼差しだった。隠し持ったものをすべて吐き出させないと気が済まないというような、厳しさを内包した目。
「燕玲はどこにいったの?」
あの家で――母さんとはまた違った意味で、不安にさせる目だと思った。何一つとして問いかけることのない視線を漂わせていた、母さんは何も訊かなかった……
「ねえ、金麗」
夫人がいうのに、我に返った。やはり、追求の手を緩めるつもりのない、夫人があたしの顔をのぞき込んでいる。
あたしが言い淀んでいると、夫人はため息をつき、言った。
「そうね、今日の所は。あなた疲れているみたいだし」
夫人は、あたしの様子を見て何か思うところがあったのか。一瞬見せた視線の鋭さが消え去り、また元の柔和な色を宿す。これ以上追求する気などない、というように微笑みかけて。あたしが呆れるほど早く、覆い隠して、化粧してしまう。
「すみません」
あたしは気取られないように顔を背け、小さく詫びた。
「ねえ、あなた。大変なのは分かるけど、一人で抱え込まないでね」
何もかも分かっているというような――すべてを包容しようという、それでもわずかに疑念は残す。そんな笑みだった。これから先も、夫人はずっとあたしに、そういう目を向けるのだろうという予感がした。柔和な笑み、けれど疑問の色。そしていざとなれば、鋭く糾弾するという――もし、一人で抱え込まず、一切合切はなしたとしたらその目はどう変化するのだろうか。
「会合に出れば、少しは気が晴れるわよ。今度の金曜日、待っているから」
「ああ……はい」
あたしはまともに、夫人の顔を見れなかった。もしまた、目にしてしまえば。温和な表の下に隠した鋭利な刃物めいた視線を感じる。上辺だけ許して、決して許さない。そういう目を隠している。